■フェイズ09「二つの海上決戦」

 インド洋で日本とイギリスの決戦が行われる直前、北大西洋ではドイツ海軍が活発な活動を開始した。
 「ライン演習」と呼ばれた作戦は5月18日に開始され、すでにこの時点で日本海軍を迎撃するためイギリス海軍の大部隊がインド洋に出撃したあとの事だった。ドイツ側も、イギリス海軍の戦力の低下を見越しての出撃であり、総力を挙げてイギリスの海運を締め上げる予定だった。
 しかしこの時のドイツ海軍には懸念が多かった。戦艦のうち「シャルンホルスト」は機関の修理中で動けず、日本製軽空母「ヴィーザル」はブレストで空襲を受けて大破。目下修理中で、実に半年近い修理を必要とする大損害を受けていた。そして「シャルンホルスト」の修理と新鋭戦艦「テルピッツ」の慣熟完了を待っていたら、北大西洋は霧が多くなる季節を迎えてしまうため、出撃は夏至ぐらいまでに作戦を終えられる今の時期しかなかった。
 このためバルト海側のヴィルヘルムス・ハーフェンから出撃する戦艦「ビスマルク」、重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」を本隊として、ブレストからは戦艦「グナイゼナウ」単独と、空母「リリエンタール」と護衛駆逐艦2隻、キールからは日本製大型軽巡洋艦の「フランクフルト」「ドレスデン」が出撃する事になっていた。多数のUボートが展開することは言うまでもない。
 作戦は、ヴィルヘルムス・ハーフェン、ブレスト、キールの順番で出撃が行われ、イギリス軍が気づくであろう頃にちょうど全ての艦艇が北大西洋上で活動しているタイミングとなっていた。

 4つに分かれたドイツ艦艇は、程なくイギリス海軍の知るところになる。見つけた側のイギリス海軍は、何よりドイツ戦艦に注意を向けた。「グナイゼナウ」と日本製空母の追撃にH部隊を牽制で向けると、残りのほぼ全てを「ビスマルク」追撃に向かわせた。しかし、この時のイギリス本国近辺のイギリス海軍は、戦力が大きく下がっていた。戦艦は「ネルソン」と新鋭の「キング・ジョージ五世」「プリンス・オブ・ウェールズ」だけで、巡洋戦艦「フッド」と「レパルス」を含めても5隻だった。しかも「プリンス・オブ・ウェールズ」はまだ完成しているとは言い難い状態で工員を乗せての緊急出撃となり、当然乗組員に過度の期待ができる状態ではなかった。そして「レパルス」は、ジブラルタルを守るH部隊に配備されていた。
 そして空母は、「アークロイヤル」はH部隊に「フェーリアス」は本国艦隊に配備されていた。

 両者の追いかけっこは、最初から齟齬の連続だった。ドイツ海軍は「ビスマルク」がイギリス軍の電探(RDF)により捕捉されてしまい、事実上の囮の役割を果たさざるを得なくなっていた。しかしこのおかげで、日本製の大型軽巡洋艦2隻は「ビスマルク」を追い回すイギリス海軍の間隙を突いて、大西洋中部への突出に成功していた。囮と本隊の役割が入れ替わった形だった。一方でブレストを出た「グナイゼナウ」と「リリエンタール」のそれぞれの艦隊も、イギリス海軍H部隊の追跡を受け、カナダからイギリスに向かう船団、地中海に向かう船団の攻撃はままならなかった。仕方なくイギリス本土から喜望峰方面、マゼラン海峡方面に向かう船舶を狙うことにしていた。
 しかし両者の錯綜を前に、守る側のイギリス海軍の方が翻弄されており、何より自分たちより強力な戦艦の存在はこれ以上ないほどの脅威として映った。
