●19世紀半ばの新大陸情勢

 新大陸、和名蓬莱大陸、英語名ノースアメリカ大陸では、1806年(正式独立は1815年)のアメリカ合衆国独立と1835年(正式独立は1840年)の蓬莱連合共和国独立によって、植民地支配からの脱却を遂げていた。二国以外には、1821年に独立したメヒコ共和国がある。他に仏領カナダがあって既に自治にまで至っており、ほぼ完全な独立は1848年のフランス二月革命の頃となった。
 そして四カ国全てが民主共和制国家であり、多民族国家であり、新時代を感じさせるには十分な要素だった。
 その4つの国や地域の中で、最大の領域を誇っていたのが日系国家の蓬莱連合だった。北の新大陸(パナマ地峡以北)の占有度は約八割に及んでおり、総人口もウィーン会議の時点では他の三つを合わせた三倍近い数字に達していた。加えて、他よりも早くそして大規模に、産業の近代化も既に始まっていた。
 要するに新大陸情勢は、日本人移民を中心とする有色人種の圧倒的優勢にあった事になる。
 そして1839年春、日本に新たな政府、封建制を打破した国民国家が成立すると、新大陸情勢も一旦沈静化するかに見えた。地球上のどの地域も、自分たちの事で手一杯だったからだ。
 しかしヨーロッパで一つの変化が起きる。
 1845年に発生した、アイルランドでのポテト飢饉だ。

 当時アイルランドはブリテン領だった。アイルランド農民は地主であるブリテン貴族(ジェントリー)に商品作物の小麦を納め、自分たちはポテトを主食としていた。そして荒れ地での栽培が行えたポテトは重要な食料源となり、アイルランドの人口は一気に膨れあがった。
 しかし1845年、アイルランドのポテトは病気によってほとんど全滅し、3年あまりの間に約100万人が餓死してしまう。誰かに支配されているという事と、一つの作物に生存を頼りすぎた事が重なった悲劇だった。
 そして餓死を避けようとした人々は、背に腹は代えられないため新大陸への移民を決意。ブリテンの持つネットワークを利用して、ブリテンから独立したアメリカ合衆国へと殺到した。移民先としてカナダや蓬莱、メヒコが選択されなかったのは、使用言語の違いのためだ。皮肉にもブリテンの支配を受けたため、アメリカでの主要言語であるイングリッシュ(英語)を話せる者が多かった事が、アイルランド人の行く先を自然と決めてしまったのだ。またブリテンから独立を勝ち取った国という要素が、アイルランド人に一抹の希望を持たせたという要素も見逃せないだろう。
 そしてアメリカには、短期間で約80万人のアイルランド移民が殺到した。それまで数万人単位だったアメリカへの年間移民者数は、単年度当たりでも一気に二倍以上の六桁代に増加した。増えた分は、全てアイルランド人だ。あまりの多さにアメリカ側が対応できなくなり、一部が仕方なく蓬莱やカナダに流れた。仕方なく南米へと移住した者もいて、後にヨーロッパ移民が流れ始める先鞭ともなった。
 そしてこのアイルランド人の流れが、北の新大陸で一番小さい面積でしか持たないアメリカ合衆国の政策変更を決意させる。
 アメリカ合衆国が選択したのは、北の新大陸での膨張主義だった。蓬莱の識者の間で議論されていた、新大陸諸国内での連携や連合ではなかった。彼らがメイフラワー号で新天地にたどり着いた時、建国の時に誓った共存や共和ではなく、膨張と侵略を選択したのだ。
 国土を広げなければ、いずれアメリカはヨーロッパからの白人移民によって押しつぶされると考えられたからだ。かといって移民こそがアメリカ発展の原動力なので、自ら移民を止めることなど選択できるわけがなかった。しかもヨーロッパからの移民は、一部ラテン系民族(当時はほぼイベリア半島系のみで、一部がフランス人)がカナダやメヒコを目指す他は、ほとんどがアメリカに殺到していた。何しろ当時の移民の主力はブリテンとアイルランドで、加えて比較的言語が近いドイツ地域の移民の移民も伸び始めていた。

