●中華混乱

 ブリテン連合王国は、18世紀中頃から中華地域のお茶や陶磁器などを求めて清帝国と貿易していた。しかし日本とも陶磁器や加工製品、嗜好品の貿易を行った。さらに清帝国以外の東アジア全域が日本の勢力圏であるため、東アジアへの進出が純粋な商業面以外ではできなかった。一時は私掠船を使ってみたが、瞬く間に制圧されてしまった。
 しかし1830年代後半に日本革命に伴う混乱につけ込んで、マラッカ海峡とその周辺部を武力によって獲得し、一気に東アジア、チャイナへと踏み込んだ。そして特にチャイナへの進出が急がれた。そうするだけの理由が、ブリテン側にあったからだ。
 18世紀後半のブリテンの対清貿易は大きな赤字だった。当時お茶(紅茶)は、チャイナから手に入れるしかなかった。日本人達もお茶を日常的に飲んでいたが、彼らが好んだのは緑茶と抹茶だったからだ。そしてお茶の代価として、チャイナ世界で貨幣としての価値を持つ銀が大量に失われていった。
 この補填として始められたインド産阿片の密売に対して、19世紀になると清帝国が強力に摘発するようになった。阿片密売により清帝国は、通貨として使っていた貴重な銀(Ag)を急速に失い民を阿片まみれにされてしまったからだ。
 そして阿片の摘発と駆逐は清帝国として国家として当然の措置だったが、西欧から見て文明国ではない有色人種のすることは許し難い行為として、戦争が容認された。
 しかもおあつらえ向きな事に、アジア唯一の近代国家である日本は革命の余波で依然不安定で、日本革命の混乱によって日本領マカオ近辺での不安定度が増大していた。実際は、ガレオン戦列艦複数を擁する現地幕府艦隊が、一時的に新たな政府ができるまで帰属を明らかにしなかっただけなのだが、切っ掛けなどどうでもよかった。実際、巨大な軍事力が国の統制を離れた形式が整ったため、ヨーロッパ列挙の各国は非難して、清帝国に武装解除すら行わせようとした。混乱する日本と清が戦闘することは、ヨーロッパの利に叶っていたからだ。そして実際に、清帝国艦隊がマカオに派遣されると、現地日本艦隊との間で睨み合いとなり、現地での不安定さが増した。
 ここでヨーロッパ列強、特にブリテンは、現地の領民保護を理由に艦隊を派遣した。
 そして大艦隊を送り込んだブリテンは、強力な日本艦隊には目もくれずに、中華系海賊の征伐と称して活発に活動を開始した。前後して阿片密売と共に清帝国の警戒感が上昇していた事もあり、ちょっとした密売摘発事件を契機としてついに双方戦端を開くに至る。
 これが1840年に勃発した「アヘン戦争」であり、ヨーロッパ帝国主義の最たる例を示した例となった。

 戦闘は、当初は人口相応の大軍を要する清帝国に、ブリテンが手こずるだろうと考えられていた。
 しかし、既に蒸気船すら配備し始めていた当時世界最先端の工業力によって作られたブリテン海軍に、ジャンク型艦艇(中華風帆船・大砲も装備している)しか保有しない清帝国海軍は為す術もなかった。特に風に関係なく自由自在に動く蒸気軍艦には手も足も出なかった。恐らくアジア・太平洋最強を自認していた日本海軍(幕府海軍)ですら、苦戦もしくは敗北を余儀なくされたであろう。先進列強の間でも、蒸気船は貴重な存在だったからだ。
 しかし陸上で清国軍がそれなりに善戦したため戦闘は終息し、ブリテン艦隊が揚子江地域に前進した事で清帝国は講和に同意した。そのまま「南京条約」が締結されて、清帝国は鎖国から開国に転じた。そしてブリテン以外にも、フランスとも開国。日本政府は自国の混乱を理由に開国を意図的に遅らせ、英仏以外が清帝国と条約を結ぶまで待った。清帝国にはしばらくの間、まだチャイナの中で眠ってもらっている方が、日本にとって都合がよかった。閉じこもって停滞している大陸こそが、近隣島嶼国家にとって都合が良いからだ。

