●北ユーラシア戦争

 1880年代に入ると、ユーラシア大陸北部中央でのロシアと日本の対立が俄に激しくなった。
 ロシアでは、アレクサンドル2世が治世半ばにテロリストによって爆殺され、1881年3月にアレクサンドル3世が即位した。彼は、様々な生い立ちの影響からロシア的な大保守主義者であった。
 積極的に国内反体制派や異民族を弾圧し、皇帝権力の強化と体制維持に努めた。そして政策の一環として、シベリア奪回によって皇帝権力の安定化を図ろうとした。それがロシア帝国の保守的考えだからだ。ちなみに、この時特に弾圧された異民族の中にユダヤ人が含まれ、ユダヤ人に対する過酷な行いによりポグロムと言う言葉が生まれたのもこの頃である。
 またユーラシア東部に目を向けた背景には、解放農奴のための農地を確保しようと言う意図があった。当然ながら、日本人達がせっせと開発している中央アジア、シベリアの領土化と市場化をもくろんでの事だ。
 一方の日本側は、自らの領域の近代化促進が一定段階を過ぎて、次なる躍進のためにウラル山脈の地下資源を欲しがるようになっていた。自分たちの側にも地下資源は見つかったのだが当時は少ないと判断されており、ウラル山脈の西側の方にこそ豊富な鉄鉱石などの地下資源があると見られていたからだ。そして中央アジアと西大蝦夷の境界一帯の人口が鉄道敷設を中心とした急速な開発で一定数に達していたため、10年以内に何かを欲するのは確実だろうと言われていた。この時期の大蝦夷は、内実面で第一期膨張期にあった。ただし今すぐ欲しいというわけでもなく、侵略するよりは貿易を有利にしようというのが主な考えだった。そして日本人達は、妙に警戒心の強いロシア人を気にしつつも、自分たちの大地の開発と開拓に精を出した。蓬莱の宣伝文句だった「努力が報われる」という考えは、日本の植民地での共通認識に近かった。
 こうしてみると日本人の方が気持ちの上でゆとりが多く、また余裕がある故に侵略性が高いのではないかと言われた。そして内外双方で追いつめられたロシアの焦りを誘い、ロシアが先に手を出すことになる。
 ただしロシア人が手を出したのは、まだ名目上は独立を維持していたジュンガル汗国に対してだった。この辺り、ロシアは懲りていないと見るべきだろう。

 当時ジュンガルの領域は、カスピ海に注ぐウラル川から始まって、中央アジア全域を経てモンゴル、チベットにまで至っていた。全ての領域がラマ教でおおむね統一されており、日本人などの手により主要部には鉄道も敷設されていた。鉄道が敷かれた周辺では、地下資源の開発も急速だった。しかし経済力と軍事力は特に密度の点でまだ脆弱で、域内の総人口も農業化の促進と移民の増加があっても2000万人に満たなかった。当時としてはそれほど少ないわけでもないのだが、人口は広大な領土に散らばっている上に、ロシア人の国家は総人口が一億人に迫るヨーロッパ世界最大の人口大国だった。大蝦夷の人口も、当時併合したばかりの北満州を含めても2500万人程度だった。つまり、広大な領土の人口を全部含めてもロシアの半分以下になる。また日本本土の総人口は6000万人を数え、他の日本領の人口を含めればロシアを圧倒できたが、日本列島は遠すぎた。
 しかし、ジュンガルの西部地域(中央アジア)をロシア人に取られてしまうと困る国が一つあった。ブリテン連合王国である。
 ブリテンは、この地域を現状のまま日本人が持っている場合と、ロシア人が得た場合の危険度の高さを比べてみた。しかし結論はなかなか出なかった。日本人は百年来のブリテンの宿敵であり、黒海、バルカン半島、コーカサス地域で南下政策を取るロシアもまたブリテンの敵だった。そしてロシアがジュンガルを得た場合さらに南へと進むのは確実で、トルコ、ペルシャ、アフガニスタン、そしてインドが大きな脅威を受けることは半ば確定事項だった。東に進むには日本と全面的に対立しなければならず、それをロシア人が選択するとは思えなかった。大蝦夷は、世界でも有数の過酷な大地だったからだ。
