●独清戦争と中華蚕食

 アロー戦争の最後を締めくくった「北京条約」(1860年)締結後、清帝国では同治帝が第10代皇帝に即位する。しかし、母親の西太后が実権を握り、以後長期に渡る事実上の独裁政治を実施した。西太后には様々な賛否両論があるが、独裁者なくして大清国は立ちゆけ無くなっていたと言えるだろう。清国というより中華地域が、既に大きな衰退期に入っていたのだ。
 そしてその頃中華地域に対して、いくつもの列強が進出を強めつつあった。
 当時インドをほぼ飲み込み、世界の工場にして世界最強を自認するブリテン連合王国。ブリテンの長年のライバルであり、当時ナポレオン三世の治世下にあって拡張政策を取るフランス帝国。大航海時代からアジア最先端を突き進み、国家の再編成と再興をようやく完了した日本帝国。そしてオーストリアとプロイセンを軸にしてヨーロッパの大国となったドイツ立憲帝国である。
 中でも国家体制の不備のため少しばかり海外進出が出遅れたドイツは、アロー戦争終了頃にアジア各地で活発な活動を開始した。またドイツは、建国当初からの内政不安を簡単に解消してくれるのが海外への進出だった事から、世界各地への探検隊の派遣や海外戦争への介入などを積極的に行っていた。
 とはいえアジアでは、インドは既にブリテンのもの。インドシナにはフランスがちょっかいを出し始めており、それ以外の東アジアの殆ど全ては古くから日本のものだった。しかもドイツ人の宿敵であるフランス人は、日本人と妙に仲が良く両者はなかなか隙を見せなかった。
 そしてどの国も一筋縄ではいかない強国ばかりであり、ドイツが入り込めそうな場所は限られていた。
 そこで、日本の南天地域を武力で奪い取ろうという計画が、一時期水面下で存在していた。
 当時、日本から自治を得ていた南天地域は、近隣の質の低い移民を閉め出して質の高い移民を得ようと、日本圏ばかりでなくヨーロッパからの移民も受け入れていた。だが日本化を前提とた移民のため、初期の流れは極めて小さなものでしかなかった。このため南天では、かなりの期間移民の停滞が見られるようになる。
 そこにつけ込もうとしたのだ。
 だが、軍事力や国力を前面に出した進出は、日本勢力圏相手にはほぼ不可能だった。南天単体に対しても、日本人の統治に反発的な移民を送り込んでから準備しなければならないし、何より現地政府と日本、さらには日本人勢力圏の多くが警戒を強めたため、進出計画は中止を余儀なくされた。最大級の日系国家として頭角を現しつつある蓬莱までが注目したとあっては、流石のドイツも引き下がるより他無かった。ドイツ人がヨーロッパの真ん中でじっとしている間に、世界中に日本人が溢れていた事を思い知らされただけだった。
 そうした中でドイツから注目されたのが、朝鮮半島だった。
 当時朝鮮半島は自ら鎖国していた事よりも、長年日本が無視し続けた事、その日本が現地に他国の進出を暗に認めなかった事の二つが重なって、列強からは半ば放置状態に置かれていた。日本が隣国を放置するという奇妙な行動に出た背景には、織田幕府の期間全般に渡って清帝国と自国本土の緩衝地帯を欲したからだった。そして自ら積極的に動くことのない朝鮮王国は、北東アジアの二大国家間の緩衝地帯としての機能を消極的に果たし続けていた。アジア的モラトリアムの典型例が、朝鮮半島を世界から置き去りにしていたのだ。
 そして19世紀半ば以降の近代化を果たした日本は、自国内の事と世界各地の植民地対策、他の地域での行動が忙しくて、無視し続けていた隣にまで目を向けることが出来なかった。それに日本人達は、あんな貧しい所を誰も欲しがらないだろうと考えていた。事実ドイツ人より先に朝鮮半島の実状を見たブリテン人は、後回しで良いと判断して放置した。フランス人は、まずはインドシナに足を向けて、こちらも朝鮮半島を無視した。これが近所にロシアなどのどん欲な列強が存在すれば事情も違ったが、周りは外交面で酷く鈍重な清帝国を除けば、全て日本の勢力圏だった。朝鮮に手を出すことは火中の栗を拾うようなもので、干渉したところで日本人を怒らせるだけだと誰もが理解していた。万が一進出するとしたら、チャイナ北部が利権として大きな価値が出てくるか、日本が衰退した時である。
