■フェイズ10「イギリスの窮乏のこの頃のアメリカ」

 北大西洋での事実上の敗北とインド洋での決定的敗北は、イギリスに大きな衝撃を与えた。何しろ、海の戦いで負けたのだ。
 6月前半の時点で、北大西洋の通商路は依然としてドイツ軍艦艇に脅かされ続けているのに、ドイツ海軍の大型艦を1隻も仕留められていなかった。しかもこの年に入ってからは、インド航路の約6割、オセアニア航路の約4割の船舶が日本海軍の襲撃を受けて撃沈されているため、インドに増援を送り込むどころか英本土への物資の流れは滞っていた。当然英本土に入る物資は減少し、予定していた半分程度しか受け取れていなかった。インド、オセアニアからの流れが半分以上途絶えているため、本土だけでは食料の自給すらままならいイギリス本国は、ドイツ軍のUボートに怯える北米航路だけが頼りという有様だった。各英連邦、植民地での生産や経済も大きく混乱していた。そして物資の滞りは戦時生産にダイレクトに影響を与え、予定していた兵器の生産ができないでいた。
 加えて、インド、北アフリカ共に他方面に戦力を動かすことができず、一定の戦力があれば容易く制圧できる筈の中東は半ば放置状態だった。これは石油積み出しにまで影響を与えており、輸送の滞りもあってペルシャの石油は半分も所定の場所、特に大ブリテン島に届いていなかった。
 しかも英本土からインド救援のために送り込んだ大規模な輸送船団は先の戦闘で壊滅し、船と共に多くの兵器と物資が海に沈んだ。運んだ物資は1個機甲師団を充足するよりも多く、インドでは日本製の機甲部隊と航空部隊に対向すべき戦力がない状態での辛い戦いを強いられていた。
 そして何より問題だったのが、大型艦艇の不足だった。一ヶ月足らずの間にたて続いた戦闘で戦艦5隻、空母3隻を失い、これで王立海軍が現時点で保有する主力艦艇の数は戦艦7隻、護衛空母以外の空母3隻にまで激減していた。巡洋艦以下の艦艇も日々の通商路護衛任務の前に常に不足気味であり、しかも日本海軍はやたらと現地の大型艦を沈めていた。インド洋では既に大型艦は壊滅どころか絶滅状態で、オーストラリア海軍も既に巡洋艦2隻を潜水艦の攻撃で失っていた。オーストラリアからは、増援を送ってくれと毎日のように催促がきていた。
 しかし無い袖は振れないのが、この時点でのイギリスだった。それに、インドも北アフリカも救いに行かない連邦構成国を構っている余裕はなかった。

 インドでは、カルカッタ方面並びにビルマ境界線あたりの現地インド軍は、独立と自立を吹き込まれたインド兵、インド民衆のために足下から崩れ去りつつあった。しかもインドには、ビルマ境界線に2個師団、ビルマから引き抜かれて海上からチッダゴン方面に2個師団が上陸した。これ以外にも、セイロンを攻め落とした3個師団が、次の上陸作戦の準備を進めていた。シンガポールには、セイロン防衛の交代のための防御用師団が準備されつつあることが既に判明していた。
 頼みの綱の筈の空軍は、なけなしの機体が日本軍が仕掛けてきた短期間の航空撃滅戦で、既にインド全土で壊滅状態となっていた。ビルマ、セイロン双方からの攻撃により、無理を押して送り込んだ程度の増援では焼け石に水だった。送り込むそばから逐次投入の形で落とされてしまうという、最悪の展開になっていた。
 そしてカルカッタには、ガンジス川河口に大艦隊に支援されて上陸した日本陸軍の精鋭1個軍団が体制を整えて迫りつつあった。しかも機械化装備率の高い日本軍の進撃は早く、対する現地イギリス軍は装甲も薄く2ポンド砲装備の戦車が少数しかないのでは話しにならなかった。日本軍の戦車も似たようなものだったが、数が多い上に戦慣れており、しかも制空権を奪われているのが痛かった。
 上陸からわずか一週間で、既にカルカッタは事実上の包囲下に置かれており、インド総督府も鉄路デリーにまで後退していた。日本軍の航空部隊も、すぐにもカルカッタ方面に進出した。
 イギリスだけがなし得、アレキサンダー大王ですら出来なかった事を、日本軍はいとも簡単に行っていた。
 ビルマで日本軍に合流したインド独立の闘志チャンドラ・ボーズは、インド国民軍の最高司令官にも就任し、日本の大艦隊と共に故郷に戻り民衆に独立と自由を訴える放送を行っていた。まもなくインド独立の際の臨時代表になるという噂も飛び交い、カルカッタ陥落がその時だと言われている。
 このためインド全土は騒然となっており、治安維持と日本軍の攻撃の双方への対応のため身動きできないのが現状だった。しかも日本軍は、セイロンからは南部地方を攻撃し、王立海軍を破った艦隊は補給後にインド東部、中近東のイギリス軍拠点を叩いて回っていた。

