●元寇

 13世紀当時、世界ではモンゴル民族による有史上世界最大規模の世界帝国が隆盛していた。この大帝国はユーラシア大陸のほとんどを掌中に収め、その武威は1世紀以上の間世界中に強い影響を与え続けた。
 そして彼らのヨーロッパ遠征から十数年後、東の果ての日本列島にもモンゴル軍が押し寄せた。しかし一度目の侵攻、日本側が「文永の役」と呼んだ遠征は、たった一日で元軍は撤退してしまう。元帝国(中華地域でのモンゴル帝国)にとっては外交としての侵攻であり、威力偵察としての攻撃でしかなかったからだ。そして外交であるが故にその後元帝国は日本に使者を送るが、日本側は内政要因から拒絶姿勢を継続した。挙げ句に日本の為政者達は、元帝国の使者を処刑してしまう。
 当然ながら元帝国の皇帝フビライは、日本人は外交というものを理解していないと考えるようになる。そして南宋を遂に降した元帝国は、日本への本格的侵攻を決意する。
 もと南宋兵を使う事で元手が最小限な上に、厄介払いができ、成功すれば日本を服属できるという一石三鳥の優れたプランだった。
 しかし準備不足と船舶の脆弱さの報告と指摘が、フビライのもとにも度々たらされた。さらには日本から移民してきたという人間により、夏の海の恐ろしさを事細かく解説を受けることもできた。しかもこの話は南宋でも広く噂となってしまい、作戦を強行しようとした元としても作戦の密度を高めざるをえなくなった。
 このため日本への侵攻は、当初予定していた西暦1281年から一年遅らせた1282年とされた。
 なおこの時讒言したのは、古くは日本列島から琉球そして大陸に移住した元日本人だったと言われている。これを日本では、平氏の落ち武者や義経主従であったのではないかという俗説が存在するが、歴史は黙して語っていない。
 元帝国の日本侵攻は、距離と規模の問題から江南軍(約10万人)が季節を見計らって先に出発した。江南軍が北九州に接近した時点で、朝鮮半島南端部から東路軍(4万人)が出発。人数的には有史上最大規模となった海上侵攻部隊が、上陸に適したとされる博多湾に殺到した。ただし、なぜ彼らが博多湾に固執したのかは明らかになっていない。上陸するだけなら、他の浜辺や入り江、湾でも構わないはずだった。一説には、日本側の情報操作の結果だったとも言われている。太宰府という要衝の陥落を第一に置いたたため、というのが最低限の合理性での解答だとも言われたが、いまだに謎は解明されていない。
 とにかく彼らは、北九州の他の入り江や湾にはほとんど目もくれず、日本軍が総力を挙げて待ちかまえている事が分かり切っている博多湾へと殺到する。
 これに対する鎌倉幕府の武士団は、現地御家人を中心におおよそ4万人が布陣していた。海上からの強襲上陸作戦は、古来から防御の三倍必要とされるが、元軍は数字の上では十分に満たしていた事になる。しかし日本側は、全長20キロメートルに渡る防塁と呼ばれる石垣による沿岸要塞を建設して対抗した。しかも博多湾一帯は、太宰府を中心に数百年間作り上げた日本最重要の防衛拠点だった。ただし太宰府は、上陸された敵に対する日本側の策源地であり、要塞としての価値はあまり高くなかった。
 戦闘開始当初は、日本側のやたらと高い士気と元軍の低い士気もあって水際での防御に成功する。特に日本は、江南軍ではなく東路軍を集中的に攻撃した。これは江南軍が、屯田兵中心で士気が特に低いためだった。また日本と南宋間の以前の交流関係から、日本人と江南軍の殆どを占める南宋人双方が積極的な戦闘を望まなかったためでもあった。侵攻当初から、双方の間で一部密約すら存在した。後で土地を少し分けてやるから、出来る限り何もするな、と。
 モンゴルの将軍や役人は南宋兵のふがいなさを激怒したが、敵地でのサボタージュに効果的な手を持たなかった。一部では見せしめの処刑などが行われたが、かえって南宋人とモンゴル人の関係を悪化させただけに終わった。しかも戦闘半ばで離反する者まで現れる始末だった。南宋人は、無理矢理日本に移民するために来た農民兵であり、戦うために来たのではなかったからだ。持ってきたのも農耕機具や家畜ばかりであり、弓矢などは最低限しか用意していなかった。
 そうして元軍側にとって締まりのない戦闘は続くが、元軍もいつまでも海上にいては消耗するばかりだった。これは江南軍も同様で、またモンゴル人指揮官の命令(督戦)もあって、侵攻から半月後についに総攻撃を実施する。
