●蓬莱独立と織田幕府崩壊

 1833年の飢饉を発端として、織田幕府の急速な崩壊が始まった。終わりの始まりである。もしくは肯定的に、新たな始まりへの胎動というべきかもしれない。
 そうした神の視点からはともかく、1833年以後日本列島と日本の植民地、勢力圏は大きな政治的混乱が発生した。織田幕府は、国家として体制が未熟なまま異常なほどに膨張していたために、崩壊は急速だった。一度体制が破綻すると、自らのあまりにも巨体のために旧来の体制では立て直しができないまま自重により倒れてしまったのだ。後にこれを「巨木的崩壊」と言う事もある。巨木が老木と化すと、ある時自重で一気に倒れていく事に由来する。
 この事例を歴史上で探すならば、アレキサンダー没後のマケドニア帝国、モンゴル帝国など短期間で膨張した巨大国家が当てはまるかも知れない。

 物質的に豊かになっていた日本列島の民衆は、混乱を招いた幕府の無策を非難し、世界各地の植民地は本国の横暴を糾弾した。そして植民地で最も強い勢力を誇っていた蓬莱州と日本本国の間で、さらなる問題が発生する。
 当時太平洋は、照明や潤滑油、工業油として多用されていた鯨油確保のため、日本人による巨大な鯨の生け簀と化していた。この流れは産業革命の進展と都市の発達に伴い激化した。太平洋の開発が本格的に進んだのも、19世紀半ばぐらいからになる。
 しかし植民地の蓬莱西海岸系が順調に勢力を伸ばしており、日本本土近海の漁場にすら頻繁に現れていた。しかし今回の騒動で、本土幕府はこの捕鯨船に対する補給金高騰などを表面的理由として、大幅に税金を上昇させた。当然鯨油の高騰が発生して、蓬莱州だけでなく日本の勢力圏全てで一斉に反発が強まった。何しろ当時の鯨油は、照明と多くの油製品と照明に欠かすことの出来ない戦略性すら持つ重要な工業原材料だったからだ。日本と蓬莱州が鯨油生産を世界的に牛耳っていた事もあって、ヨーロッパ列強からすら反発があった。何しろ蓬莱は大西洋の半分も自らの勢力圏としていた。そして日本人が使う世界各地の拠点のほとんどは、幕府の有する所だった。
 蓬莱での反発は、簡単に暴動に発展した。
 今までの幕府の増税や横暴も積み重なっていた末での今回の騒動のため、野火が広がるよりも早く、蓬莱州全土に暴動と反幕府運動が広がっていった。
 早々に蓬莱州の駐留幕府軍は鎮圧に乗り出すが、これがかえって現地住民の反発を呼び込んだ。一方では、国民国家や自由主義を奉じる人々が各地で活発な政治活動を行い、くすぶり続けていた独立へと進路が大きく傾いた。現地日本人と折り合いを付けていた先民達も、そのほとんどが反幕府側に付いた。幕府軍に属していた傭兵としての先民達は、幕府軍鎮台から消えていった。中には完全武装のスー族の騎兵大隊が消えた例すらあった。
 蓬莱の政治、経済の中心地であった聖府や多天使市では早くも「独立議会」が開催され、日本からの独立が多数の意見を占めるようになった。先民が多く住む鹿後市では、周辺に拠点を持つ先民達の部族決起集会までが行われた。
 今まで積もり積もった不満が大きかっただけに、蓬莱州全土での反動と革命や独立に対する動きは急速だった。
 当然幕府は蓬莱の独立や自立に向けた動きを阻止しようと動き、自らの財政状態を無視して派兵するが、今度はブリテンが蓬莱の独立を認めると政治干渉を実施した。完全な意趣替えしだった。
 ブリテンは、新大陸のアメリカ合衆国も蓬莱の独立を認めると声明を発表し、あからさまな援助までも実施した。日本と関係の深いカナダは局外中立を宣言するも、水面下では蓬莱の国民国家主義者や自由主義者を支援した。何しろフランス系の彼らは、最初に近代市民革命を成し遂げた事に強い自負心を持っていた。
 そして蓬莱の日本人達や先民達も独立に向けた動きを急速に加速させ、独立運動家達を民衆が圧倒的に支持した。現地で徴兵されていた兵士達の日本からの離反と独立勢力への合流も相次ぎ、現地蓬莱奉行は単独では暴動や独立運動鎮圧どころか、治安維持すらままならなくなった。
 そこで幕府は、日本本土から大軍を派遣する事を決意。自らの財政も省みず大遠征部隊を編成。これに対して新大陸では、1835年4月、聖府市で「蓬莱連合共和国」の独立宣言を発表。日本に対する独立戦争へと発展する。