 一方、ドイツが攻勢を続ける地中海、北アフリカ方面は、ドイツ側の海上補給路への攻撃が比較的成功しているため、小康状態を保っていた。しかしイギリス側も有力な増援や増強ができないため、攻勢に出ることは不可能に近かった。5月に一度限定的な反撃を行ったが、一時は成功かと思われた攻撃も反撃によって失敗し、リビア東部の要衝トブルクは包囲されたままだった。しかも兵力を消耗したため、ロンメル将軍の攻撃に怯えているというのが実状だった。
 一方で対潜水艦戦は、機材、戦術共に整いつつあった。英本土に対する夜間爆撃は、ドイツ側の攻撃が著しく低下したため、一時的だがほぼ一方的な攻撃となっていた。だが、ドイツ海軍の大型艦の脅威が消えたわけではないし、逆にイギリス海軍の大型艦の補充は円滑とは言い難い状態が続く事も明らかだった。爆撃も、規模と投入されたリソース、そして受けた損害に比べて、効果は嫌がらせを多少上回る程度でしかないと言うのが実状だった。ドイツ空軍に防空の苦労をかなり背負わせているので戦争経済上で有効な手段だったが、今のところはその程度でしかなかった。もしこの時点で何か大規模な攻勢準備をしているため音無状態のドイツ空軍が本気で襲いかかってきたら、バトル・オブ・ブリテンの再来になる可能性も十分に存在していた。
 現状は四面楚歌という東洋の故事そのものだった。
 いちおうイギリス軍の側には、自由フランスを始めとして多数の亡命政府が身を寄せており、自由フランス軍のように戦力がゼロという事もなかった。しかし国家としての足場のない者ばかりで、勝手なことを言う事も多く、大義名分以外では存在価値はほとんどなかった。

 イギリスと、敵であるドイツ、イタリア、日本以外の世界の大国といえば、後二つあった。アメリカ合衆国とソビエト連邦だ。
 ソビエト連邦はドイツと不可侵条約を結び、日本との間にも1941年4月に中立条約が結ばれていた。この時点でのソ連は、準枢軸国と見るべき相手だった。
 しかもソ連は、フィンランドに一方的な侵略戦争を吹っかけ、バルト三国の独立を奪い、あまつさえポーランドをナチス・ドイツと分割占領していた。その上一党独裁の共産主義国な上に、書記長という政府首班のスターリンはヒトラー以上の独裁者だった。イギリスの宰相ウィンストン・チャーチルは、ヒトラーを倒すためなら悪魔とでも手を結ぶと言ったとされるが、流石にこの時点でソ連と手を結ぶことは不可能だった。

