●蓬莱連合共和国と新大陸情勢

 1865年夏、アメリカ合衆国最後の大統領となったリンカーンは、統合議長井伊直弼の前で蓬莱連合への降伏文書に調印。同時に蓬莱連合共和国(United Republic of Hourai)への統合(合併や併合とは表現されず)に合意して、アメリカ合衆国(United States of America)は消滅した。
 民主共和制国家同士の全面戦争と片方の当事国の消滅にヨーロッパ世界は震撼し、アメリカからヨーロッパの共和制国家への亡命が相次いだが、アメリカの消滅自体は戦争に比べれば淡々としたものだった。占領側の蓬莱は移民という名の脱出を制限付きながら認め、アメリカ市民の殆どが逃げ出す気力すら無くすほど戦争に疲れていた。後方もなく、大都市の全てが蓬莱軍の攻撃を受けたのだから、当然と言えば当然の状況だった。
 その後、元アメリカ市民による暗殺で、戦争を指導した二人の為政者が短期間のうちに相次いで暗殺されるが、歴史の流れが変わることはなかった。
 暗殺劇そのものは劇的であったり、歴史に残る事件として人々に記憶されたが、歴史の流れそのものには半ばどうでもよい事でしかなかった。二人は既に歴史上での役割を終えていたからだ。
 統合戦争終了と共に、北アメリカ大陸という名は歴史上の出来事へと変化した。大陸の名は蓬莱連合及び日本人(+東洋系)が用いる「蓬莱」が標準的となり、徐々に北アメリカという名は使われなくなった。カナダ(+フランス)では、ブリテン人への反発からカナダもしくは新大陸という初期の頃から表現が殆どだったので、名称が変わったところで特に問題を感じていなかった。他のアメリカを用いる地名も、ほとんどが消えていった。アメリカの名が残ったのは、一部の動植物名だけだった。
 アメリカ合衆国は、カリブの海賊と同様に歴史やおとぎ話の中へと押しやられたのだ。
 また本来個人名であるアメリカという名を使うことに南アメリカ大陸でも抵抗があったためか、南アメリカの名も順次使われなくなり、彼ら自身の結束を醸成するため「ラテン大陸」と呼ばれるようになる。
 そしてメヒコ共和国以北の蓬莱大陸諸国とカリブ海諸国は、その語源に若干の抵抗はあったが「カリブ地域(カリビアン)」やカリブ諸国と言われるようになり、中部アメリカというどこか曖昧な名称も用いられなくなっていった(※カリブの語源は「食人」にある。)。カリブ海地域の主要民族は、奴隷としてアフリカ大陸から連れてこられた黒人の末裔達だったが、アメリカ合衆国の滅亡により新しい時代が始まったとする考え方が広まったからだった。

 一方、蓬莱の戦後処理だが、フロリダを含めて14の州に分けられていた旧アメリカ合衆国は、現地住民との協議と蓬莱側の裁定によって統廃合された。南からスペイン文化の残るフロリダ、南部のカロライナ、中部のヴァージニア、北部のペンシルヴァニア、ニューヨークの5つの共和国(自治国)となった。これに戦争前から属していた蓬莱連合の各共和国、自治国を合わせて、新たな蓬莱連合共和国は24の国内国家から構成される事になる。
 蓬莱連合共和国内の各自治国には、国内法と司法権、警察権、郷土軍を持つなど高い自治が認められていた。また政治形態は、議会制民主主義が実現されているのなら、自治国内に限り名目君主、権威君主や立てることも許されていた。実際西部では、日本の旧大名が名目君主となった例もあった(北伊達国・首都:幕場)。先民の多い自治国では、各部族の酋長による議会があったり、名目君主的な酋長(大酋長)が存在した(主に中西部草原地帯、ミシシッピ川中流域)。しかも先民は母系社会であるため、世界的に見てもいち早く女性の政治進出が促され(酋長が女性である場合が多々存在した)、図らずも蓬莱の政治的進歩を手助けすることにもなった。
 一方で、西海岸の首都東京にある中央政府は、独立戦争当初から連合政府ではなく統合政府と呼ばれた。そして議会を統べる統合議長が、国家最高責任者とされた。
 統合議長の任期は4年で、国民全ての直接選挙で選ばれた代議員の手によって選ばれた。1835年の初代統合議長は、東京を含む特別行政区画の名前ともなっている建国の父二宮尊徳で、1859年に統合議長となって統合戦争を指導した井伊直弼は7代目、8代目(途中暗殺)になる。そして20世紀になると、時代の進歩と共に先民、日本人以外の黄人、白人、黒人からも統合議長が出るようになり、蓬莱での人種間の平等さを垣間見せている。
 建国時に理想を託した、建国の理念と共に全ての人種を意味する国旗(「四錐五星旗」もしくは「錐星旗」)は、徐々に真の姿へと国を持っていったのだった。
 中央政府自体は一般には統合政府(Integrated Government)と呼ばれたたが、これは国家は国家の連合体であるが、政府は全てを統べる政治組織であるとの考えからきている。「連なる」組織ではなく、「統べる」組織なのだ。この一字をもって、統合政府が強い権限を持っていることが分かるだろう。その力は、統合戦争でも遺憾なく発揮された。そして蓬莱人は、表面的な美辞麗句で国の名を飾ることをしなかった。
 蓬莱政府軍も一般的には統合軍と呼ばれ、連動して海軍が集合した艦隊を統合海軍や統合艦隊と呼んでいた。警察も各自治国政府所属の警察とは別の国家警察として統合警察が存在しているし、国家議会は統合議会、司法も統合最高裁判所が国家の頂点となっていた。
 中央政府の統合議会には二つの議会が設けられ、一つは国中の民主選挙で選ばれた代議員による衆議院で、もう一つがそれぞれの自治国から代表を送り出す統合院が設けられた。衆議院は統合院の上位にあり、統合院は地方の代表としての側面と同時に良識の府としての役割が多く求められ、実質的には衆議院での議席の多さが国政を左右するようになっていた。
 そして国の制度そのものはアメリカ合衆国も似通っており、州の統廃合と新たな自治政府(共和国)建設に伴う混乱以外で行政面での混乱は小さかった。
 問題はむしろ、それまで国家を隔てていた人種及び民族問題だった。

