●戦国時代と海外貿易

 西暦1467年、日本の京の都で大規模な戦闘が発生。「応仁の乱」である。
 以後日本では「戦国時代」と呼ばれる戦乱の時代へと突入し、群雄割拠の中で戦国大名となった有力な武将達は、自らの国力及び武力を強めるため様々な政策を実施した。中には経済政策や海外との貿易も含まれており、ちょうど日本での産業が発展しつつあった事も重なって、日本列島は戦乱の中にありながら産業及び経済が発展して、人口すら拡大するという特殊な状況が出現していた。
 そうした中で、各地の有力武将の一部が海外との貿易を重視するようになっていた。
 当時中華地域と日本の貿易は、勘合貿易と呼ばれる割れた札を合わせて互いを確認する日明貿易が中心だった。これに東アジア間での中継貿易が加わるようになっていた。
 当時明帝国は鎖国中(海禁中)で、東南アジア各地の小王国や各地の豪族、部族は反目し合っていた。だが各地は貿易が必要だったため、中立的な日本人の入り込む隙間は多かった。また旧南宋系の日本商人は、この頃から増え始めた海外でも活躍する中華系商人との関係も深かったので、さらに効果が高かった。そして彼らはマラッカやジャワより向こうで活躍するイスラム商人、印度商人と平和的に連携することで、東アジアの貿易をコントロールするようになっていた。また北方では、換金物としての毛皮や乾物(魚介類)獲得のための進出が本格化しており、こちらは関東や北陸、奥州の諸侯の重要な財源となりつつあった。進出地域は、16世紀初頭の時点でアレウト列島にまで及んでいた。
 そして海外との貿易は、旧南宋を中心にした博多商人と、上方の堺商人、京商人が行うようになっていた。また時代が少し進んでいくと、戦国大名となった細川氏と大内氏も室町幕府に代わって勘合貿易を行っていく。
 日本人による交易では、鄭和時代に伝えられた技術の発展系に属する、外海廻船(そとうみかいせん=ジャンク型カラック船)が主力を占めるようになっていた。西洋型帆船の方が有用のように言われる事も多いが、簡単に帆をたためる形式は、これはこれで有効性もあった。それにこの時点では、まだ丈夫な帆布を大量に作る技術を日本人が持っていないので当然の選択でもあった。だが、日本で建造された東洋型カラック船の性能は、東アジアで最も高性能な船であった。羅針盤の未発達から簡単な外洋航海までにしか至っていなかったが、東アジア貿易での圧倒的優位を作り上げた事は間違いなかった。偶然から、アジアでの技術継承者となった事でもたらされた優位だった。
 しかし1551年に大内氏が滅びると、勘合貿易も消滅してしまう。日本と明帝国のつながりは、琉球王朝を介したものだけとなった。一方で、西の彼方から劇的な変化が押し寄せつつあった。
 1550年、ポルトガル商船が平戸に来航。その数年前の1543年には、種子島にポルトガル船が漂着していた。それどころか、既に東南アジアに数多くの拠点を持っていた日本商人達は、1511年にマラッカに進出したポルトガル人との交流を持つようになっていた。白人との出会いであった。
 ここで現地の日本人と旧南宋人の日本商人達は、ヨーロッパで香辛料が異常なほど価値を持つことを知る。日本列島ではほとんど需要のない品物だったが、貿易品目として俄に注目されるようになった。だが、自分たちにはポルトガルのような武力がないため、モグリで商売するか海賊行為に及ぶ以外では、当面はこれを黙って見ているしかなかった。何しろ彼らポルトガル人は、イスラム商人を武力で排除してしまうだけの力を持っていたのだ。また彼らの用いている商船や航海技術は自分たちより高度であり、この点でも自分たちが競争相手足り得ていないことを理解した。ただし黙って見ているわけではなかった。船の模倣はすぐにも開始された。足りない武力を補うために、それまで以上に傭兵を雇って武器を揃えるようになる。さらには大きな力を持った戦国大名を利用することも、すぐに考えられた。当時最有力だった大内氏の国力ならば、年に数隻やって来るだけのポルトガル程度なら、十分対抗できると判断できたからだ。このため鉄砲などの新たな武器も、種子島伝来より早く博多や堺の街にもたらされていた。日本人達がポルトガル人に教えなかった日本列島へ彼らがたどり着いた時、日本各地では既にマスケット銃の量産が開始されつつあった。早い例では、1530年代に戦場で使われたと文献に記されている。
 また既に基礎技術の多くが揃っていた船舶の改良も急速であり、堺や博多の港では日本製の西洋型カラックやキャラベルが建造されるようになっていた。船舶に搭載するための大砲も1550年頃には自力で開発・製造され、一部の船には日本の戦場で使われるよりも早く早速搭載されるようになった。また武器の一部は日本各地の重要港湾や、東南アジアの日本人町にももたらされ、戦国時代の中で溢れかえっていた傭兵武士も、数多くが海外に赴くようになった。そちらの方が、報酬が高かったからだ。また大内氏も貿易の拡大と海外への武力の提供には積極的であり、日本人の海外進出を容易なものとした。
