●江戸の発展と覇王再来

 17世紀、日本国内は天下太平を謳歌していた。平和により生活は安定して産業は栄え所得も向上し、人口は大幅に拡大した。世界各地との貿易と略奪的外交によって日本経済全体も大幅な拡大が図られた。
 織田信長の天下統一から百年後の1680年代には、日本列島内の総人口は早くも3000万人を越えようとしていた。戦国時代末期の総人口が1500万人と言われているから、二倍の規模に拡大した事になる。
 農業技術の発達と向上、人工肥料(魚肥)の利用、積極的な農地開発、印可芋(いんかいも=ポテト)、摩耶芋(まやいも=スイートポテト)、蓬莱黍(ほうらいきび=コーン)の普及、飢饉に備えた様々な作物の備蓄、流通網の整備、海外からの農作物の移入、そして商業の発達に伴う都市人口の拡大。それら様々な要素により、日本人の数は異常な勢いで増えていた。
 しかも、蓬莱大陸(新大陸・英名北アメリカ大陸)、南天島(英名オーストラリア大陸)への移民及び入植地域での自然増加も百年の間に約200万人に達していた。海外移民数の大幅な増加は、日本列島が人口的に飽和状態となったため自然発生と幕府の政策双方で行われた結果だった。加えて、海外勢力圏での自然人口増加や同化政策によって、海外の日本人及び日本語を話す日系人人口の数も既に500万人を数えていたと推定される。
 ちなみに、さらに百年後の19世紀初頭には単純計算して日本人の総数が二倍以上の7000万人に達すると、18世紀初頭の時点で既に幕府の役人によって予測されていた。
 そして豊かになった日本人の消費熱は、海外からもたらされる豊富な財と物産をどん欲に消費し、その中心地である大坂や京などの大都市は大いに繁栄していた。この時醸成された上方を中心とする文化が、俗に言う「元禄文化」であった。
 尚この当時の大都市は、南から、歴史的経緯から華人(もしくは華僑)の増えた博多、商工業の中心地である大坂、堺、京、の上方地域、他に清洲、仙台があった。そしてこの時大規模な開発が行われたのが、江戸湾の一番奥に位置する江戸の街であった。
 そもそも江戸は、室町時代の太田道灌によって城が建設されたぐらいで、戦国時代並びに安土大坂時代は寂しい漁村でしかなかった。江戸湾の他の場所にも、取り立てて大きな城下町などはなかった。
 信長による天下統一後も、しばらくは大きな変化はなった。これに変化が起きたのは、信長による日本中での殖産興業政策と農地開発が押し進められた頃からだった。
 この時織田幕府は、江戸湾奥地の湿地を埋め立てる事と、周囲の治水事業を押し進める事で多くの新田開発を行おうとした。また現地の中心地として、江戸に再び城を設置する事を考える。関東や奥州に睨みを効かせるため、幕府の拠点を置こうという意図であった。
 かくして日本中の大名が動員され、巨大な干拓と城塞及び町の建築が開始される。
 江戸新田建設は早くも1590年に開始され、連動した江戸城(千代田城)建設は1600年に開始された。一定規模の開発までには20年を擁するとされる国家プロジェクトであり、この開発で関東の物流の拠点と多くの農地が確保されるものと期待された。
 しかも1620年代になると、一つの要素が江戸の港湾都市としての開発を加速させる。
 当時一定の開発を達成していた江戸だったが、町人が人口は一万人程度の地方都市に過ぎなかった。一応は幕府直轄都市で関東地方の物流拠点ではあったが、関東地方そのものが経済的に遅れた地域であったため、開発と発展には限界があった。それに当時の日本の中心は、上方と呼ばれる大坂、京、堺に集中され過ぎていた。南方交易の拠点も、博多や長崎だった。ただし一万人という人口は、大大名の拠点でも貿易港などの例外を除けば同程度であり、都市規模が小さいというほどではなかった。むしろ十分大きな都市だったと言えるだろう。そしてそうした既存の社会資本を利用して、一つの指針が幕府から示された。江戸湾並びにその奥地の江戸の街を、新大陸(蓬莱大陸)との窓口とするというものである。これは幕府による新大陸貿易と移民の統制を狙ったもので、日本国内の人口が増えるのと平行してかなり強引に推進された。
