■フェイズ05「動き出した戦争」

 1939年を準備期間としたそれぞれの国は、徐々に活動を活発化させていった。とはいえ、まだほとんどの国がまともに戦う準備ができていなかった。また、不用意な攻撃が際限のない戦火の拡大を促すという消極的意見が依然として強く、「フォニー・ウォー」や「すわりこみ戦争」などという言葉が生まれたりもした。誰もが先の世界大戦の二の舞を恐れていたのだ。
 1940年に入った時点で動いていた戦線は、フィンランドとソ連の戦いだけだった。そしてイギリス、フランスなどはフィンランドへの支援を行う動きを見せていた。
 唯一活発なのは通商破壊戦で、開戦から半年間の様々な破壊活動(機雷含む)によって、ドイツは約150万トンを日本は30万トンの連合軍商船を撃沈していた。撃沈量は、イギリス、フランスの当時の年間造船量を遙かに上回る数字であり、早くも総力戦の恐ろしさを一部の人間達に教えていた。
 そうした中で、最初に具体的な行動を始めたのが日本だった。

 日本の行動原理は単純だった。資源、特に石油を得なければ国が立ちゆかなくなるというものだった。このため何が何でも、東南アジア、中でも産油量の豊富なインドネシアやボルネオを占領しなければならなかった。
 しかし東南アジアを占領すると言っても簡単ではなかった。
 まず、インドシナ、インドネシアなど東南アジア主要地域は、当時の日本の感覚からは見るとかなり遠い場所だった。また、アメリカ領フィリピンなど中立国、中立地帯には手を付けることができなかった。
 このため場所を選んで中継拠点を設けつつ、順番に進んでいく以外に選択肢がなかった。また、上海事変のおかげで当座の戦力の動員は他国より早く進んでいるとはいえ、日本本土の10倍近い面積のある東南アジア地域を征服するには戦力が全く足りていなかった。
 相対的な軍事力は圧倒的だが、一定数はソ連が妙なことを考えないように満州に置いて置かねばならない。満州も重要な資源地帯であり、同時に産業拠点でもあったからだ。何しろ当時に日本差代休の製鉄所の一つが満州にあったのだ。
 そして残りの軍を進めるにしても相応の労力が必要だし、攻める側は相手の三倍の戦力を揃えるのが戦争における常道であった。しかも日本は、資源地帯をすぐにも使用したいので、相手に破壊する時間を与えないほど圧倒的かつ電撃的に資源地帯を攻め落とす必要があった。当然ながら、そのための準備も必要だった。
 そして日本が最初に手を付けたのが、中華地域の海南島だった。
 上海にいたイギリスの巡洋艦は既に香港、そしてシンガポールにまで故意に撤退させていたので、中華地域には中華民国軍以外は存在しなかった。そして中華民国にまともな海軍も艦艇もなく、海南島は阿片の蔓延した僻地、辺境という位置づけのため、大した軍事力もなかった。このため海軍が自前の海軍陸戦隊を用いるだけで、呆気なく占領下に置くことができた。
 そして早速航空隊が進出して、港湾の整備が進んだ。
 海南島が日本軍の前線基地となったことに、イギリス、フランス、さらにはオランダは危機感を覚えたが、自分たちの実状を前にしては具体的な行動に出ることは難しかった。しかも、同時に香港が事実上の海上封鎖を受けて、南シナ海には日本海軍の有力な艦隊が展開していた。
 この時フランスはインドシナに旧式巡洋艦を1隻置いているだけで、イギリス海軍も日本海軍の通商破壊に対応するため、シンガポールに数隻駐留していた巡洋艦は出払っている状態で、とても海南島には手が回らなかった。
 中華民国は日本の次なる侵略行為だと騒ぎ立てたが、そもそも最初に国際法を犯して戦闘を仕掛けた上に、勝手に宣戦布告したのは中華民国だった。このためイギリス、フランスの反応は冷たく、また日本が中華戦線を全く重視していないため、援助や支援、援軍を送る気にもなれなかった。まだ自分たちの準備もロクに整っていないのに、他国の支援どころでないというのが当時の英仏の正直な心境であり実状であった。