 つまり当時の朝鮮半島には、必然と偶然の結果500年間も続いた中世国家が漫然と横たわっており、前近代よりさらに遅れた中世並に開発の遅れた地域である事を意味していた。
 そうした心理的間隙を突いて、1862年にドイツの第一次内閣を組閣し内閣総理大臣に就任していたビスマルクは、アジアへの進出の大きな一歩として、朝鮮王朝に開国のための使節を送り込んだ。当然ながら艦隊と陸戦隊付きで、である。1866年の事であった。
 ビスマルクが首相となった頃には、ドイツという近代国家は順当に外に向けて拡張すべき時期になっていたのだ。
 ドイツの朝鮮開国に対して、当然とばかりに日本がドイツ政府に強い態度で抗議したが、日本はドイツのビスマルク首相の巧みで合理的な交渉に丸め込まれてしまう。曰く、そろそろ彼らも文明化させて、みんなの市場にしなければならない、と。
 そして当時、蓬莱での統合戦争の戦争特需が終わって不景気に突入しつつあった日本では、新たな市場が欲しいのも確かだったので、ビスマルクの口車に乗ってしまう。ブリテンもフランスも一口乗って、取りあえず新しい市場をみんなで分け合う姿勢を示した。そして朝鮮では、ドイツが一番の利益を得ることが前提ながら、多くの列強が入り込んでいじくり廻されるかに見えた。港に使えそうな場所では、みんなが使える租界の準備まで始まっていたほどだった。
 しかし抗議以上の行動を行った国があった。清帝国だ。
 当時清帝国は、北部と西部のほとんどをジュンガルと日本人にかすめ取られ、チベット、青海の支配権も実質面で失っていた。自らの中華世界の中で残す属領及び属国は、チャハル(内蒙古)を除けば、インドシナ半島と朝鮮半島だけとなっていた。しかも阿片戦争、アロー戦争と対外戦争にも負け続きで、国内では長らく続いた太平天国の乱が諸外国の手助けでようやくおさまったばかりだった。インドシナ半島の権利もフランスに脅かされていた。北でも、チャハルの死守どころか、満州の維持すら難しそうだった。北と西の騎馬民族の末裔達は、漢民族地域を嫌っていたので連携など論外だった。
 だからこそ国内政治上で、これ以上の属国を失うことは是非とも避けなければならなかった。
 だが清帝国の行動に、ドイツは当然のごとく反発した。過剰なほど、いやあえて過剰に反発した。清帝国の行動はどちらかといえば予想外だったが、これは朝鮮進出以上に好機だったからだ。
 次なる屍肉を食べる機会を狙ってた列強も、こぞってドイツを応援した。それまでさしたる交流が無かった日本人とドイツ人も急に仲良くなった。みんなが言った。朝鮮半島は先進国によって文明化されるべきである、と。
 そして追いつめられた清帝国は、外交状況や力の差を理解しないままに、またも不用意に戦端を開いてしまう。

 かくして1866年、朝鮮を巡った「独清戦争」が発生するが、すでに朝鮮半島に軍を進めていたドイツ軍は、清帝国軍に対して圧倒的だった。ヨーロッパ随一と言われるドイツ陸軍は、文字通りの鎧袖一触で連戦連勝した。モルトケの紙切れ一つの作戦により、アジアの大国は粉砕された。
 ドイツ側の兵力量の少なさから、戦線はそれほど拡大されなかったが、華北沿岸の多くが戦場となって、戦意に大きな疑問のある清帝国軍はただ撃破されるだけの存在だった。この敗戦があまりにも衝撃的だったため、以後のチャイナ地域では武器と言えばドイツ製と考えるようになったほどだった。ドイツ軍の合理的で洗練された戦術と作戦よりも、武器の方が印象に残ったからだ。
 さらに、追加で派遣されたドイツ海軍の大艦隊は揚子江を上って南京を焼き払い、上陸したドイツ本国の精鋭部隊が、洋務運動で少しずつ近代化されつつあった北京や天津方面の清帝国軍主力を難なく粉砕した。武器だけ近代化されただけの軍隊など、卓越した戦術能力を誇るドイツ軍の前には烏合の衆に等しかった。
 しかもこの戦争に、インドシナに手を伸ばし始めていたフランスが実質面で荷担してきた。インドシナの利権を得るために、適当な理由を付けて宣戦布告した上に派兵したのだ。ブリテンもさらなる利権獲得を目指して加わり、清帝国はアロー戦争に続いてまたも袋叩きにされてしまう。
