●享保の改革とアーシアン・リング

 征夷大将軍の官位を受けた織田信宗は、植民地及び支持派の大名、幕府軍、そして民衆からの圧倒的支持を受けて、自らの親政を宣言した。連動して、彼の将軍職在位の間は関白職には誰も就けないとして、太政大臣だけが朝廷との橋渡しや諸々の行事を取り仕切るようになる。
 またこの時代になると、日本の海外領土拡張に伴い疑似封建制度が緩み始めていた時代背景が、信宗の台頭を許した。
 しかし覇王として将軍になった信宗は、将軍就任後はほとんど戦争を行わなくなった。覇者としてではなく王者として国を治めたのだ。
 将軍親政を開始した信宗は、まずは幕府の財政再建と政治改革に着手した。
 この頃幕府の財政は、大きな赤字に転落していた。
 二代前の四代将軍信綱は、国政には一切文句を付けない代わりに浪費家であり、世界中の珍獣を集めるために世界各地に調査船団を派遣させた上に大きな動物園を作ったり、郊外の涼しげな場所に豪華で巨大なイタリア様式の離宮(現:宝塚離宮)を建設するなど、将軍費(宮廷費)が放漫経営状態となっていた。当時の世相を反映した「派手将軍」呼ばれるよりも、「獣将軍」と陰口を言われる事の方が多かったほどだった。特に希少で珍しい動物への偏愛と出費は異常で、諸大名ばかりか国民にも法度を出してまでして捕獲と飼育を奨励したため、一時期日本中で世界中の珍獣、希少動物が見られるようになった。そうした事が豊かな事のステイタスとして、半ば無理矢理に持てはやされた。
 このため信綱は近代動物園の祖とも言われ、原産地で絶滅しても日本で生き延びた動物も多いという皮肉な結果を残している。また日本本土の人間が無闇に動物を殺したりしない風潮と愛獣を飼う習慣は、この頃形成されたと言われている。元禄文化での贅沢と愛獣は、この時代の象徴だった。
 先代の将軍信継は意思に弱く短命で、悪影響もなかったかわりに何もしなかった。だからこそ信宗が、各地で好き勝手に出来たとも言えた。
 またここ五十年ほどの関白も財政的には無策が多く、幕府財政は完全な赤字に転落していた。軍事費支出も鰻登りだった。軍事費拡大の一因は、信宗の責任も大きい。彼の起こした対外戦争により、さらに赤字が膨らんでいた。
 しかし非難は英雄である信宗には向かず、幕府や織田家への不審が高くなっていた。
 そこで信宗は、関白ではなく財務を専門に司る大蔵大臣の権限を自らの名の下に大幅に強化。同時に産業政策を行う工部大臣、海外交易や国内商業を監視する商部大臣を新たに設け、抜擢人事によって優秀な者をその職に就かせると大鉈を振るわせて改革に臨んだ。
 また彼は、日本国内の飢饉に備えて備蓄食糧(主に印可芋などの芋類)の増加や新田開発に平行して、飽和した人口問題の抜本的解消としてさらなる移民を奨励する。その場所には、彼が大幅な領土拡張に成功した蓬莱大陸中西部があてられた。幕府は、各種麦や蓬莱黍が栽培可能な当地でなら、如何なる身分の者であっても一家族当たり百町(約100ヘクタール)の土地を自ら開拓すれば自由に与えるとして日本人の移民熱を煽った。放牧地や牧場ならその十倍の面積が当時は確約された。
 しかも1733年に、大規模な飢饉となる「享保の飢饉」が西日本を中心にして発生した。既に移民体制が準備がされていたため、約十年間で100万人以上の日本人が海を渡って新大陸の地を踏むこととなる。国内の飢饉も、備蓄食糧の活用と国内の流通網の充実と新大陸からの輸入措置などもあって、最低限の痛手で切り抜けることができた。
 また経済面では、国内貨幣の完全改鋳を実行した。
 欧米と同じ比率の貨幣へ完全に切り替え、なおかつ新たな鉱山開発によって流通量自体も増加させた。それまで複雑だった兌換を簡便なものとすると同時に流通量も増やして、貿易促進にまでつなげていた。
 そして将軍になる前の加州で行っていたような殖産興業も日本国内で奨励する。特に、日本の輸出品目を増やすことにも努力が傾けられた。また海外植民地では、綿花、砂糖の栽培努力が行われ、南方と乾燥地域での開発促進と並行して輸入による金銀流出を防いだ。17世紀中頃からの木綿、砂糖の二品目の拡大は異常なほどで、東インドや呂宋には、瞬く間にサトウキビの単品農場が増えていった。また珈琲豆栽培も盛んになり、そうして自前で作られた南方の物産が日本列島へと注ぎ込まれるようになった。