 中華民国の声に反応したのは、アメリカのルーズベルト政権だったが、既に日中が戦争状態に突入しているとしてアメリカ市民は無関心だった。取りあえずアメリカ市民が中華民国に対して認めたのは、正価による武器の輸出だけだった。ルーズベルト政権にとってはともかく、アメリカ市民にとっては有色人種同士の愚かな戦争であり、この先日本が東南アジアに侵攻しても、イギリス、フランスという列強を破れるとは考えていなかった。
 当の日本軍も、準備は進めているが簡単に東南アジアが占領できるとは考えていなかった。通商破壊戦は面白いような順調さで展開して拡大も行われていたが、それはイギリス、フランスがまだ本気を出していないからだと考えられていた。
 そして日本としては、ドイツがヨーロッパで大規模に動き出す時こそが、千載一遇のチャンスだと考えていた。そしてその時は1940年の春から夏にかけてだろうと予測されていた。
 一方のアメリカ政府は、日本が戦争状態に入ったことを理由として、日本との間の通商条約破棄を通達し、貿易に関しても日増しに制限するようになった。当然ながら日米関係は悪化し、危機感を持った日本の行動は一層促されることになる。このため、日本軍はなおのこと行動を急がなければならなかった。

 1940年4月、ドイツ軍、連合軍の双方が動き始める。
 戦場はスカンディナビア半島のノルウェーであり、ドイツは通商路と通商破壊拠点の確保を画策し、連合軍はその逆にドイツの封鎖を狙っていた。そしてドイツの方が大量の軍を擁している上に電撃的だったため、終始ドイツの優位で戦闘は展開した。
 首都を含めたノルウェー南部はほとんど戦闘もないままドイツの占領下に置かれ、北部のフィヨルド各地の港湾を巡る戦いが実質的な戦闘となった。
 その中でも最初の大規模な海上戦闘は、イギリス海軍の巡洋戦艦「レナウン」が、ドイツが全軍の囮として出動させた戦艦「シャルンホルスト」、「グナイゼナウ」に遭遇した時点で始まった。
 この時イギリス海軍の巡洋戦艦「レナウン」は、戦艦「ロドネー」などとと共に出撃していたが速力に差があるため先行し、ドイツ艦隊の捕捉に成功した。しかし相手は二隻、しかも41センチ砲を搭載するヨーロッパ最強の高速戦艦ペアだった。
 一方の「レナウン」は大規模な近代改装を受けて、各装甲の増圧を含め防御力を大幅に向上させていた。加えて上部構造物の刷新により見た目にも新鋭戦艦のように一新され、実際新鋭戦艦建造のためのテストベッドの1艦だった。しかし相手は、やや旧式とはいえ当時世界最強の41cm砲を装備しており、それが自らよりも2倍の数で積極的に襲ってきたので、相手が積極的に攻撃してくると対処しようがなかった。「レナウン」側は、自分たちの主力が到着するまで相手が逃げられないように嫌がらせのような戦闘を仕掛けるつもりだったが、捕捉した時点でかなり接近していた上に相手も高速のため、思い通りの戦闘がまったく行えなかった。まぐれでも、遠距離から降り注ぐ41cm砲弾が命中したら大事だからだ。
 一方、全軍の囮となっていた2隻のドイツ戦艦は、当初は有力な筈のイギリス艦隊を洋上おびき寄せつつ逃げるつもりだった。しかし相手が単艦しかも格下の「レナウン」と知ると、イギリス側の主力艦隊が現れる前の撃破を目指して積極的な砲撃戦を挑む。
 そして舷側228mm、甲板127mmに強化されたとはいえ元が軽防御の巡洋戦艦である「レナウン」に、日本海軍製の41cm砲を耐えることはできなかった。「グナイゼナウ」に2発の命中弾で損害を与えるも、「レナウン」の方が簡単に装甲を突破されたため数発の被弾で戦闘力が大きく低下した。そして砲撃力、速力共に低下したところをさらに2隻に痛打され主砲を破壊され機関も半減するなど大きな損害を受け、本隊が現れる前に霧に身を任せた戦線離脱を余儀なくされた。
 一方のドイツ側も、イギリス艦隊本隊の動きが気になるため徹底した追撃を諦め、この時は互いに戦場を離れた。しかしその後「レナウン」は、損傷による低速での退却中にUボートの雷撃で沈没してしまう。イギリスにとって4隻目の戦艦(巡洋戦艦)撃沈だった。
