■フェイズ06「アメリカの去就」

 わずか4週間足らずでポーランドが降伏したことは仕方ないにしても、戦闘開始5週間目でパリが陥落し、6週間でフランスが降伏に追いやられた事は、世界に大きな衝撃を与えた。特にフランスの場合は、先の世界大戦であれだけしぶとく戦い続けて遂に勝者となったので、この時の敗北は衝撃以上だったとすら言えた。
 本来ならフランス降伏の時点で戦争が終わっても何の不思議もないほどだった。しかも先の大戦と違って、フランスの降伏が戦争の終了とはならなかった。
 ドイツはイギリスとの講和を計ろうとしたが、5月10日に新たに首相に就任したウィンストン・チャーチルは国民に徹底抗戦を訴え、アドルフ・ヒトラーと握手することはなかった。
 戦争は単なる国家間の戦争ではなく、全体主義というイデオロギーと自由主義陣営の戦いとなっていたのだった。

 そして、ドイツとイギリスの意地のぶつかり合いとも言える戦闘が、イギリス本土制空権の獲得競争という形で始まる。この戦いは「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれ、圧倒的なドイツ空軍に対して、劣勢なイギリス空軍が戦うという図式で戦いが行われた。
 しかしイギリスは、既に当時の最新兵器だったRDF(=ラダール、電探)を用いた警戒網を張り巡らし、効率的な防空体制を構築していた。しかもドイツ軍の小型戦闘機はエンジンの燃費が悪くて航続距離が短いという欠点を抱えており、圧倒的優位を持つはずのドイツ空軍が苦戦するという形になった。
 これを聞いた日本海軍などは、ドイツ武官を通じて自分たちと同様のドロップタンクの技術をいち早く伝えたり、空母の運用方法などを提案している。
 しかしドロップタンクはドーバー海峡を越える程度の距離でしか使う場所がないため、ドイツ空軍内ではあまり有効な装備とは考えられなかった。何しろ、北フランスを飛び上がった時から、イギリス軍のラダールに察知されているような戦いなのだ。また、二隻の空母に満載で艦載機を積み込んでも80機程度の機体を運用するのが精一杯である事を考えれば、洋上での母艦の危険度を越えるほどの利点は考えられなかった。それでも、ドイツ空軍と海軍も、一度空母艦載機に戦闘機を満載した戦闘を仕掛け、予期せぬ方角からの攻撃によって相応の戦果を挙げている。しかし以後イギリス側が警戒してドイツ軍空母を探すようになったため、以後ドイツ海軍は空母を通商破壊に使うことを考えるようになっていた。
 そして英本土での空の決戦は、ドイツ空軍が肝心な時期に戦略を間違って変えてしまったことでイギリス優位に進展するようになり、9月17日にヒトラーは英本土上陸作戦の無期延期を決定するに至る。この段階でもドイツ軍内には、イギリス海軍の損害や彼我の海空戦力差を理由にして衛本土侵攻を訴える軍人もいたが、ドイツ全体の方針は英本土攻略からは離れていった。
 しかしそれは、イギリスが一息付けたことを現すわけではなかった。戦線は、世界中に拡散しつつあったからだ。
 特にイギリスにとって問題だったのは、東アジア戦線だった。

