■フェイズ11「『オペラツィオーン・バルバロッサ』での日本」

 1941年6月12日未明、ドイツ軍は3個航空艦隊の支援を受けながら、148個師団、約300万人の大軍が一斉にソ連国境を突破した。
 ナチスドイツ最大の賭けとなる、「バルバロッサ」作戦の発動だった。

 ドイツ、というよりアドルフ・ヒトラーがソビエト連邦との戦争を決意したのは1940年の秋の事で、イギリス本土攻略を「無期延期」した時点から密かに進められていた。しかも当時のドイツは、フランスから東欧全土に至る地域の統計上の生産力を合わせると、イギリスどころか当時のアメリカにすら迫るほどだった。地下資源についても、とりあえず何とかなる程度が賄える状態にまで持ち込めた。
 加えて、開戦時から日本が参戦して、イギリスを圧迫し続けていた。日本が攻めたのは地理の関係でイギリスなどの植民地や連邦構成国ばかりだったが、現地の戦力を拘束して多くの戦力を英本土から引き剥がすことにも成功していた。各地の占領によって、イギリスの生産力、補給能力、兵員補充能力の多くを奪っていた。ドイツほどではないが通商破壊にも熱心で、少なくともイタリアよりも遙かに有益な味方だった。
 そして1941年春からは日本が全面的にインド方面に戦力を集中しており、世界の目がインドに集中していた。前年秋から対ソ連戦の準備をしているドイツにとって、千載一遇のチャンスだった。
 もっとも、ドイツの対ソ開戦までの道のりが順調だったわけではない。戦争という生き物は、ドイツの思惑と外れて拡大しており、当初5月15日を予定していた開戦は大きく遅れていた。
 それでもギリシャを含むバルカン半島の安定が得られたため、6月12日に何とか戦闘開始の日を迎えることができた。
 その前日にはカルカッタが開城降伏して世界に衝撃が走り、インド各地では在インドイギリス軍が、インド民衆の不満の中で苦しい後退戦を行い続けていた。
 そして世界の目がカルカッタ降伏に注がれたその瞬間、多少不完全ながらも準備を整えたドイツ軍を中心とする枢軸軍148個師団、320万人の大部隊が約4000キロメートルのソ連国境線を突破した。
 ドイツ軍の大ばくち「バルバロッサ作戦」の発動だった。
 初期の戦争は、ドイツ軍の圧倒的優位で進展した。
 ドイツ軍の戦術が有効だった事、スターリンの誤断、ソ連軍の硬直した縦型の指揮系統、ソ連軍内の秘密警察や政治将校による締め付けに対する軍人、ソ連軍将校の質の大幅な低下、兵士の不満、他にも共産主義政権そのものに対する不満など様々な要素があって、わずか6週間でドイツ軍の先鋒はスモレンスクにまで到着した。ドイツ軍は、僅か25日で700kmを前進し、首都モスクワまであと350kmにまで迫った。日本では、翌日が七夕という日だった。

 ドイツの突然の対ソ連戦争開始は、日本にとってほとんど寝耳に水の大事件だった。
 日本人の多くは、近頃ドイツ陸軍、空軍の活動が低調なのは、ドイツがイギリスを完全に屈服させる作戦のための準備をしているのだと思いこんでいた。海軍の活発な活動は、まさにそれを現していると考えられた。
 少し違うと考えるようになったのは、1941年4月にソ連のシベリア鉄道経由でドイツを訪問した人々だった。
 この時ソ連はまだ中立国であり、ドイツ、日本とも一般的な貿易まで行っていた。日本は、ソ連に対して中華民国に武器援助をしないように言っていたが、表面上の思わしくない関係と言ってもその程度だった。
 この頃日本では、日本、ドイツ、イタリア、そしてソ連を加えた大ユーラシア同盟によってイギリスを屈服させ、アメリカに対向していくという考え方を持っている者すらいた。
 その代表者である松岡洋右は独自の外交を展開し、ドイツからの帰国途上立ち寄ったソ連との間に、「日ソ不可侵条約」の締結を成功させたほどだった。当初ソ連は中立条約程度を考えていたとも言われているが、あまりにも一方的な戦争展開とアメリカの消極姿勢を前に、日本との同盟関係は流石にできなかったが、日本との外交関係を深める道を選んだのだった。この頃のスターリンは、日本と戦争になれば強大な日本海軍の前に極東海岸部はあっという間に占領されると考え恐れていた。敗北と領土を失う事は、独裁者にとって政治的致命傷になりやすいからだ。