 統合戦争終了時、旧アメリカ合衆国領内の東部沿岸部の特に北部地域は大きく荒廃していた。自らの焦土戦術と戦争終盤の各都市での徹底抗戦で大きく破壊され、社会資本と流通網の破壊に伴う疫病が蔓延していた。
 開戦時1800万人を数えていたアメリカの総人口のうち、軍人及び義勇兵や民兵の戦死者は約50万人だった。だが、疫病、飢餓、戦災による一般人の死者は二倍以上の130万人にも及んだ。つまり総人口の一割がたった4年間で失われた事になる。戦争後半に逃げ散ってしまった黒人の奴隷人口が約200万人だったので、実際の死亡率はさらに上昇した。
 短期的な病人や栄養失調者の数も、国民の二割にも及んだ。このため民心も酷く荒廃し、また敗戦による虚脱感も大きかった。戦争終盤には、十万人単位でアメリカから逃げ出す者も出て、そこでのアメリカ人同士の争いもアメリカに住む白人達の心をすさませた(多くの脱出者が地続きのカナダを目指した。)。戦争中に反抗や逃亡した黒人など有色人種に対する仕打ちも目を覆うものがあり、これが南部の早期崩壊の一因ともなった。
 また戦争終盤においては、蓬莱側の復讐劇ともいえる即決裁判などで、多数の軍人、政治家などが処刑された。中には蓬莱軍による掠奪や焼き討ち、虐殺すらも見られ、アメリカ人、蓬莱人双方の溝を深めた。
 蓬莱は理想郷でも理想の軍隊でもなかった。やられた分は、しっかりとやり返していた。蓬莱は移民の国なのだ。
 
 戦後の蓬莱政府は、莫大な戦時国債があったにも関わらず、現場の復讐劇を抑制すらして旧アメリカ合衆国再建法を制定した。同時に傷ついた自らの国土と国民を復興する法律を合わせて、膨大な予算が組まれた。これは戦後恐慌を回避する一種の積極財政ともなり、いまだ総動員状態だった産業のさらなる発展と蓬莱の通常への経済復帰を大いに早めることになった。またここで生まれた膨大な国債も、経済発展と人口増大による大幅な税収増大と発展に伴う健全なインフレで無難に返済することができた。
 なお復興法に伴い、多数の蓬莱系住民が旧アメリカで活動するようになる。当初は摩擦も大きかったが、徐々に旧アメリカ系住民の民心も安定した。ごく一部を除いて、新たな国家での生活を受け入れるようになっていった。蓬莱から安価な物資が大量に東海岸部に流れて来るようになると、都市部を中心にして人口も回復していった。戦争の終結と国内の安定化に伴い、ヨーロッパからの移民の流れもある程度回復するようになった。
 しかし有色人種差別と当然とする急進派、というより当時白人世界での一般的価値観を捨てられない者も多かった。彼らの多くが、白人がうち立てたカナダやラテン国家へと移民していく事になる。不思議とヨーロッパに帰る者は少なかった。また一部蓬莱に残った者達は、過激派やテロ組織、急進的な宗教団体へと姿を変えて、長らく蓬莱の内部を蝕む事になる。そしてこの混乱が、蓬莱連合政府に銃刀法に関する規制を行わせる最初の一歩となった。新大陸での開拓と戦乱の時代が終わったのだから、無軌道な個人の武器携帯も必要ないだろうという事だ。このため以後の蓬莱政府は、住民の意向も踏まえて共同体単位以下、つまり個人での武器所持に規制を敷いていくようになる。逆に民兵や自警団としての武器の所持はそのまま行われ、共同体や村落単位での武術訓練、射撃訓練などはむしろ日常となっていくようになる。
 しかしそれらは、巨大な国家である蓬莱にとっては一部の事象だった。戦争全期間に渡っても、多数の移民が主に西海岸地域におしかけていた。

