■・フェイズ04「第二次世界大戦開始」
第二次世界大戦の始まりは、誰にとっても突然の戦争だった。 ドイツは、単に先の大戦で奪われた領土(西プロイセンなど)を得るついでに、自国の国家財政状況をごまかすために弱小国のポーランドを丸ごと飲み込もうとしただけだった。日本は、単に売られた喧嘩を仕方なく買っただけにすぎないという感情しかなかった。 イギリス、フランスは、既にドイツの膨張を交渉では抑えられないと考えての戦争突入だったが、それにしても準備不足な上に突然すぎる事だった。中華民国に至っては、世界の目を自分たちに向けるのが目的で、戦争はついでのように考えてすらいた。 この頃突然の戦争に納得している人間は、ほとんどいなかっただろう。 もっとも、列強と呼ばれる国のうち、まだ半分ほどが戦争に関わっていなかった。具体的には、アメリカ合衆国、ソビエト連邦、イタリア王国になる。逆を言えば、この時戦争に突入した国は、世界中を見渡しても、イギリス、フランス、ドイツ、日本、中華民国、そして被害者のポーランドだけだった。中小のヨーロッパの国々、グレート・パワーの植民地にとっては、ほとんどが迷惑以外のなにものでもなかった。 とはいえ戦争は既に始まり、それぞれの国はそれぞれの立場で戦争に向き合わなければならなかった。
戦争勃発に際して日本にとっての問題は、貿易相手を失った事だった。中立国との貿易は可能だったが、交戦国となったイギリス、フランス、中華民国との貿易は完全に途絶せざるを得なかった。また、当時の日本の主な取引先が、イギリス、アメリカ、中華民国だったこともは、日本の貿易にとってほとんど致命的打撃となった。 中立国のオランダとアメリカは当時の石油輸入先のほぼ全てだったが(若干量ソ連の北樺太からも買っていた)、ドイツの脅威を受けるオランダとの取引はいずれ途絶するだろうと見られていた。またアメリカは今のところ中立だが、先の大戦のように途中から参戦してくる可能性は高いと見られており、恐らくはイギリスの側で参戦するというのが国際政治上での半ば常識ですらあった。万が一イギリスやフランスが負けたら、アメリカが国際外交上で著しく不利になるからだ。 日本が気兼ねなく使える石油は、備蓄分を覗けば国内の約40万キロリットル分の産油量しかなかった。このため政府は、慌てて石炭から人造石油を製造するプラントの建設・拡大などを決定したが、プラントができるまで最低でも一年程度かかるし、出来たところでガソリン供給が多少改善する程度でしかなかった。それよりも、まずはドイツから技術(パテント)を買わねばならなかった。 石油及び石油製品だけでなく、鉄鉱石、錫、ボーキサイト、ニッケル、生ゴム、原綿など日本が足りないものは石油だけではなかった。しかも多くを、イギリス及びイギリスの植民地に依存していた。 つまり、日本が必要とする資源がいずれ全て手に入らなくなるのは、ドイツと共にイギリス、フランスと戦争を始めた以上、もはや既定路線と認識されていた。 しかし日本と敵対した国と潜在的敵国にとっては、日本に石油などの資源を与えることで、日本の積極的な行動を抑止できる可能性が存在することを意味していた。このためイギリス政府は、オランダとアメリカに当面日本との一般取引を継続するように要請していた。開戦頃は、誰もが戦争が極端な総力戦にまで発展するとは考えていなかった証拠でもあった。 だが日本は、いずれ大規模な侵略を選択せざるを得ないことを覚悟し、行動する時期は好機を捕らえるも早ければ早いほうが良いと考えていた。既にイギリスとの貿易は、開戦により途絶してしまっているのだ。 なお、この頃の日本が取れる道は、実質的に二つしかなかった。 一つはただちに戦争状態を止めること。しかし物心両面で失うものを考えた場合、これは既に選択できるはずもなかった。つまりもう一つの選択、とりあえず地下資源だけでも自給するため、敵地を占領するしかなかった。 