 ソ連の話しはともかく、ドイツを訪問した日本人の一部は、ドイツ人が何かを隠していることを察知していた。ポーランドでは、プロの軍人が見た場合、明らかに大軍が伏せられているもしくは大軍を運用するための準備が行われていることが見て取れた。列車の窓のブラインドを下ろすように言われた場所もあった。しかしこの時は、日本の満州と同様に万が一の防衛戦準備と考えられた。強大なソ連軍に対向するには、大軍を用いて抑止する以外手だてがないという点で、ドイツ軍も日本陸軍も共通認識を持っていた。真実を知らされていないドイツ軍人のかなりも、予防措置としての大軍配備だと考えていた。
 そしてソ連との不可侵条約を結んだ日本だったが、ソビエト連邦そしてその独裁者スターリンを全く信用していなかった。
 第二次世界大戦が始まった頃、日本陸軍はソ連軍に対して貧弱な状態だった。無敵と国内向けに言われていた関東軍は5個師団程度しかなく、対するソ連極東軍は12個狙撃師団と豊富な支援部隊を有していた。しかし大戦の勃発とそれ以前の増給計画により、1940年夏頃の日本陸軍は計画通り36個師団が動員され、航空隊も1000機以上を数えるようになり、兵員数も120万人を越えた。機甲部隊が有効なことも判明したので、新たに戦車師団を2個、自動車化師団を4個編成又は改変することも決まり、急ぎ編成が進んでいた。戦車、各種自動車の大幅な増勢も、戦時生産の中で進められた。兵力の多くは東南アジア、インドへと注ぎ込まれたが、その数は陸軍全体の半数程度で、残りは満州に向かった。しかも日本陸軍のさらなる動員は進められ、50個師団、200万人体制へと至りつつあった。
 また日本は中華民国との戦争状態にあるので、満州の万里の長城付近と占領下の海南島には増援部隊が送られた。上海、天津は、アメリカ世論を気にした日中両国の思惑の結果、いまだ中立地帯だった。中華民国にとってほとんど唯一のアメリカとの貿易の窓口なので、日本軍を挑発するなどが出来ない状態に縛られていたのだ。このため戦場は陸地でつながっている万里の長城付近しかないのが現状だったが、日本軍は防衛ラインの安定の為に内蒙古の一部に侵攻して現地政府を立てるも、それ以上深くは攻め込まなかった。展開している部隊も2個軍、6個師団で、兵員数も20万人程度だった。これに対して中華民国軍は、徐々に万里の長城付近に兵力を集め、1941年春頃には公称50万の大軍を配置して、満州傀儡政府の解体と日本軍の撃退を謳っていた。しかし、塹壕や陣地を挟んで対峙するのがせいぜいで、状況しては1939年冬の西部戦線のような、気の抜ける有様だった。
 中華民国は、本気で日本軍と戦争したら負けることが分かっていたし、日本軍は交戦国である中華民国よりもソ連を警戒しているため動きたくなかったからだ。
 そうして日本軍の満州への兵力増強は続き、1941年春頃には対中華民国戦備を含めると20個師団と大量の支援部隊が満州国に駐留することになっていた。これに満州国軍部隊、朝鮮軍などを含めると、100万人以上の戦力が展開していた事になる。この頃の日本陸軍のおおよそ半数で程度、インド方面には50万人も派遣されていない事を考えれば、日本陸軍がいかに満州を重視しているかが分かるだろう。
 そしてこの頃の日本軍は、東南アジアを占領し、インドに向けて大規模な攻勢を続けていた。展開された戦力は師団数だけで15個師団を越えており、日本本土には編成中や再編中の師団を除くと10個師団程度しか第一級戦力は残っていなかった。
 しかもこのうち2個軍団、7個師団は、念のための国内待機部隊であり、主にソ連が攻めてきた時のため移動準備を整えているという状況だった。イギリスやアメリカは、これをインドへの増援用と考えていたが、実際は違っていた。日本陸軍の本意を理解できるのは、ロシア人の脅威を認識できるロシア周辺国の人間だけだっただろう。
 日本陸軍はインドで大軍を運用しながらも、常にソ連、つまり共産主義に染まったロシア人に向けられていたことになる。

 そして赤いロシア人も、軍国主義化した日本を全く信用していなかった。
 極東ソ連軍も、日本の増強に合わせる形で増強されており、1941年6月の段階で、ザバイカルと呼ばれるバイカル湖より東の地域には、総数で34個の狙撃師団と2個の騎兵師団、12個の戦車旅団が配備されていた。狙撃師団とは他国での歩兵師団又はライフル師団、日本で言うところの師団で、編成は3単位制の比較的単純で簡素な編成のため、前線で戦うための兵員数は日本の師団の7割程度だった。