 しかし元々ドイツ海軍は数が少ない上に、戦力を分散してでも一気にノルウェーを占領しようとしたため、各地で被害が続出していた。しかもイギリス海軍が大規模な戦力で反撃に転じたため、ノルウェー北部に展開していたドイツ軍は苦境に陥った。
 この苦境を救ったのは、各地に展開していたUボートと、ようやく実働状態に入った空母「オットー・リリエンタール」の存在だった。
 高緯度地域では、魚雷の作動が不安定になることが多いが、日本との交流の間に日本、ドイツ双方の研究者の間で問題の多くを解消していたことが幸いし、ドイツ潜水艦群は比較的順調な活動を行うことができた。
 当然イギリス海軍の損害も大きくなり、多数の損傷艦を出したことは、ノルウェーでの戦いばかりでなく後々まで影響を及ぼす事になる。
 そして空母「オットー・リリエンタール」(以後リリエンタール)の活躍だが、最初の出番はノルウェー北方のナルヴィクに洋上発進で航空隊を送り届けることだった。その後一旦本国に帰って本来の航空隊を受け入れて、ノルウェーの他の地域の友軍を救援のために全力で出撃を実施。ここで「リリエンタール」ばかりでなく、同じく日本製の軽空母「ヴィーザル」も出撃した。こうした空母を一種の洋上基地として使うやり方は、艦載機が空軍の所属だというドイツ軍らしい手法といえるだろう。
 そして2隻となったドイツ初の空母機動部隊は、艦隊到着前に現地の英艦隊の攻撃に成功する。攻撃自体はあまり有効ではなかったが、イギリス軍の撤退を完全に決意させたと言われている。実際、「リリエンタール」から発進した偵察機を含めた複数の偵察情報から、いくつかに分かれてノルウェー北部から退却中のイギリス艦船を多数捕捉。水上艦隊が敵を捉える前に、まずは航空機による空襲を実施した。攻撃そのものは、二波で30機程度の攻撃機が魚雷や爆弾をイギリス艦船に投下し、それなりの損害を与えることができた。これに対してイギリスは空母「グロリアス」を有していたが、「グロリアス」は撤退に際して飛行甲板に航空機を満載していたため航空機の運用能力を自ら封じてしまっており、ただの標的でしかなかった。そこに1発の爆弾が命中して様々なものの誘爆を繰り返しているところに、半ば偶然で接近に成功した「シャルンホルスト」が砲撃を実施。戦艦が空母を撃沈するという珍事を生み出すことになる。また、多くの艦船が飛行機に追い回された上に、艦船の攻撃を受け多数の損害を出すことになる。
 なおこの攻撃は、世界で初めての空母による艦艇攻撃、しかも相手空母に対する攻撃のためエポックメイキングな出来事ともなった。そしてこの活躍はドイツ総統ヒトラーの目にも止まり、進水後に建造が中止されていた「グラーフ・ツェペリン」の建造再開と、既存空母の戦力増強が行われることになる。
 その後も制空権を得た形でのドイツ海軍の追撃が行われ、海と空という異なる二つの方向からの立体攻撃に翻弄されたイギリス海軍は有効な反撃ができないまま、英本土へ向けての退却戦を戦うことになった。
 なお、ノルウェーから連合軍が撤退したのは、フランス、ベネルクスでの戦いがドイツの圧倒的優位で進展していたからであり、それは遠く東アジアでの戦いにも影響を与えることになる。

 1940年4月になると、日本軍もかなりの出師準備を整え、陸軍も2個軍5個師団を南方作戦に使えるまでに動員そして増強された。これに加えて他からの転用、さらなる動員の強化によって3ヶ月以内にさらに6個師団が投入可能だった。
 侵攻の先駆けとなる海軍の準備も進められ、10隻の戦艦、4隻の高速空母の全てが出撃可能だった。巡洋艦以下の艦艇の準備も進み、第二艦隊を中核とする大規模な先遣艦隊は既に海南島に大挙進出していた。
 しかし日本軍には問題があった。敵地上空での制空権確保の問題だ。この頃の日本軍は、陸海軍共に洋上で作戦行動するには航続距離の短い戦闘機しか保有しないため、敵地での制空権確保に大きな問題が発生していたのだ。