 一方隣の広大な国土を持つ蓬莱のミシシッピ川流域では、日本人や先住民の大地主(共同体の場合が多い)が西海岸にあふれ始めた中華本土系及び華僑などを労働農民や苦力、使用人として連れてきて広大な農地を耕して牧場を経営し、端から見る限り満ち足りた生活をしていた。蓬莱での詳細な探索により、豊富な地下資源が眠っていることも分かってきていた。余りにも違いすぎる情景だった。
 しかも新大陸西海岸、五大湖沿岸、ミシシッピ川河口部では産業の近代化が急速に進められており、1845年の段階で鉄道の敷設も各地で急速に進められつつあった。鉄道敷設の開始は、早くも1836年に始まっている。そして鉄道の大規模な敷設は、線路を造るための鉄工業、土建業、機関車や貨車を作るための機械工業を爆発的に発展させていた。造船業の発展も顕著だった。
 近代文明の発展速度自体はヨーロッパ先進地域や自分たちアメリカと似たり寄ったりだが、規模が圧倒的に大きく彼らの元宗主国である日本よりも早い発展速度だった。何しろ安価で働き盛りの労働力が、掃いて捨てるほど日本圏から供給され続けていた。彼らを進んで働かせるための安価な食料(農作物)も豊富にあり、地下資源も掃いて捨てるほど足下に埋まっていた。そして蓬莱は、アメリカ以上に移民国家として頭角を現していたとも言えるだろう。
 「努力が報われる国、蓬莱」それが、蓬莱政府が打ち出した移民を呼び込むための宣伝文句だった。勤勉、努力、そして全ての人に約束された成果こそが、蓬莱での決まり文句でもあった。
 しかもそれは、19世紀においては過半数以上において事実に等しかった。
 当然ながら、日本を中心に東アジアから大量の移民を飲み込み続けていた。土地が有り余っている事もあって自然増加も多い事から、総人口は19世紀初頭からわずか三十年で、3000万人から4500万人に拡大していた。1830年代から40年代は日本列島での飢饉や革命から逃れた移民が異常に多かった。また阿片戦争以後の清帝国開国によって、中華大陸系移民が新大陸に流れ始めていたからだ。
 しかも広大な農地や牧場だけでなく、工業の進展により各地の都市が発達して移民を吸収し、西海岸中部とミシシッピ川流域は地平線の彼方まで広がる農業地帯や豊かな牧場となって人口拡大に拍車をかけていた。東部で白人が駆逐を完了しつつあるインディアン(先住民族=先民)も、共同体単位という独自の形態ながら、蓬莱では徐々に近代的な農場主や牧場主へと姿を変えつつあった。特に中部の農業に適さない大平原で行われるバッファロー放牧などは、先民の独断場だった。日本人と先民の同化も急速に進むようになった。
 旧大陸からもたらされた疫病で激減した先民の人口が急速に回復し始めたのも19世紀に入ってからで、蓬莱神道とも呼ばれる先民の宗教(精霊崇拝)と日本の在来宗教が融合したものが安定化したのも、この時期になる。
 なお、先民が日本人との同化を進めた背景の一つに、先民が文明発展の経緯から酒に対する免疫がないという点を克服できると考えられたからだ。日本民族は世界的に見ても珍しい、日本語で言うところの「下戸」というものが一定割合で存在した。それは先民の巫主(巫女)の解釈によれば、体内に宿った精霊の働きにより悪しき霊(酒霊)を払う力があるとされた。そして自分たちの子供達が下戸の特性を備えれば、酔いたくても酔えなくなり慢性的問題である酒中毒も避けることができると考えられ、一部で積極的な日本人との同化が進んでいった。
 話が少し逸れたが、一方で蓬莱は奴隷を一切認めず、全ての民族に制度上では大きな権利と自由を認めていた。移民当初(登録から五年間)の税金も安いため、噂を聞きつけた東洋人達(日本影響圏が主体)は、進んで日本人の持つ巨大な海洋ネットワークを使って新大陸を目指した。アメリカ国内の黒人達ですら、自由になる(解放奴隷もしくは逃亡奴隷)と蓬莱を目指した。カリブ地域どころか、ブラジルから逃れてきた場合もあった。そして蓬莱政府は、移民したばかりの者から取れる税金などたかが知れていると割り切っていたし、足りない分はさらに移民を呼び込めばよいと考えていた。移民を呼び込むために、民族ごとの地域社会の維持を認め、言語や習慣の保持も中央政府や軍務に関わらない限りは可能な限り許される法律が作られた。無論中央政府に勤める場合は日本語が求められるし、商業言語は日本語が強く求められていたので不便もあったが、蓬莱政府の寛容な姿勢は移民を呼び込む大きな要素となっていた。