 こうして日本では砂糖が大量に流通するようになり、日本人のカロリー摂取量は大幅に増加すると共に、日本人の料理や味覚にも大きな変化を与えるようになる。抹茶、珈琲の大量普及も、砂糖あったればこそだった。
 一方、幕府成立以前からの懸案だった絹に関しても、明清革命時の中華地域からの技術奪取と国内での品種改良や生産努力によって高級な品が多数生産されるようになり、国内流通をまかなうばかりか日本の主力輸出商品となるまでの躍進を遂げるようになっていた。17世紀半ばに飛躍的な向上を見せた日本製陶磁器も世界中で流通していた。

 そして信宗は、殖産興業による財政の健全化を待って、軍備の建て直しに着手した。
 これはアン女王戦争への介入時に、日本軍の用いている軍事力が欧米の最先端に比べて見劣りが見られていた事が原因だった。見た目はそれほど違わないオランダ系のガレオン戦列艦やマスケット銃だったが、性能は戦争ばかりしているヨーロッパ列強に対して見劣りするようになっていた。
 またヨーロッパは大砲の砲弾に炸裂団を使用するようになっており、この点での劣勢も目立った。
 そして特に問題とされたのが、兵器ではなく軍制だった。
 新たな軍制研究のため、幕府はヨーロッパ各地に相手国に大金を積み上げて軍事視察団を派遣。ヨーロッパの最新情報入手を熱心に行った。そしてこの時注目されたのが、プロイセン王国だった。
 当時のプロイセンでは、兵隊王との異名を持ったフリードリヒ・ヴィルヘルム一世の治世下にあった。
 彼はその異名に恥じず自国の軍隊の強化に明け暮れ、後のプロイセンの地盤を確固たるものとした。それを可能としたのが、彼が作り上げた斬新な軍制とユンカー(豪族・貴族)の改革だった。しかし彼の作り上げた軍制は、厳しい訓練と軍律があって初めて達成可能なものであり、また多数の兵士を必要とするため導入することは当初躊躇された。しかし信長公の再来と言われた信宗は導入を断行。軍事費も再び増額させて、それまでの日本の軍事事情を大きく変化させてしまう。
 しかし当時既に多くが文官官僚化していた武士階級だけでは、彼の求めたフリードリヒ型軍隊の編成は困難だった。また当時海外で多用されていた、訓練度の低い志願兵や傭兵を中心とした軍隊だとさらに難しかった。この辺りの事情は、かつてイスパニアがテルシオにこだわった理由と同じものが横たわっていた。大規模な改革と革新なくして、躍進を続ける国家など存在しないのだ。
 一方では、ヨーロッパ最先端の思想だった啓蒙思想も視察団によって持ち帰られ、その和訳と研究が幕府学問所で行われるようになった。幕府の将軍家制度や儒学に似たところもあるが、何かの参考になるだろうと考えられた。この時期には、西洋から様々なものや学問、科学的成果が即物的に取り入れられており、啓蒙思想もその一つに過ぎなかった。
 そして肝心の軍制の方だが、多くの困難が伴った。何より、武士に変わって平民から志願によらない徴兵を行うというヨーロッパ式の兵制を取るという事は、武士を中心とした日本の疑似封建制度そのものの自壊を意味した。
 そこで考え出されたのが、それまで志願だった武士の次男坊三男坊に対する国家規模での徴兵だった。これを武士法度の改定によって行った。当時約200万人いた武士階級のうち徴兵可能な成年男子の数は、おおよそ一割の20万人。うち半数は事実上の世襲官僚と一家の長男であるため、残り10万人が徴兵対象となった。また、禄を得ていない武士、いわゆる浪人の数も武士の人口増加と長子相続の法の影響で、依然として10万人以上存在していた。彼らのうち徴兵適齢者を、傭兵ではなく徴兵として幕府(国家)が長期雇用する事で兵士を確保すると同時に、彼らの生活と社会の治安双方の安定化も期待された。軍制改革には、そうした武士の雇用による社会の安定化向上も期待されていたのだ。
 一方で上級武士や大名家に連なる者には、高等教育を行うことでヨーロッパ同様に制度面で「頭」や「大将」後の「士官」や「将校」となる道が開かれた。兵士に対しても、給与などの待遇がそれまでより大きく改善された。職業軍人の再編成が目的だったのだから、軍人を家業とさせるには当然の措置だった。
