●20世紀開幕

 西暦1901年1月、二十世紀開幕と同時にブリテンのビクトリア女王が崩御し、一つの時代が終焉した。ほぼ同時に、ヨーロピアンとニッポニーズの二大帝国主義勢力による世界分割も終わを告げていた。
 これは一つ時代の終焉であると同時に、新たな時代の始まりでもあった。大航海時代から帝国主義時代を突っ走り、最後に生き残った国々による競争も、ついに一つの結果を出すに至ったからだ。
 そうした中で、ほとんど一番で競争を走り抜けた日本帝国は、完全に落ち着いてしまっていた。
 最盛時には世界の三分の一の陸地を直接支配し、人類史上最大規模の帝国を作り上げた。この記録は、宿敵ブリテンのギネスブックにすら不敗の記録として刻まれている。日本人は、チンギス・ハーンの作り上げたモンゴル帝国すら凌駕したのだ。このため織田幕府を開いた織田信長は、世界史上で最も影響を与えた人物の一人と考えられる向きが、日本人社会、特に日本において強い。また元寇こそが、日本が世界に広がっていく一番最初の発端だと言われる事もあるため、チンギス・ハーンの子孫が作った元帝国と日本の連動性が語られることもある。この経緯から日本人の間では、源平合戦の最中に挫折を余儀なくされた源義経が、大陸に渡ってチンギス・ハーンになったというヨタ話までが流布した。
 そして織田幕府という疑似封建国家が打倒して、立憲君主型の国民国家を形成した。日本が大航海時代から近代国家、国民国家さらには帝国主義時代へと対応した証だったが、建国から50年もすると国家としての情熱はしぼんでいた。国家再編成時の特徴として他国と戦争をする事もあったし、従来の勢力圏の帝国主義的植民地化や同化政策も推し進められた。だがそのほとんどが、日本国民にとって遠く彼方のでき事だった。国家存亡を賭けた自衛戦争など、20世紀初頭においても発生するそぶりもなかった。何しろ自分たちの同族による勢力圏はあまりにも広く、列強は遙か彼方だった。近隣の中華地域や朝鮮半島などは、近代化からはるか遠いところにあった。あまつさえ近在の殆どは、白人による半植民地状態に甘んじてすらいる。
 さらに現在進行形では、世界の四割の土地で日本語が話されるようになっている。また日本の植民地も20世紀に入った段階ですら、彼らが父祖の地とした日本列島の8倍近い規模の土地と広大な海洋を有していた。それを守るための軍隊も、海軍を中心にして必要十分に保有されていた。
 地下資源や穀物も、当面は何の問題もなかった。足りないものは、他の勢力圏や日系諸国から輸入すれば事足りた。海外市場も植民地以外だけでなく、独立して間のない北ユーラシア連合(旧大蝦夷)が使えたし、南天地域との関係も物心両面でまだまだ強かった。どちらもまだ発展途上の新興国なのに対して、日本は数百年間の富と知識の蓄積が存在していた差によるものだった。独立前後に敵対的だった蓬莱連合との関係も統合戦争で大きく緩和し、経済面を中心にして概ね友好的となっていた。国の借金も列強としては程度問題で、むしろ金融産業は織田幕府の末期から日本産業の中核の一つだった。国内産業は自慢するほどでもないが、それなりに栄えていた。一般的に考えれば、国家の運営に何の問題もなかった。国民の教育程度と識字率も高いので、科学技術の発展に対する投資と結果も国と民間双方で活発だった。日本列島発の科学発展の成果もそれなりの数に上っていた。
 長い間の宿敵であるブリテンを中心に各国は中華進出に躍起だったが、遠く東洋の果てで日本の勢力圏に手を出すだけの力はなかった。日本がヨーロッパからの干渉をはねのけるだけの力を十分備えていたからだ。そして日本は、中華市場はどうしても必要とは思っていなかった。むしろ、「人の海」万が一抱えこんだら、後々厄介になると考えていたほどだった。
 つまり日本列島は、周りに合わせて適度な進歩さえ続けていけば当面は何の問題もないと考えられていた。
 20世紀に入った段階で、日本人もしくは日本列島はしばらくアクティブに行動する必要はなかったという事になる。過度に手を抜かなければ、あとは惰性で今後百年の繁栄が維持できると多くの者が考えていたからだ。
 世界の覇権ならば一度は得た。二度も必要ないものだった。本国が総攻撃でも受けない限り、他国と国家存亡を賭けて戦う必要はどこにもなかった。あとは世界全体が精神面でも成熟していくまで、適度に日本語圏の国家と連携しつつ緊張感だけを失わずに過ごせばよかった。ちょうど日本列島は、超巨大な国土を有する日系国家の蓬莱連合と北ユーラシア連合の中間点にある。今後一世紀の繁栄は約束されたようなものだった。
 以上が当時の日本の感情的要約となるだろう。
 その現れだろうか、日本帝国成立から半世紀も経過すると人々の国民国家への情熱も冷めたのは。一方では、今まで積み上げた富と歴史を土台として、自然な流れで科学先進国、文化先進国としての発展に力を入れるようになっていた。日本帝国成立により首都から商都に格下げされた大坂の街は、近在の旧都の京と共に学術都市、文化都市として発展していた。
 なお、国家として若く巨体であるが故に否応なく世界に挑戦しなければいけない蓬莱連合は、当面は北ユーラシア連合という自分と似た日本人を中心とした移民国家が市場として使えるので、当面は強引な手法に出る必要も低かった。アフリカでもある程度の植民地を押さえたので尚更だ。それでも万が一、日系国家のどこかが攻撃されたら、その時は蓬莱連合が中心となって戦うだろうと誰もが考えていた。既に日本列島が覇権争いの中心に立つ必要は、ほとんど存在しなかった。せいぜいの役回りが、友邦に対する助太刀と調停役ぐらいだろうというのが当時の大方の予測だった。