 しかもアイスランド東方海上で「ビスマルク」と「プリンツ・オイゲン」の捕捉に成功した「フッド」と「プリンス・オブ・ウェールズ」の艦隊は、短時間の砲撃戦で「フッド」が三番砲塔を天井から打ち抜かれて爆沈するという偶然の悲劇に見舞われていた。「プリンス・オブ・ウェールズ」も艦橋が破壊され大きく損傷しており、やむなく後退していた。しかしこの戦闘で「ビスマルク」も傷つき、燃料が大量に漏れたため大西洋遠方への進出を諦め、ブレストへの帰投を余儀なくされていた。イギリス海軍は、戦闘では負けたが戦略的には勝利したといえる戦いだった。
 そして「ビスマルク」の離脱は、イギリス側の唯一のチャンスだった。同時に「マイティ・フッド」の仇討ちのため、イギリス本国艦隊は総力を挙げてブレストに逃げ込むであろう「ビスマルク」の追撃を開始する。
 だが、砲撃戦のあった翌日、イギリス海軍の哨戒網を大胆にもイギリス本土寄りですり抜けた大型軽巡洋艦の「フランクフルト」「ドレスデン」が、カナダからイギリスに向かう輸送船団の襲撃に成功していた。
 軽巡洋艦としては当時最も高い火力を持つ二隻の巡洋艦の前に、護衛の軽巡洋艦と駆逐艦数隻は不意打ちもあって簡単に撃破され、散り散りに逃げ始めた輸送船はUボートの襲撃などもあって、その後約3分の2が捕捉撃沈された。有力艦艇の多くを、日本軍とインド洋に吸い取られたが故の悲劇だった。
 一方H部隊は、「グナイゼナウ」、「リリエンタール」の追撃で既に南西につり上げられて主戦場から大きく離れていた。それどころか、「リリエンタール」艦載機に先に発見された上に艦載機の襲撃を受け、「アークロイヤル」が爆弾数発を受けて損傷後退を余儀なくされいてた。これでブレストを出撃した艦隊はフリーハンドを得たようなもので、以後半月近く航空偵察を駆使して付近のイギリス船舶を一方的に攻撃して回ることになる。
 そして肝心の「ビスマルク」だが、結局イギリス本国艦隊が捕捉することはできず、ドイツ空軍の援護のもと何とかブレスト港に逃げ込んでいた。しかもブレストは、他の艦艇も順次ブレストに来る予定のため、ドイツ空軍も付近の防空体制を強化しており、その後もイギリス側は嫌がらせ以上の攻撃を行うことはできなかった。

 なお、「グナイゼナウ」がブレストに帰投する7月初旬まで続いた「ライン演習」作戦の結果は、イギリスの一方的な戦術的敗北だったが、ドイツ単独では戦略的勝利に結びつかなかったというのが総評だった。だが戦争全体で見た場合、1941年春の段階でイギリスは孤独であり、ドイツにはイタリアと日本という力強い味方が存在していた。そして枢軸最強を誇る日本海軍の猛威が、ほぼ同じ頃インド洋で発揮されることになる。

 1941年5月27日にシンガポールとジャワを出撃した日本艦隊は、主に二手に分かれていた。片方はカルカッタを強襲上陸する部隊の支援艦隊。こちらには既に長期間の作戦でややくたびれつつあった第二航空艦隊と第二艦隊、それに上陸船団に連れ添っていた本隊が当たった。既にベンガル湾に有力なイギリス艦隊はないし、ビルマ方面からの航空戦力も使えるため、戦艦による艦砲射撃があれば上陸作戦が失敗する要素はほとんどなかった。
 実際現地イギリス軍は水際撃滅を完全に諦め、カルカッタ前面での防御に重点を置いていた。とはいえ、装甲戦力、航空戦力、重砲も不足する上に、戦意に乏しいインド兵がほとんどのため、総督府そのものの疎開作業が既に始められていた。
 一方、ジャワからセイロン島へと進出して遣印艦隊と合流したのが、第一艦隊、第一航空艦隊の名を冠した、日本海軍の主力部隊だった。彼らの目的は、イギリス本土と地中海方面から来援する増援艦隊と増援船団の撃滅だった。