 ただし蓬莱には、独立に際して欠けているものがあった。領域だけでなく産業も人口も並の大国より既に巨大だったが、日本の植民地だったため自らの「お金」、つまり「通貨」を持っていなかった。そして「お金」、軍資金がなければ独立戦争を戦うことはできず、国家としての通貨が無ければ独立そのものまでが難しかった。しかも今まで蓬莱で採掘された金や銀などの価値の高い貴金属は、掘られる側から日本列島に注がれ、蓬莱の人々そのものが開拓民で貧しいため、金や銀といった即物的な「お金」に乏しかった。
 そこで蓬莱の人々は、独立宣言とほぼ同時に自らの通貨を設定した。
 単位は「円」とされ、日本の「両」との兌換性は当面なく、自らの土地から産する鉱産資源や農作物ばかりでなく、自らの国家と国土そのものを担保とした信用貨幣として発行した。そして蓬莱の独立に賭けた側は、蓬莱を独立させるために蓬莱の債権を蓬莱の貨幣で買わねばならず、「円」は日本以外の諸外国に認められる形で新たな国の新たな通貨となった。むろん債権や通貨を買った列強は、独立後の蓬莱内での利権を要求するが、結局それが得られることはなかった。なぜなら蓬莱政府は、単に国家の債権としてそれぞれの国に持たせる以上のことをさせなかった。
 そして軍資金を得た蓬莱は、民兵を組織して独立戦争を開始する。

 戦争は主に最も人口の過密な西海岸と、幕府軍の駐留していたメヒコ湾沿岸、ミシシッピ川流域、五大湖地域で断続的に行われた。
 戦況は当初蓬莱側が不利だったが、地の利と日本本国側の戦費の枯渇、蓬莱住民全てを挙げた膨大な数の民兵と、従来の戦術を覆す散兵戦術と遊撃戦術、各植民地の本国への不服従運動、さらには外国の干渉もあって、日本の幕府軍は太平洋にたたき落とされてしまう。特に幕府軍は、蓬莱独立軍が採った戦術に翻弄され、対応できないままに兵力と国力を消耗させていった。特に内陸部で補給もなく孤立した幕府軍は、先民民兵隊の餌食でしかなかった。
 また日本本国での大きな政治的変化により、幕府は新大陸での戦争どころでなくなっていた事も、幕府敗北の大きな原因となった。
 一方太平洋の制海権は、当初圧倒的海軍力を持つ幕府海軍の手にあった。だが、蓬莱側の海賊行為(通商破壊)に手を焼き、さらに軍を動かす為の予算不足と末端兵士のサボタージュによって身動きがとれなくなった。蓬莱から軍の維持費と兵士を得ていたのだから、半ば幕府側の自滅だった。しかも幕府海軍の一部は、事実上の裏切りによってそのまま蓬莱独立政府に帰属してしまっていた。中には艦隊ごと旗幟を変えてしまう剛毅な提督まで現れた。
 そしてこの時の戦闘の蓬莱側で活躍したのが、蒸気を動力としたごく少数の武装商船だった。風で港から動けない幕府艦隊の一つが、ジョリー・ロジャースの海賊旗を掲げたたった1隻の蓬莱側の武装商船によって焼き払われ全滅の憂き目を見てしまった事もあった。
 このことは長らく蓬莱内で秘密とされ、日本側は当事者以外のその理由を知ることはなかった。日本側も、余りにも無惨な惨敗を隠すため、長らく事実を公表することはなかった。このため蓬莱側には、秘密裏に建設された有力な艦隊が存在すると長らく誤解された。ヨーロッパ列強が蒸気船の威力を知るのは、もう数年を待たなければならなかった。
 そして新大陸で全てに敗北した大坂幕府が最後に出来た事は、追いつめられた本国軍を収容して日本へと帰らせることだけだった。降伏した幕府兵は、独立軍の監視の中自らの船へとすごすごと乗船していった。
 なお、「蓬莱連合共和国」は首都を櫻芽府改め東京府に置き、いくつもの自治国家(主に共和制国家)が連合した一種の連邦国家もしくは連合国家として成立した。
 国家元首は、独立戦争当初に「独立議会」が主導した事もあって、議長(統合議長)が国家最高責任者とされた。統合議長は他の共和制国家の大統領に当たる役職であり、扱いも同列とされている。
 なお初代統合議長には、古くから独立運動を行い独立戦争でも指導的地位を占めた二宮尊徳が就任した。