 その甲斐もあって、元禄時代全盛期には江戸の街は貿易の街、移民出発の街として発展した。18世紀に入る頃には、総人口も10万人達する日本有数の都市へと発展した。また大陸進出の拠点であるだけに江戸城の増築も進められ、江戸城は大坂城に次ぐ日本で二番目の巨大城郭となった。
 また江戸城外郭は、火力戦を前提とした城塞として整備された事でも有名で、江戸市街外縁の防備地区を含めた城郭は、それまでの日本の城とは大きく景観を異にしている。そして江戸の街の発展が伝えるように、日本の海外進出は尚一層盛んとなり、日本の繁栄は絶頂へと達しつつあった。
 そしてそれを現すのが、日本の海外への膨張であった。

 織田幕府治世下の日本は、信長による成立時期から積極的に海外へと進出していた。呂宋出兵、唐出兵などのように海外との戦争も積極的に行い、莫大なアジアの富を日本列島へと注ぎ込み続けた。中継貿易のコントロールだけで、アジアからは莫大な富が得られたのだ。また逆を言えば、海外での巨大な軍備の維持のために、常に大量の財貨を必要としていたと言えるだろう。
 しかし幕府成立から一世紀も経過すると、幕府自身の組織疲弊と大名や武士の腐敗と怠惰が問題視されるようになる。しかも商業重視の政策から織田幕府自身が育ててしまった形になる都市住民の目は厳しくなった。華やかだった元禄時代が終わり再び停滞期に入ると、民衆の声は幕府(政府)を批判する声で埋め尽くされるようになる。
 しかしその頃、織田宗家から新たな将軍が誕生する。六代将軍となった織田信宗の登場だ。
 彼の治世は1716年から45年のちょうど三十年間に及び(在年は1684年〜1751年)、統治の特徴はそれまでの織田幕府では信長以来となる織田家嫡子による親政で あった事になるだろう。しかも始祖信長は将軍職には就いていないため、将軍として親政を行ったのは織田信宗が最初の例となった。
 しかし世界史的には、織田信長の時代を日本の第一帝政、この時の織田信宗の時代を第二帝政時代と呼ぶことがある。また、信宗の治世を日本の絶対王政だとする場合も多い。
 覇王と呼ばれただけに、織田信宗の生涯は特に成人後の前半期において波瀾万丈だった。
 彼は将軍家の嫡子として英才教育を施され、また本人の才覚もあって大いに期待されて育った。相応に織田家内での跡目争いはあったが、嫡子としての優位を崩すことはなく元服にまでこぎ着けることができた。
 そして元服直後の満14才で初陣を果たす。初陣は、1698年のジュンガル領のモンゴルに派遣されていた傭兵部隊長としてだった。
 その頃日本では、モンゴルは大したことのない駐留地だと考えられていたので、次代将軍の箔を付けるためのちょっとした出征と考えられていた。何しろ将軍は武家の頭領なので、出来る限り「戦歴」という箔が必要と考えられていたからだ。そして既にジュンガルと清帝国の戦いは、清帝国優位ながら和平が成立すると考えられていた。しかし清帝国稀代の皇帝だった康煕帝は、ジュンガル征服の最後のチャンスとばかりに奇襲的な遠征を実施。その最初の矢面に立たされたのが日本人傭兵部隊の「鉄人兵団」と、それを名目上率いていた若き織田信宗だった。