 イギリスの増援船団は、日本軍が攻撃を開始した時点で、すでに南アフリカのケープにまで達していた。巡洋艦の護衛があるだけの鈍足の船団と言っても、増援部隊の阻止は微妙なタイミングと見られていた。またスエズ運河を越えたイギリス艦隊は、戦艦と空母多数を含む大艦隊であることがドイツからの情報で分かっており、しかも5月末の時点で既にアラビア半島南西部のアデンに到着していた。このため遣印艦隊は、既にインド洋東部に出撃しており、セイロン島近辺にさしかかった主力艦隊も、そのまま東インド洋に入った。
 これに対してイギリス海軍は、日本が既にアッズ環礁を得て長大な哨戒網を作っているため、南アフリカのダーバンからアフリカ東部沿岸沿いに進み、可能な限り基地航空隊の支援を受けながらソコトラ島近辺で紅海をでた主力部隊と合流、一気に日本軍の空襲圏外のカラチを目指すことになっていた。

 「アラビア海海戦」と呼ばれる戦いは、まずは互いの空母同士による戦いとなった。同種の戦いは、既にイギリスとドイツとの間で行われており、経験の面でイギリス有利とも言われていた。しかし日本側も、敵拠点での攻撃で既に多くの実績を積み上げており、加えてアメリカとの艦隊決戦を目指した装備と訓練を充実させたままのため、艦隊攻撃はむしろ望むところという雰囲気が強かった。むしろ今までの「雑魚」ばかりを相手にする戦闘にはいい加減嫌気がさしており、日本艦隊の指揮は羊の群を見つけた飢狼の群のような有様だったと言われている。
 両軍の戦力は、互いに基地航空隊の支援がないので、艦隊のみだった。しかしイギリス側が船団を北寄りの少し後方に配置しており、日本の遣印艦隊がその船団を狙っているため、両者の主力艦隊と空母機動部隊による、それぞれ一騎打ちになるだろうと言うのが、戦闘開始直前の両者の予測だった。
 この時、イギリス海軍の戦力は、戦艦が「クイーン・エリザベス」「ウォースパイト」「バーラム」「マレーヤ」「ヴァリアント」の5隻、空母が「ヴィクトリアス」「フォーミダブル」「ハーミーズ」の3隻で、艦載機は合わせて90機程度だった。これに巡洋艦、駆逐艦がそれぞれ加わるが、重巡洋艦は含まれず大型の軽巡洋艦が2隻あるだけだった。これに対して日本海軍は、戦艦5隻、大型空母2隻、軽空母4隻を中核としており、艦載機数も常用で約250機あった。他には軽空母「瑞穂」が通商破壊任務で比較的近くを作戦行動中で偵察などで支援任務に就いており、艦載機戦力の面では日本側が三倍近い優位にあった。
 そして数の優位は、そのまま戦闘に反映される。
 日本海軍の艦載機は、基本的に広い太平洋での作戦行動を主眼としているため航続距離を重視していた。既に戦闘機も全て「零戦」に更新されており、艦載機の全てが金属製の翼を持つ単葉機だった。これに対してイギリス海軍は、現時点では艦載機の開発に明らかに失敗していた。
 攻撃の中核となる雷撃機は、1934年に初飛行した吹きさらしコックピットに複葉機の「フェアリー・ソードフィッシュ艦上雷撃機」。戦闘機兼爆撃機は、急降下爆撃ができず緩降下爆撃のみの「フェアリー・フルマー艦上複座戦闘機」。しかも戦闘爆撃機でありながら、機銃の搭載数以外では速力、運動性能などどれをとっても戦闘機としては欠陥品だった。このどちらもが使えたのは、今までまともな洋上戦闘や艦載機同士の戦いがなかったからだった。フルマーですらほぼ新鋭機であり、1941年春の段階ではどちらもが主力艦上機だった。もっともソードフィッシュは、扱いやすく命中率も高いため搭乗員には好評な機体だった。
 空母同士の戦闘は、航続距離の差から日本側が一方的にイギリス艦隊を発見し、一方的に攻撃隊を出撃させた。第一波108機、第二波81機であり、これだけでイギリス軍艦載機の二倍の数だった。対するイギリス側は、日本側の動きを電探(RDF)で察知すると、合計42機あったフルマーを全機出撃させて迎撃体制を整え、追加の索敵機を放った。