 こうした状況に、一部のヨーロッパ出身者も蓬莱に流れるようになっていたほどだ。この中には、当時のヨーロッパでの移民後発組であるドイツ系や東欧系が多かった。蓬莱政府も、自由移民であるならば人種を問わずにほぼ無条件で歓迎した。蓬莱政府が白人移民に求めたのは、他と同様に人種差別と宗教差別、階級差別をしない事だった。蓬莱の法律上でも、人種差別と奴隷売買は厳しく禁じられていた。
 この政策は、白人移民にとって大きな衝撃だった。全ての肌の色の人々が本当の笑顔を持って暮らし、神(キリスト教)を信じていない異教徒が真の平等を謳っていたからだ。そして白人の優越を全く認めない蓬莱の基本政策こそが、白人国家であらねばならないと考えていたアメリカに、蓬莱に対する拭うことの出来ない脅威を植え付け、自らの理屈に従った争いの道を歩ませたとも言われている。

 一方のアメリカ合衆国にとって、自らがさらなる発展を行うためには、広大な国土を有する蓬莱連合から領土を奪い取るしか選択肢がなかった。少なくともアメリカはそう考えていた。
 しかもアメリカは、蓬莱がいずれ自分たちを飲み込むと決め込んで掛かっている節が数多く見られていた。劣勢な側の心理としては理解できるが、当時の蓬莱の民の多くは自分たちの平穏で慎ましくも満ち足りた生活、いわゆる「大草原の小さな村」を理想としていた事と比べると、皮肉を感じる考え方の違いと言えるだろう。
 かくしてアメリカでは、自らの発展を「文明化」・「天命」として新大陸全てが自分たちのものであるべきだと主張する、「マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny=明白な運命)」派が勢力を増した。当然アメリカ政府の強力な庇護のもとにあり、各地で膨張主義を唱え、一部は蓬莱に越境して問題を引き起こした。国内での有色人種差別も激化し、世界最高度の差別状態とまで言われた。当然ながら有色人種との間にさらなる軋轢を作り、蓬莱の独立当初比較的良好だった蓬莱との関係も悪化した。
 そしてアメリカ政府自身は、新大陸を対象とした保護貿易主義による自国産業育成を躍起になって行い、大量に流れてくる安価な白人の移民労働力を使い産業革命を強引に推し進めた。
 しかし彼らの領域には、資源が足りなかった。国境となっているアパラチア山脈の尾根向こうには広大で有望な蓬莱の炭田が広がっていたが、それは憎むべき有色人種達のものだった。鉄鉱石も五大湖西部に無尽蔵なほどに産出する露天鉱山があったが、それも日本人のものだった。西海岸や中西部の地下資源も全部日本人のものだった。ミシシッピ川南部では、綿花の栽培も大規模に行われていた。五大湖北部には、羊の牧場もいくらでもあった。酪農や養鶏も桁違いの規模で進みつつあった。大平原は、アジア的な近代化を果たした先住民の巨大なバッファロー放牧地だった。太平洋各地では、油を取る為の鯨漁も盛んだった。穀物を中心とする農作物の生産力に至っては、既に比較にもならなかった。何しろ憎きブリテンが、セントローレンス川を遡って蓬莱に買い付けに来ているほどなのだ。でなければブリテンは、自らの本土で爆発的に増大する人口に対する食料供給が行えなくなっていたからだ。この時期ぐらいから、ヨーロッパ大陸全体で食料不足による人口増加の鈍化が見られ始めていた事と連動して、蓬莱の存在は世界的に見ても重要度を増しつつあった。