 一方の日本だが、彼らの目は自分たちの足下かウラルの資源に当面向いており、今までの経緯から考えても南下してくる可能性は低かった。どこかに向かうにしても、さらなる目標であるコーカサス地方だろうと見られていた。しかも日本人達は、自らの教化政策で近隣地域のイスラム色を薄めるという効果を持っており、実のところ今後のブリテンが今後計画しているペルシャ、アフガニスタンへの進出を考えたら、結果的な利益は大きいと判断できた。影響下に置く時や植民地化に際した時にイスラムが薄れている方が、様々な事が容易いと考えられたからだ。
 かくしてブリテンは、損得勘定の結果日本側に少しばかり好意的態度を示すことにした。ドイツも日本人が弱くなったりロシアが強大になることは避けなければいけないので、引き続き大蝦夷への投資を増やす事で日本との友好関係を維持した。しかもドイツにとってはチャイナ進出の橋頭堡たる朝鮮の円滑な統治のため日本との友好関係は欠かせず、日本も自身の安定のために朝鮮という近在を得たドイツとの友好関係を望んでいた。日本にとっても、ドイツという存在は日に日に重要性を増していた。しかし当時のドイツは、バランス感覚に富んだ政治家だったビスマルクの影響が強かった。ドイツの後の政治家達が、プロイセンの復権のために民衆を煽り「黄禍論」を唱え、日本及び有色人種全般と対立するのはまだ先の事だった。
 一方でブリテンもドイツも、日本が勝ちすぎることは望まなかった。このため日本が大きく勝利した場合に備えて、日本に因縁を付けるか、日本本土と大蝦夷を切り離せないかと画策するようにもなっていく。ヨーロッパ列強をして、そう考えさえるぐらいに日本の国力が存在すると考えられていた。何しろ当時の日本は、世界最大の領土を有する国家だったからだ。
 一方で日系国家の蓬莱連合は、都市部の資本家や中央政治家達が次の巨大な市場としての大蝦夷に注目しており、日本との関係強化を強く望んでいた。大蝦夷への援助と投資、さらには移民の斡旋にも熱心だった。独立前後の深い対立は、統合戦争での協力により解消されたと考える蓬莱国民も多く、蓬莱政府の親日姿勢は肯定された。むしろ統合戦争での負の記憶が、日本人連合、有色人種合従連合として日本列島との緊密な連携を望み始めていた。
 また蓬莱での彼ら流の近代化を経た先民達は、ユーラシアでの自分たちに似た人々を手助けする事を半ば目的とするようになっていた。白人の横暴から伝統的文化を持つ有色人種を守ることは、彼らの崇高にして神聖な義務となりつつあった。その証拠に、白人の進出が激しい有色人種国家に対して、義勇軍や傭兵などを送り込むようになっていた。アフリカの先住民を啓蒙するための探索や行動も徐々に加熱しつつあった。
 話が少し逸れたが、当時の日露情勢には世界中の列強が首を突っ込んでいた。
 そして困ったのは、またもフランスだった。
 彼らの国家としての友人である日本人とロシア人が争うことは、国益上何の利益もならないからだ。一応はロシアの近代化を手助けするとしてロシアとの関係強化に踏み切っていたが、日本との関係も可能な限りそれまで通り維持された。また双方へのチャンネルを確保し続け、争いが破滅的になるまえに講和できる算段を始まる前から整えようとした。逆を言えば、互いを交渉のテーブルに付かせることができるのはフランスを置いて他になかったので、これはロシア、日本共に好意的に見られたし、他の列強もありがたがった。これで遠慮なく、世界の僻地で列強同士の戦争ができるのだ。

 世界の列強から久しぶりに脚光を浴びた日本だが、今ひとつ腰が定まっていなかった。
 確かに大蝦夷内陸部の開発促進のためには、ウラルの資源が欲しかった。とはいえ、現地に住むロシア人を沢山抱えたくはなかった。また大蝦夷単体での国力はまだ低く、日本本土から大量の軍隊と軍事物資を送り込まなければ、とてもではないが陸軍大国ロシアとの戦争などできなかった。幸い大蝦夷鉄道はほとんどが完全な鉄道で結ばれて、輸送力は飛躍的に強化されていたので、その気になれば百万の軍隊を日本列島からウラルに送り込むことも可能だった。大蝦夷各地の近代化と動員能力も、一定水準に達していた。その気になれば、日本本土を含めて200万人以上の兵力動員可能だった。急に積極的になり始めた蓬莱などは、日本政府に自国での統合戦争の資料を渡して総力戦の参考にしてくれと言った。戦争国債も低利で受けるとも言い、物資や資金面でも大いに協力すると言った。ドイツ人と蓬莱人は、必要な武器があるならいつでも用立てると言った。ブリテン人はいつもの二枚舌で、日本人とロシア人の双方に色々言っていた。
