●日本文明圏

 1839年に成立した日本帝国は、独立後も各植民地の独立を許してばかりで、スペインのように徐々に衰退しているように見られる事があった。
 しかし1882年の「北ユーラシア戦争」で見せたように、近代国家、国民国家としては一定のレベルに達していることは間違いなかった。総力戦を行って見せた上に、陸軍大国ロシアを破ったのだ。また「アロー戦争」を始め、中華地域への進出も積極的に行っていた。アフリカのマダガスカルやラテンの大足のように、世界各地の植民地も保有し続けていた。
 20世紀に入る頃の本土人口も、本土と呼ばれる日本列島だけで7000万人近くに達しているし、日本列島はアジアで唯一近代工業や商業が盛んだった。加えて、相互貿易が多いとはいえ市場には事欠かないし、近隣に競争相手足り得る近代国家が存在していなかった。多少ブリテンやフランス、ドイツ、蓬莱より遅れているところはあったが、ヨーロッパ列強の一般程度の能力は維持されていると見られていた。少なくともロシア以上の近代国家であり、東アジア唯一の近代産業が発展した国だった。文化レベルも高いと判断されており、日本人達の文化、文明の源泉、さらには民族発祥の地としての地位も保たれていた。二千年を越えるとされる天皇(皇族)の権威も、近代化以後は年々向上を続けていた。
 またスペインのように多くの植民地を失ったと言われていたが、それらは日本が抱えたくても抱えきれないほど広大な場所ばかりでだったからだ。世界最大の国家へとばく進している蓬莱大陸(蓬莱連合)、巨大化の一途を辿った大蝦夷(北ユーラシア連合首長国)、このどちらもが世界の陸地の10%以上を占める広大な大地を領土としていた。どちらも、日本列島から統治できる存在ではなかった。また南天連邦共和国も、日本列島の20倍以上の規模もある、れっきとした一つの大陸全土を占める国家だった。
 また人口規模と産業発展度合いから、蓬莱連合以外はなかなか日本列島から完全な自立はできなかった。無理に独り立ちしたとたんに、他の列強に食い尽くされてしまう恐れがあったからだ。日本と蓬莱以外には、有色人種としての白人に対する強い警戒感があって、これが世界各地の日本人同士の結束をより強めていた。
 このつながりが、ゆくゆくは日本人及び日系国家の巨大な連合体を作る道しるべになっていく。
 最強級の列強に対しては少しばかり力不足とはいえ、日本はアジア唯一の近代国家にして世界一級の列強だった。その軍事力、国力はブリテン、ドイツには若干及ばないものの、それ以外となら十分張り合える力を持っていた。国家形態も国民国家で、議会制民主主義も相応に機能していた。国民の民度、教育程度も高かった。しかも日本本土はヨーロッパから遠く離れており、単一民族の島国という非常に全面戦争が行いにくい相手だった。
 故に南天連邦は、長い間日本の影響下に含まれ続けていたし、北ユーラシア連合と完全に名を変えた大蝦夷も、日本の影響が強く残っていた。また、呂宋、東印度諸島など東南アジアの半分は引き続き日本人のものだったし、太平洋各地の島嶼も半分が日本の勢力圏に含まれていた。アフリカ東岸のマダガスカル島、ラテン大陸南端の大足州、南氷洋近辺の細々とした島嶼群も日本の海外領土(植民地)だった。ヨーロッパ列強の壁を前にアフリカ大陸そのものへの進出は蓬莱のように行えなかったが、正直領域の維持・経営だけで手一杯なほどだった。
 とどのつまり、日本は一足早く帝国主義国家として熟成してしまっていたと言えるだろう。
 大きな理由は、東アジア・太平洋が世界最先端の西欧世界からあまりにも遠く、近在には日本の競争相手となる国が存在しないのに、周りも見ずに世界の頂点を目指してがむしゃらに走り続けた結果だった。
 蓬莱連合が独立以後急速に日本の競争相手として浮上したが、そもそも蓬莱連合は日本語を話す日本人を中心にした、日本人が作り上げた新興国家だった。蓬莱の独立戦争によって、国家同士の相互理解のための通過儀礼(=戦争)も終わったようなものだった。そして独立した蓬莱は、統合戦争で自らの歪んだ鏡だったアメリカを飲み込み、戦後は急速に大国としての膨張を続けていた。19世紀末の頃になると、工業生産力で世界一となり、総人口も一億人以上を抱える自他共に認める大国へと成長していた。

