●連戦

 1740年、オーストリアではマリア・テレジアが帝冠を戴くが、これを不服としたヨーロッパ列強がオーストリアとの戦端を開く。1748年まで続いた「オーストリア継承戦争」の発生だ。連動して北米東岸でもブリテンとフランスの戦争があったが、日本はヨーロッパ情勢とは関係なかったし、どちらにも介入する事もなかった。距離や外交関係の問題もあったが、いまだ将軍職にあった織田信宗が無駄な戦だと断じて、戦争への介入を許さなかったからだ。
 だが次の将軍は違っていた。
 織田信宗が死去し、次の七代将軍となった織田信重は、『戦将軍』と言われたように父信宗の見た目の派手さだけをまねようと、関白への「親言」を始め政治の各所に口を挟む。またムガール帝室との混血児であり、さらに新大陸生まれであった事が、過剰とも言える政治的行動を彼の内心で助長させたとも言われている。
 そして関白以下幕府側も、先代が「大将軍」と言われたほど偉大であったため次の将軍の言葉を無下にもできずに、その言葉に流されてしまう。それに官僚武士達も、せっかく新しい軍隊が揃ったのに何もしない事にフラストレーションを高めてもいた。
 そして派手好きの信重が好んだのが、ヨーロッパとの対決による日本の勢力圏の積極的拡大だった。特に彼の行動は、信宗が死去した1751年以後強くなり、1756年から63年のヨーロッパでの「七年戦争」、1755年から1763年の新大陸での「フレンチ・インディアン戦争」、同時期のインドでの「カーナティック戦争」という、「第二次英仏百年戦争」の主要な戦いに介入していく事になる。
 しかも先代のおかげで財政も軍隊も健全な状態で揃い、彼自身の戦略的指導も正しかったので、表面上は大きな成功を収めることになった。また皮肉にも、結果的ではあるが最もヨーロッパ政治に楔を打ち込んだ将軍ともなった。
 加えて、以後日本がヨーロッパ諸国と深く関わらねばならない分岐点になったとも言われており、織田信重の与えた影響は大きい。
 そして歴史家の間では、本当の第一次世界大戦だと評価される事もある、「七年戦争」が始まる。日本もヨーロッパ情勢はともかく、新大陸とインドでの騒乱に積極的な介入を行っていった。
 数々の戦争は、プロイセンのフリードリヒ二世による先制攻撃で開始され、その前年からくすぶり続けていたブリテンとフランスは新大陸で戦争状態に突入した。インドでも戦端が開かれた。
 しかもこの戦争は、ブリテンがオーストリアからプロイセンに同盟相手を切り替え、長年対立のあったフランスとオーストリアが同盟を結ぶという、それまでの外交常識を覆す事件が連続したため、日本外交が入り込む隙間が広く開かれていた。