 そして蓬莱の独立は、1840年に日本側からも認められる。しかし認めたのは、織田幕府ではなかった。日本列島でも大きな政治的動きが起きていたからだ。

 蓬莱の独立によって、織田幕府の権威は地に落ちた。また日本本国の民衆も、封建時代、武士の時代、幕府の時代は終わるべきだと考え、国民国家建設のための革命への動きを加速した。これを蓬莱独立に伴う国内の食糧不足と物価高騰が、革命への動きを大きく後押しした。日本各地では、革命とは半ば関係のない食料を求めた行進や集会、打ち壊しなどが行われた。
 そして日本での本格的な騒乱は、蓬莱独立戦争中の1837年の「大塩平八郎の乱」によって開始される。
 数年前まで世界最大にして最高の繁栄を誇っていた大坂府内部で、反乱が発生した。最初は貧民が中心となった食料を求めた集会と行進に過ぎなかったが、方々から人々が集まって急速に規模が拡大していった。
 これを機会として、他国や蓬莱独立派から援助を受けていた大塩平八郎を中心とする者達が、貧民救済を旗印に幕府に反旗を翻した。しかし戦闘経験の少ない集団だったため、無秩序な戦闘と破壊が展開され、戦闘は無秩序に拡大して大規模な市街戦が展開された。その中で手の付けられない大規模な火災が起こって市街の約半分が焼失し、多くの富と建物、そして人命が失われた。天守閣と本丸御殿は決死の消火作業により残ったが、幕府の中央政府機能は半ば麻痺してしまう。大坂軍港や城壁の多くも焼失して石垣だけとなり、難攻不落と謳われた大坂の軍事能力の約七割が失われた。
 幸いにして大火災のおかげで反乱民のほとんどは逃げ散り、首謀者の大塩平八郎は乱戦の中で命を落とし、戦闘自体は数日で終息した。
 しかし幕府の権威は完全に失墜した。加えて中央統治機能が大きく低下した事は、致命的な損失となった。しかも日本本土の軍主力は蓬莱にあった。
 これを機に、日本列島各地の改革派諸侯が遂に奮起。特に大坂時代全般を通じて幕府から不遇の扱いを受けていた、外様諸侯の薩摩、芸州、土佐が反発した。
 親幕側の北陸や畿内の勢力は、この時代には能動的な行動力を物心両面から無くしていた。豊臣や徳川、明智、柴田、丹羽といった譜代中の譜代も、家としては保守的になりすぎており、個人として傑出した人物は当時は皆無となっていた。
 外様ながら親幕派だった奥州の伊達に至っては、事実上の本拠を新大陸に移してしまっており、実質的に蓬莱の巨大財閥にして名家のような扱いとなっていた。現伊達家などは巨大企業のオーナーとして蓬莱に君臨し、一族の多くが議員や軍人となっている。奥州など東国や北国の大名や武士には、このような例がかなり見られた。越後の上杉も大蝦夷開発に突き進んでしまい、既に大蝦夷一番の大領主でジュンガルからも首長一族として認められていた。他にも、幕府に忠実だった諸侯の多くが海外で活躍した後に現地で根付いてしまい、革命のあった頃に日本国内で幕府をもり立てようとする諸侯で実行力のあるのは、ごく僅かとなっていた。その織田幕府の中核となる織田家自身も、1837年に老齢だった織田信斉の死去で大きく混乱した。最後の将軍となった十代将軍織田慶信個人は英才を謳われるも、宗家出身でないという体たらくとなった。

 なお日本本土での混乱に際して、独立戦争中の蓬莱は日本の革命勢力の支持を発表した。互いに連携して、国民国家建設と新たな日本人社会の建設を呼びかけた。切支丹(日本カトリック)の多く住む南天は、他国からの干渉を警戒して静観を表明。それにつらなる形で朱雀列島も静観。他の自治政府を持つ地域も、自らの防衛体制を固めて次々に日和見を決め込んだ。
 そうした状況を踏まえて、無血革命派を中心とした倒幕運動(日本革命)が一気に推し進められる。
 一方ヨーロッパ列強は、突然のように日本本土でまきおこった革命と、新大陸での独立戦争を最大限に利用するべきだと考えた。また同時に、フランス革命同様に革命が自国に広まらないように徹底するべきだとの共通認識を持った。日本の混乱は、ウィーン体制の破綻と革命の波及を呼び込みかねず、あれ程強大に見えた織田幕府の弱体は裏切りにすら値した。