 激しい戦いで両者は消耗し、たまらず日本軍は太宰府に退却。遂に元軍は日本に確固たる橋頭堡を確保する。この時までに日本側は戦闘可能な兵員数は3万人程度にまで減少した。一方の元軍は、侵攻した14万人の内8割近くに当たる11万人が何とか健常を保っていた。失われた3万人の内訳は、5000人が既に戦死、2万人が負傷か病気、5000人が北九州各地へ逃亡していた。また侵攻部隊のうち2万人は4000隻以上の船を操る水夫のため、海岸以外には上陸できなかったし許されもしなかった。
 そして日本側は、退却時に一種の焦土戦術を実施。博多平野で、あらゆる食料を引き上げて退却したのだ。付近住民のほとんども、日本軍の戦術に煽られて土地を離れざるを得なくなる。さらには、既に海岸部で行われた大陸的殺戮や奴隷化の噂が広まって、我先に逃げ出していた。また一部は、農民兵となって各地に潜伏した。かくして博多湾一円の平野部は不毛な無人の野と化してしまう。それに田畑が残されていても収穫は数ヶ月先なので、侵略者にとって当座はほとんど意味はなかった。
 そしてその後、日本側の夜襲を常套としたコマンド戦法は続いた。地の利を得ない元軍は、太宰府前面の水城と呼ばれる広い堀と城壁を付近の山城を中心とした防壁群に迫るも激しく消耗した。特に日本兵は、モンゴル兵と高麗兵の兵士を攻撃し、江南軍の南宋兵を意図的に攻撃から除外する戦法を続けた。これは図らずも元軍内に相互不審を作り出し、高麗兵のモンゴル、南宋に対する不審は大きく膨らんでいった。加えて、日本人を見つけたり捉えたときの残虐さは、悪魔も凌ぐほどと言われるほどとなった。当然、日本側の高麗兵に対する攻撃もより過激となった。
 そして8月、膠着状態の戦線に台風の季節が到来する。
 侵攻以来博多湾を埋め尽くしていた巨大な船団は、依然として4000隻以上の勢力のまま博多湾を埋め尽くしていた。ごく一部が帰国したが、それは補給や連絡のためであった。そして一ヶ月の間に船団の中でも脆い船の損傷が積み重なっており、かなり危険な状態だった。
 元軍の水先案内人は、船団の帰国かより海岸に近い場所での繋留を進言したが却下された。依然として日本水軍のゲリラ的攻撃は続いていたため損害も積み重なっていたし、海岸に近づきすぎるとそこから攻撃される事を恐れていた。何しろ船が無くなれば帰れなくなるのだ。特に略奪と破壊を欲しいままにした高麗兵は、日本に止まる気は皆無なので船を大事にした。
 そして一度朝鮮経由で元帝国の首都大都に戻った使者が再び来日。元軍の現地司令官に一日も早く太宰府を陥落させ、日本政府(鎌倉幕府)に対する元帝国に対する朝貢させるように交渉を行うことを伝える。
 そして元軍が動こうとした直前、決定的な状況が発生する。
 大規模な暴風雨(台風)が北九州を直撃し、元軍の船団が壊滅的打撃を受けてしまったのだ。しかも暴風雨に乗じて日本側の水軍、海賊、近隣の漁民が一斉に襲いかかり船団の9割を破壊するか沈めてしまう。この中で水夫2万人と船の守備兵1万人のほとんどが命を落とした。近隣の海を知り尽くしている日本側の損害はほとんど皆無という完全勝利だった。
 しかし博多湾には、既に8万人の上陸部隊が展開していた。日本側も各地からの増援が駆けつけて、太宰府を中心にして5万人以上の武士達が溢れていた。しかも日本側は、時間と共に兵士の数は増えていた。
 ここで元軍は、一度日本側と交渉を行うことを決意。日本側も増援到着の時間稼ぎができるとして交渉を受諾し、日本軍が籠もる太宰府にて双方の会談が行われた。
 元軍の要求は、日本の元帝国への朝貢と南宋系住民の移民の受け入れだった。これに対して日本側は、元軍全ての撤退を求めるが、決定は鎌倉が握っているとして最終的な返事を保留。時間稼ぎを行おうとする。しかし食料や補給物資の少ない元軍に残された時間は少なく、会談は物別れに終わり時間の浪費という現実だけが残された。無論、元帝国にとって何も得るところはなかった。
 その裏では従軍してきた南宋系の仏教僧が、日本側との秘密交渉を実施。自らが寝返ることでの、残された約6万人の南宋人の移民受け入れを申し込んだ。さらにた南宋の僧は、彼らは江南との交易のルートを持っており、元帝国を通じなくても世界(アジア)各地と日本が直接交易できるように仲立ちするとも伝えた。彼らの持っている優れた技術を日本人に伝えるとも約束した。とにかく、帰るところのない南宋人は必死だった。
 そうした時に、日本側に一つの噂が流れた。高麗でさらなる元軍艦隊が編成されつつある、と。
 噂の真実は、既に大きな損害を出していた高麗兵が作り出した妄想によるうわさ話に過ぎなかったのだが、日本側を決意させるには十分な「情報」だった。