 当時日本は蓬莱大陸(新大陸)主要部のうち、西海岸一帯から始まって新大陸ではハドソン湾、五大湖西部、リオグランデ川以北までを勢力下に置いていた。土地面積的には、既に北の新大陸で一番の勢力だった。西海岸の加州を中心に、日系の人口だけで700万人を数えていた。この数字は、ブリテン十三植民地の二倍以上に相当する。他の人種を加えた総人口だと、1000万人以上に達していた。中部平原の人口希薄さと先住民との衝突を差し引いても、新大陸制覇に最も優位な位置にあると考えられていた。日本本国も、信宗の蓬莱総督時代の頃から積極的な開発を進めるようになり、継続して大きな努力を新大陸に注いでいた。領土拡張もさることながら、日本列島内の人口増加問題を決定的に解決できる場所が新大陸であったからだ。しかも17世紀後半ぐらいから日本列島は人口飽和状態にあり、移民と言えば聞こえが良いが、要するに人を捨てる場所としての新大陸開発に熱心になっていた。
 またフランスは、テル・ヌーヴ(ニュー・ファンドランド)、アカディア、ケベックなどカナダ各地の多くを確保していた。加えて、ルイジアナと呼ばれる広大なミシシッピ川流域の領有を認められていた。実際はカナダ方面以外の一部以外でフランス人人口は希薄だったが、一応はそう言うことになっていた。
 一方新大陸でフランスと日本の敵となったブリテンは、1733年にジョージア植民地として十三植民地を形成した。しかし東部沿岸に限られており、面積は他の二国に比べて比較にならないほど小さかった。
 そして現地では、フランス軍とブリテンの入植者の小競り合いから戦争に発展する。この時期の戦争の発端そのものが、新大陸での戦いが切っ掛けだった。
 この時幕府は、自領域への波及を警戒して現地の陸上兵力を増強すると共に、メキシコ湾、ハドソン湾の双方への艦隊派遣を決定した。また五大湖西部の移民に対しては、援助を送って民兵の編成を行わせた。
 この時点で七年戦争が発生し、フランスが日本へ同盟を打診した。フランスは、新大陸の日本人にはカトリック教徒がそれなりの人口を占めており、戦争を新大陸でのカトリック防衛戦争だと定義して有色人種との同盟を肯定したのだ。無論敵は、プロテスタントのブリテンとプロイセンだ。
 そしてブリテン本国からの増援より早く、1757年になると十数隻の幕府ガレオン戦列艦が新大陸の大西洋側に到着する。また陸上では、大蓬莱山脈を越えた西海岸からの兵力と、日本本国からの傭兵団がフランス領内に派兵され、ブリテン軍と各地で戦闘を行った。既に大蓬莱山脈には、西海岸から中西部に至る大きな街道がいくつも整備されていたため、文物の移動もそれなりに可能となっていた。
 この結果、ボストン沖海戦でブリテン海軍はほぼ日本艦隊単独に対して敗北した。ブリテン海軍は精鋭だったが、数の違いは如何ともし難かった。1760年のサラトガの戦いでは、日本・フランス連合軍とブリテン・植民地軍が激突して激しい戦闘となり、戦闘に決着は付かなかったがブリテンの浸透と増長は完全に停止した。
 これで新大陸でのミリタリーバランス(軍事均衡)は、完全に仏日軍優位となった。 しかも植民地戦争に力を入れたブリテンが、プロイセンへの支援を大幅に減らすなどの効果も出ており、新大陸での戦いは戦争全体に大きな影響を与えることになる。
 しかし長引く戦争のため、大軍を派遣した日本軍も補給難と戦費不足に陥り、決定的な勝利と戦果を得ることはできなかった。ブリテンの十三植民地は保持され、そればかりかフランスはアパラチア西部地域にまで侵攻を許すことになった。
 この結果1763年のパリ会議(パリ条約)では、新大陸ではフランスの覇権が後退した。フランスは、同盟国だった日本へ報償という形でルイジアナのミシシッピ川以西と五大湖主要部を譲渡(西ルイジアナ譲渡)し、ミシシッピ川以西からアパラチア山脈にかけての地域は何とか保持した。またカナダは主に日本傭兵の手によって守られたが、西ルイジアナと引き替えにカナダ領域の保持に成功した形となった。
 そしてその後の新大陸情勢は、東部を中心に移っていく。ブリテン十三植民地はブリテン本国の重税に苦しむも、フランスのカナダ、日本の蓬莱州という潜在敵がすぐ側にあるため、ブリテン本国の庇護を必要とした。重税や圧政に対する独立に向けた動きもあったが、当面の脅威がそれを上回っていた。日本の蓬莱州とは、当時のアングロ系プロテスタントにとって、有色人種にして一部がカトリックという悪魔のような存在だったからだ。しかもブリテン本国に匹敵する強大な軍事力を持っているとなれば尚更だろう。フランスの心理面での脅威については、今更語るまでもないだろう。ブリテンにとってフランスは宿敵だった。
 だがフランスは新大陸での勢力減退が止まらず、新大陸で最も力を得た日本の後ろ盾を必要とした。
 そして日本の勢力拡大は進み、ミシシッピ川河口の新折鶴(ヌーヴェル・オルレアン=ニューオーリンズ)市への艦隊常駐という形で、新大陸での覇権を強めるようになる。これ以後はメキシコ湾だけでなく、カリブ海、大西洋にも頻繁に姿を現すようにもなった。
 しかし、日本が自らが優位となった新多陸での覇権確立を進めたのには理由があった。インド情勢だ。

