●明清革命

 日本が、織田信長の革新期から織田幕府による大坂時代の安定期に入ろうとしていた頃、となりの大陸では大きな政変が発生していた。明帝国の衰退と、北方騎馬民族である女真族、後の清帝国の台頭だ。
 この時の情報は、小琉球やマカオの奉行所と各地の日本商人から素早く情報が入ってきていた。ただし日本にとって、中華王朝がどうなろうと、相手が膨張主義をとらない限り知ったことではなかった。だが、混乱により絹の輸入が滞ることは何よりも危惧すべき事だった。そして当時二代目将軍織田信秀の治世にあった織田幕府は、交易維持のため当初は明帝国への支援を伝える親書を送る。これが清帝国が成立を宣言した翌年の1637年の事だった。
 しかし明帝国は日本側からの援助要請を拒絶し、朝貢の形を取った武器の輸入だけを行う。しかし輸入量が膨大なため、日本では事実上の戦時特需が発生。以後8年間で明帝国の通貨(銀貨)で3000万両も得ることになった。絹の輸入も激増し、明帝国が武器を得るため安価に設定された絹が大量に日本に輸入された。
 またそれよりも早い1623年には、長らくまともな国交と交流が無かった朝鮮王朝に対して、織田幕府から援助が提案された。当時まだ後金もしくは金華と呼ばれていた女真族に対して、緩衝地帯を保持しようとしての行動だった。
 しかし朝鮮側の無理解により拒絶される。逆に、高慢な文書で国交断絶すら言ってくる始末だった。また明帝国も、朝鮮への干渉を行わないよう強く要請してきた(文書自体はほとんど命令だった)。これに呆れた日本側は、近海での海軍力増強に方針を転換。朝鮮半島を以後無視するようになった。この政策は、以後織田幕府の間でなし崩しに伝統的政策となってしまい、日本の朝鮮外交軽視は伝統的なものと化していくようになる。
 結果として朝鮮半島は、1627年には後金の侵攻を受けて無理矢理後金に開国させられている。そして清帝国勃興と共に、朝鮮は属国化を余儀なくされてしまう。もっとも騎馬民族の清帝国が、朝鮮の先にある日本に何かを求めることもなかった。騎馬民族にとって、海はタブーだった。ただし一度、日本側の優れた文物を求めて朝貢の形での貿易を要求してきた。これに対して日本側は、中華帝国ではない北の蛮族から受けた要求のため、外交上謝絶した。まだ清帝国は中華国家ではないし、何より絹も産しない国に用はなかったからだ。しかし清帝国が隆盛したのは確かであり、この事件が明帝国への援助提案へとつながっている。
 しかし明帝国は日本との間に武器売買以上の事は行わず、そのまま内乱と内政の混乱で衰退していった。そして李自成の乱によって、1644年呆気なく崩壊してしまう。
 しかしその年、追いつめられた明帝国は後明を成立させ、日本へ援軍を求める使者を送る。日本側は、時勢がすでに変わった状態のため何を今更と考えたが、一方では別の考えが大きく頭をもたげる。
 このまましばらく中華地域の混乱が続くだろうから、この機に内乱に介入して、日本が必要とする一切合切を大陸から持ち出すべきではないか、と。
 またこの時期の日本には、いまだ10万人以上の失業武士(浪人)が存在しており、彼らの雇用と日本からの厄介払いのまたとない機会とも考えられた。
 そして二代目将軍織田信秀は、「唐出兵」をいち早く決断。すぐにも将軍親政による大規模な遠征軍を準備して、揚子江河口地域に派遣した。遠征軍の総数は20万人を越え、用意された軍艦、輸送船舶の数も600隻にも達していた。過去の歴史上にある様々な国家の遠征に比べて艦船数が少ないのは、輸送力の高いガレオン船を日本が用いていたからだった。旧式のガレオン戦列艦などは、大砲を減らして輸送任務に充てれば1000人の兵士を運ぶことができた。