 日本軍艦載機群の第一波は零戦36機、99式艦爆18機、97式艦攻が54機だった。やや編成が変なのは、大型空母と軽空母の混成のためで、戦術がまだ練り込まれていなかったからだった。
 しかし36機の零戦の威力は、この戦場では圧倒的だった。ただでさえ性能で圧倒的に優越している上に、搭乗員は半数が教官を務められると言われるほどの腕前を要求される第一航空戦隊所属の搭乗員だった。このため防戦に出た側がほとんど敵攻撃機を、邀撃できないままに落とすか追いかけ回す事になる。そして安全となった空から、54機の雷撃機と18発機の急降下爆撃機が襲いかかる。
 急降下爆撃は既にドイツ軍を相手におなじみだったが、雷撃しかも小型機による超低空からの肉薄雷撃は、ほとんど初めての体験だった。ドイツが日本海軍と同じ機体を若干数運用していたが、その洗礼を受けたのはまだ一部の艦船に止まっていた。しかもその速度は、ソードフィッシュとは桁違いに速かった。イギリス艦艇の対空射撃は混乱したり追従できない状況が多発し、有効な弾幕を張ることが出来なかった。しかもフルマーを追い散らした戦闘機までが機銃掃射に参加したため、一層防空網は混乱した。電探(RDF)の有無はまったく関係がなかった。
 そしてイギリス海軍の誇る装甲空母は、急降下爆撃は難なく耐えきったのだが、同時攻撃となった複数方向からの雷撃は別だった。たった一度の攻撃で合わせて11本が命中し、不発だった1本を除いて全てが艦艇の水面下で炸裂し、大穴をあけてしまう。
 水面下からの攻撃は、昔から船にとっての一番の脅威であり、飛行甲板に装甲を施した空母は船の重心位置が高く転覆の危険も大きくなるという皮肉があった。事実片方に5本もの魚雷を一度に受けた「フォーミダブル」は一気に傾きを増し、被雷から僅か10分足らずで横転沈没してしまう。まんべんなく両舷に3発ずつの魚雷を受けた「ヴィクトリアス」はすぐには沈まなかったが、機関部が浸水して行き足は止まり動力を失ったため排水ポンプが動かせなくなり、徐々に沈んでいくしかなかった。「ハーミーズ」はもっと酷く、魚雷が命中する前に水平爆撃を仕掛けてきた機体の大型爆弾が命中。1発で竜骨が折れて、多くの乗組員を乗せたまま短時間で沈んでいった。
 ドイツとの戦いとは、あまりにも次元の違う激しさだった。少なくともこの点では日本海軍はイギリス海軍の伝統である「見敵必殺」を継承していた。もっとも、日本海軍の基本ドクトリンが「一回の戦闘で全てを決する」であるため、攻撃力が高いのはある種当然の選択でしかなかった。
 しかも日本軍の攻撃は一回だけでなく、30分もすると第二波が現れる。第二波攻撃隊は、一部が「ヴィクトリアス」に過剰なトドメを刺すと、他は随伴の巡洋艦を若干数が狙った他は、半分以上が別の場所で整然とした陣形を組んでいる戦艦群へと殺到した。
 「クイーンエリザベス級」戦艦は、5隻のうち4隻が二度目の近代改装工事を受け、うち2隻は新造戦艦のように艦様を一新していた。当然対空火力も増強されていた。この時狙われたのは弾幕の薄い1隻、つまり改装されていなかった戦艦「バーラム」だった。僚艦、護衛艦が激しい弾幕を張り巡らせるが、こちらでもドイツ軍とは違う日本軍では勝手が違い、集中攻撃を受けた「バーラム」と自爆機の突入を受けた巡洋艦1隻が大きな損害を受けてしまう。「バーラム」は魚雷3本、爆弾2発を受けて大破。特に速力が14ノットにまで低下しているため、そのまま引き返すより他無かった。