 戦いは小さな砦に寄った日本側に、その十倍近い数の清帝国の誇る八旗兵精鋭が押し寄せるというものだった。清帝国軍にとっては、唐出兵などもあって恨み昔年の日本軍であるだけに攻撃も苛烈で、一時は全滅すら心配された。しかしその中で織田信宗は先頭に立って戦い、また部下の士気を鼓舞し続けた。そして堅固な城塞と優れた部下達の活躍もあって、増援部隊が到着するまで砦を維持し続けた。最終的には、清帝国の野望すら阻止してしまった、とされている。実際のところは今ひとつ定かではないのだが、彼が清帝国軍と最前線で戦い勝利した事は確かである。また、この時の戦闘が清帝国とジュンガルの最後の戦いであった事も歴史が証明している。
 その後幕府が慌てて信宗を帰国させるが、その時点で信宗は国民的英雄に祭り上げられてしまい、完全な英雄凱旋となった。太閤信長様の再来である、と。
 これは幕府を運営してきた有力諸侯にとっては由々しき事態だった。何しろ織田家は、幕府の中では武家を統制するための権威的な君主であり、日本国の経営という実質政治に関わるようなことがあってはいけないというのが、信長公没後以来の一般常識だったからだ。この流れは、初代将軍織田信忠と当時の関白伊達政宗によって作られたものだ。
 故に信宗が政治的に台頭する事は、行政及び内政上好ましくなかった。
 そこで今度は、日本の武威を示すためとして南方のマラッカ奉行として信宗は派遣される。民衆の熱が冷めるまで、しばらく静かにしていてくれという事だった。まだ若かった信宗に否応はなかった。
 しかしその道中、中華系海賊の大型ジャンク船に襲われていた日本の商船と出くわし、乗っていたオダ・ガレオンを指揮してこれを救出。そのまま乗っていた軍船を率いて、海賊船ばかりか海賊の拠点までも討伐してしまう。この噂もたちまち日本本土に伝わり、流石信長公の血を受け継いでいると、民衆にさらなる高評価を与えてしまう。
 そしてその後二年間、予定より長い間マラッカ太守(奉行)としての任務についたのだが、そこでも波乱が待っていた。
 着いて早々に予期せぬ現地民族の反乱が発生してしまい、信宗は中小の反乱を討伐する毎日を半年近く過ごすことになる。何しろ彼は現地での最高位の軍人でもあったので、役職と自らの家名にかけて兵達を率いねばならなかったからだ。
 そしてこの評判も、船乗りや商人を通じて日本ばかりかアジア各国に知れ渡り、今度はムガール帝国から援兵の要請までも受けてしまう。そしてほとんど彼の独断で、現地日本軍は印度に反乱軍討伐の助勢に出戦する事になった。
 そしてムガールでは1年近く反乱鎮圧に奔走し、ムガール皇帝との接見も行い、日本とムガールとの友誼を確認しあうまでの信頼関係を築いた。
 そして1700年の秋、17才(数えの18才)の信宗が日本に帰国した時、彼は自らの妻としてムガール皇帝の系譜に連なる姫君を連れていた。
 これは近代日本史上初の支配層同士での国際結婚であり、日本中が盛り上がった。日本人の間に日本人以外との結婚が広まったのも、この時の騒ぎを切っ掛けとしている。
 幕府の権威派である太政大臣などは、前例がないとして何とか妾や愛人のような扱いにしようとするが、仮にも印度の大帝国の姫とあっては粗略にもできなかった。しかも相手はムガール皇族であり、その父親はムガール帝国最大の版図を作り上げた皇帝アウラングゼーブであった。粗略に扱うことは、外交問題への発展を意味していた。
 また当時の印度はヨーロッパ列強のホットゾーンとなっており、日本が政治的に食い込むには格好の機会と考えられ、この国際結婚は織田幕府内でも正式なものとされた。
 しかしこの頃、ムガール帝国は18世紀に入ると急速に衰退期に入っていた。アウラングゼーブ帝が宗教弾圧を行ったため、国内では反乱が起きていたからだ。信宗が印度に援兵に行ったのも、この鎮圧のためだった。そしてイングランドがそこにつけ込んで1690年にカルカッタを建設し、同時期に印度に進出していたフランスとの間で激しい競争が行われていた。信宗が連れ帰った姫も、そうした印度の現状を事を憂い、日本に何らかの形で援助を得られないかと考えて事だったと言われている。