 しかし日本人は煮え切らず、先に動き始めたロシア人によるジュンガル西端部への浸透を許すことになる。

 日本とロシアの争いの発端となったジュンガルは、19世紀も末期に入ると日本人の支えがなければ、近代国家として殆ど何もできなくなっていた。東トルキスタン東部を祖とする支配民族は近代化も怠り少数のままで、地域内での識字率は日本圏内では低くかった。産業革命はまだ緒にもつかず、近代戦を戦いうる国民国家にはほど遠かった。僅かに日本の指導と援助で近代化された騎兵戦力しか頼るものはなく、これだけはコサック騎兵に太刀打ちできると考えられていた。またジュンガル国民の過半数を構成する草原の民達は、ロシア人に対するなら騎馬戦力さえ充実させておけば問題ないという程度の認識しか持っていなかった。
 そしてそのコサックが、頻繁に国境線を侵してきた。
 彼らの言い分に従えば、神からロシア人に与えられた土地に入って何が悪い、ということだった。
 一方のジュンガルは、相手が少数のコサックだと分かると追い出すことを決意する。多数の騎兵部隊を送り込んでコサック達を容易く追い払った。
 だがそれはロシアの罠であった。
 ロシア政府は、ジュンガルが国境を突破してロシアに侵入したと国際的に発表。自らの反撃に対する正当性を訴えると、ジュンガルへの宣戦布告と討伐を宣言したのだ。
 これに驚いた日本政府は、ジュンガルへの支援の発表と同時にロシアとの交渉を模索。しかしロシア側は話を引き延ばす間に、中央アジア東部のジュンガル地域への侵攻を進めるだけだった。そうした状況が伝えられると、現地の大蝦夷各地では反ロシア感情が爆発。直ちに東護市の大蝦夷総督府の権限内で郷土軍、義勇軍が大蝦夷各地で編成を開始され、準備出来次第ロシア国境のウラル各地へと向かった。また日本本土でも反ロシア感情が高まり、日本政府もついにロシアに戦線を布告するに至る。
 1882年7月末、「北ユーラシア戦争」が勃発した。

 戦争当初は、先制攻撃を行ったロシア軍が優位だった。しかも今度は、日本人に比べると本国からずっと近いという地の利もあった。増長した日本人に遂に鉄槌を下すのだ、という言葉もロシア軍の各所で聞かれた。
 しかし大蝦夷の日本人達は、遊んでいた訳でもなければ、平和ボケもしていなかった。北の過酷な大地は、数百年の間に現地の日本人を鍛え上げていた。
 泥の海の西大蝦夷(シベリア)は、鉄道沿線に作られた日本人の拠点、特に最前線の女帝市(旧エカチェリンブルグ)を中心にした東ウラル要塞都市群は、鉄道網とつながることで補給線を確保したため鉄壁の要塞地帯の様相を呈していた。守備兵の数も戦闘開始当初から10万人を越えており、ロシア軍が本格的に攻撃するまでに大蝦夷各地からの補充によって30万人を数えるまでに増強されていた。日本本国でも「北壁の女帝」などと持てはやされ、要塞線の総司令官は時の英雄となった。
 しかし近代化に遠いジュンガル地域は、近代に向かっていた戦争に対応できなかった。
 南方のカスピ海沿岸では、ロシア軍の前進、特にコサックの大騎兵部隊の進撃が続いていた。
 ジュンガル側も全土から騎兵の本格的動員を進めていたが間に合わず、一時はアラル海近くにまで押し込まれてしまう。
 しかし冬の到来と共にロシア軍の進撃は停滞した。ロシア人達も、攻める側となるとまだこの時代に冬の戦争を本格的に行う力はなかった。
 草原でも同様で、互いに冬営へと入った。シベリア(西大蝦夷)の冬は、ロシア人すらすくんでしまうほど強力だった。しかも日本軍側は準備万端の要塞に籠もっているのに、ロシア側はマイナス20度以上の世界に放り出されていたのだから、戦争が停滞するのは当たり前だった。
 そしてここからが、日本とロシア、互いの国の近代化の差が目に見える形で発揮される。