 艦隊の航空戦力を失ったことで艦隊そのものの引き上げも取りざたされたが、アラビア半島寄りに進んでいるので地上からの最低限の航空支援は期待できた。時間も既に午後2時を回っているので、発着時間を考えると空母から攻撃される可能性は低かった。その上、日本の水上艦隊が接近しつつあるのを空襲の前に放たれた偵察機が発見しているため、進むにしても船団を逃がすにしても、敵艦隊との戦闘は避けられなかった。しかし近い方の水上艦隊は未確認の戦艦1隻だけであり、別方向から迫る金剛級2隻に立ち向かうにしても、各個撃破の好機にも思えた。
 このため4隻に減った戦艦部隊は、急速に接近中の日本艦隊へと進路を向け、新鋭戦艦の威力に奢った日本人に教育をたれるべく前進する。

 既に日も傾いた3時間後の午後5時頃、日本軍偵察機に見張られつつもイギリス海軍が電探(RDF)が捉えたエコーには、日本艦隊の中に戦艦3隻を含んでいた。1隻という偵察情報は誤報だった。
 しかもイギリス側はこの時点ではまだ知らなかったが、日本海軍最精鋭の第一戦隊で、「大和」「長門」「陸奥」という世界最強級の戦艦ばかりで編成された強力な戦力だった。イギリス軍偵察機は「大和」の大きさがそれまでの戦艦よりはるかに大きいため、よりにもよってビッグセブンの「長門級」戦艦2隻を巡洋艦と見間違えたのだった。
 しかしそれでも自分たちは4隻、相手は3隻のため、イギリス海軍はそのまま砲雷撃戦を目指す進路を取った。対する日本側も、日本海軍最精鋭という自負と新鋭戦艦の威力に酔っている面があるため、積極的にイギリス艦隊に接近した。
 この時両軍は、イギリス海軍が戦艦「クイーン・エリザベス」「ウォースパイト」「マレーヤ」「ヴァリアント」、日本海軍が戦艦「大和」「長門」「陸奥」の単縦陣で並んで突き進んだ。
 最初に発砲したのは日本艦隊で、距離35000メートルからの一斉射撃だった。
 しかし破格の水柱をあげた砲弾の命中位置は、お世辞にもほめられる場所に奔騰しなかった。イギリス艦隊側は、驚くと同時に嘲笑したとすら言われている。
 しかし他の二隻の照準は非常に正確で、早くも3斉射で後ろ二隻のイギリス戦艦を挟叉していた。このため、距離3万メートルでイギリス艦隊が砲撃を開始するまでに、既に「マレーヤ」「ヴァリアント」は被弾していた。ただ、大落下角度からの41センチ砲弾だったが、それぞれ2発の被弾では戦艦に致命傷を与えることはできなかった。ましてや近代改装を受けているので、戦闘力に陰りはなかった。一方「大和」の砲弾はようやく先頭を進む「クイーン・エリザベス」付近に水柱を上げ始めたところだったが、危険の始まりであることは確かだった。このためイギリス艦隊はさらなる接近を画策し、日本側も2万5000メートルまでの接近を行うつもりだったので接近を続けた。
 互いに最短距離で接近しているため、距離が詰まるのは早かった。なるべく単純な数字に省略すると、時速80キロメートル、秒速22メートル近い速度で砲撃を交わしつつの接近を続けていた事になる。この場合、1分間で約1300メートル距離が縮まるので、5000メートルの接近に必要な時間は僅か4分弱。日本の戦艦は40秒に一回主砲を放つ事ができるので、着弾観測射撃をしないで見越し砲撃をしたと仮定しても、約6回の射撃しかできない計算になる。しかし放たれるときに約マッハ3、標準マッハ2程度で飛翔する砲弾が30キロメートルの距離を駈けるのに90秒近い時間が必要と言うことになる。距離2万メートルだと約60秒だ。実際この時の日本艦隊は、1万メートル進む間に6回一斉射撃を行ったに過ぎない。