 この時期日本列島からの移民は、日本の安定と発展も重なって以前に比べると減少していた。だが、今度は混乱の酷くなった清帝国からの中華系移民と、古くからの日本勢力圏となる呂宋(旧フィリピン・直接統治)、東印度(インドネシアもしくはスンダ・ヒンズー系国家の衛星国)で人口増加が見られたため、徐々に移民が増大していた。
 それまで南方特有の人口過疎地だった呂宋や東印度での人口増加は、農業の革新(印可芋、摩耶芋、蓬莱黍の普及と技術の伝搬)により18世紀に日本人の移民と共に進んでいき、19世紀後半には移民を必要とし始めていたのだった。
 また僅かではあったが、ブリテンが好き勝手にしているインドからも、日本商船網を経由して蓬莱に流れていた。白人中心の帝国主義がアジアを覆うようになると、全てのアジア系住民が「自由の地」蓬莱へ、明日への理想郷を目指すようになった。
 なお、移民が活発になった背景の一つとして、船の動力として蒸気が一般的に使われるようになった事を忘れるべきではないだろう。
 連動して、統合戦争で西部の人間が多く中部や東部に流れ、鉄道網の整備が国内での人と物の交流をこれまでとは比較にならないぐらい活発なものとした。旧アメリカ地域での発展と自然人口増加も、文物の交流活発化に伴って大幅な右肩上がりを示すようになった。
 つまるところ、蓬莱の国力増加には歯止めが無くなっていた。
 総人口は、統合時の1865年に約8600万人(※戦争中も蓬莱の人口拡大は続き、蓬莱自身での戦争特需の恩恵を受けるためむしろ移民の数は増加した。)だったものが、36年後の20世紀に入る年には、二倍近い1億5000万人にまで拡大していた。戦後すぐの帰還兵により爆発的な人口拡大を発端として、周辺環境が安定したが故の人口拡大だったが、たった一国でロシアを除く全ヨーロッパの半分の人口規模となっていた。このうち8割以上が白人の言うところの有色人種だった。これをさらに日系で見ると、20世紀初頭で1億人近くにも上るようになる(※当時の人種比率=日本:白人:先民:その他=61:21:11:7=100)。
 しかし蓬莱の大地に溢れた有色人種達は、同地で生み出される豊富な農作物を自らで消費し、文明の発展に伴い輸送力と手段が向上しても、あまり輸出する事はなかった。これは南天大陸と同様に日系新興国家地域に多い特徴であり、ユーラシア大陸全般での人口拡大を抑止する一つの要因となっていく。無論蓬莱国内では膨大な量の農作物が生産されていたのだが、彼らは自らが抱える巨大な人口を養うために、まずは自分たちで消費してしまっていたのが輸出されない一番の理由だった。加えて余剰分はまずは日本人生存地域に流れ、ヨーロッパ及びヨーロピアンの勢力圏への輸出は二の次、三の次に過ぎなかった。肉類やまだ冷凍技術がないので輸出できる段階でもなかったが、時代が進んでも無理な飼育や輸出には消極的だった。
 しかも有色人種達は、先民を中心に蓬莱の広大な自然や平原を、自分たちの伝統的暮らしや好みに合わせてある程度保全する傾向が強かった。空を覆うリョコウバトの群は、中東部での季節の風物詩だった。バッファローの群は、依然として蓬莱の大地を闊歩していた。国鳥の白頭鷲が広く見られることは、国民の誇りですらあった。油分の少ない淡泊なバッファローの肉は、若干の品種改良もあって日本人の味覚にもなじみ、蓬莱内ばかりか日本人生存圏の多くで一般的な食材となっていく。一方では、米(ライス)の栽培できる場所は、ほとんどで米を作付けされていた。このため、西海岸中部、テキサスからミシシッピ下流域、灌漑農業が可能な河川流域で日本人の増加は著しかった。他の多くでは蓬莱黍(コーン)が主力で、小麦の栽培は副食として限られていた。しかもほとんどの小麦は、蓬莱内で消費されていた。中北部の平原で小麦が大量栽培されるようになるのは、かなり先の話だった。
 しかしこれは産業革命の進展に伴う人口拡大を養うため小麦(+冷凍技術開発後に肉類が加わる)を求めるヨーロッパ大陸の動きとは反しており、ヨーロッパ大陸の白人達は自らの胃袋を満たす作物を他の地域に求めざるを無くなっていく。何しろもう新大陸そのものが、白人の手から無くなっていた。
 そしてそれは、移民の流れすら変えてしまう事になる。
 しかもヨーロッパ各地から蓬莱大陸を目指す動きは、統合戦争の影響もあって一時的であれ大きな沈滞を迎えてしまう。