 それでも兵員数は全てを合わせると90万人にも達し、装備の優秀さを考えると日本陸軍よりも優勢だった。
 日本陸軍も第一次大戦以後、ドイツとの交流もあって技術、兵器の向上は続けていたし、第二次上海事変、イギリスとの戦いでは結果も出していた。しかし、全体的に劣勢だというのが日本人の共通認識だった。
 そうした中で、日本陸軍の兵器開発として分かりやすいのが、戦車の開発だろう。ここでは少し脱線して、1941年夏までの日本の戦車開発の概要に触れてみたい。

 日本での戦車開発は、第一次世界大戦で製造されたイギリス、フランスの戦車の輸入から始まった。そして1929年に、最初の試作車として「八九式戦車」が完成する。この頃、日本の戦車開発にドイツの影響はほとんど無かった。ドイツは日本で兵器開発を行っていたが多くは海軍関係であり、陸軍は航空機と火砲の一部で共同開発を行っているに過ぎなかった。
 しかし1933年にヒトラー政権が成立すると、状況が変化する。日本も既に満州国を建国してかえってソ連の脅威が増大したため、ソ連に対向可能な装甲戦闘車両の必要性を感じていた。そこで技術大国ドイツとの共同開発が模索され、多くが技術輸入という形でドイツの様々なものがもたらされた。この頃のドイツとしては、日本はそれなりに有益な兵器の輸出先として機能していたのだった。
 そして日独の装甲車両の最初の成果が、1936年に試作された「九五式戦車改」だった。主な改良点は、ドイツの「II号戦車」に搭載されているラインメタル社の2cm砲と機関銃を組み合わせた新型砲塔の搭載だった。これを日本陸軍は、歩兵の制圧に非常に有効だと考え、当面自作不能な2cm砲を一定数輸入して改良型の生産を開始した。またこの頃にはドイツの3.7cm速射砲(対戦車砲)も輸入され、九四式37mm速射砲との評価試験の後でライセンス生産という形で自作が進められていた(=九七式37mm速射砲)。他にも、開戦までに大型の43口径7.5cm砲、8.8cm高射砲(Flak18)などのライセンス生産が進められており、日本の貧弱な冶金技術に悩まされながらも量産に向けての努力が続けられていた。他にも海軍ともども、各Flak38が輸入され評価試験や量産に向けての努力が行われていた。
 その中にはドイツでもまだ量産の目処が付いていない42口径5cm砲があり、日本陸軍はこの火砲を気に入って次期主力戦車の主砲に選定する。しかしこの砲も当時の日本では量産が難しく、わざわざ一定数の工作機械をドイツから輸入することで自作が進められることになった。随分な出費になったが、当時ドイツとの合弁企業も日本に多くできていたので、何とか生産もできそうだった。しかも日本の方が、少数生産ながらドイツより早く量産に成功するという皮肉をもたらしていた。
 そして肝心の戦車だが、ある程度の予算を確保したので、とにかく高い性能を追い求める傾向が強まった。何両か輸入されたドイツ戦車の国内生産は技術面などから難しかったが、ある程度のエンジニアリング・リバースは可能であり、また陸軍大国が目指す戦車を知ることができたのは大きな収穫だった。
 そうして完成したのが「九七式戦車」と「九八式戦車」だった。
「九七式」が対歩兵用で、「九八式」が対装甲車両用だった。
 重量は「九七式」が15トンに対して、「九八式」が約17トン。火砲は「九七式」が57mm歩兵砲、「九八式」が羅式5cm砲だった。装甲も、「九八式」が最大50mmと大きく優越していたが、この時点で機関は同じ空冷ディーゼル170hp(馬力)だったため、「九八式」は肝心の機動性で劣っていた。また「九八式」はドイツ同様に主砲の量産が間に合わなかったため、初期生産型は94式3.7cm速射砲を搭載していた(※5cm砲搭載は1940年から)。
 そして対歩兵戦闘を重視するか、対ソ連戦備を重視するかで議論が分かれ、平行生産されるという実に日本的な折衷案で生産が行われ、第二次上海事変を迎えた。この時、第一混成団は、4個戦車中隊を持ち、それぞれの中隊は別の戦車を装備していた。これは評価試験も兼ねていたからで、「八九式」、「九五式」、「九七式」、「九八式」の全てを有していた。そして上海の中華民国軍に対して、多くの面では対歩兵戦闘向きの戦車が有効と判断されたが、ソ連製の対戦車ライフルに対向できない他の三種類に対して、「九八式」の強固な装甲が有効だった。また中華民国軍が少数投入してきたソ連製戦車(BT-7)に対しても、「九八式」だけが唯一正面からの対向可能だった。「九八式」は一躍勝利の立て役者とされ、対ソ連戦備として改良の後に大量生産が決定する。