 「バトル・オブ・ブリテン」が既に開始されていた7月20日、準備を整えた日本軍が遂にマレー半島に侵攻を開始した。インドシナ南部に進出した航空隊は、進出して間がない状態だったが一定の準備を行ってからの進出だったため、一定の航空支援は可能となっていた。
 そしてシャム湾での制空権を確保した後に侵攻した日本軍の戦力は、3個師団に支援部隊を加えたものだった。しかも大艦隊に護衛されている上に上陸のほとんどは領内通過を認められたタイ王国の半島部に行われたため、イギリス軍はほとんど迎撃ができなかった。僅かにシンガポールを根城とする潜水艦数隻が攻撃しようとしたが、それもうまくはいかなかった。
 しかも現地のイギリス軍は、航空機は旧式機が若干数あるだけで戦車も殆どなく、頼みの綱の海軍も大型艦では巡洋艦が数隻駐留しているだけだった。日本が多数投入している戦艦は、インド洋に入ってようやう1隻見受けられるだけで空母は1隻もなかった。駆逐艦や潜水艦の数も一桁で数えられるほどしかなかった。
 しかも日本海軍はここで最新鋭機の投入を行い、インドシナの南部から直接飛んできた。この飛行機こそが「ゼロ戦」こと零式艦上戦闘機だった。
 日本海軍は、戦争が始まると開発途中だった同機の開発を促進させ、同時に量産体制のための準備を前倒しで進めた。そして強引に各種試験を経た上で見切り発車で量産に踏み切り、8月半ばの時点で1個飛行隊27機が投入され、さらに一ヶ月後にもう1個飛行隊の投入を行う努力を行った。しかもその三ヶ月後には、空母への搭載も始まり、以後2年近く日本軍の進撃の象徴として活躍を示すことになる。
 なお、日本陸軍はドイツのハインケル社との強い結びつきから、同社の「He 112 」のB型のエンジンをより強力なものに換装して、その他も日本陸軍の好みに変えた上で川崎がライセンス生産して「九九式戦闘機」として採用していた。同機は日本軍初の局地戦闘機で、ゼロ戦と同じ火力は当時の陸軍航空隊にとっては魅力的だった。だが第二次世界大戦序盤の主力だった「九七式戦闘機」よりも航続距離が長かったため急ぎ量産され、事実上の主力戦闘機として第二次世界大戦序盤に活躍ている。そしてこの時の経験が、次の「二式戦闘機」に活かされていった。

 少し話しが逸れたので、マレーでの戦いに戻ろう。
 日本軍の侵攻を受けた現地イギリス軍は、英印軍を中心にしていたが、それなりにマレー半島各地の陣地構築を行っていた。戦場自体がジャングル地帯のため、簡単に日本軍が突破できるとは考えていなかった。ジャングルでは機械化部隊や戦車は不向きだとして、自分たちも装備していなかった事が原因していたといわれるが、そこに日本軍は精鋭の機械化部隊を投入してきた。
 第二次上海事変でも活躍した機械化旅団「第一混成旅団」は、さらに編成を大規模化、重武装化して戦線に投入され、他の師団も可能な限り自動車やトラック、装甲車を装備した半自動化師団ばかりだった。大量の機械化車両の輸送のため、大規模な輸送船団がシャム湾を埋めた。
 そして制空権と制海権、その他各種支援を得た機械化部隊の威力は、ジャングルでも変わることはなかった。日本軍の積極姿勢もあって僅か1ヶ月後の8月30日にはマレー半島の付け根、ジョホール海峡に到達した。その先にはイギリスの東洋支配の牙城シンガポール島があった。そして数日後からシンガポールの攻防戦が始まったが、どこまでいってもイギリス側は戦力特に重火器が不足していたため、効果的な反撃ができなかった。このため、日本軍の上陸から約5日後に貯水池が占領されると、現地司令部は呆気なく降伏するに至る。時に1940年9月17日の事だった。きしくもこの日は、ドイツが英本土作戦の無期延期を決定した日であり、歴史の皮肉を感じさせる。
 一方、8月半ばにはボルネオ島以外のインドネシア各地への侵攻も始まり、圧倒的海軍力を前面に押し立てたうえに前倒しで編成された空挺部隊を投入して、電撃的に各地を占領していった。
 この間イギリス艦隊はオランダ海軍とジャワで合流して、侵攻してきた日本艦隊に対して反撃を行ったが、戦力に勝る日本海軍に返り討ちにあって壊滅しただけだった。
 しかも日本軍は、インドネシア侵攻とほぼ同時期にビルマ方面の作戦も開始し、貧弱なインド師団だけで防備もままならない現地イギリス軍を、鎧袖一触で撃破して快進撃を実施していた。そしてインドネシアは、一ヶ月半ほど後の10月初旬には全土を占領されていった。ここでの敵は、いまだ本国の呆気ない降伏から立ち直れていなかった現地オランダ軍ではなく、広大なインドネシアでの移動であった。
 またビルマでは、雨とジャングルに苦しみつつも、侵攻開始から一ヶ月半後の10月初旬には北部主要部を占領した。さらに三ヶ月後の11月末頃までには、ほとんどが占領されるに至る。日本軍が雲南に至ったため、中華民国の国民党があわてて現地軍閥の討伐を実施したほど急速な進撃だった。
 この結果東南アジア地域は、中立国アメリカが有するフィリピンを除いて、全てが日本人の手に帰することになった。しかも日本は、インドシナでの戦いが始まった頃から「東亜新秩序」や、「東南アジアの開放」をスローガンとして掲げ、植民地の被支配民族から高い支持を得るようになっていた。無論日本としては、効率的な占領を進めるため、そして自分たちが現地の資源を得るための方便でしかなかったが、現地に独立や自由と言った空気を送り込んだ事は、それまで現地を植民地支配していたヨーロッパ諸国にとっては迷惑この上なかった。
 そして当面は、9月17日シンガポールが陥落し、10月中に東南アジアでの主な軍事作戦が終了したことが重要だった。日本では東洋の西洋支配の牙城を落としたと言うことで、花電車が出て大規模な提灯行列が行わお祭り騒ぎとなった。同時に、日本の圧倒的優位をこれ以上ないぐらいに宣伝する材料となり、アメリカがアジア情勢に介入することを一層アメリカ国民に否定させる原因になったからだ。

