■フェイズ01「ドイツとの蜜月」

 大日本帝国は、第一次世界大戦で海軍ばかり少数の兵力しか派遣しなかった。だが、戦訓ばかりでなく技術的修得を得ることは重要だという一部意見を採り上げ、多数の将校以外にも技術将校、民間の技術者、科学者が多数渡欧した。そして彼らは、欧州で行われている戦争の実体に大きな衝撃を受ける。
 戦後、賠償物を得るためにドイツ入りした派遣団は、ドイツの優れた技術力、科学力を目の当たりにし、詳細な報告書を作ると同時に、これを日本に持ち込むべきだと強く考える。
 そして遂には日本政府を動かすことに成功し、戦勝国で当時経済的にも多少のゆとりがあった日本は、ドイツが債務を返済しやすいように一部借款を行うなどの資金供給を行うようになる。さらにドイツ製品を多数購入し、ドイツも余裕がある場合は日本製品を買う約束を交わした。しかし日本の真の目的は、ドイツの優れた技術力を自国に導入する事であり、それにより工業力を高めると共に、他の列強に対する競争力を付けることにあった。
 しかし当時の日本は、五大国と言われるも遅れた国であり、しかも有色人種国家なのでドイツ側の反応は鈍かった。それを覆したのが、日本とドイツとの間に結ばれた秘密条項だった。
 ここで日本は、国際監視の届かない日本もしくはドイツ近辺の僻地で、日独合同の軍備、特に海軍に関する装備の開発と実験、訓練を行うことになった。ドイツ側の人員が日本に来る場合は、技術指導などの名目で日本各地、特に海軍関係の施設に入り、日独共同で海軍に関する様々な研究が行われた。また海軍研究の一環という形で、海上を主とした航空機に関する研究、開発、戦術研究なども行われた。
 本来なら日本は、陸軍に関する交流と技術輸入も行いたかったが、こちらはドイツとソ連の間に秘密条約(ラッパロ条約の秘密条項)があったため、一部以外では実現しなかった。
 それでも日独合弁の企業が日本や欧州の各所に作られ、日本陸軍名義で火砲などの研究、開発が行われた。
 加えて、日独共同の海運会社や貿易会社も多数作られ、これらの会社群は日独の相互交流、貿易を促進するばかりでなく、中華地域への武器輸出に大きな役割を果たすことになる。しかも日本でドイツ製兵器を作った場合、利益の一部がパテント料や技術移転料以外でもいくらかドイツに流れる約束を交わしたため、中華地域の内戦激化に伴い日独の交流は拡大を続けた。
 そしてドイツとの一連の関係による副産物で、シベリア出兵していた兵力の引き上げが早急に行われることになった。
 ヨーロッパ諸国も、共産主義国に技術が渡るよりはと、日独の関係を薄々知りつつも見逃した。

 そうした中、大恐慌が起きてドイツ経済は大混乱に陥る。しかし日本は希代の財政家だった高橋是清の活躍、具体的には積極在世政策による内需拡大政策で大恐慌を切り抜けるどころか、経済の大幅な拡大にすら成功していた。
 そして自らの経済拡大のための発注がドイツにも行われたため、ドイツの経済不況をほんの僅かだが緩和する事になった。実際には程度問題でしかなかったのだが、アメリカと違ってドイツを「見捨てなかった」日本の評価はドイツ国内では非常に高くなり、日独の関係はより一層親密になっていった。この時の日本の対独貿易は、後世から見ると実にタイミング良く行われていた。
 そして1933年にドイツでナチスが第一党となり、党首アドルフ・ヒトラーが首相そして総統に就任すると、日独の関係はさらに進展する。積極在世政策での重工業化推進中の日本は、アメリカからではなくドイツからどんどの工作機械を購入する、ドイツにとっての上客だった。
 これに日独双方の国連脱退が加わって、1933年には「日独協商」という名の事実上の軍事同盟締結にまで至る。
 俄然、軍事交流も盛んになり、ドイツの再軍備宣言、英独海軍協定が結ばれると、爆発的に取引が盛んとなった。