 インドでは、1744年から何度もカーナティック戦争が発生し、以後断続的にブリテンとフランスの戦闘状態が続いていた。
 当時日本は、インドに直接の植民都市などは保有していなかったが、マラッカ海峡を起点としてオランダ領のセイロンでは港の使用料を払ってインド貿易を行っていた。ポルトガルが持っていた港(港町)も使った。ムガール帝国とも一定の国交を保っていたため、ムガールが持つ港でもそれなりの貿易が行われていた。しかし強引な進出は行われなかった。
 日本にとってのインド貿易とは、その程度で十分だったからだ。事実、お茶は自前で栽培しているし木綿も熱狂するほどは不要で、香辛料の需要は低くかった。逆に日本からの輸出品も、ある程度の量の加工製品や武器が輸出されている程度だった。正直、日本のインドへの関心はかなり低いのが実状だった。
 故に現地での対立と争いは、ヨーロッパ勢力同士の争いであり、既にネーデルランドが脱落したため、ブリテンととフランスとの争いだった。だがそれでも日本を好ましく思わない者も多く、日本とブリテンやフランスとの対立が発生した。だがフランスとは新大陸での関係が強まったため、主にブリテンと対立した。そして、そのままフランスに荷担する形で、戦闘に介入していくことになる。
 インドでは、当初フランスが優位に戦況を運んだ。日本軍が資金を負担したという形の奇妙な日本軍傭兵の活躍もあって、第二次カーナティック戦争までは完全にフランス優位であった。しかしそこで日本は、フランスがインド情勢で優位になりすぎることを危惧する。またネーデルランドも同様であり、そこで日本は自国の財政状況を理由に傭兵を撤退させる。
 以後の戦闘は、純粋にフランスとブリテンのものとなった。そして1757年の「プラッシーの戦い」でフランスは敗北。一度の敗北で、インドから叩き出されてしまう。
 日本としては、こんなに簡単に決着が付くとは思わなかったが、全ては後の祭りだった。そこでセイロンでの足場を強化しようと画策するが、今度はネーデルランドが干渉だとして日本に反発。結局日本は、政府単位での介入する事が難しくなってしまう。
 しかしムガール帝室の血を引く織田信重は、インドへの介入に積極的だったと言われ、実際第二次カーナティック戦争までは彼の言葉によって日本はかなりの介入を行っていた。だがここでインド側(ムガール帝国ではなくマラータ同盟)から日本の干渉だとされ、信重もインド侵略のための日本の傀儡王だと強く非難されて士気を失ってしまう。この信重の落胆が、インドからの日本の事実上の全面撤退を促したと言われている。ヨーロッパ情勢ではなく、彼の感情が歴史を動かしてしまったのだ。
 またインドでの勝ちに乗ったブリテンは、東インドやマラッカの日本軍を攻撃し、こちらの防衛を優先するため日本はインドへの介入能力を失ったという面も無視できない。何しろ当時の日本軍主力は新大陸に展開していたからだ。

 そしてヨーロッパ勢力にとって本命の「七年戦争」だが、こちらも新大陸やインドでの情勢が戦局を動かすことになる。
 戦闘は、優れた軍制と極端な徴兵を実現したプロイセンのフリードリヒ二世(大王)の戦術的優位に進んでいた。だが、余りにも多数の敵を抱えているため、プロイセンの戦いはじり貧となっていく。主な敵だけで、オーストリア、フランス、ロシア、スウェーデン、ドイツ諸侯とあり、400万対8000万と言う圧倒的な総人口差を考えれば当然の結果だった。また味方はブリテンだったが、ブリテンはフランスと日本に対処するため植民地での戦争に積極的だった。このため必要な援助や援軍をプロイセンに十分与える事はなく、プロイセンは自らの決定的敗北もあって窮地に陥る。
 しかしブランデンブルクの奇跡と呼ばれる列強による己の利益だけを求めた一連の行動や、1763年1月ロシアのエリザヴェータ女帝急死によってその窮地を脱し、以後各国は戦争終結のための行動を急速に開始する。
 そして1763年2月10日、ブリテン、フランス、日本の間で「パリ条約」が締結された。加えて2月15日には、プロイセン、オーストリア、ザクセンが「フベルトゥスブルク条約」を締結して七年戦争は終結した。
 この戦争により、ブリテンはインドでの覇権を確かなものとするが、新大陸では劣勢となった。フランスはインドを失うが新大陸ではブリテンと同等以上の足場を保持して、国の体面と市場、そして制海権を守ることに成功した。プロイセンは戦術的勝利の連続と半ば偶然の戦略的勝利で、中部ヨーロッパの大国として浮上した。ロシアでは新皇帝に対する不審を原因として政変が発生して、エカテリーナが戴冠する。
 そして有色人種唯一の列強だった日本は、新大陸で多くの利権を獲得した。東アジアの利権を守ることにも成功して、これからのヨーロッパ列強にとっての手強いゲームプレイヤーだと強く認識されるようになる。
 そして以後日本は、四半世紀近くの拡大主義と重商主義路線に傾倒し、以後半世紀ほどの間は日本の黄金期と言われる事もある。

 なお、日本の役人や外交担当者がヨーロッパに交渉などで赴くようになったのはこの頃からであり、国際会議の多いパリなどではチョンマゲ姿のサムライの姿が散見されるようになる。ヨーロッパに住む日本人が現れ始めたのもこの頃からだ。加えて、フランスや新大陸を中心に日本文化が広く知られるようになったのも、この頃が本格的な始まりとなっている。前後して、フランスのパリ、オランダのアムステルダム、イタリアのヴェネツィア、オスマン朝のイスタンブールには、日本人街も形成されるようになった。逆に、日本を訪れる外国人が増えたのもこの頃からとなっている。
 世界規模の戦争が、日本の国際化を促進したのだった。


●幕府の消耗と移民拡大