 阿片戦争後、清帝国を開国させたにも関わらず、ブリテンの対清帝国貿易はそれほど好転しなかった。チャイナ内部の充実した巨大な手工業を前にしては、ブリテンの誇る工業製品も大きな威力を発揮しなかったからだ。つまりは清帝国を半死半生の状態にして統治能力を低下させ半植民地としない限り、チャイナは有望な市場とは言い難かった。
 しかし総人口4億人を数える巨大すぎる国家相手に、安易な陸戦は選択できなかった。それでなくてもブリテンは、似たような規模のインドを飲み込もうとしており、今しばらくチャイナ侵略には時間が必要と判断されていた。
 しかし格好の機会は、比較的早くにやって来る。
 阿片戦争の戦費と賠償金を補うための重税に端を発して、チャイナ中央部で「太平天国の乱」(1851〜64年)が発生したのだ。国家中心部での巨大で長期間にわたった内乱によって、清帝国は大きく衰退した。内乱自体は、中華帝国の伝統とも言える人口拡大の限界も遠因として存在したのだが、今度は自らが抱えている人口規模が今までになく大きく、しかも蚕食してくる相手が悪かった。
 どん欲さにおいて有史上で最上級の一つであるヨーロッパ列強の中でも頭一つ抜き出たブリテンが、虎視眈々と世界最大規模の市場を狙っていたからだ。
 そしてブリテンは、向こうから機会が転がり込んできた事を大いに喜んだ。
 あとは内乱が最高潮に達した頃に、適当な理由を付けて都合の良い相手にだけ殴りかかればよかった。ただし、自分だけで攻め込むには今ひとつ戦力が不足するので、ここはヨーロッパ外交を採用する事とした。チャイナを蚕食する事が可能な全ての国を、次なる侵略戦争に誘ったのだ。
 これに、当時ナポレオン三世治世下にあったフランスが積極的に同意。有色人種国家であった日本も、有色人種国家ながら戦争への協力を表明した。ブリテンも、今回は日本に対してヨーロッパ的政治を採用して日本を迎え入れた。有色人種という要素を除けば、日本は第一級の先進国列強であり、近代化を成し遂げた国だったからだ。
 武力を持ちペテンの通じない相手は、共犯者にするに限った。それが当時のヨーロッパのルールだった。
 また当時ブリテンは、印度でのシパーヒーの乱を抱えていたため、日本の身動きを封じるためにも自分たちの戦争に誘ったという経緯があった。そして日本側は、国家財政の赤字解消のため印度にまで深く干渉する余力もなく、ブリテンに恩を売る形で誘いに乗ることにした。
 ただし日本政府は、北部や西部で大蝦夷と直に国境を接するため、独自行動を取る事をブリテンに伝えた。

 そして1857年に機会が訪れる。アロー戦争の勃発だ。
 以前より戦争の機会を伺っていたため、英仏連合軍は清帝国軍を即座にかつ徹底的に攻撃した。また戦訓と技術発展に伴って蒸気軍艦を多数揃えるようになったため、戦闘力差はさらに開いていた。英仏連合軍は、広東、上海を一方的に攻撃しつつ北上。ついには天津に上陸して、北京郊外の円明園などで略奪と破壊を欲しいままにした。
 この時日本は、英仏への補給と拠点提供を行った。蒸気船は補給に難儀する船だったので、これは英仏にとって好都合だった。しかし直接戦争に参加する事はなかった。一方では、清帝国政府に講和の仲立ちに立つことを伝え、その対価として領土の割譲を要求した。
 そして天津条約、北京条約の結果清帝国は英仏にさらに譲歩した。一方日本に対しては、黒竜江以北を割譲させた。黒竜江自身の優先使用権も認めさせ、沿海州は当初は共同管理地とされたが北京条約で日本に割譲された。またジュンガルによるラマ教の保護のためとして、日本はチベットでの優先権も獲得し、ブリテンが支配体制を確立しつつあるインドの緩衝地帯となる場所を手に入れた。青海やチャハル(内蒙古)での通商権なども獲得し、これにより日本は清帝国の直轄地以外の全てを手にした事になった。
 流石にブリテンが文句を付けてきたが、根回しの行われていたフランスはブリテンが困るので日本の動きに特に文句は言わなかった。文句を言ったブリテンも、日本の仲介のおかげで戦争の泥沼化が避けられ、利益も多く得れたので必要以上に文句は言わなかった。何しろ今回は、清帝国はみんなの獲物だった。

 一方で、日本が大きな利益を得すぎているとして、部外者だったロシアが強く抗議する。ロシアは、割譲した領土と利権を清帝国に返還すべきだとした。
 なおこの背景には、クリミア戦争の日本参戦が影響していた。
 1853年に勃発したクリミア戦争(〜56年)で、日本は大蝦夷にコサックが侵入したという理由で無理矢理参戦してシベリア各地を攻撃した。そして現地ロシア軍やコサックを攻撃して、多くのロシア領を占領していった。さらには形だけセバストポリ要塞攻撃にも軍艦や兵士を派遣して、英仏の反論と自らへの非難を封じることも忘れなかった。一方ではトルコに大きな軍事援助と借款を行って、大いに感謝されていた。トルコに対しては、近代化のための人的支援、教育支援、技術援助まで行った。トルコの近代化を促して強化する事がロシアを南から抑えることになり、大蝦夷を持つ日本の利益となるからだ。
 なお日本内のクリミア戦争への主な参戦理由は、17世紀末からジュンガルを通じて交流のあったオスマン朝トルコへの助勢とされていた。
 そして日本は、当然とばかりにパリでの講和会議にも勝者として出席した。こうして織田幕府末期の混乱以後落ち目だった日本の国威復活を成し遂げると共に、会議において帯広川(オビ川)流域のシベリアの三分の二の割譲に成功した。この時点で日本は、シベリアという名称の消滅と西大蝦夷の命名、大蝦夷の東大蝦夷への名称変更を行っている。
 この時の恨みと日本のこれ以上の膨張を恐れるが故に、ロシアが強い反発に出たのだ。そして日本側はロシアからの非難を、遠隔地から現状を理解していないが故の言葉だとして要求を拒否。一時日本とロシアの仲が険悪となるが、ロシアはクリミア戦争の打撃から回復しておらず、日本も他に努力を傾注しているため大きな行動に出ることはなかった。
 そして日本が、必要以上に領土拡張や国威の回復に務めていたのには理由があった。ロシアとの戦争を見送ったのにも理由があった。
 新大陸情勢だ。



●19世紀半ばの新大陸情勢