 日本の造船所では、ドイツ向けの艦艇、ドイツの技術を全面的に導入した工場で作られた潜水艦が建造・輸出され、ドイツからは工作機械、銃器から火砲、エンジンなど様々な製品が日本に輸出された。
 そうした中で、ドイツ側の意見を採り入れた日本製の新鋭中型空母がドイツに輸出され事は大きな事件として取り上げられ、国際的にも物議を醸し出したりもした。こうした貿易の代価は、基本的に日本側が多数の工作機械や工業製品を輸入することが多いため赤字だった。艦艇の受注代金だけで数億ドルに達していたが、それ以上のものを日本は買い込んでいた。このため日本とドイツは協商関係の中で通貨協定を結び、さらに日本は支払いの一部をドイツで極端に不足する金(黄金)にすることで、大幅に割り引いてもらったりもした。ドイツでは、先の大戦の賠償で金が極端に不足していたので、この黄金取引は双方にとってそれなりに有効だった。
 加えて日本は、自国の工業力の底上げと軍備の増強が目的のため、大赤字の日本の対独貿易もほとんど気にしなかった。多数の受注を受けたドイツ産業界も、日本からの一定の特需により多少は活性化し、ドイツ国民の間に親日感情を育てた。
 そして1935年6月には、共産党を主敵とする「日独軍事同盟」が結ばれるに至る。
 しかし日独の蜜月は、少しずつ周りを暗雲におおわれていく。

 当時日本の近隣では、中華民国の国民党が日本、ドイツの全面的な支援と武器を得て、共産党と軍閥討伐に全力を挙げていた。
 ドイツが間に入った形で満州国問題も棚上げ状態で不問とされ、日本側も中華民国側が求めた万里の長城を越えない姿勢を維持し、経済関係の強化のみで華北部や上海方面で国民党と連携する形を作った。共産党に対する攻撃では、中華民国への軍事顧問や「義勇軍」には日本軍の姿も見られ、航空隊すらが活動していた。ドイツ軍事顧問が帰国した後の共産主義包囲網の実質的な指揮を行ったのも日本陸軍だった。
 そうした日独と国民党の蜜月関係も、1934年に共産党が瑞金近辺で壊滅的打撃を受けると変化し始める。包囲後の殲滅戦で大打撃を受けた共産党軍は、周恩来、毛沢東など首脳部が死亡もしくは行方不明となり、残された僅かな幹部も散り散りとなり、そして以後の活動は極めて低調となった。
 この事を国民党を指導する蒋介石は殊の外喜び、日本とドイツとの友誼は生涯忘れないと言ったほどだった。
 その後も国民党は四川軍閥・広州政府、北支将領(山西軍閥)、さらには奥地の雑多な軍閥の討伐を熱心に行った。だが、一番の問題だった共産党を滅ぼした事で、その目を内憂から外患、つまり外国に向けるようになった。
 特に満州に新たな植民地(満州国)を建設した日本に対する姿勢を露骨に変化させるようになり、また日本が外交音痴であることを利用して日本を国際的に追いつめるようになった。この時、蒋介石は日本で起きた「二・二六事件」により、日本が軍事政権になった事を、日本に対する態度変更の理由とした。
 一方の日本は、当時日中の友好関係に乗る形で華北での市場進出を強めていたが、国民党が華北の北支将領(軍閥)に対して強い態度で出るようになると、満州への産業移転と邦人の引き上げを実施するようになった。これは、ソ連の躍進に対する満州防衛の手段の一つともされ、実際防衛密度も向上した。
 そして華北からの撤退を餌に中華民国に日本及び満州の製品売り込みを実施したが、これを蒋介石は利用。日本の意志に反して、日本商品の排斥を訴える行動を取るようになり、ドイツが何度も仲裁に入った。
 しかし徐々に、チャイナで一番悪いのは日本という風評が立つようになり、他国と日本との関係も悪化した。特に、中華市場拡大を狙うアメリカを利用する形で日本と中華民国の関係は悪化し、日本とアメリカの関係もさらに悪化していった。