 それまで日本本土で準備されていた戦力が、続々と鉄道で西大蝦夷や中央アジアに進出した。また大量の武器と兵站物資も同時に送り込まれた。大量の物資が日本本土で生産された。物資や武器はジュンガルにも多数渡され、日本人軍事顧問による軍隊の再訓練も実施された。ジュンガルの中にも、深く切り込まれた戦争によって強い危機感と民族意識が芽生え始めており、日本人の指導により急速に軍備が整備されていった。また遠路蓬莱からは、先民を中心とする義勇兵までがはせ参じた。
 3月に入って冬営を止めたロシア軍が進撃を再開してみると、眼前には近代化された巨大な軍隊が立ちはだかっていた。
 しかも戦闘再開当初の中央アジアでは、ロシア軍の前に日本軍、ジュンガル軍主力部隊の姿はなく、コサックは警戒しつつも前進した。いずれ敵の主力部隊が現れると分かっていたが、その主力部隊を叩く事が草原での戦いの目的なので、進むより他の選択肢がなかった。
 そして、様々な装束に身を包んだ有色人種達は、大挙姿を現した。日本の大蝦夷兵の中には、胸甲と鉄兜を備えた重騎兵までがいたりもした。ご丁寧に、ダイミョーの細長い旗まで掲げられていた。見たこともない派手な羽冠の姿も見える。
 シムダリア川のバイコヌール呼ばれる何もない貧しい草原で、日本とジュンガル、さらには蓬莱義勇騎馬隊を加えてた大騎兵部隊が待ちかまえていたのだ。しかも日本軍の後ろには、野戦築城した陣地を控える最新鋭の重砲兵が配置されていた。ロシア軍よりも多い騎兵達の多くも、旋条銃を持っている。
 そこで行われた戦闘は、様々な要素の差からロシア軍コサック騎兵主力が、日本軍の機動力と火砲の威力によって粉砕されてしまう事で幕となった。この戦いは、歴史上最後の騎兵同士の戦闘(決戦)と言われ、双方合わせて5万騎もの騎兵による戦いが演じられた。その壮観さと雄壮さは、残された文献や写真などにより今に伝えられている。
 歴史的にタタールの影に怯え続けていたロシア軍は、タタールの後継者に敗れ去ったのだ。
 一方北部戦線(ロシア軍はザウラル戦線と呼んだ)では、春の泥濘前に大規模な戦闘が各地で展開されたが、ロシア軍はことごとく日本軍要塞の前に損害を積み上げただけで終わった。しかも日本軍の要塞は、ベトンや鉄骨などの最新技術を用いることで格段に強化されていた。
 日本軍は、蓬莱から伝えられた塹壕と要塞での戦い方を、最新の兵器と技術を用いて行っただけだったが、その威力と犠牲の多さはすさまじかった。日本軍が大量使用したガトリング砲や散弾砲、カノン砲などの最新兵器と、砲弾の供給を可能とした工業力と輸送力が結びついた結果が、各地の戦場で猛威を振るった。女帝の街前面にある近代要塞群の前面は、ロシア人の血で染め上げられた。その有様は、セバストポリ要塞を越えていた。
 そして一ヶ月ほどの戦いの後に、再び泥の海が到来して戦線は膠着する。その後各地で小競り合いが行われ、短い夏がやって来る。しかし夏の戦場には、日本軍とジュンガルの大騎兵部隊がロシア領内に切り込み戦線南方に到着していた。当然彼らは戦線後方へ回り込もうとして、前線の要塞及び塹壕線からは重砲弾が降り注いで、北部のロシア軍主力を釘付けにした。
 日本軍の反撃によって、ロシア軍の戦線は突破される事になった。
 このためロシア軍は、自らの伝統に従って後退戦術を開始する。当初はうまくいくかに見えたが、騎兵の有無が勝敗を決めた。そして一旦ロシア軍の後退と退却が加速すると、ロシア軍自慢の砲兵は足手まといとなった。このため多数の物資と武器が遺棄された。後は日本軍砲兵と騎兵に追い立てられるだけとなり、ロシア軍が今回の戦争の策源地としたボルガ川近くにまで追いやられてしまう。ウラル西方のバシキール地方などは、北部の要塞から出てきた兵達により完全に日本の占領下となった。
 一方中央アジアで勝利した騎兵部隊の一部が、北上せずにそのまま西進する。各地に籠もる屯田兵型のコサックを蹂躙しつつ、猛スピードで前進した。
 騎兵達の足はロシア側の抵抗が微弱なこともあって速く、秋の泥の海が訪れるまでにボルガ川東岸にまで達してしまう。もう川の向こうは完全にロシアで、本当のヨーロッパは目前だった。ボルガ河口の街アストラハンも、騎兵達の占領下となった。
 しかもさらに一部は威力偵察を行うために西部、北部へと躍進し、各地で鉄道や電信を破壊しつつロシア軍の後方を攪乱していった。