 かくして、ブリテンは東インド(インドネシア)、馬来(マレー半島先端部)で、ロシアはジュンガル汗国(中央アジア)、大蝦夷(ザシベリア)での干渉や浸透、場合によっては事実上の侵略を開始した。ブリテンもロシアも、表向きは幕府支持を表明して、日本での反動的革新勢力を幕府に協力して鎮圧するためと自らの軍事行動と侵略行為を肯定した。新大陸に対しては、日本の弱体のために欧州列強の多くが蓬莱の独立を援助した。フランス革命と全く変わらない動きだった。
 しkし外圧が加わると日本人全体に危機感が強まり、一日も早い強力な新政府の登場が望まれるようになった。新大陸での独立への動きも加速した。
 そして内乱は、諸外国にとって意外に早く沈静化した。
 京を中心に活動していた革命家達が、いち早く古代権力だった天皇と朝廷につながりを持つことに成功し、事実上の無血クーデターによって幕府の持つ権威の全てを強制的に剥奪。革命軍が立てた『錦の御旗』を見た幕府軍は、かつての南北朝の争いを思い出すかのように呆気なく士気が崩壊。ほとんど本格的戦闘もないまま、織田幕府は半ば自壊という形で瓦解してしまった。
 上辺だけの名誉(体面)を重んじる武士という存在、一千年以上続いた日本的権威のやり取りがもたらした、世界史上での珍事であった。名目権威の利用だけで戦争が終わるなど、ヨーロッパではあってはならないことだった。

 かくして1839年春、京都府を暫定首都として「日本帝国」の成立が宣言される。大坂幕府は、約250年の歴史に終止符を打つことになった。
 その後小規模の戦闘が継続されたが、順次沈静化した。一部の幕府軍と役人が抵抗を図るも、外郭地(植民地)の独立騒動と外圧による日本人全体の対外的な危機感を呼び覚まし、最終的には多くが新政府へと合流していく事になる。そして合流の過程で、武士階級は特権の多くを奪われるもそのまま新たな貴族階級としてある程度残される事になり、日本本土とそれ以外の地域での変化に違いを見せた。武士階級は多くが腐っていたが、持っている技術は棄てがたく、また革命に関係なく軍事の多くを担い続けていたからだった。
 そしてそれまで国を運営していた者達が新国家に賛同した事もあって、新たな国家体制は急速に固まっていった。
 なお新国家建設に際して遷都が行われ、新首都には大坂時代全般を通じて移民の出発点として発展した江戸府が選ばれた。首都名には新たな都として「新京府」の名が送られ、蓬莱連合首都の「東京府(旧名:櫻芽市)」と共に新たな日本の象徴となった。なお大坂が首都とされなかったのは、新国家建設後も権威や一部権利が残されたままとなった武士の影響力が強すぎると判断されたためであった。また江戸は移民の街であり、国民を実質的な国家の中心に据えた新たな国家の首都として相応しいと考えられたからでもあった。さらには、遷都に伴う内需拡大を考えていたからだと言われている。既に大坂は、巨大すぎた織田幕府によって開発し尽くされていた。そして新たな時代を切り開くために敢えて遷都したところに、日本人のアクティブ性を見ることができる。
 なお新たな日本の主権者は、国名が示すとおり新たな皇帝ともなる天皇にあるとされた。ただし、独立と同時に制定された日本国憲法においては、天皇は日本の君臨者であっても権力を持つ統治者とは定義されず、議会と憲法の存在によって事実上民衆こそが新たな日本の主権者となった。事実、議会選挙が独立すぐにも日本中で実施され、国民となった民衆は選挙と新たな日本の門出に熱狂した。
 つまり新生日本は、独立当初から立憲君主国家として出発することを示し、その時例とされたのが皮肉にも最大のライバルとされたブリテン連合王国の制度や体制であった。
 なお新生日本が国民を中心にした立憲君主国として出発することが分かると、日本の植民地や影響圏の多くが歓迎した。加えて一日も早い体制の確立と軍事力の再編成を行うように伝えた。
 新政府もこのことを十分に理解していたが、全ての動きが間に合ったわけではなかった。

 確かに革命期間はほぼ最短であり混乱も少なく、独立戦争に伴う国富の損失も最小限に抑えることができた。しかしそれよりも、ヨーロッパ列強の動きの方が少しばかり早かった。