 蓬莱大陸で白人移民を積極的に受け入れるのは、フランス系国家のカナダだけと言えた。
 ヒスパニック系国家としてメヒコがあるが、メヒコは自らが既に純粋な白人国家でない事を知っていたので、ヨーロッパ大陸人をむしろ嫌う傾向があった。特にプロテスタントの移民は嫌った。言語はスペイン語が公用語だが、各地で混血が進んでいる事もあってヨーロッパでは準白人国としか見られず、移民の流れは芳しくなかった。加えて白人移民よりも太平洋方面からの黄色人種の移民が多く、しかも蓬莱から流れてくる移民も数多くいたので、先住民族や既にいる多数の混血を考えると、多民族国家ではあっても白人国家とは言えなくなっていた。19世紀半ば以降は、メヒコの人口構成はアジア系人種(多くがコミュニティー維持を目指す中華系)によって大きく塗り替えられていった。
 メヒコからパナマ地峡にかけてのカリブ地域のラテン系国家も似たようなものだったし、メヒコ以南のジャングルを目指す白人はごくごく少数派だった。誰だって、住みやすい温帯地方を目指したかった。後には、ラテン大陸にまで有色人種の移民が広がっていく事になる。
 そして移民が少なかった理由はメヒコ自身にもあった。
 メヒコは1821年にメキシコ帝国として独立するも、その僅か二年後には自由主義革命が起きて連邦共和国になった。
 その後1835年に蓬莱の独立戦争が起きると、ノヴァ・イスパニアの回復を謳った運動が俄に現れ、蓬莱州の一部にメヒコ軍が侵入して蓬莱独立軍と蓬莱国民との間との戦闘状態となった。この時は、蓬莱側の方が数と戦力、戦意に勝っていたことなどからメヒコ軍は惨敗。這々の体で国に逃げ帰った。裏では日本列島からの資金や人材が動いていたのだが、しかしこの時は蓬莱側が独立以外に余力がなかったため、それ以上に発展することはなかった。だが蓬莱も恨みを忘れたわけではなく、1848年に世界中で自由主義革命の波が押し寄せると、メヒコ内の日本人移民を煽って当時の政権を転覆させ、より自由主義的で人種差別を否定する政府を作らせた。しかし蓬莱と同様に全ての人種に等しく自由と平等を認めすぎていたため、クリオーリョ(イベリア半島系白人移民の子孫)の反発が起きて国が一時期内乱状態となった。
 そしてその内乱状態を見た蓬莱が、国境に軍隊を並べてメヒコを威圧。以後メヒコは、蓬莱の影響力の強い国家となった。しかしアメリカが水面下で現地白人を支援したので、小さな混乱は絶えなかった。
 それでも一旦は蓬莱を中心としたパワーバランスが作られたのだが、1861年からの統合戦争により蓬莱の影響力が低下した。アメリカも、開戦初期は蓬莱への牽制や出来うるなら自らとの連携を期待するなどの動きを見せたが、中盤以降はメヒコどころではなくなった。そこに世界中に影響力拡大を狙っていたフランスのナポレオン三世の干渉を受け、第二次メキシコ帝国が建国された。フランスとしてはカナダの安定のため有色人種の影響力低下も狙ったのだが、これはやぶ蛇となった。
 蓬莱が統一された後の1866年には、この二度目の帝政も民意と蓬莱を実質的に恐れたフランスの撤退により倒され、元の民主主義国家に戻ってしまう。以後は以前よりも一層蓬莱の影響力の強い国となり、蓬莱と似た国是を採ることで自由な国とされた。だが、白人移民の子孫とそれ以外の軋轢が残って、安定にはかなり遠い状態が続いた。このため白人移民は長らく伸び悩む事になったのだった。