 一方、イギリスが最も期待し、事実1940年末頃まではイギリスを事実上援助していたアメリカは、大統領選挙後大きな政治的変化が訪れていた。
 そもそもアメリカの政治は、民主党と共和党による二大政党が政権を取り合う構図を持っていた。そして現政権の対向政党が政権を握った場合、以前の政策が見直され、場合によっては大きく転換されてしまう。それ以前の問題として、政府から様々な分野のスタッフは総入れ替えとなって、大統領選挙から大統領就任に至るまでの3ヶ月間近い期間は、新たな政府を発足するための準備期間として機能していた。
 そして1941年1月に発足したトマス・デューイ政権が一番否定したのが、「ニューディール政策」を代表とする大規模な公共投資だった。
 共和党はもともと公共事業に頼らない景気回復、アメリカ伝統の自由主義経済、自由放任主義を唱えていた。先代の共和党大統領だったフーバーなどがまさにそうだった。しかもデューイ大統領は、基本的には「善意の人」であったため国民を偽る事はしなかった。
 彼の基本政策は、国内を中心とした自由主義経済への回帰と躍進、外交政策は伝統の不干渉主義、いわゆるモンロー主義だった。しかし国民の基本的権利を守るが国家の義務だとして、前政権が残した軍備拡張計画(選抜徴兵制制度など)の多くは残すものとした。そればかりか、アメリカ船舶の海上通商路防衛のために、海軍の戦時編制についてはさらに進めることにもなった。アメリカ市民も、戦争は対岸の火事に等しかったが、枢軸側が行う通商破壊だけは気になっていたからだ。
 しかし前年6月に成立した海軍増強案は、あまりにも過度で多くの予算が必要だとして、即時適正な審査を行った後に修正案の提出を決定した。景気回復に必要な減税の為には、是非とも過度な軍事費は避けるべきだったからだ。連動して、陸軍の軍備拡張も削減対象とされた。そうして余剰となった税金の多くは減税として消えてなくなり、一部が軍需以外の景気対策に投入された。
 また、中立国としての姿勢を揺るがすことになる、イギリスへの過度の肩入れや援助は控えられることになり、正当な対価による貿易を重視することとした。しかもイギリスには事実上のバーター取引が重視される事になり、イギリスの困窮を強めさせることになった。また貿易の品物として、これまでの時代ならば武器(兵器)も貿易品含めるのが一般的だったが、兵器の優劣が戦争の帰趨を決する可能性があるとして、一部の議員から貿易品として兵器の除外が提案され、これが41年3月に議会で可決されてしまう。
 1935年に制定された「中立法」の適用こそ行われなかったが、精神を尊重していくことになったのだ。
 この事は世界にも驚きをもって迎えられた。
(※中立法:外国間が戦争状態にあるとき、もしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国へ、アメリカが武器および軍需物資を輸出する事を禁止するもの)

 一方、各交戦国との関係は、基本的に枢軸陣営を独裁体制国家群で侵略者と定義して、国家間の関係は最低限のものとする方針は続けられることになった。しかし、日本がヨーロッパ諸国の攻撃の口実としたヨーロッパ植民地主義からの解放と全ての人種、民族の自決を謳っている点だけは、限定的ながら評価するという談話が発表された。これは、前政権が戦争以前から日本に対して厳しく当たっていた事への裏返し外交であると同時に、万が一枢軸陣営が勝利した場合、自分たちがその輪の中に入るための一石だと考えられた。また同時に、日本が自らの言葉を行動で否定した場合に、日本を非難する材料を揃えておくためでもあった。実際日本は、戦争遂行のために資源収奪を進め、旧宗主国に代わる行動を取る傾向が強かった。
 なお、日本とアメリカの関係だが、アメリカが中立を維持しているため、いまだ北太平洋全域が比較的平穏なのをいいことに、いまだ日本との貿易関係は一部継続されていた。それどころか、政権が変わったことで日本政府との間には新たな交渉すら持たれる事になった。この事をイギリス、中華民国は再三再四警告や非難していたが、中華民国へ向かうアメリカの民間船は日本もせいぜい監視する程度のため、中華民国も多くを言えない状態だった。そして戦争の中での莫大な需要に応えたいというのが、生産現場の稼働率が著しく落ちたままのアメリカ産業界の本音であり、とりあえず民主主義とか自由とか戦争よりも、発注を受けることの方が重要だった。安易に武器の輸出ができないとなれば尚更だった。
 このため日本とアメリカの関係は、その後も緊張をはらみつつも続くことになる。
 加えて、税金を削減するために軍備拡張、海軍拡張を抑止する以上、最も強大な海軍を持つ日本との必要以上の対立関係は避けるべきだという側面もあった。現時点ではアメリカが繰り上がりで一番だが、日本も二番目の海軍国であり、実戦経験なども加味すれば大きすぎる脅威だった。
 一方では、ドイツはヨーロッパで人種差別(ユダヤ人差別)をしている独裁者の国ということをアメリカの一部大衆新聞が煽っている事もあり、また物理的にも交流が難しい事から、外交関係を維持しているという以上にはならなかった。ソ連とのつながりも他の国と大差なく、辛うじて太平洋航路を使った細々とした貿易を行っているという程度のものだった。