 しかし武士の軟弱化は予想以上に進んでおり、徴兵逃れする武士は後を絶たなかった。仕方なく、植民地に限り身分を問わず志願兵を募集する事になった。これはそれまで浪人以外で傭兵だった者も含まれていたため、根本的な解決にはならなかった。また植民地に軍事知識を持った者が増えることは好ましくなかったが、ヨーロッパ勢力、特にブリテンとの対立が激しさを増しているため、海外での戦力増強は急務であったため容認された。
 しかしそれでも常時10万人以上の常備軍が前線で用意されるようになり、うち半数近い数が常時維持されて厳しい訓練を施され、各地の戦乱や反乱に投入されることになる。また部隊の単位も、ヨーロッパ最新の軍制を取り入れて中隊、大隊、連隊を基本とするようになり、合理的な編成へと衣替えしている。むろん歩兵、騎兵、砲兵による三兵編成も武器共々最新のものが取り入れられた。
 日本版プロイセン型軍隊の完成だった。
 そして彼らは、その精鋭度合いと装備から諸外国からは日本軍の近衛隊と見られ、実際日本側も織田の幟(旗)を掲げることは大きな名誉だと考えられるようになった。衣装も黒一色の制服に白いアクセントを入れた胸甲を加えた姿に揃えられ、黒衣の軍団として恐れられるようになる。なお、服装にも欧州の合理的な面が取り入れられ、以後日本各地でも洋服として普及するようになる。
 そして軍役を化せられていた諸藩(十万石以上が対象)も、これを見て自らの軍制改革に着手していく。これらを合計すると、常時十万人以上の常備軍が活動するようになり、同時期に増産されたガレオン戦列艦艦隊(織田水軍)を合わせると、日本の軍事力は技術、制度面で大きく持ち直す事になった。
 しかし信宗が改革した軍隊が、大挙どこかに投入されるという事態は彼の治世の間には遂に発生しなかった。この点は、手本とした兵隊王フリードリヒ一世と似ている。
 信宗が唯一力を入れた軍事的行動は、当時インド洋で激増していた白人海賊(私掠船は別)の討伐だった。これに関しては全く手抜きする事はなく、遠くカリブ海まで追いかけることもあったほどだった。
 また将軍就任前に世界各地を転戦して覇王信長の再来とすら言われたが、将軍職の間は政治に没頭した。その後晩年まで前線に立つことはなかったし、日本が大規模な戦争を行うこともなかった。信宗は、若い頃の経験と将軍職の親政の上下双方からの視点から、戦争がいかに経費のかかるものかを実感したからだと言われている。

 一方では、新たな入植地の開発や新天地の開発、地球規模での探索、後に「環状航路(アーシアン・リング)の形成」と言われる行動を熱心に行った。
 彼のこうした姿勢は、若い頃世界各地に赴いた事が影響していると言われ、信宗の蓬莱奉行(総督)時代(1701年〜1714年)に早くも行われていた。
 蓬莱奉行時代は、自らの拠点だった新大陸西海岸から、世界各地に調査船団を派遣させた。最も大規模な船団は、事実上の世界一周の航海を企図した規模で送り出された。
 遠山船長に率いられた「環状船団」と言われた4隻の高性能帆船の群は、信宗に見送られながら多天使市を出発。一路進路を南東にとって、一気に新大陸を南下。まずはマゼランの通った二つの大洋の境界を目指した。
 その間、南アメリカ大陸の北端部に文明人がいない事を確認して、各地に日本の標識を設置した。
 そして、かつてマゼランが通った海峡を経て大西洋に入り、大西洋南端部の島々を「発見」して、ことごとくに日本の標識を立てていった。その後環状船団は、アフリカ大陸南端のネーデルランド領ケープにたどり着き、現地で費用を払って補給と修理を実施。
 その後さらにインド洋に入り、さらに幾つかの小さな島々を発見した後に、若干アフリカ大陸寄りに戻ってマダガスカル島に到達。文明人(白人)の足跡がなければ、ことあるごとに標識を立てて立ち去った。そして船団は、足かけ3年の大航海の末に、南天大陸を経て多天使市へと帰還した。
 こうした冒険的な行いは、かつて織田信長が行わせた以外では日本であまり見られず、この航海に参加した日本人達は大きな栄誉を以て報いられることになる。また行われたのが新進の気風に富む新大陸だった事も、新天地開拓に対する称賛を大きくさせた。
 そして大航海は蓬莱奉行時代にもう一度行われ、南米南端部とその西方にある島々(後の箸土諸島)、さらにはマダガスカル島では、補給と防衛のための拠点(砦)と小規模な入植地までが建設された。