 一方蓬莱大陸で最も平穏なカナダだったが、白人移民にとって問題があった。問題は、少しばかり寒いことではない。農地が少ないことでもない。カナダがフランス語の公用語化を徹底していた事だった。このため比較的言葉の近いラテン系民族、特に20世紀に入って移民が増え始めたイタリア系が少し多い以外は、ヨーロッパからの移民が避けるようになっていた。フランスからの移民も、フランスが元々比較的安定した農業国のため、劇的に伸びることは遂になかった。美しいとか洗練されたと言われるだけあり、フランス語の習得は庶民には敷居が高かった。19世紀後半だと、スカンディナビア系移民が若干伸びた程度だった。
 またヨーロッパでの変化も、移民の流れに変化をもたらしていた。
 イギリス、アイルランドに続いて、19世紀半ば以降はドイツ地域からの移民が増え始めていた。しかしドイツ地域は、19世紀半ばに統一国家ができて安定してしまったため、移民の流れは統合戦争の頃には既に停滞しつつあった。それでも新大陸へのドイツ人移民は一定の割合で続いた。ドイツは元が貧しい土地であり、いち早く工業化して都市部が人口を吸収しても、農村からの移民の流れがとぎれることがなかったためだ。そして一度蓬莱に流れ始めていたドイツ移民は、ヨーロッパ白人系民族の中では比較的蓬莱での生活に適応できた。これは蓬莱での主要民族だった日本人が、比較的地味な経済活動やモノ造りを重視して、金融や投機への傾倒を戒める民族性を持っていたためと言われる。また勤勉性を尊ぶため、差別や宗教の問題さえ克服できれば、民族主義とは距離を開けたプロテスタントの多いドイツ系移民が適応できたと言える。また統合戦争で多くのドイツ移民が活躍したため、蓬莱内での民族的地位が高くなった事もドイツ系移民の流れが続いたことに影響していた。
 一方で、ドイツ統一によって、東ヨーロッパのスラブ系からも移民への圧力が高まったが、社会の進展と人口増加の度合いから主に20世紀に入ると大挙してラテン大陸へと流れるようになる。ラテン大陸では、蓬莱の台頭とアメリカの消滅で奴隷農業が民意の点でできなくなりつつあったので、安価な労働力をいくらでも必要としていたため多くを吸収していくようになる。そしてポーランド人などを中心にカトリック信者が多い民族を中心にして、ラテン大陸への移民が増えていった。またヨーロッパ自身が新たな食料供給地としてアルゼンチンの平原(パンパ)に注目したため、アルゼンチンへの積極的な農業移民をヨーロッパ各地が奨励した事も、移民の流れを大きく変える要素となった。
 しかし19世紀全般のラテン大陸は、社会体制と社会資本、各種産業(特に工業)に欠けるため、広大な土地がありながらも受け入れには限界があった。それでもヨーロッパ人に残された唯一の新天地への移民の流れは止まらず、ブラジル、アルゼンチンは19世紀の後半以後急速に人口とそれに伴う国力を拡大して、20世紀に入ると相応の発言権を有してくるようになる。

 そして全ての地域での新大陸移民に言えることが、統合戦争以後アングロ系民族がメジャーからマイナーへと完全に転落した事だった。
 統合戦争後でも、移民者同士が使う言葉としてはアングロ系のブリテン語(イングリッシュ)はそれなりに高い比率であったが、結局他の民族が各地の公用語を使い始めるとマイナー化が加速していった。またドイツ語、スラブ系の言語も、移民後発組ということで普及する事はなかった。ブリテン語、ドイツ語の単語が、蓬莱の日本語に取りれられたぐらいだった。
 21世紀初頭の現在では、蓬莱大陸、ラテン大陸を合わせて見ると、使用されている各国の公用語の人口比較は日本語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語の順番となる。

 そして、言語の塗り替え(クリアランス)は、そのまま次なる時代の予兆でもあった。
 蓬莱は国家の総力を挙げた戦争を終えたばかりで、海外に向けて本格的に牙をむくのは今しばらく後だと考えられていたが、そうも言ってられなかった。世界の動きは、蓬莱が国内復興を先送りさせてでも外にうって出なければならないと感じさせるほど加速しつつあった。
 列強が世界中を植民地とする帝国主義時代が幕を開けようとしていたのだ。そして蓬莱の統合は、実質的に帝国主義時代の幕開けを飾る象徴の一つだったと言えるだろう。
 産業の革新的な発展が総力戦を可能としたのだが、同時に市場と資源を得るための場所を必要としていたからだ。


●独清戦争と中華蚕食