幸いな事に、近在の東南アジアのイギリス、フランス、そしてオランダの植民地には、日本が必要とする資源の多くが存在していた。これに満州の資源を合わせれば、とりあえず「何とかなる」程度の資源を自前で得ることは可能だった。ついでに恒久的な影響下に置く事が出来れば、自らの市場としても使うことができるという点は大きな魅力でもあった。 日本の現状及び取りうる行動については、イギリスやアメリカも重々理解していた。日本の取るであろう行動は、近代国家としてはある種当然の選択だったからだ。中華民国の行動を、寝た子を起こしたと表現した者もいた程だった。 このためアメリカの識者は、日本を際限のない戦争に導かせないため、何とか日本を戦争状態から引き戻せないかと考えたりもした。だが、日本が自ら戦争状態を宣言した以上、銃を下ろすまで中立国であるアメリカとしてはどうにもできなかった。とはいえアメリカとしては、まだ「心配」程度で済んでいた。困ったのは、東南アジアに植民地を抱えている国々だった。それでも世界中に植民地を持つイギリス、フランスは、最悪東アジアの利権を「一時的に」失うことはある程度我慢できると考えていた。一番困り果てていたのは、オランダ王国だった。 オランダの植民地は、ほぼ唯一インドネシアだけで、インドネシアには当時東アジアで最も有望な油田が存在していた。他にも生ゴム、錫、ボーキサイト、タングステンなど日本が欲しがるものがあった。 そして当面中立とはいえ、ドイツの事を含めて考えるととてもではないが中立を維持できるとは考えられなかった。 しかしオランダ海軍は、全力をインドネシアに派遣しても巡洋艦が数隻しかなかった。他のヨーロッパ諸国と連携しようにも、現状ではイギリス、フランス共にそれぞれの植民地に巡洋艦を1隻から数隻配備している程度だった。しかもヨーロッパでのドイツの存在を考えれば大規模な増援は望めず、世界第三位の海軍力が全力で攻撃してきたら、現地海軍部隊は勇敢に戦って死ねることを示すしかない状況だった。 こうしたオランダのような状況は、大規模な戦争での中小国の典型的例と言えるだろう。こうした状況は、イギリス連邦を構成する国々も似たようなもので、イギリスへの帰属意識の強いオーストラリア、ニュージーランドでも、ドイツはともかく日本との戦争は否定する向きが強かった。宗主国のイギリス本土は増援艦隊の派遣をエサに参戦を促したが、議会や市民の参戦反対が強く、なかなか日本への宣戦布告には至れなかった。 日本の海軍力は、中小の国々にとってあまりにも強大だった。
一方、アジアで唯一の枢軸国となった日本だが、とにかく腹を据えて戦争の段取りを整えるほか無かった。 まずは、宣戦布告に至った中華民国に対しては、大本営での一致事項として、無駄に戦力と国力を浪費しないため現状維持を決定した。長城ライン、上海地域の防衛に徹し、万が一ソ連との全面戦争が始まっても守勢防御の方針が徹底された。中華民国にまともな攻勢能力がない故の選択だった。陸軍の一部は反対したが、じゃあ英仏と支那との二正面戦争を行えるのかと問いつめられると、まともな反論も出来ずに沈黙するしかなかった。 なお既に占領下にある上海は、アメリカ、イタリアを仲介に立てて、改めて中立地帯とする事が決定された。イギリス軍、フランス軍に関しては現地から決して出ないか、安全を保証した上での期限付きでの退去が勧告された。 日本としては、既に中華民国に対して勝利した戦場なので半ばどうでもよい場所だし、アメリカの機嫌を損ねたくないと言う意図があった。もっとも、中華民国が自ら戦争状態に入ったので、以後中華地域での貿易には大きな制約ができたため、アメリカとしては中華への興味は以後極端に薄れることになる。これは、日本が満州とその他の地域への進出に必要な場所以外への興味を示さなかったことも重なった。ただし日本は、開戦の時点で香港や海南島の攻略が既に決定していた。 ただし、中華民国だけならすぐにも南京を攻め落として降伏に追い込めると、陸軍を中心に息巻く人々は依然として多かった。しかし、既に複数の敵を抱えている以上、中華民国は他国からの兵器供給だけを絶っておけばよいという程度の優先度でしかなかった。既に精鋭部隊の壊滅した中華民国軍は恐れるに足りないし、イギリス、フランスが降伏すれば勝手に白旗を振ってくる程度の思惑しかないとも見透かしていた。