 しかし日本商人達が頼みとした大内氏は、1551年に滅亡してしまう。このため次なる大きなスポンサーを見つけるまで、一時的な停滞を余儀なくされる。何しろ当時は、海外にまで広く打って出ようと言うほどの戦国大名がいなかったからだ。
 そうした中で、取りあえず南蛮船(ポルトガル船)と連携した中継貿易構築が目指され、棲み分けによる利益の共有が図られた。これはアジアで絶対数の少ないポルトガル船にも利益があるため、マカオやマラッカでの日本とポルトガルの交易が盛んに行われるようになる。また日本商船の一部は、ポルトガルが有する印度のセイロン島やゴアの街にまで赴き、それまでになく活発な活動を行うようになる。何しろそれまでは、イスラム商人のためにインド洋へのまともな進出は叶わなかったからだ。
 一方では、日本人が東南アジア各地に進出しているので、ポルトガル船と、1560年代にアジアにようやく進出してきたイスパニア船が、いち早く日本各地に来航するようになる。そしてイスパニア船は、貿易と布教そしてゆくゆくは侵略を目的として、数多くの船が九州を中心に西日本各地に来航するようになる。ただし日本にまで足を伸ばす南蛮船はまだまだ少なく、小琉球(台湾)より北の海、いわゆる北東アジア海域はほとんど日本人のものであった。
 この頃には、琉球の中継貿易もほとんど日本人が独占するようになっており、尚更日本人の優位は揺るがなかった。何しろ日本では、中華地域の絹及び絹製品の需要が高く、これを安定供給することが命題だった。琉球の旗を掲げた日本製帆船は、忙しく日本と琉球、そして中華地域を行き来していた。また琉球の旗を掲げた彼らは、優れた船と武器を用いることで中華系海賊(和冦の一部)の殲滅に成功しており、中華地域の港の優先的使用権と事実上の朝貢以外での貿易許可を得るようになっていた。また小琉球は琉球の一部であると賄賂によって認めさせたため、小琉球での日本人町や拠点の建設などが進んだ。16世紀半ば頃になると、疫病や原住民にもめげずに初期的な入植も行われるようになっていく。
 またルソン(呂宗)島へイスパニア人より早く進出していた事でも、北東アジア海域での優位は明らかだった。と言うよりイスパニアが本格的にやって来る1564年までは、アジアに足を伸ばすヨーロッパ人は、ポルトガル人だけであった。
 そうして海外の日本人が一進一退を続けている時、新たなるスポンサーが出現する。
 第六天魔王と恐れられた、織田上総介信長の台頭である。
 織田信長は、当時東海随一の勢力を誇った今川義元を、1560年に桶狭間の戦いで破って頭角を現した。そしてそれからわずか8年で上洛を果たし、天下布武を掲げて旧弊打破による天下統一事業を開始した。そして1569年に商人達による自由都市となっていた堺が信長の軍門に降ったのだが、この事は海外の日本商人にとってはむしろ朗報だった。強力な武力を持った強い個性なくして、海外への力強い進出と貿易拡大はあり得ないからだ。このことは、南蛮でも日本でも変わりなかった。永楽帝なき明帝国の体たらくがすべてを現していた。
 かくして織田信長は、海外交易の手段と拠点を手に入れてさらなる経済力を付け、海外商人達は後ろ盾と武力を得て東南アジアでの経済覇権確立に邁進していくことになる。やっている事は、イスパニアやポルトガルと変わりなかった。
 また他にも、大内氏の後継者的な戦国大名となった毛利氏も、石見銀山という当時世界有数の銀の産出地を抱えていた事と、博多の側であるため海外貿易に積極的だった。他にも九州の有力戦国大名は概ね海外貿易に積極的であり、次々に日本製外洋帆船をアジア各地に派遣した。この頃には船の大型化も進んで羅針盤の技術も手に入れており、日本人の足かせもなくなっていた。
 そして中でも勢力拡大が急速だったのが、日本経済の中枢を押さえた織田信長だった。信長はトップダウン式の強力な指導力を発揮して、1570年代初期の段階で外洋型帆船を持つ有力な海軍を保有し、また野戦では大量の鉄砲と大砲を運用するようになっていた。また高性能の最新兵器を揃える経済力も、日本中枢での経済活動と海外での貿易促進で得ていた。
 そして信長は、ヨーロッパの物産を得るために無軌道な海賊行為を停止させ、刃向かうものを容赦なく海の果てであっても追い立てた。これが日本初の海賊に対する法律となると同時に、日本の外に対して効力を持たせた法律ともなった。何しろ織田の軍船は、海賊を捕らえるとそれが日本人以外の唐人(中華系)、朝鮮人の国が関わっていても容赦なく処刑していった。彼の苛烈な性格と合理的で先進的な感覚が、東アジアの海に秩序としてもたらされたのだ。これは他の戦国大名にはあまり見られない例であり、商人や諸外国からも好意的に見られた。また海賊からの脅威を受けていたポルトガル人からも大いに感謝され、信長がポルトガルとの優先的な交易権を得るようになる。
 一方で信長などの有力な戦国大名は、自らのお墨付きを与えることでの交易安定を狙って朱印状を発行。1570年代からは、日本の有力者の多くが朱印船貿易に手を広げるようになる。ただし信長の天下統一まではあまり海外で信用の証となる評価は受けず、単に日本商船であるという印でしかなかった。



●天下統一