 かくして、ボルガ川中流及び上流域の都市を起点に防衛線を再構築した筈のロシア軍主力は、後方(ロシア本国)との連絡もままならなくなり徐々に孤立していった。
 ロシア本国は、各地で大規模な動員を行って日本軍を追い返そうとするが、今度はさらなる増税や徴兵といった負担を前にロシアの民衆が反発した。既に祖国防衛戦争に入り始めていたのに、先の混乱から内政面で回復できちなかったのだ。
 その頃ロシアでは、戦争発生と共に各地で戦争特需が起こって工業化が進展したが、同時に前近代的な社会体制との間に多くの矛盾が噴出し、社会不安はますます増大していた。そうした中で、ロシア軍の敗北とさらなる動員と増税が民衆の上に上積みされた結果だった。
 一方の日本軍も、あまりにも広範囲となった戦線維持のための戦力が足りず、また大蝦夷鉄道だけでは兵站の維持に大きな苦労を強いられていた。強引に夏の北極海から補給を行おうとしたが、出来ないことはないが、極めて難しい事が浮き彫りになっただけだった。しかも皮肉な事に、各地での戦闘で勝利するほど日本の負担は増大した。今度は占領地の住民に、様々な物資を供給しなければならないからだ。このため日本政府内では、ロシアが自国民を使って日本を破産させようとしているのではないかと疑いが持たれたほどだった。日本は大蝦夷鉄道の全線複線化工事を、戦争に並行して急ピッチで行ったほどだった。
 日本が浪費する戦費も、鰻登りで上昇線を描いていた。
 かくして戦況は、1883年冬に完全に停滞した。ボルガ川と西部で、両軍合わせて200万人以上の兵士達が睨み合って冬営に入った。

 そうした中、ロシア皇帝アレクサンドル3世一家が列車事故にあって皇帝は負傷。その後皇帝は体調を崩してしまう。これをロシアは日本の仕業だとしたが、けっきょくロシアの世論は盛り上がらなかった。事故調査も行われたが、単なる事故と結論された。
 そしてロシア皇帝の負傷を機会に両者の歩み寄りが始まり、ここで諸外国が双方に講和を打診した。当初から両国の関係を取り持とうと努力していたフランスが仲介国となり、パリで講和会議が開催された。
 歴史上何度目かのパリ会議だった。
 会議の結果、日本側は占領地のボルガ川河口部の東岸を返還して元国境線のウラル川まで後退した。しかしウラル山脈一帯は、日本への割譲と大蝦夷への併合が決まる。
 新たな国境線は、北極側のカラ海からウラル山脈の尾根を伝って南下して、途中でボルガ川上流域に折れて、バシキール地方を日本が抱えつつウラル川をそのまま下ってカスピ海に至るラインとなった。
 北ではペルミが、南ではウラリスクが新たに日本側の国境の町となった。ノヴァヤゼムリャ島も大蝦夷に割譲された。戦争終盤に陥落したヴォルガ川中部の要衝サマーラ市はロシアに返還されたが、そこはモスクワまで1000キロの距離でしかなかった。そして日本人が新たに領土とした場所は、ロシアとは言え地理的にはヨーロッパだった。近代史上、トルコ以外のアジア人が、初めてヨーロッパを領土としたのだ。
 賠償金の支払いこそ無かったが、ロシアの完全な敗北だった。
 その後アレクサンドル3世は敗戦の心理的後遺症もあって体調を崩し気味となり、1894年11月に死去した。息子のニコライ(後のニコライ2世)は、この時の体験から極度の反日家皇帝となっていく事になる。
 なお日本では、北ユーラシア戦争はロマンが許される最後の戦争だと言われる事が多く、個人が戦争に影響を与えることが最後の戦争だったと言われている。実際、要塞指揮官や遊牧民族の族長などの活躍が、新聞をにぎわしたりした。
 しかし一方では、日本にとっては国民国家としての戦争であり、以後日本では本格的に国民が国家の主人公となっていく。

 その後の大蝦夷及びジュンガル汗国だが、新たにウラル全域を得た事で、戦争に協力した列強各国がより一層市場開放を求めるようになった。一方の日本側も、ロシア本土に遂に踏み込んでしまった大蝦夷を大きな負担に感じるようになった。自らの市場としては保持したいが、自国領として有するのは、今回の戦争でもはや限界が露呈された。これ以上進むことも物理的に不可能であり、8000キロも彼方でのロシアとの対峙は日本列島にとっては大きすぎる負担だった。それに日本列島の50倍以上もの土地は、長年慣れ親しんだとは言え余りにも広大だった。