一方で日本が注意したのが、ソ連とアメリカの動向だった。 ソ連政府との間に何度も交渉が持たれ、シベリア鉄道を通じてドイツにも多数の交渉団や相互連絡のための武官が行き交った。ソ連も、中華民国の精鋭部隊があまりにも呆気なく破れた事に少なくない衝撃を受けており、日本に対しては慎重な態度で当たる事となった。もっとも、この頃ソ連は言を左右にするだけで、日本との交渉は一向に進まなかった。 日本としては、既に後背にソ連という潜在敵を抱えたままで、可能な限り二正面戦争、三正面戦争の形を避けようと言う意図があったが、1939年の間は焦りながらも戦争準備を進めるだけの日々を過ごすことになる。 一方のアメリカだが、アメリカでは民意の点で自国の戦争参加は絶対反対という風潮が強かった。しかもヨーロッパに目を向ける向きが強く、ジャパンやチャイナは殆ど眼中に無かった。また第二次上海事変の報道がほぼ正確に伝わっていたため、ジャパンよりもチャイナが悪いという風潮の方が強く、日本政府との交渉においても「残念です」という態度があった。アメリカ政府がチャイナでの需要(軍需)で景気回復を計ろうという意図がある事は、アメリカ国民のほとんどが関知しないことだった。故にアメリカ市民は、よけいな戦争に関わることよりも、もっと国内の景気回復に力を入れることを望んでいた。 そしてアメリカ政府も、自分たちの国民の目を気にしながらの対日交渉となった。結果、開戦初期の段階では兵器以外の貿易の維持と通商条約は守られることになり、一方ではフィリピン、グァムでの日本軍艦船、航空機の通行禁止の境界線の設定、上海、天津の中立状態の確認など穏当なものとなった。 しかしアメリカは、穏健なだけではなかった。武器の輸出に関しては、国を選んで行わない議案が早々に議会を通過し、主に日本とドイツが対象とされていた。また、日本がドイツと共に始めた通商破壊戦に対しては「強い遺憾」を表明した。これに対して日本側は、アメリカの内政干渉を非難し、アメリカ船舶がアメリカ国籍であることを洋上で強く示すように申し入れる以上できなかった。ここでの交渉で日本は、いずれアメリカはもっと厳しい態度に出てくることを予測するようになる。
話しを戦争に戻すが、第二次世界大戦が始まってからの積極的な戦争行為は、ポーランドでの戦いがポーランドの惨敗で僅か一ヶ月弱で終わると、水上での戦いに移行した。 枢軸側による通商破壊戦が、戦争初期の主な戦いとなったのだ。 開戦時、ドイツ海軍は通商破壊戦を仕掛ける準備は一応行っていた。それも念のため準備しているという程度でしかなく、ほとんど警戒配置に近い状態だった。 開戦時、ドイツ海軍はヨーロッパ列強の中で最も脆弱な海軍力しかなかった。日本のおかげで16インチ砲搭載戦艦と中型高速空母を保有できたが、強大なイギリス、フランス海軍を前にしては「ないよりまし」という程度でしかないと考えられていた。前大戦で猛威を振るった潜水艦「Uボート」も、小型のものを合わせても80隻程度を保有するだけだった。しかもこのうち18隻は日本製の大型潜水艦で、これがなければ尚一層貧弱だったことは間違いなかった。ドイツ海軍としては、自国での建造と日本への発注を合わせて、せめて3年先ならもっと違っていたと落胆したと言われている。 しかし、日本との技術交流と日本からの輸入のおかげで、多少なりともマシな海軍で戦争に挑むことができた。特にドイツ海軍で潜水艦戦の権威であるデーニッツ提督が安心したのは、自国の魚雷についてだった。当時魚雷とはそれぞれの国の機密兵器に等しい精密機械であり、それはドイツも日本も変わりなかった。