 ブリテンは、マレー、アチェ方面の日本からの現住民の独立勢力(イスラム系のアチェ王国=当時は日本の事実上の衛星国状態だった)の支援を行うとして、現地を事実上占領した。当初は幕府を支持するとしていたが、統制の取れない幕府軍を蹴散らして海獅子島(シンガプーラ島)に新たな拠点を建設して、マレー半島先端部とスマトラ島の北半分を自らの勢力下においた。これは日本の新政府成立後にも既成事実的に国際上認められてしまい、日本人のブリテンに対する反感をいっそう強めさせるようになる。
 一方ユーラシア大陸では、ロシアがジュンガル汗国、さらには大蝦夷への影響力拡大と進出を強めていた。
 しかし日本の援助により国力と武力を強化されていたジュンガル汗国は、ロシア人一般が考えていたように容易には屈しなかった。武器の一部はコーカサス地域やオスマン朝トルコにも渡っていたため、ロシア人は同方面でも苦労していた。またジュンガルの政府中枢にも日本人顧問(幕府顧問)は多数入っており、ジュンガル側もナポレオン遠征時に醸成された親日感情を維持していたため、日本人との連携を強めてロシアに対処した。
 大蝦夷(ザシベリア)方面の日本軍も、各地の境界線や拠点をねばり強く守り続けた。なお日本独立後は、多数の失業武士が幕府の影響の強い大蝦夷に流れ、新政府も屯田兵として積極的に入植事業を行った。どん欲なロシア人に対しては、どれほど努力を行っても足りないと日本人は考えるようになっていたからだ。
 なおアジア北部及び中部での混乱を現地では『革命戦争』と呼んで、次第に両者の歩みが深まった。これが日露戦争を経て、新国家成立へと繋がっていく。
 そして少し後に、ユーラシア大陸北部は中央アジア、大蝦夷(ザシベリア)を領有する日本人を中心としたアジア系の北アジア諸民族連合とヨーロッパ系のロシア帝国の二分時代を迎える。なおこの時の混乱とロシアとの戦闘により、現地で生き残りを賭けた日本の武士達は、最大の拠点としていた東護市(ロシア名:オムスク)から果敢に出戦して、人口の希薄さから自然境界線とされていたウラル山脈前面までロシア人を押し戻した。そればかりか、さらに攻撃を続行してシベリア各地に強力な砦を築き、支配力を強固なものとした。屯田兵的な植民も、現地の努力によって積極的に行われる事となった。
 これで中央アジアと大蝦夷は流通網と経済面でも大きなつながりを作り上げることができ、後の新国家建設及び日本人の勢力圏拡大の大きな布石となった。
 もっとも大蝦夷地域全般では、様々なものと人口の不足からロシアよりも産業革命が遅れるほどで、常に技術を持つ日本人移民を求め、さらには日本など日系国家からの支援を必要とする劣位に甘んじなければならなかった。
 一方、蓬莱、大蝦夷以外の植民地だが、南天地域では国民国家に向けての動きである自由主義運動が、日本革命以後に盛んとなった。そして1848年のヨーロッパでの自由主義革命の伝搬によって、連鎖的に自由主義革命が発生した。そして日本政府と話し合いの末に、天皇を名目君主とする南天連邦共和国、朱雀列島共和国が成立するに至る。
 なお南天連邦は、北のパプワ島まで領有することに成功し、移民による人口拡大と華僑の帰化と取り込みに成功して、後に豊富な農作物や鉱産資源を武器に南半球の大国として振る舞うようになる。
 それ以外の呂宋、東インドは民度、産業発展度、人口など問題も多く、また大坂時代全般にわたって日本人の単品作物地(プランテーション)となったため、日本にそのまま従属せざるを得なかった。白人統治よりも、日本人統治の方がマシな事は、現地の人々も多少は理解していたからだ。マダガスカルや南アメリカ大陸南端の大足地方(大足州)と周辺の島々も、そのまま日本領として保持された。他の地域でも、一時的にブリテンなどが占領した事もあったが、日本本土が安定するに従って返却されていった。ブリテンも日本と本気の戦争まではする気がなかった。ヘタに色気を出せば、ロシア人の二の舞すらあり得るからだ。
 しかし、アジアで横暴な白人の代表に躍り出たブリテン連合王国は、マラッカ海峡を強引に得ると、そのままの勢いで中華大陸制覇に乗り出した。
 それなら日本人も文句は言わないからだ。


●中華混乱