 列強がひしめいているヨーロッパ中心部も、ブリテン、フランス、ドイツを中心にすくみ合っていて、よほどの事がない限り総力戦に傾く可能性は低かった。それに万が一大戦争が起きても、主戦場としてヨーロッパ大陸が選択される可能性は低いと考えられていた。
 しかもドイツは伝統的な潜在敵であるロシアが控えているため、安定を求める向きが強くなっており、早々と自らを中心にした同盟関係、協商関係の構築に熱心で、さらに進んだ経済関係や安全保障組織の形成に動く気配を見せていた。またフランスは、歴史的に日本との関係が深く、逆にブリテンは日本との関係が悪かったので、双方の国力差を考えるとバランスが取れていた。当時フランスでは相応の安定と発展を見ていたので、「ベル・エポック(良き時代)」という言葉まで出てきていた。
 ヨーロッパ社会の中で、唯一大きな問題を抱えていると考えていたのは、ロシア帝国だった。
 20世紀初頭で総人口1億人を有し国土もヨーロッパの3割近くを有するほど広く、一つの国家で一つの文化圏を作るほどだった。だが大陸国家であるが故に、彼らの精神的な逼塞感は極めて強かった。西には欧州一の人口と産業を持つ強大なドイツ立憲帝国が、ウラル山脈から向こうには東洋人の移民大国として急浮上しつつある北ユーラシア連合があったからだ。この二つの大国に挟まれたロシア支配層の焦りは相当高かった。ロシア人の感情面から見た場合、正面をドイツ騎士団に、後背をタタール(モンゴル人)によって挟まれたようなものだった。この裏返しが、周辺地域への強引な進出という形で現れていたと言えるだろう。凍らない港が欲しいというのは、実のところ表面的な言い訳にすぎない。ロシア人は、周りの全てを恐れていた。
 そして恐らく次なる大きな戦いが起きるとすれば、彼らロシア人こそが発端となるだろうとヨーロッパでは考えられていた。
 だが主戦場はヨーロッパ東部かユーラシア大陸中央部、もしくはバルカン半島だと予測されていた。遠隔地に領土や植民地を持たないロシアが中心では、世界大戦と呼ぶべき戦いではなかった。
 この場合日本人達は、北ユーラシア連合の同胞達が押し切られないように、少しばかり背中を押せばよいと考えていた。そして主な役割を果たすのは、日本ではなく蓬莱の役割だった。20世紀初頭でも、蓬莱は大蝦夷鉄道の完全複線化工事をせっせとおこなっていた。
 無論、日本近隣での問題は皆無ではなかった。特に日本列島近在での一番の白熱地である中華情勢は、列強の陣取り合戦という点において常に予断を許さなかった。
 列強による中華の分割競争、もしくは中華内での次なる王朝もしくは国民国家の勃興が、20世紀最初の戦争の引き金なるかもしれなかった。だがその時は、日本が育てた北ユーラシア連合などが活躍する事は目に見えていた。事実北ユーラシア連合は、自分たちにとっての「取りこぼし」である満州南部や内蒙古の残りに多大な興味を向けていた。既に影響力は強く、どちらも近々手に入れると見られていた。国内の発展に伴い市場が欲しくなっていた蓬莱も、呼びもしないのに首を突っ込んでくるだろうと考えられていた。
 日本列島は、致命的な選択だけをしないように気を遣って、あとは誰の手助けをするかを慎重に選び、漁夫の利だけを得ればよいというのが一般認識だった。
 何しろ中華大陸も、基本的には海の向こうの出来事で、死に瀕した中華自身の発展と躍進は向こう半世紀はあり得なかった。

 そして三百年間世界の覇権競争を走り続けた結果こそが、二十世紀が幕開けした段階での日本列島の相応の繁栄の保障であったと言えるだろう。
 日本列島は、その立地条件の良さから、向こう一世紀は同じ島国のブリテンのように挑戦を続けなくても良いのだ。だからこそ、20世紀が幕開けした頃に「世界で最も神に愛された大地」と言った人がいたのだろう。
 21世紀初頭の今現在も、蓬莱大陸とアジア大陸、さらには南天地域との中継点、中心点として相応に栄えているのだから、何かしらの力が働いていると思ってしまうのも、あながち仕方のない事ではないだろうか。

 了


あとがきのようなもの