 そして主に西欧列強の帝国主義的世界分割が終了した19世紀も終盤の頃、日本人及び日本語、日本圏と呼ばれる勢力圏もほぼ固定化した。それは織田信長台頭から数えて約300年間に果たされた、汎日本世界の完成でもあった。
 なお、世界の陸地の約40%と南西部を除く太平洋の全てが、日本人と日本語が広まった大まかな領域だった。南半球の海洋地域の多くにも日本人のテリトリーが薄く広く広がっていた。蓬莱の手により、アフリカの一部にも日本人の影響が広がりつつあった。ウラル山脈の西側では、有色人種の手によりロシア人の一部に対する日本化政策すら行われていた。西アジアにも、少しずつ勢力が伸び始めていた。
 日本人及び日系人の人口総数は、20世紀が始まったばかりの世界人口が約16億人の時代に世界比率で約14%(約2億2000万人)に及んでいた。国家として日系国家で見た場合の総人口は、植民地を含めると22.5%(約3億6000万人)に及んでいた。当然これらの国々では、日本語が公用語や標準語とされている。しかも、これだけでも大きい数なのだが、商業言語や流通言語としての日本語普及率を見ると、さらに上昇する。これにはメヒコ、アルゼンチンなど日系移民、日本語圏からの移民が進んでいる国や、カナダといった国境を接している国が含まれる。東南アジア全域での日本語使用頻度も高いし、清帝国の一部ですら使用されている。それらの地域で日本語を常用している人口数は、日系人を含めて約1000万人以上増加するので、対世界比率の23%(約3億7000万人)に達する事になる。商業として日本語を使える者の数はさらに増加する。
 しかもインドと清帝国の合計人口が世界の半数近くに当たる約7億人に達する時代での23%なので、先進世界における日本語の比率は極めて高かった。実質的には、当時の世界の半分と言ってもよいぐらいだ。識字率、つまり文字を読み書きできる人間の割合で見てしまうと、さらに比率は上昇した。しかも日本人系国家のほとんどでは、早期に実施された公教育(義務教育)と平行して日本語の公用語化と普及に大きな努力を傾けており、国家のうち二つは巨大な移民国家であった。
 100年後の二十一世紀初頭になると日本語を話す人口(国家)は約9億人に達し、商業言語としての日本語比率は約12億人にもなる。
 20世紀初頭で、世界の陸地の四割で日本語が使われており、環太平洋地域では清帝国領域とラテン地域を除いては、日本語が話せなくては文字通り話にもならなかった。現代においても、世界主要公用語の筆頭に上げられている(※世界第二の公用語はフランス語で、フランス語が古くからのヨーロッパ上流階級の共通語だったためだが、日本語圏の国々が第一外国語としてフランス語を選んだことも大きく影響している。ちなみに第三がブリテン語、第四がスペイン語となる)。
 20世紀初頭の時点でも、スペイン語圏内のメヒコやアルゼンチン、チリでも、日本語が話される比率は一定数に達している。19世紀末から20世紀の前半では、上記三国で日系及び日本語の浸透が脅威と認識されていたほどだった。
 しかもこの当時は、ヨーロッパ公用語が上流階級の言葉としてフランス語が流通していたのと違い、日本語は庶民の言葉として普及なので、その意味は大きかった。