 そして大戦の行方すら決定づけると言われたアメリカ大統領選挙は、各党の候補選出の段階から波乱含みだった。
 民主党は、三選を目指すフランクリン・ルーズベルトで固まっていたが、これは他に有力な候補がいなかったからに過ぎない。副大統領のジョン・ガーナーでは役者不足だし、有力者の一人だったウェンデル・ウィルキーは前年に主戦論を掲げつつ共和党に転向していた。他にも候補はいないではなかったが、既に大統領を二期務めたルーズベルトに対向できる者はいなかった。しかしルーズベルトの支持が盤石だったわけではない。
 1938年頃から、大規模な公共投資による景気浮揚を目的としたニューディール政策は、完全な行き詰まりを見せていた。1938年頃には「ルーズベルト恐慌」という言葉があったほどで、ルーズベルト政権は慌てて公共投資や国内軍需の拡大などの政策を野放図に開始する。日本が恐れた大量の軍艦建造も、巨大なアメリカ経済にとっての経済刺激策でしかなかった。
 しかし外需の伸びが無かったため、景気回復とは言いかねる状況が続いていた。当然ながら、ルーズベルトの主導したニューディール政策は国民から失敗と見られていたため、民主党の支持は当初から低かったのだ。これはアメリカが中華市場への進出に成功しているか、もっと他の例えば軍需によるてこ入れがあれば変わっていたとも言われている。だがこの頃の中華市場はアメリカの輸出の数パーセントしかなく、日本との貿易のかなりが途絶したことの方が産業界への打撃は大きかった。
 また軍需に投じようとしても、とりあえず日本やドイツに対向した自国軍備の増強以外に行う先がなく、やはり効果は限定的だった。武器輸出にしても、兵器輸出という面での中華市場は終始他国にリードされた上に、戦争勃発のために既に貿易としては扱いにくい国になっている。加えて、中華民国に武器を輸出する事に対しては、中華民国の交戦国である日本が公然と妨害する権利すら有していた。
 しかも国民は、日中の争いで中華の方が悪いと考える向きが強かったので、正当な取引としての武器輸出ならともかく、援助という形で兵器を生産することもままならなかった。国内での軍需の拡大も、造船業界の労働デモが心配されたため戦艦などの大規模需要は軍需工廠で行わざるをえず、景気拡大効果は限定的でしかなかった。
 つまり全ては絵空事であり、さらなる公共事業の拡大も当てにならないというのがアメリカ市民の声だった。
 これに対して共和党では、ロバート・タフト、トマス・デューイが大統領候補として有力視されていた。元大統領か新進気鋭かの選択肢と言うことになるが、どちらも共和党候補らしく公共事業に頼らない景気回復、伝統の自由主義経済を唱えていた。そこに、民主党から共和党に変更したウェンデル・ウィルキーが地道な活動で急速に台頭するようになっていた。しかしウィルキーの台頭は、彼の唱える主戦論に国民の支持があった現れでもあった。
 だが結局、この時のアメリカ国民にとっての一番の懸念材料だった景気回復が、トマス・デューイを共和党の候補としてを選ばせた。
 ウェンデル・ウィルキーは所詮変節物の主戦論者に過ぎず、ロバート・タフトは一度失敗した男だったからだ。
 そしてフランクリン・ルーズベルトとトマス・デューイの選挙戦は、どちらもアメリカは戦争に介入しないと有権者に訴えかけている以上、景気対策が焦点となった。
 そして失敗者の烙印を押されていたルーズベルトは僅差で破れ、共和党は3期ぶりに大統領の座の奪回に成功する。