 あまりの清帝国の惨めさに、アジア情勢には不干渉を決め込んでいた筈の蓬莱連合が、列強間での紳士協定を結んではどうかと苦言を呈したほどだった。
 一方でヨーロッパ列強と似たり寄ったりだったのが、周りに合わせて半ば何となく帝国主義路線を進んでいた日本だった。日本は、アロー戦争同様に各国の窓口になることを条件に、清帝国にさらなる利権割譲を要求してみた。今度は満州北部の割譲が条件だった。ここを得れば、沿海州の東からの玄関口である西往市から大蝦夷奥地に鉄道を敷設するルートが比較的容易くできあがるからだ。
 しかも日本は意外に抜け目無く、今まで得た沿海州、黒竜江河口部を合わせてヨーロッパ各国に市場開放する事を水面下で伝えていた。何しろ、数千キロの鉄道を引くには金がかかった。
 そしてドイツ軍の精鋭部隊が北京前面まで至った時、列強の口裏合わせで戦争は突然のように終息した。
 この時の列強は、武器を持った詐欺師の群だった。

 その後1867年、両者の講和を仲介した日本の博多で国際会議が開催された。そして「博多条約」が交わされたが、この講和会議を仲介した日本は満州の北半分の割譲を受けて、ドイツは朝鮮での優先権を獲得した。朝鮮の独立も国際的に認められた。当然だが、朝鮮王朝政府の意向などは、ほとんど無視されていた。他にも、フランスはインドシナが清帝国の属国でないことを確認させた。こちらも現地政府は無視されている。ブリテンは香港植民地の大幅な拡大と、借り受けるのではなく領土割譲に切り替えさせた。それに前後して、仲介手数料代わりに、チベット・青海での優先権をジュンガル(+日本)に譲った。チャイナ奥地は、どうせ自分では維持できない物件だったので、新たな利権を得ることに比べれば安い物だった。借り受けるのではなく植民地にした事で、香港は新たなカルカッタになったのだ。
 そして東アジアの国々を襲っている惨状に対して、日本は素知らぬ振りを決め込んだ。自主防衛もできない国を守ってやるよりも、自らの勢力拡大の方が優先する時代だったからだ。それに日本の国是上、自分たちはアジアの国でないと定義していたので、助ける義理をあまり感じていなかった。加えて言えばヨーロッパは遠く彼方であり、日本はヨーロッパ列強の東アジア進出を特に脅威とは認識していなかった。精々、邪魔くさい奴らが近くにまで出張ってきた程度に思っていた程度だ。日本も十分以上の列強だったからだ。
 その証拠に、仲介手数料として満州北部を自分たちの大蝦夷に付け加えた。
 そして全ての関係国が、上海に租界を持つか以前から存在する租界の領域を拡大することになる。これは日本や苦言を言っただけの蓬莱も例外ではなく、この時チャイナ情勢に首を突っ込んだ全ての国が、広大な租界を得ることになる。全員が共犯者にされたのだ。また上海自身も広大な線引きがされた後に、国際管理都市として諸外国と清帝国の間で条約が交わされ、非武装中立地帯まで作った殆ど自治独立地帯に変化した。諸外国の軍隊も、話し合いによる分担で常駐するようになった。国際軍港というものまでが整備された。
 以後上海には、上海連合総督府という奇妙な行政府が作られ、形式上の選挙という形で列強持ち回りの総督が任命され、上海一帯の地区は以後の中華侵略の最大の拠点となっていく。
 まさに中華蚕食だった。
 この結果、アロー戦争と太平天国の乱で落ちた清帝国の威信はさらに低下してしまう。一方では、西欧諸国のチャイナ地域への進出が強まり、漢民族を中心に民族運動が起きる切っ掛けにもなった。一方では、この戦争の敗北責任をとって、洋務運動を進めていた李鴻章が一時的に失脚。清帝国は近代化のための指導者を失なってさらなる迷走に入っていく。
 そして上海を窓口として、海外に逃れる中華系移民の数が以後激増するようになり、主に蓬莱大陸を目指して太平洋を乗り越えていくようになった(※南天連邦は、当初から中華系移民は規制していた)。
 なお上海租界は、蓬莱が得た初めての植民地的利権であり、統合戦争からの戦災復興に明け暮れていた筈の蓬莱国民の一部に、新たな道があることを示す結果となった。
 新天地(フロンティア)はまだまだ存在するのだ、と。

●日本帝国とロシア帝国の対立