 なお、この時代使われる日本語は、旧来の日本語からいくらか変化を遂げていた。もちろんだが、単に日本列島内での平準化が進んだというだけではない。
 アルタイ語系の表音言語や文法形式は相変わらずだったが、蓬莱仮名と呼ばれるアルファベット(ラテン文字)に対応した独特の仮名文字が開発され、言葉自体も戦国時代から大坂時代初期の雑多な日本語を整理した、可能な限り簡単な日本語が標準的な日本語として用いられるようになっていた。大坂時代に広まってしまった上方方言を用いる地域もかなりの割合を占めていたが、それらは大坂時代半ばまでに日本人が進出した地域に多かった。
 また中華地域から日本に伝わって変化していった漢字も、若干画数を減らした日本漢字が数多く開発され、中華系漢字とはかなり異なる文字へと変化していた。急速に増えつつある中華系移民に対する、簡易用の中間言語も開発された。
 全ては日本語を話さない民族に日本語を広めるためであった。ただし、「本流」と言われる古来からの日本語を最上とした差別とまではいかない区別を作ることにもなり、如何に美しい日本を使うかが、日本社会での上流階級では重要な要素となっていくようになる。今現在でも、京言葉が最上級の言葉として持てはやされている。
 こうした言語を用いるために多くの初期教育時間が必要だったからこそ、各地の日本語圏国家では義務教育に力を割いたとも言えるだろう。

 一方で、民族圏や文明圏を作り上げるのに大きな力を発揮すると言われるのが宗教である。しかし日本圏は、少しばかり事情が違っていた。
 まずは以下の表を見てもらう。

 宗教分布概略:
本国:神道、大乗仏教、その他
蓬莱:神道、蓬莱神道、大乗仏教(浄土真宗)、イエズス会系カトリック、プロテスタント
南天:大乗仏教(真言宗)、日本キリスト教
大蝦夷:大乗仏教(日蓮宗)、ラマ教(チベット密教)、各種キリスト教、各種自然崇拝、イスラム教
東南アジア:ヒンズー教、大乗仏教(浄土真宗)、小乗仏教、イスラム教
(※後ろに記載するほど信者数は減る)