 ただし蓬莱では水田の出来るところでは稲作が盛んに行われ、他の地域では蓬莱黍(コーン)の作付けが主に行われていた。しかも過度の開発や農地化は、先民を中心に行われる事はなく、政府も欲望のままの無軌道な開発を規制して、各自治国に計画的な開発を指導した。各地での爆発的な開発が進みはじめてからは、森林や草原、動植物の保全が行われるようになり、結果として蓬莱から他の地域への穀物や農作物の輸出は常に低調だった。ヨーロッパから取り入れた農法は、一部家畜を取り入れた他は二圃式・三圃式農業だけなのではと思えた。その証拠が、蓬莱全土で小麦の作付け面積が少ない事だった。しかも、盛んだった日本列島への米を中心とする農作物の輸出も、自らの人口増大と共に停滞していた程だ。蓬莱人達は、自分たちが食べる以上の農業をなかなか行わなかった。爆発的に増える国民を前に、満足に食べさせ続けるだけで大事業だったからでもあった。
 加えて蓬莱自身は、自らの足下に眠る豊富な地下資源を無尽蔵に消費して、自らの国家の近代的力を急速に巨大化、強大化させていた。さらには、日本人を始めとした有色人種のほとんどが働き者で、学術面でも侮りがたいものを持ち始めていた。勤勉と努力は、国民一般の間での国是に等しかった。
 アメリカでの近代産業の中心地だった北部諸州は悔しがったが、仕方なく原料を蓬莱から購入して工業化を進めざるを得なかった。ただしアメリカ南部諸州の反応は少し違っていた。彼らの主力は綿花農家であり、黒人奴隷を使った安価な綿花をブリテンなどヨーロッパに輸出することで生計を立てていた。奴隷を認めず自分たち栽培した綿花で綿布を作る有色人種の国を認めることはできないが、彼らは新大陸との交流を絶つような北部の保護貿易主義には反対であった。

 一方複雑な心境で新大陸中央部の情勢を眺めていたのが、カナダのフランス移民達だった。彼らは南部人に近い考えを持っていた。ヨーロッパに羊毛や農作物を輸出することで生計を立てていたからだ。しかし彼らは自治を持ってる上に1848年には独立を果たすので、南部人のような憂鬱はなかった。今更、蓬莱をどうこうしようという気もなかった。アメリカとの連携も、アメリカを握っているのがブリテン人の子孫であるため極めて消極的だった。加えて、五大湖地域での蓬莱の活発な商業活動、産業活動によって自分たちも潤っており、蓬莱から安価に輸入できる様々な物産はカナダ発展の為には得難いものだった。発展するカナダの土地と富を目当てに、移民も順調に増えていた。また日本人達は、ヨーロッパへの市場進出のため五大湖とセントローレンス川の開発に積極的で、カナダ及びフランスとの友好関係と協力を求めていた。
 そして日本人は、第二次百年戦争を通じてフランスにとっての友であり、特にカナダのフランス人にとっては、何度も肩を並べて戦った戦友だった。何度も助けられた事もあった。先住民との関係も、プロテスタントよりは良好だった。それに引き替えブリテン人は、殆どの場合敵であった。相手がアメリカでも大きな違いはない。新大陸のフランス人(カナダ人)の中では、ブリテン人とその子孫を敵とするなら有色人種に対する差別はあまり関係なかった。それに長い間の日本との交流により、少なくとも日本人が他の有色人種と違って文明人であることを、新大陸のフランス人の多くが知っていた。ラテン的寛容さから、日本人との混血者もそれなりの数になっている。しかも新大陸の日本人の一定数が、なんと既にヨーロッパでは解散したイエズス会系の清廉なカトリック教徒であり、西海岸の大都市には日本人の手により立派な大聖堂も建立されている。片やブリテン人は、憎むべき異教徒だった。
 つまるところ、カナダのフランス人にとっての優先項目が多いのは、圧倒的に蓬莱の日本人達であったのだ。
 しかしフランス本国の事も多少は考えなくてはいけないし、ヨーロッパ一般の価値観から大きく外れることも可能な限り避けなければならない。それが節度ある文明人というものでもあった。そこでカナダは、万が一蓬莱とアメリカが争った場合は、局外中立の立場を取ることを心に堅く決めていた。
 しかし新大陸での次なる戦争はまだ先のようであり、それよりも先にヨーロッパの方が少しばかり騒がしくなりつつあった。


●諸国民の春とドイツ統一戦争