 加えて、度重なる戦乱でジュンガル各地の民族ばかりか日本人移民の間にも自立心も強まっており、また独立戦争などされたらたまったものではなかった。
 そこで日本は、大きくなりすぎたペットを捨てるように、大蝦夷を手放すことを決意する。
 新たな国家の胎動だった。
 しかし話は、誰もが大蝦夷の独立を望んだため、ロシアですらが望んだこともあって極めて順調に進んだ。
 現地は争いもなく独立する事で、ロシア人の反撃を防げると考えた。ロシアは、日本の影響が少しでも減るのならと歓迎した。他の列強も、独立して日本の影響が下がり、市場として使えるのならと好意的だった。
 かくして、北ユーラシア戦争の講和が成ってから僅か5年後の1889年に、新国家が誕生する。
 ウラル山脈からカスピ海を経てほとんどヒマラヤ造山帯と万里の長城をなぞるように国境を描いた、世界最大の領土を持つ巨大な国家の誕生だった。土地面積だけから見ると、本国だった日本列島の方がトカゲの尻尾のように切り離されたような有様であった。(※日本列島とその周辺部から東印度にかけてを有するので、日本も面積的には十分大国のままだった。)
 新たな国の名は「北ユーラシア連合首長国」。新たなモンゴル帝国の成立だった。国土面積は蓬莱連合を上回って世界最大規模となり、首都は鉄道時代に入ってすぐに大蝦夷とジュンガルの合流点となった東護市とされ、そこにボショクト・ハーン(ホンタイジ)の王宮と首都機能が置かれることになった。
 なお独立と同時に、蓬莱、日本を例にとった近代憲法が制定された立憲君主国家で、ボショクト・ハーン(ホンタイジ)は所属民族の話し合いによるで選ばれ、基本的には各民族持ち回りとされた。また議会は衆議院と首長院から構成され、各部族の利益代表が首長院に議員を送り出すことができた。この点は、近代国家としては遅れていた。さらには各民族ごとに国(州)を設けて、高度な内政自治を各国ごとに任せる形とされた。要するに、ロシアやチャイナから身を守るための国家連合体に近い国家であった。
 ただしそれだけに、19世紀終盤の成立時点では高い結束を誇っていた。また公用語と商業言語は、域内に広く分布していた日本語が第一公用語に制定され、各国・各地では独自の言語が公用語として設けられた。
 なお国教は、歴史的権威と名目元首の称号の関係からラマ教に定められた。しかし権威面での事で国民には強制されず、あくまで称号などの面から求められた名目の上での事だった。しかし実際面でも各種仏教(ラマ教、大乗仏教)が最大派となり、イスラム教は若干残っていたが、ほとんどが数百年の間に消え去っていた。それよりも、ウラル地域に住んでいたロシア系と、東ヨーロッパ系の移民が持ち込んだ各種キリスト教の方が、数においては第二勢力となっていた。
 そして独立以後は、この国の後援国となった日本、蓬莱、ドイツが資本進出を強化した。このことも公用語と商業言語が日本語にされた強い背景となっている。
 一方では、独立を果たしたことで入植者が爆発的に増えた。日本人は日本海側から鉄道を伝って続々と入植し、多くが領土になって間もない北満州に居着いた。チャイナ系はそこら中から越境して流民となり、ドイツ人とドイツの影響のある各地からの移民がウラル山脈に入植していった。そしてヨーロッパ方面から最も移民が多かった民族が、ドイツ帝国に多数住んでいたポーランド人であった。またロシア領内に多く住んでいたユダヤ人の多くが、この時期以後ウラル山脈に大挙移民している。これはロシア人による手ひどい弾圧にあった影響であったのだが、新天地でもあまり馴染むことがなかった。アジアの人間から見ても奇妙なまでの被害者意識と選民思想が、国家と国民が望んだ万民平等に反していたのが原因だと言われる。

 かくしてロシアが完全に躓いている間に、北ユーラシア連合は人口の拡大と国家体制の確立を急ぎ、20世紀に入る頃には一定の自立を果たせるまでに成長していく事になる。


●世界分割完了と蓬莱の対外膨張