 このアメリカ大統領選挙の結果は、イギリスにとっては悪夢であり、枢軸陣営にとって天からの恩寵に他ならなかった。
 ルーズベルトは口では非戦を訴えていたが、対日外交は常に強硬であり、既にイギリスへの援助を積極的に行っていた。チャイナにも常に色好い顔を見せていた。加えて、いつアメリカを参戦させるか分かったものではなかった。
 バトル・オブ・ブリテンでイギリスが勝った要因の一つに、アメリカ製のオクタン価100のガソリンの存在があると言われたほどだった。しかし大統領は替わり、政権は保守的な共和党となった。伝統と慣習に従えば政策は大きく転換される筈であり、アメリカ軍の軍拡が霧散する可能性すらあった。それが無くても、大統領の交代に伴う混乱で数ヶ月はアメリカはまともな外交を取ることができない事は確実だった。
 しかし、いまだまともな連絡も出来ないドイツと日本の思惑が一致しているわけではなかった。日本はインドへの積極攻勢を企図していたが、この頃ドイツは秘密裏にソビエト連邦に対する戦争を計画しつつあった。日本がインドで余程大勝利を掴み、イギリス海軍が大打撃を受けた場合は戦略そのものが対英重視に変わる可能性は存在したが、アメリカの参戦が遠のいた事で野放図な戦争の可能性はかえって高まっていた。
 しかし日本は、イギリスを降伏に追い込めばこの戦争を空前の勝利で終えられると考え積極的攻勢を実施しようとした。
 そしてその象徴のように、東南アジアを全て飲み込もうとする日本軍は、ビルマ奥地にも雪崩れ込んだ。しかもその目は、既にインドを見据えていた。
 一方追いつめられたイギリスは、不屈の闘志を見せる作戦を決行する。「ジャッジメント」と命名された作戦で、イギリス海軍はイタリア海軍の本拠地タラントを空襲し、多数の損害を与えることに成功したのだ。
 この空襲でイタリア海軍は全戦艦の半数に当たる3隻に重大な損害を受け、2隻が修理に半年、1隻が再起不能に追い込まれる大打撃を受けた。
 イギリス軍の反撃はさらに北アフリカでも行われ、12月初旬に行われた局地攻勢でイタリア軍が簡単に総崩れとなって膨大な物資を残して敗走。捕獲物資により勢いを得たイギリス軍は追撃を実施して、翌年2月にはイタリア軍を追ってリビアの半分を占領し、累計で約20万人もの捕虜を得る大勝利を飾った。
 この勝利はイギリス国民の雰囲気を大いに明るくするものだったが、イタリア以上の脅威が東から着々と進みつつあった。


フェイズ07「インド洋侵攻」