 こうした単純な数字だけを挙げていくと、のんびりした戦いのようにも思えるが、人間が受ける感覚としては一瞬だった。膨大な火薬を用いた一種の大爆発の効果で砲弾が飛び出し、敵の砲弾が吹き上げる巨大な水柱が奔騰するなど、現場は人の許容範囲を超える音と衝撃と、そして一生忘れられないような光景で満ちている。しかも敵の砲弾が命中すれば、音と衝撃、そして破壊と殺戮がさらに加わってくる。
 距離2万5000メートルを切ると、日本艦隊が相手の頭を抑えようと進路を変えて相対速度が低下したため、その後は今までの半分程度の接近速度となった。そして距離が縮まると、射撃間隔は狭まり砲弾の命中率も大きく向上する。ようやく本格的な砲撃戦の始まりという事になる。イギリス艦隊も既に3度の射撃を行っており、早い艦では日本戦艦に挟叉弾を与えていた。
 日本艦隊は既に4斉射目で「長門」が命中弾を出し、「陸奥」も5斉射目に確率論と幸運双方の結婚を目撃していた。
 そしてこのあたりから双方で砲弾の命中が頻発するようになるが、イギリス艦隊は徐々に悲惨な状況に追い込まれつつあった。
 日本艦隊が最初の1発を撃ってから15分後、既にイギリス艦隊の戦艦で無傷なのは、砲撃を受けていない「ウォースパイト」だけになっていた。数発の46センチ砲弾を受けただけの「クイーン・エリザベス」は、既に攻撃力の半分を失って速力も落ちて脱落しつつあり、後ろの二隻もそれぞれ攻撃力は25%以上失っていた。火災も酷い。
 一方の日本側は、それぞれ小規模な火災以上は発生していなかった。「大和」などは二隻の戦艦から砲撃を受けているのに、命中した半分以上の砲弾を強固な装甲ではじき返しており、その様子がイギリス艦隊から目視できる有様だった。「長門」と「陸奥」も、過剰なほどの近代改装が施されているため、相手との格の違いを見せつけていた。
 そして相対距離2万1500メートル付近で、重量1460kgの46センチ砲弾2発が命中した「クイーン・エリザベス」は遂に屈し、さらに40秒後に降り注いだ砲弾が事実上の致命傷となった。
 この時点でイギリス側の次席指揮官は後退を決断。戦場からの離脱を開始する。まだ残存していた駆逐艦は煙幕を張るために両者の間に割って入ろうとした。しかしその数は僅かに2隻であり、戦艦群の吹き上げる煙の方が大きいほどだった。
 しかも依然として最初の速度を維持したままの日本艦隊の追撃があったため距離は殆ど開かず、日本側としては理想的な追撃戦となった。しかも射撃諸元が変わってからも10分ほどは全砲門による射撃が出来たため、「マレーヤ」「ヴァリアント」にも致命傷を与えることができた。「大和」が次の獲物として狙い始めた「ウォースパイト」は命中弾を与えるも夕闇の中で取り逃がしたが、戦闘自体は日本海軍の一方的勝利となった。
 しかも戦闘はこれで終わりではなかった。
 夜に入ると、戦艦「比叡」「霧島」、重巡洋艦4隻を主力とする遣印艦隊が、後方のイギリス船団の捕捉に成功。軽巡洋艦に守られつつ何とか日本艦隊をやり過ごそうとしていた輸送船団は、夜間にしかも遠距離から統制雷撃戦を始まりとする総攻撃によって壊滅的打撃を受けることになる。
 翌日も日本艦隊の追撃は続き、空襲と潜水艦により輸送船団の8割以上が沈められ、「バーラム」を始め戦闘艦艇の多くも討ち取られた。速力が落ちなかった「ウォースパイト」は、何とかイギリス軍制空権下に逃げ込めたが大きく損傷していた。
 イギリス海軍は文字通りの全滅であった。
 そしてこの戦いの結果、イギリスはインドを救援する手段を完全に失い、大西洋での事実上の敗北もあって大きく士気を落とすことになる。

フェイズ10「イギリスの窮乏とこの頃のアメリカ」