 そして1941年3月には「両洋艦隊法」の修正案が議会提出され、従来の海軍の70%の戦力増となる合計133万トンにも及ぶ大艦隊と1万5000機もの航空機を製造する計画もほとんど中止されることが決まり、合わせて大規模な減税案が通過した。
 これでルーズベルトが目指していたアメリカ参戦は、当面ではあっても民意によって否定される事になった。
 しかし最低限の国防力として、第三次ヴィンソン案までは計画通り実施することが同時に確認され、これだけでも新型戦艦10隻、新型空母4隻の新規建造となり、日本海軍にとっての懸念は続くことになる。しかも修正案は5月から6月にかけてのイギリス海軍の惨敗と日本の新戦力露見の影響でさらなる変更が加えられることになり、第三次ヴィンソン案の大型戦艦4隻の建造を取りやめて、スターク案から大型戦艦2隻と新型空母4隻の復活が改めて議会を通過する。
 だが新たな艦艇の建造は、過度の予算を傾注しない事にもなり、24時間操業による突貫工事のような事は行われず、通常業務の中での建造が目指されることになった。このため各艦艇の就役は、初期の計画見積もりを大きく遅れることになるのは確実だった。その気になれば32ヶ月で就役可能だと想定された新鋭戦艦群は、その工期を3割以上も増やすことになる。

 こうした変化で困ったのは、アメリカ海軍そのものだった。
 もっとも、困ったのは軍拡を抑制されたからではなかった。徴兵制度が抑制されたまま、大量の軍艦が数年後には続々と現れることになるからだった。
 既に手持ちの軍艦だけで、戦艦15隻、空母8隻、重巡洋艦18隻、大型軽巡洋艦9隻もあった。新型戦艦2隻も、もうすぐ就役する。おかげで水兵は既に不足気味であり、第一次世界大戦で作りすぎた駆逐艦はほとんど全てが保管艦状態だった。新型戦艦に前後して完成した空母「ホーネット」「ワスプ」のために、軽空母「ラングレー」も事実上の退役に追いやられていた。
 しかもこれからは、予算そのもののが大きく削減されてしまう。その上で、新型戦艦8隻、空母8隻を中心に従来の保有量を上回るほどの艦艇が加わるのだ。幸いと言うべきか、膨大な量の巡洋艦以下の艦艇の新造はほとんど中止されたが、もし建造されても水兵と将校の増員がほとんど停止しているので、既存艦全てを退役させても艦が余っていただろうと言われている。
 当面のアメリカ海軍の人員面、人事面での問題は、就役時期の延長で1943年頃に4隻が相次いで就役する新造戦艦と、同じく43年から44年にかけて就役する4隻の大型空母への人員の手当だった。何しろ新造空母は、高性能なのは嬉しいのだがこの空母は平時で2500人、戦時になると3500名もの乗組員と整備兵を必要としていた。とりあえず旧式戦艦5隻と空母「レンジャー」「ラングレー」、旧式軽巡洋艦10隻、その他旧式艦を予備役もしくは退役させ、後は選抜徴兵による兵士を海軍に多めに回してもらうことを認めさせねばならなかった。
 政府も、海軍の大幅な増強ではなく新鋭艦による刷新による戦力向上を中心に据え、諸外国の醸成を見つつという含みを持たせつつも、数の上では微増程度で押さえることを決めた。
 多くの艦艇の建造が始まってもいないのでまだ計画上の事だったが、こうした政治上での混乱は実に民主主義国家らしいといえた。
 しかし世界中には独裁、軍国主義、国粋主義が蔓延しており、その最たる二つの国家の激突が始まろうとしていた。


フェイズ11「『オペラツィオーン・バルバロッサ』での日本」