 遠征軍は、大量の帆船と機動(馬匹牽引)可能な軽量火砲、無数のマスケット銃で武装されており、また新たな軍制で訓練され、軍事力は圧倒的だった。もともとがネーデルランド連邦との戦闘を予測して編成していたものを転用した形になっていたため、いまだ中世世界にあった中華地域では懸絶した軍事力となったのだ。しかもヨーロッパ一般よりもはるかに大きな編成と規模を持っており、東アジア地域での戦闘ならばほぼ無敵と表現して間違いなかった。
 遠征軍は、後明を討伐するべく押し寄せた清の騎兵部隊を豊富な火力用いて難なく撃破すると、その後別働隊がさらに揚子江を遡航。陶磁器の一大産地だった景徳鎮まで至った。
 しかし日本軍は、自らが必要と判断したもの以外で、後明軍とはあまり連携を行わなかった。日本側の言い分では援兵とされていたが、各地で事実上の略奪が大規模に行われていたからだ。
 事実この時の日本軍の遠征で、中華地域の絹織物、綿織物の中心地だった揚子江河口域の産業地帯は、一時的であれ壊滅的打撃を受けた。また陶磁器の山地である景徳鎮も、日本軍の略奪とその後の清軍などとの戦闘でこちらも壊滅した。しかし日本史上では、全て清帝国軍との戦闘と清帝国軍の略奪や破壊であったとされている。一部は事実だったと考えられているが、日本側がより悪いのは間違いないだろう。日本の博物館に、何故か歴代中華王朝の財宝が展示されていたりする事が何よりの証だった。清帝国軍は新たな支配者だったが、日本軍は確信犯的な略奪者でしかなかったのだ。
 そしてこの時の日本軍は、多数の絹、絹織物、綿織物、陶磁器、銀、貴金属、貴重品、工芸品を持ち帰ると同時に、多数の職人や職工を誘拐て日本に連れ去った。さらに作業用の器具や図面も多く持ち帰り、自国で産業を発展させている。しかも当時ヨーロッパでもアジアの陶磁器や織物がもてはやされていたため、日本は大きな外需を得ることになる。何しろ明清革命と日本の略奪的侵略のおかげで供給地がなくなっていたからだ。また日本や日本の影響圏でお茶の栽培が盛んになったのもこの時の遠征以後であり、以後百年間日本が中華地域と貿易する必要性はほとんどなくなった。紙、火薬、ガラスなど様々な産業や技術に関しても、根こそぎ奪って帰ってきていたからだ。加えて、学術面での底上げのため、多数の書物も同時に略奪された事が、近代に入ってからの調査で発見されている。
 また一部の俗説では、美女一万人が様々財貨・財宝と共に日本にさらわれてきたと言われている。やっている事は、ほとんど北方騎馬民族や海賊と同じだった。このため中華では、この時の日本の侵略を『大和冦』と呼んでいる。しかし、欧州ではイングランドが三十年戦争やこの世紀のカリブ海でやっていた事とさほど変わらず、力を持った海洋国家の一般的行動と見ることも出来るだろう。
 なお、日本軍の略奪的遠征は1670年代にも行われ、小琉球(台湾)を起点とした福建方面と、マカオを起点とした広東方面に大軍が派遣された。清帝国の中華覇権確立を邪魔すると共に、現地でも大規模な略奪と破壊が実施された。
 日本兵は「蝗軍」として恐れ、嫌われる事になった。
 当然ながら日本軍の悪行は明、清を問わずに憎まれ、また日本の干渉を嫌ってその後清帝国の海禁(鎖国)政策が強化される事になる。ただしこの遠征に便乗して、多数の死すべき運命の人々(明関係者)が中華地域から日本の海上交通路を使って脱出してもいるので、この点での日本の価値は評価するべきだろう。満州風でない中華風文化や風俗の多くが日本で保存されていた事が、その分かりやすい事例となる。
 なお二度目の唐出兵中の日本だったが、清帝国に対する政策を変更しなければならない事態が発生する。このため中華南部の混乱に乗じた略奪と破壊は緊急停止され、以後の大陸外交を大転換する事になる。北の大地から、ロシア人が東進してきたのだ。そしてロシアの東進は、日本にとってはイスパニア以外のヨーロッパ勢力がいよいよ世界中に向けて進出を本格化した兆しと捉えられた。


●ヨーロッパ情勢と日本