 商売上で中華民国との関係を維持したいドイツも、外交上、国防上で日本を重視せざるを得ないため徐々に中華民国との関係を冷却化させていった。ドイツ政府内でも、日中の場合に限り悪いのは中華民国だという認識が強まった。この結果、中華民国の言うところの「独中合作」政策は中止され、ドイツの投資はドイツに対して解放された日本勢力下の満州に注がれることになる。
 そしてその間隙を突いて、ソビエト連邦が商売目的と対日牽制目的で国民党に接近。少し遅れて、中華市場に入り込むことを狙っていたアメリカ合衆国も、豊富な資金援助を武器に急速に国民党に接近した。そしてアメリカは、自国で行われているニューディール政策の行き詰まりを海外貿易の拡大、特に軍需の拡大で補おうという向きが強く、ソ連の借款と援助共々日本に強い警戒を植え付けることになる。
 ただし国民党は、両国から援助や支援を求めるばかりで、アメリカとソ連もとりあえず自分たちの市場を拡大するために日本を邪魔に思い、国民党への支援を徐々に増やしていった。
 そして日本は、華北での軍事力、警察力の低い地域での危険がいっそう高まった事と、満州の開発に拍車がかかったことを受けて、華北地域から資本、邦人を満州もしくは上海に撤退させる。このため華北経済はさらに悪化し、国民党の人気も落ちて軍閥の勢力下になった。
 そして、ソ連、アメリカという日独双方にとっての潜在敵との関係を深めた中華民国と日独の関係は日に日に悪化していく。

 そうした中で、日本とドイツさらにイタリアの関係の強さを見せたのが、スペイン内乱となった。
 ここで三国は、共に全体主義傾向、独裁者的傾向の強いフランコ将軍を支持した。日本も遠く彼方に義勇部隊を派遣し、関係の強さをアピールした。そしてこの義勇軍派遣を隠れ蓑にするかのように、日本とドイツの間を多数の船舶が行き来して、両者の新兵器交流が進んだ。この中には、ようやく完成した日本製の新鋭中型空母など新型艦艇の姿もあり、ヨーロッパ情勢が不穏になりつつあることを印象づけた。しかもドイツで完成した新型戦艦(シャルンホルスト級)は、日本が秘密裏に輸出した旧式(保管状態)とはいえ16インチ(41センチ)砲を6門搭載した本格的な高速戦艦として姿を現し、イギリスは空母共々重大な脅威と認識した。さらには、ドイツがイギリスとの条約を無視した海軍拡張を開始すると、建造力に余裕のある日本に大量の発注が行われるようになった。その中には戦艦や空母も含まれており、日本とイギリスなどヨーロッパ諸国との関係も急速に悪化した。
 またドイツだけでなく、イタリア、そして日本でも軍拡が進展した。日本の場合、ソ連と中華民国への対向から、まずは陸軍が大幅に増強された。しかも15年以上続いたドイツとの交流と技術輸入、さらには日本自身の発展から、ある程度の規模の機械化部隊が編成表に組み込まれていた。第一混成団と呼ばれる機械化旅団の師団化もこの時決まった。連動して陸軍航空隊も大幅に増強され、1940年度内に師団30個、航空機1000機が目指された。そしてこのうち半分を常時満州に配備して、ソ連の南下を抑止もしくは阻止するのが目的だった。このため日本本土と満州には、ダイムラー社の工場ラインをそのまま輸入した発動機工場、ジーメンスのラインを購入したボールベアリング工場、ダイムラー社と日産合弁のトラクター(戦車)工場、ハインケル社と中島合弁の飛行機工場の大規模なものが建設された。また、ドイツと日本の間を往復するために、日本、ドイツ双方で行き来するための大型客船が新たに建造されたりもした。
 こうした日独合弁事業の中には、満州北部での油田開発事業もあり、ドイツがバクー油田開発などで得た豊富なノウハウを用いて、古くから有望でないとして半ば無視していた油田の開発を進めていた。ドイツとしては安定した輸入先の確保が目的であり、日本としては最重要資源の獲得のため、ドイツの調査と開発に全面的に協力し、資金も投入された。同時に、ドイツの優れた製油工場の合弁会社も設立された。
 しかし油田開発は可能な限り秘密裏に進められ、1935年の開発開始から2年後の有望な油井の試掘成功から生産開始に至るまで、諸外国が気づく事はなかった。