 信宗自身も、日本への帰国後に印度への積極介入とイングランド、フランスとの対決を訴えた。しかしまだ若かった信宗は、百年の時を経た織田幕府の官僚制度に屈しなければならなかった。日本が印度情勢に深入りしないばかりか、彼自身がアジアから引き離されてしまったのだ。
 とにかく信宗は、織田幕府の重臣達にとって派手すぎた。
 今度信宗は、加州奉行(任期中に蓬莱奉行(総督)となる)の任につくべく蓬莱大陸に渡航した。
 主に現地では統治と経営が中心となる事もあって、加州での稲作のための灌漑事業と綿花栽培を推し進める事で内政能力も示した。しかも探査隊を数多く編成して、新大陸各地へと派遣。ハドソン湾、五大湖西端、ミシシッピ川、メヒコ湾にまで至り、各地に標識を立てさせた。そうした上で開拓路の整備を行い、日本の新大陸での領域をイスパニア、フランスと接するまでに拡大させる。
 また探索や内政とは別に、彼の加州奉行時代に「イスパニア継承戦争」(1701年〜13年)が継続され、連動して北米では「アン女王戦争」が英仏の間で発生した。
 これに対しても信宗は、蓬莱駐留軍のほとんど独断専行で、北米のルイジアナ方面への派兵を決断した。信宗は後込みする現地の将軍(侍大将)を後目に、彼自身が軍を率いて自ら戦乱の渦中に入っていた。なお、日本がヨーロッパの戦乱の中に明確に介入したのは、この時が初めての事であった。そしてこの戦闘に連動して、日本はヨーロッパ的政治上でイスパニア、フランス側に荷担せざるをえなくなる。当然ながら東印度諸島などでも、敵となったイングランド、ネーデルランドとの戦闘に発展していた。しかし基本的に似たような軍事レベルのため、密度の高い日本側が勝利するか、せいぜいが痛み分けで終えることができた。地の利も日本に味方した。しかもアジア方面の軍隊も、信宗が鍛え直してきたばかりだった。その上アジア方面には、彼が腹心と頼んだ者が残って指揮を執っていた。
 そして信宗の賭は当たり、衰退が確定的となったイスパニアから、ノヴァ・イスパニアの北部地域全土を正式に譲渡される事になり、ハドソン湾(刃度寸湾)の権利をフランスから譲られる事に形となった。フランスも日本の参戦によって新大陸での戦況を挽回し、テル・ヌーヴ(ニューファンドランド)、アカディアを何とか保持する事ができた。
 予期せぬ日本の参戦により、新大陸での敗者はイングランドとなったのだ。
 そしてフランスの名誉を僅かばかり救ったとして、以後フランスと日本の関係は非常に友好的となる。逆にイングランドとは、以後対立する事が多くなった。もっとも日本とイングランドの対立が多くなったのは、日本とイングランドの海外利権がぶつかるようになったからであり、信宗の選択は間違いではなかったとされている。それよりも、いち早くフランスと友好関係になり、新大陸でイスパニアの利権に深く食い込んだことの方が評価されている。フランス側もイングランドとの対抗のため、日本との関係強化に積極的だったからだ。
 そして彼の力によって、カリフォルニアの半島部を含めた全体とリオグランデ川以北の全てが日本領として国際的にも認められることになる。
 なお、この時交わした条約こそが、日本とヨーロッパ列強(ロシア除く)が複数で交わした最初の国際条約ともなった。
 そして信宗は、長きに渡った蓬莱奉行を勇退し、新大陸での巨大すぎる勝利を手にして日本本土に凱旋。1716年に、ほとんど満場一致の状態で将軍職へと就任した。
 まごう事なき覇王の再来であった。
 ちなみに、「印度の敵を蓬莱で取る」という言葉は、この時の故事に倣って作られたものである。


●享保の改革とアーシアン・リング