 加えて、ブリテンのクックに先立つ事半世紀以上早い南半球の詳細な探索のおかげで、日本人が大きな優位を獲得する布石ともなった。

 その後将軍に就いた信宗は、しばらくは内政改革に従事したが、国内の血の気の多い者に押される形で、かつて行った世界中の調査と新天地開拓を再開する。今度の探査は、戦争の代わりという側面も持っていた。実際各地では、イングランドやネーデルランドと小規模な戦闘が何度も行われ、海賊や私掠船を排除するだけでなく、相手の拠点を破壊して乗っ取った例もあり、強引に新たな土地と勢力圏を手に入れていった。
 こうして1720年代半ばから30年代にかけて、国内での移民事業と並行する形で、世界各地の詳細な調査と日本人の新たな入植地が開かれていった。
 この結果、マダガスカル島と周辺島嶼、大西洋南端の幾つかの島々はヨーロッパでも日本人のテリトリーと認識されるようになった。ヨーロッパの国々としては、自分たちが先に手を付けた島や土地もあったのだが、相手との数の差が違いすぎて、まともな勝負にならなかった。海賊多数を煽ってけしかけてもみたが、多少損害を与えただけで海賊は殺されるか逃げ散ってしまった。
 それに日本人と争わないのであれば、日本人がせっせと開発を進めて拠点を立派にしてくれる方が、交易や移動の面では利益も多かった。取りあえず日本人は、文明人だったからだ。このためブリテン以外とは、後の交渉で日本の勢力圏を確定する事ができた。
 ただし、相応に問題が発生した地域もあった。南アメリカ大陸南部の日本人入植地だった。
 古くからイスパニアは、南緯40度あたりまでを自らの海外領土であるノヴァ・イスパニアに含めていた。それより南は不毛なステップやリアス式海岸と山ばかりで、開拓する価値が低かった。しかも現地の居住者と移民が少ないので、開拓する必要すらなかった。せいぜいがマゼラン海峡の辺りに小さな拠点を置く程度だった。この地域を、現地イスパニア人はパタゴニアと読んだ。
 そしてこの地域を無人地帯と判断した日本側が、太平洋側、大西洋側の双方に入植地を建設して、海峡の別の場所に拠点まで構えてしまったのだ。太平洋側は氷、大西洋側は嵐と乾燥という厳しい気象条件だったが、パタゴニアの一部では灌漑農業による耕作が早くも開始され、ステップでの放牧、太平洋岸での林業、各地での漁業など産業が次々に勃興していた。日本列島で日本人が溢れ始めていた時期だったため、貧しい土地であったが入植と人口の拡大は、イスパニア人に比べると急速だった。地の果てだろうと、取りあえず船で行ける場所だった事も、日本人の入植を可能とした。
 そして一旦入植地と拠点を作ってしまうと、今更日本も引き下がるわけにもいかず、国力の低下が止まらないイスパニア側も徐々に脅威と認識するようになった。もっとも、日本、イスパニア双方共にこんな僻地で戦争する気は更々なく、交渉によって物事の解決を図った。
 その後は何度も領土交渉と境界線の確定、さらには相互不可侵や協商条約の締結までが行われるようになり、次第に共存が進んでいくようになる。
 そして日本の入植地はイスパニア語の現地名を和名化した『大足地方』と呼ばれ、各地の地名には厳しい自然を表す氷や嵐を含んだ名前が並んだ。
 一方日本人は、白人の植民地や入植地にも交易目的で積極的に訪れ、各地の地理と物産を確かめた。日本人がアフリカ大陸深くに初めて入ったのも、この頃になる。また、日本人が世界の地形を詳しく知ったのもこの頃からになる。
 なお信綱の時代に行われた、世界中の珍獣、希獣を求めた奇妙な探索航海の記録もこの時期に大いに役立てられ、世界の僻地や離島を日本領とする大きな布石となっている。何しろ捕まえた動物を日本で飼育するためには、現地の気候風土を知らねばならず、半ば無尽蔵に資料が残されていたからだ。

 そうして様々な改革を行ってきた信宗だったが、治世の末期になると宰相としての関白職を復活させた。政治の実権を徐々に元の関白の元に戻して、余命まだ残る1745年に将軍職を返上して隠居。信長と同じように、自らの子孫も実力によって親政を行う道筋に戻そうとした。
 そして彼の在職中、織田幕府はある程度の建て直しが図られたが、彼の行った親政が後の政治の混乱をもたらすことにもなる。


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