 だが新油田は、油質は悪く採掘深度も深いため、経済面で有効とは言い切れなかった。しかし埋蔵量は数億バレル以上(※埋蔵量100億バレル)と予測され、開発にも熱が入れられることになる。油井が続々と立てられ、鉄道も引き入れ、港湾まで伸びる油管(パイプライン)の建設計画も立ち上がった。日本やドイツに運ぶためのタンカーも日本、ドイツの双方で多数建造開始された。
 しかし商業採掘開始には、資金と人を投入しても後五年は必要というのが結論であり、将来はともかく当座はあまり役に立たない点だけは諦めなければならなかった。また北満州での油田開発を諸外国が知ったのは1939年頃であり、既に世界はヨーロッパを中心に混乱が迫って、日本の油田どころでないというが実状だった。こうした国際情勢は日本にとって有利であり、日本は北満州やソ連国境の警備も厳重にするようになる。
 そして日本の満州での軍備増強と、日本とドイツとの蜜月関係を前にして、ソ連は日本との関係を慎重に扱う向きを強めた。特に国内での軍の粛正が拡大して以後は、日本に対する対向外交としての極東軍備増強以外では、ほとんどリアクションを起こさなくなった。
 一方のソ連にとっては、ドイツと日本の蜜月は常に脅威だった。日本の軍備増強には対応しても、日本が大規模な油田を開発中という情報を得ても、具体的な行動に出ることは出来なかった。

 一方日本海軍では、1937年以後は経済発展に対して悪化するイギリスとの関係による資源不足から、政府の肝いりで本格的な対向そして万が一の場合の東南アジアでの戦争を見越した艦艇の大量建造が本格化する。ある意味、従来の決戦型海軍からの路線変更だった。当時の日本は、重要資源のほとんどとイギリスの海峡植民地、インド、オーストラリアから得ていたからだった。輸入を止められたら攻めて奪うより他ないのが、日本の現状でもあった。
 そしてここでも、ドイツから得た技術と影響が強く軍備にも反映されることになった。
 戦争が起きた場合に備えて、戦争計画と同時に戦時に建造すべき艦艇の設計進める事になった。またそれまでおざなりにされていた高速タンカー、高速補給艦の整備も平時から可能な限り進めることになった。長期戦には必要だからだ。
 設計において、建造に手間のかかる艦艇と艦艇設計は、価格と建造期間の面から可能な限り切り捨てられ、事実上の戦時急造用の艦艇が順次建造開始された。特にドイツとの技術提携で能力が飛躍的に向上した大型、中型潜水艦が大量に建造されることになり、既存の計画においても一部艦艇と甲標的計画は全てこちらに代わっていた。潜水艦の量産工場も新たに組み上げられたほどだった。また、早くからマン社のライセンス生産で大型ディーゼルエンジンの開発と生産が進められ、試験を兼ねて次々に艦艇に搭載されていった。ただし、相変わらず護衛艦艇は省みられていなかった。
 なお、ドイツ企業の日本及び日本圏進出には日本企業側に不快感もあったが、ドイツへの輸出や発注で潤っている面もあり、政府の強い声もあって押さえ込まれていた。
 一方、ドイツから発注のあった艦艇が順次ドイツに引き渡されていった。特にドイツが欲しがった航空母艦は、最初は軽空母がそして1939年夏には中型の高速空母がドイツへと渡った。さらには1938年には、日本製と偽ったドイツ向け大型戦艦の建造もスタートした。日本としては、ドイツから色々と引き出すためのカードであると同時に、仮想敵として急速に浮上しつつあったイギリスを牽制するための海軍力をドイツに整備してもらおうという思惑があった。
 そしてドイツ、日本双方ともかなりが工業製品や艦艇というバーターでの取引が主体ながら、経済に対しては一定の効果を発揮したため、日本、ドイツ双方の国民の間で、互いの国に対する親近感と好感情を育てる事になった。


フェイズ02「暗雲到来」