しかし日本でのドイツ兵器の実験と日本への発注で技術開示が行われ、日本での実弾演習の中で欠点も改善されていた。魚雷は高価なため演習ではおいそれと実弾が使えないのだが、日本の「好意」で標的艦を使った実弾演習をたびたび行えた時に分かった欠陥だった。おかげで開戦時の段階で、不発や早期爆発、高緯度での磁気信管の調整について大きく改善する事ができた。 また、日本からの技術交換で、潜水艦自動懸吊装置、日本自慢の酸素式魚雷がドイツ海軍にもたされていた。 しかしドイツから日本に渡った技術の方が遙かに多く、18隻もの潜水艦はバーターでドイツに輸出されたようなものだった。潜水艦の価格は2億5000万円(国家予算の一割に相当)にも上っているのだから、日本が得たものがどれだけ多いかが分かるだろう。 そして魚雷の能力の安定化と25%増になった潜水艦の威力により、ドイツ潜水艦隊が1939年内にあげた戦果は、日本との関係が無かった場合の五割り増しになったと言われた。中でも大金星となったのが戦艦「ネルソン」の撃沈だった。 1939年10月30日、イギリスの有力政治家ウィンストン・チャーチルを乗せていた戦艦「ネルソン」は、JナンバーのUボート(※U-00の後ろに日本製であることを示すJの通称で付けていた)からの雷撃を受け、6本の魚雷のうち4本が命中・爆発。片方からの進水のため瞬く間に傾斜し、30分近くで沈没してしまった。 後に宰相となるウィンストン・チャーチルは脱出に成功していたが、ビック7のあまりにも呆気ない沈没にイギリスは騒然となった。他にも年内にR級戦艦をスカパ・フローの泊地内と洋上で各1隻ずつ、空母「カレイジャス」を失うなど、イギリス海軍の対潜水艦戦術が稚拙なうちに多くの戦果を上げた。 戦艦3隻と空母1隻といえば、当時のドイツ海軍の全力にすら匹敵する戦果だった。 (※史実でも、同じ日時に「ネルソン」は雷撃受けています。イギリスにとって幸いなことに不発でした。チャーチルも乗っていました。)
一方、日本の年内の戦闘だが、こちらも戦争準備に追われているだけで、具体的な行動のほとんどは潜水艦を用いた主にイギリスに対する通商破壊戦だけだった。 日本海軍は、もともと水上・水中を問わず艦艇を通商破壊戦に使うという考え方はあまり持たなかった。だが、ドイツとの交流の中で安上がりな敵戦力の漸減手段として、偵察や敵艦隊の漸減手段として以外の用途にも潜水艦運用を重視するようになっていた。加えて通商破壊の重要性も、ドイツ人顧問を迎え入れて相応に研究された。そしてドイツから技術と機材も手に入れた事、当面自分たちの周りに強大な敵がいない事、さらにはイギリスという巨大すぎる海洋国家が相手である事が重なって、積極的な通商破壊戦の実施を決定、実行していった。 日本海軍の潜水艦乗りは、当初は商船を沈めるという「据え物切り」に対して積極性が欠ける面もあったが、上層部が軍艦、商船を問わず排水量に応じて評価する向きを強めることで、それなりの積極性を見せるようになった。とはいえ、当時高価な魚雷を使う事が躊躇われたため、相手が単船の場合は浮上後に備砲で降伏に追い込んで、その後乗り込んで沈めるという方法が取られた。 当時の東アジアの海は、その程度だったといえる。
しかし準備が進むと共に、戦火も少しずつ燃え上がり始めていた。もっとも、上海、ポーランドの次に戦火が上がったのは、当時の人々にとって意外な場所だった。 ソ連が突如フィンランドに侵攻したのだ。 戦闘自体は、フィンランド軍の勇戦敢闘を前に圧倒的物量を誇るソ連軍がくい止められ、その姿に国際的な同情が集まってソビエト連邦は国際連盟からの除名処分を受ける。 国際連盟が除名を言い渡したのはこれが最初で最後であり、日本、ドイツ、イタリアも、自ら脱退したのであり除名されたのではなかった。しかし戦争の勃発や様々な要因もあり、国際連盟の最後の仕事がソ連の除名ともなった。