 このため日本海軍では、空母2隻で航空戦隊を編成し、さらに艦載機の戦闘機の比率を増やすことで敵地での制空権確保を図る準備をしていた。また落下式の外部燃料タンク「増槽(ドロップタンク)」を設けることで、航続距離を大幅に伸ばす工夫も行われた。また、戦闘機の増加で空母の攻撃力が不足することになったが、海南島に大挙進出した海軍の中型攻撃機がインドシナでの作戦が可能のため、対地攻撃には主にこちらが使用されることになった。またインドシナ北部は日本陸軍航空隊の担当とされ、陸海合わせて数百機の航空機が海南島に集結することになる。これだけの戦力が集まるのは演習以外では初めてであり、日本軍に多くの教訓を残すことにもなる。
 そして東南アジア攻略に際しての日本軍の最初の目的は、次なる橋頭堡となるインドシナの占領だった。またイギリス領北ボルネオの防備が手薄なことも分かっているため、油田確保を優先するという目的で最初の作戦に組み込まれた。また二つの侵攻作戦は第一段階に過ぎず、すぐにも第二、第三と作戦を進め、長くても半年以内に東南アジア主要部を制圧する予定だった。
 ここでの問題はオランダに対する宣戦布告の問題だったが、その問題はドイツが難なく解決してくれた。
 日本軍が、まだインドシナ、北ボルネオに対する攻撃を行っている5月10日に、ドイツが先にオランダに宣戦布告した上に、僅か4日でオランダを降伏させてしまったからだ。
 そしてドイツの動きを受けて、日本もオランダに宣戦布告を実施。何の躊躇もなく、そのままボルネオ全島への戦線拡大を実施した。アメリカなどが非難もしたが、既に賽が投げられた以上動きを止めることはできなかった。
 しかも、日本軍を止める事の出来る戦力は、現地連合軍にはほとんど存在していなかった。
 連合軍艦隊のうちイギリスはシンガポールに、オランダはジャワに籠もりきりであり、活動している数隻の巡洋艦、駆逐艦も日本の通商破壊に対応した動きしか見せていなかった。しかもオーストラリアとニュージーランドは、日本軍の通商破壊を恐れて自国周辺から自分たちの艦隊を動かそうとしていなかった。

 5月末にドイツ軍の電撃戦に惨敗したイギリス軍が、大陸から幸運もあって撤退に成功し、6月22日にフランスがドイツに対して降伏すると、事態はさらに変化する。
 日本もインドシナの現地フランス総督府と交渉を持ち、まずは現地フランス軍との間に降伏交渉を実施。戦闘の停止と、フランス軍の武装解除の実施、インドシナ南部への航空基地設置が急ぎ行われた。
 加えて、7月10日にフランス本土で新たにヴィシー政府が成立すると、日本も現地代表との妥協を計った。そして日本は、ヴィシー側のインドシナ総督府の統治を尊重する事になる。資源面でインドシナは、日本の食指をあまり動かす存在ではなかったからだ。一方で現地フランス総督府は、枢軸諸国との貿易再開、日本軍への基地、物資の提供、通行の許可を出す事になった。また基本的な治安維持や統治は、引き続きヴィシー政府側が行うことになった。
 これで日本軍の動きは一気に拍車がかかり、インドシナ南部に複数の航空基地が活動開始すると共に、隣国タイ王国が枢軸入りを果たして、領内の日本軍通過を認めることになった。またインドシナ北部のカムラン湾には続々と日本の増援部隊が姿を現し、それぞれシンガポールとジャワを目指す軍団が終結しつつあった。また呆気ないほど簡単な侵攻が続いていたボルネオ島でも、油田を確保しつつ同時に航空基地の設置や艦艇のための拠点建設が行われた。
 日本軍並び政府の意図は、徐々に神経を尖らせているアメリカ対策だった。
 アメリカでは同年11月に大統領選挙があるが、国民の非戦傾向の支持を得るため戦争に対して消極的でなければいけなかった。つまり11月までアメリカが日本の動きに文句を付けてくる可能性は低く、それまでに既成事実として東南アジア主要部を占領してしまおうというのが日本側の意図であった。
 故に、一気にマレー半島、インドネシア主要部の占領を狙った軍事作戦が企図されつつあったのだ。


フェイズ06「アメリカの去就」