 日本圏内では、以下のような宗教が各地で主流を占めている。何より特徴的なのは、日本本国だろう。
 日本帝国は、名目君主である天皇家が古代の祭司的支配者だった名残から、神道を国家レベルでは重視していた。宗教行事ばかりでなく、民間の慣習の多くも神道に則ったものが多い。一方では仏教も一定の力を保ち続けており、死者に対する宗教に関するほとんどが仏教関連となる。これは大坂時代に戸籍制度として利用された名残でもあり、一部では葬式仏教と言われるほどとなっている。つまりは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のような一神教で統一された民族ではない事を示している。寺院(テンプル)と神殿(シュライン)が並立している上に双方が信仰されている文化圏、文明圏は、非常に珍しいと言える。
 にもかかわらず、日本は織田信長による事実上の絶対王政を行い、世界進出し、世界中に自らの生存圏を新たに作り、近代国家を作り、そして旧体制を打破して国民国家建設まで達成してしまった。
 全ては日本人という曖昧な価値観で、地域全体が統一されていたからだと言われている。しかし海外に出た日本人は、曖昧な価値観で結びつけることは難しい。現地での同化や混血も多くなるから尚更だ。しかも被支配民族も支配や統治しなければならず、その時最も有効なのは現地の宗教と文化の破壊であり、自らの宗教、言語、文明、文化の押しつけである。しかし日本人は、押しつけるべき宗教が弱かった。
 特に蓬莱大陸での先住民(先民=さきたみ)は、太陽を主とした様々な自然現象や動物を精霊として敬う自然宗教であり、日本人は日本語と日本人の文明を神道と合わせて現地化して布教していった。これが日本語で言うところの蓬莱神道である。(※先民の間では、マニトバ道、真道、精霊道など部族ごとに言い方は様々ある。)
 これは新大陸より先に、近在のアイヌ民族の宗教と文化を塗り直す時に最初に用いられた手法で、大蝦夷北部各地でも似たような事が実施されている。そして民族面での同化も進められたため、現地日本人と先民は民族から価値観、宗教に至るまで混ざり合ってしまっていた。蓬莱北部平原で神社の鳥居とトーテム(精霊塔)が並立しているのがその象徴だ。
 一方、日本の大乗仏教の中で海外での布教に熱心だったのが日蓮宗だった。
 法華教とも呼ばれる日蓮宗は、開祖日蓮の言葉として、いかなる凡夫にも「仏性」が秘められており、「南無妙法蓮華経」(なむ・みょうほうれんげきょう)と題目を唱える「唱題」の行を行えば「仏性」が顕現するという思想を説いていた。
 無論法華経という教典もあったが、民衆に対してこれほど分かりやすい教義はなく、また日蓮宗全体の布教意識の高さと教義の安全性から大坂幕府に利用され、日本の同化政策や植民政策に大いに活用された。これに対抗して、真言宗や浄土真宗も後に各地へと布教のため進出するようになる。また日本の支配の中では、ラマ教(チベット密教)も自らの仏教の一派であると定義されており、トルキスタン地域(中央アジア)での再布教に大いに利用された。
 ただし一神教を信奉する国家のように、支配とセットであったわけではない。無論政治には利用されたが、密度や徹底度合いが小さかった。例外は中央アジアでのイスラム教に対する場合だけであった。かつての東印度(スンダ)でも一時期イスラム教が広がりを見せたが、当時あったヒンズー教系現地国家の熱心な布教活動、改宗活動によりイスラム教は一部を除いてほぼ駆逐されていた。
 またイスラムに対しては、改宗しない者に対しては緩やかな教義の普及を奨励させる事で妥協が行われ、ある程度の共存関係も築かれるようになった地域も多い。
 一方では、日本の植民初期には、日本列島内でのキリスト教排除の動きから、初期の植民地域では主にイエズス会によって広められたカトリック教が比較的根を下ろしていた。加えて蓬莱大陸では、イエズス会自身が自らの生き残りを賭けて熱心に活動を行い、蓬莱内で一大勢力を築くまでに成長した。ただし当時イエズス会と国家としてのスペイン(イスパニア)は完全に切り離されており、侵略的側面が無くなったキリスト教となったため、日本側支配層にも容認されていたからこその成功だった。一時期イエズス会は、ローマ法王からも無視されていた程だ。
 このように、日本人が様々な宗教に対して概ね寛容だった事が、各地での宗教を雑多なものとした背景にある。
 日本人支配層にとっては、取りあえず日本語を話してそれぞれの国に対して忠誠を誓い、真面目に年貢か冥加金(税金)を納めるのなら、大きな問題は感じていなかった。これは各時代の日本人が、他民族支配ではなく日本人による国家運営を重視していたからだと考えられている。これは、18世紀に入るまでまともな敵がほとんど存在しないため、支配を強める必要性を感じなかった影響が強いとされる。それに日本人による現地支配は、日本人と先住民に大きな差を作らずに税金を納めさせる傾向が強かったため、そうした支配が行えたともいえる。皮肉にも、大坂時代に新大陸でも一時期行われた身分制度(=武士とそれ以外の格差)が、かえって人種差別の垣根を下げていたのだった。
 日本国内での戦乱(戦国時代)からすぐに海外進出を始めた日本人達は、戦国時代の自分たちの取り決めをそのまま海外支配に適応した結果だった。
 また一方では、大航海時代のヨーロッパ列強のようにキリスト教=ヨーロッパの優れた文物ではなく、日本人と日本語と日本の持つ優れた文物、さらには日本人が世界中に広げた商業ネットワークをセットとして持ち込んだことが、宗教を必要としなかったからだとも言われている。日本人達は、進出と同時にその地域の経済も塗り替えて、自分たちの存在そのものを文化浸透の先兵にもしていたからだ。このため神なきイスラムと言われる事もある。
 そして国家自身の脱宗教化が早かった蓬莱連合が、後に世界国家として隆盛したと言えるかも知れない。
 なお、帝国主義の時代は『汎太平洋主義』などというアイデンティティーの向上を図る指標も作られたし、その後も大きな影響を与えるには与えたが、結局は絶対の価値観には至らなかった。
 この事は、日本人の寛容性と包容力と何より柔軟性の大きさを見せる一例と言えるだろう。もしくは逆に、民族的危機に直面しない限り、適当でいい加減だと言えるかもしれない。こうした姿勢は、日本列島という世界的に見ても特殊な自然環境にあった事が原因していると見られている。


●20世紀開幕