 日本軍は、南宋との密約を決定。
 7月26日、日本軍は元軍に対して総攻撃を実施。全軍を挙げての突撃を行った。当初これを何とか凌いでいた元軍だったが、突如右翼が瓦解。南宋人が一斉に反旗を翻して、高麗兵とモンゴル兵を攻撃し始めた。その後の戦いでは数の左が歴然とした差が開き、勝敗はわずか一日で決した。モンゴル兵と高麗兵の全てが殺し尽くされ、元軍将兵の首が積み上げられた博多湾は日本人の手に帰った。
 しかし問題が残された。寝返った南宋兵6万人の存在だ。
 寝返らせた以上、彼らを再び敵として戦うのは少しばかり問題があった。しかも男ばかり6万人を新たに民として全て受け入れることも難しかった。ただし一連の戦闘で博多湾を中心にかなりの土地が荒廃して多くの農民が殺戮されたため、ある程度受け入れる余地もあった。また彼らの持っているとされた交易ルートは、鎌倉幕府にとって大きな魅力だった。元寇終了直後では、大陸や世界各地との交易がいつ再開できるかが分からなかったからだ。
 そして鎌倉幕府は、日本への帰化を条件に彼らの受け入れを決定。短期間で多くの日本人男性が殺害されていた現地では、日本人と南宋人の結婚も奨励された。
 しかし北条時宗が死去した翌年、元帝国から再び使者がやってきた。今度は貿易を行うというものだった。元帝国は南宋が亡んだので、日本など半ばどうでもよい国でしかなかった。日本を攻撃したのも、南宋兵の厄介払いという側面が強かったとすら言われている。
 むろん貿易の形態は朝貢貿易となるので、形式上日本は元帝国に服属させられることになるので、中華世界的には形式も整う事になる。中華王朝が異民族を軍事力で討伐して、その後形式上服属させるという常套手段である。この場合、「戦術的」な勝敗はどうでも良かった。形式を整える事の方が大切なのだ。
 そして鎌倉幕府は貿易を欲していたため、元帝国の提案を受け入れた。この時活躍したのが、「移民」してきたばかりの南宋系住民だった。彼らにより円滑で広範囲な貿易が可能となった。また中華系住民の住む国として、日本は元帝国からも形式上優遇される事にもなった。
 元帝国と鎌倉幕府が交わした文書上では、鎌倉幕府の朝貢と博多と周辺部を元が「貸し与える」のと引き替えに、日本と元支配領域及び影響圏との大規模な貿易権を獲得した事になっている。扱いは、朝鮮半島よりも遙かに上だった。
 なお、博多を中心とする筑前中央部を形式上で得た形になった元帝国だが、交渉の折りに今以上大陸の移民を送り込まないことも約束していた。別に日本に朝貢させた事で、元帝国の政治目的は達成されているから、今以上朝貢国(貿易相手)を追いつめる気もなかった。また南宋兵は元帝国にとって捨てた兵士、民であり、それが現状でも日本人への脅しとなるならそれで十分であった。もし日本人が必要以上に反抗する気配を見せたら、その時にはまた大量の屯田兵を送りつければよいのだと考えられた。
 なおその後元帝国は、広大な領地で各地での内乱や戦乱に明け暮れたため、日本への関心を急速に低下させていった。以後のザナドゥ(大都)にとっての日本とは、たまに珍しい物産や刀剣を持ってくる辺境の一国家に過ぎなかった。乾燥アワビなどはなかなの珍味だという程度の認識だ。それにせっかくおとなしくなったのだから、多少優遇してやるのが世界を統べる国家の寛容さというものだった。
 一方で日本は、博多、琉球、小琉球、江南という経路で海外との交易路を確保して、今までにないほど交流を活発化した。また依然として元南宋人との交流は親密なままであり、博多及び筑前の南宋人は商人を中心にジワジワと増加を続けた。ただし日本への同化も急速に進んでおり、言葉の方も日本語を話す者が増えていった。一度に6万人もの南宋人が強引に移り住んだと言っても、当時九州だけで約100万人の日本人が居住していた。また北九州が活発な商業拠点だった事を考えれば、日本人に同化されていく事の方が自然であった。基本的に彼らは、元帝国の中では切り捨てられた根無し草だったのだ。
 なお元寇が残したもの、南宋人及び南方から伝えられたもの、元帝国によりもたらされた物産には様々なものがあった。特に日本馬よりも力強いモンゴル馬の導入と、豚と鶏を食べる習慣が伝わったことはそれまでの日本にとって大きな変化だった。これにより日本では本格的な騎兵の育成について端緒が付き、阿蘇山などでのモンゴル馬の飼育が始まり、その後少しずつ日本中に広まっていくようになる。また豚肉と鶏肉を食べることについては、モラルが緩んだ戦国時代に日本各地に広まっていった。
 

●明の鄭和の北米遠征