●明の鄭和の北米遠征

 14世紀後半に入ると、中華地域ではモンゴル人が再び草原へと追い返されて1368年に明朝(明帝国)が勃興した。
 一方同時期の日本では、1333年に鎌倉幕府が滅ぼされて、その後「建武の新政」、「南北朝の争い」を経る中で、1338年に新たに成立した室町幕府がようやく安定を迎えようとしていた。
 しかしその頃日本の海外政策には、一つの問題が発生していた。明帝国が海禁政策(鎖国政策)を取ったため、中華地域との貿易ができなくなっていた。これは日本経済への打撃となるばかりでなく、主に筑前に住む南宋系の人々にとっては死活問題だった。元帝国が衰退した今となっては、中華大陸との窓口となり水先案内人になることでしか自分たちが日本で生き延びることはできないからだ。
 直ちに南宋人は、日本の実質的権力者である室蜂幕府(+北朝)に朝貢貿易の開始を進言した。南宋人は、以前からの人的つながりから新たに興った明朝政府、正確には中華本土の商人とのパイプも持っており、ただちに日本(室町幕府・北朝)は明朝との朝貢貿易を開始する。これにより明朝の海禁政策開始頃から早くも始まっていた和冦はある程度抑えられ、日明貿易は北東アジアの海の安定をもたらすものと認識されるようになった。この時少し遅れて南朝も明朝との朝貢貿易を行おうとしたが、明帝国から正統な日本政府ではないとして拒絶され、日本の対明貿易は問題なく一本化される事になった。

 1402に新たに明帝国の皇帝に即位した永楽帝は、新たな朝貢貿易を行うために鄭和に主に南海への大遠征実施を命令する。これが交易路を通じていち早く日本に伝えられると、日本はかつての鎌倉幕府の北方探索の成果を報告。北部及び東の果てにも探査艦隊を派遣するべきでないかと提言した。無論中継点となる日本が利益を得るための報告であり、博多など北九州を根城にする半ば日本化しつつあった旧南宋人の策略だった。自分たちなくして北方探査はあり得ず、最も利益を得るのは彼らだったからだ。
 そして日本からの進言は様々な賄賂などの努力もあって永楽帝と鄭和の目に止まり、博多の旧南宋人を一時的に中華の民であるとして博多に鄭和の分艦隊を派遣する。博多は中継及び補給、そして整備や修理の拠点とされた。そして日本に到着した数十隻の鄭和の分艦隊は、博多を数年間拠点として千島列島を経由してアラスカ、そして北米大陸西岸にまで至った。その航路は現在でも海の難所と言われる北太平洋を通ったため苦難の連続であったが、新航路と新たな土地を見つけたことに大きな価値があったとされた。またこの時の遠征のために、船の改良や強化の工事が博多を中心に行われ、博多では造船技術の大きな向上が見られた。
 ただし北方の探査では、国家と呼べるものは見つからなかった。アイヌやイヌイットなど部族単位での朝貢関係を結べたに過ぎなかった。遙か先での探査では未知の大地を見つけたが、世界の果てにたどり着いたとしか思われなかった。鄭和の代理として船団を率いた宦官の役人は、今後のさらなる探査により実りある事を期待するという趣旨の言葉を報告書に記載し、仮に「新華(シンカ)」と名付けた。これが東洋による新大陸の発見、後の蓬莱大陸の発見であった。しかし以後明朝が新大陸に足を運ぶことはなかった。
 だが北方の海岸部では、毛皮や海産物などの魅力的な物産も多く見つかったため、以後朝貢が続けられ。その中継者としてまた毛皮の捕獲者として、日本人が北方に赴く機会が増えるようになる。また博多に鄭和の船団の高度な造船技術が伝えられた形になったたため、日本での船舶建造の技術は著しい向上を見せた。これに北方の荒海での航海や漁業を行う技術開発が加わり、日本国内での船舶建造技術は大きく発展するようになる。そしてこの時、日本において鄭和の航海資料が数多く残される事になり、間接的に伝えられた建造技術共々、明朝最盛期の様子を正確に伝える一級の歴史資料となった。(※何しろ肝心の中華地域では完全に抹殺・破棄されている。)
 そして優れた造船技術を活用するべく、蝦夷やオホーツク沿岸地域の木材が丈夫な船舶建材として注目されて開発が進むようになる。そして博多は、日本での海外交易と外洋船建造の一大拠点として栄えるようになった。ただし日本全体の経済重心として北九州地域が弱いため、貿易や造船の中心地は徐々に大坂湾、正確には堺に移っていく事になる。
 一方で、鄭和の遠征に便乗する形で博多の旧南宋人達が南方航路について回り、日本との直接交易路の確保に奔走するようになる。南宋人にとっては、朝貢以外の貿易が出来ない明帝国に変わりうる日本との貿易相手が必要だったからだ。そして明帝国も重用したマラッカにも赴き、日本と直接貿易する目的で最初の日本人町(+商館)も建設された。この時純粋な日本人達も鄭和の船団に同行し、印度や東アフリカに到達したと伝えられている。
 なお旧南宋人は、チャイナ系の言語を話せたが日本語も同時に話せるようにもなっていたため、自分たちの事を中華系ではなく蓬莱の民だと言って、日本人の一部族であるように振る舞うようになっていた。またこの頃には、明帝国成立から中華地域で海外貿易できなくなった明帝国の貿易商人も数多く博多や上方方面に移民してきており、元帝国時代の中華系貿易路の多くを日本が持つようになった。
 なおこの頃になると日本人と南宋人の同化も進み、室町時代中期の15世紀中頃には実質的に南宋人(もしくは華人)とは言えなくなっていた。そして博多の南宋人は、明朝の窓口となっていた琉球王朝とも太いつながりを持ち、チャイナ系の言葉を操れる優位を活かして琉球でも確固たる地位を築いている。
 その後旧南宋人は日本各地の港湾及び、琉球やマラッカなど日本が進出を始めた東南アジアに分散するようになる。そうした頃、中華系を中心にした和冦が頻発するようになり、かなりがその犠牲者になったと言われる。それでも日本人(南宋人系)による東アジア貿易は熱心に行われ、各地の物産を彼らが東アジア各地に送り届けることでかなりの利益と勢力を誇るようになる。ただしマラッカより向こうには依然としてイスラム商人が幅を利かしており、勢力の小ささ故に争いを好まない日本人もそれ以上に進出する事はなかった。
 しかしその日本自身で、未曾有の戦乱が発生する。



●戦国時代と海外貿易