 その後暫定的な単砲身の5cm砲を装備した本来の形も生産開始され、同時に専用の榴弾が開発されたため対歩兵戦車としての「九七式」の価値も激減し、1940年後半からの日本の戦車生産は「九八式」一本に絞られることになった。このため生産ペースも順調に伸びるようになり、東南アジア、インドへと広がる戦場に多くの姿を現すことになる。そして当時としては比較的分厚い装甲と火力は、イギリス軍の2ポンド砲(40mm)装備の戦車群に対しても有効であり、日本軍勝利の象徴として主に国内向けに宣伝されることになった。
 そして1940年夏に戦車師団が編成される。戦車師団は4個戦車中隊を持つ戦車連隊を二つ束ねた戦車旅団を2個旅団基本として、これに歩兵連隊、砲兵連隊、捜索連隊、工兵、輜重など全てが機械化、自動車化された部隊を組み込んだ非常に贅沢な部隊だった。このため工業力がまだ貧弱な日本では、ドイツやソ連のように大量に部隊編成することはできず、まずは2個、そしてさらに翌年に2個師団の編成が決まった。このうち最初の2個師団のうち1個は満州に留め置かれ、残る1個はインドでのイギリス軍戦車部隊との決戦のために送り込まれた。他にも独立戦車旅団がいくつか編成されたが、主力として全てに「九八式」が配備されるように努められた。
 さらに「九八式」は、1940年には240hp(馬力)にエンジンを換装して足回りも強化され、砲塔の大型化も行うなど完成度を高めていた。その他、1939年夏頃までに得られたドイツからの情報もリバースされており、それまでの日本戦車とは違うあか抜けた外見を持つに至っていた。
 一方の「九七式」は既に300両以上が生産されており、多くはそのまま配備されていた。だが、損傷や故障で工廠に戻ってくると、砲塔を取っ払った自走砲として再生されて、こちらには90式野砲が搭載された。90式野砲なら、当時としては過剰なほどの対戦車能力と野戦重砲としての双方の役割できるからだった。自走砲に改装された「九七式」は「百式砲戦車」と言われ、戦車師団を中心に配備が進められた。
 そして多くの装備が満州に集中され、1941年6月の時点で日本陸軍全体の機甲戦力のうち約6割が満州国内にあった。
 百万の軍隊と数千両の車両、1000機を越える航空機の存在は、ソ連にとってかなりの脅威だった。これが圧倒的な戦力を持つ海軍の支援のもと沿海州地方に攻め込まれたらひとたまりもない、と言うのが感情的な面での思いであり、故に極東ソ連軍は増強されていた。

 かくして1941年6月12日を迎えたのだが、日本は困り果てていた。
 確かに、満州の防衛力は一定レベルにあったので、ソ連の逆侵攻を受ける可能性が激減したことも受けて、ドイツの対ソ連開戦は非常に喜ばしい事だった。しかし、日本とドイツは軍事同盟を締結しており、しかも軍事同盟自体がもともとはソ連を第一の仮想敵としたものだった。加えて言えば、ドイツの戦争開始に連動して日本も戦争に参加する形で今の状況にあるため、通常の外交を考えれば、日本はドイツにならってソ連に対して宣戦布告するべきだった。
 しかしドイツは、同盟国の日本何の断りもなく突然ソ連との戦争を開始していた。日本中枢に情報が伝わったのは開戦2日前の6月10日の事であり、インド作戦の順調な伸展に安堵していた心理的間隙を突く形になった。
 しかも陸軍の4割と海軍のほぼ全力がインドに投入されているため、正直日本としては身動きできないというのが一般的な意見だった。ソ連と不可侵条約を結んだのも、イギリスを降伏に追い込むまでの安全を確保するためだった。もっとも、中には外交関係を無視するドイツとの関係を見直すべきだという意見もあったが、戦争中の現時点での見直しは論外だった。
 開戦時の中華民国といい、日本は常に後手後手に回っていたが、とにかく現状の敵に力を注ぎつつ戦い続けるしかないと言うのが当面の結論だった。
 しかしソ連への予防措置を疎かにする事もできず、日本国内から1個軍団を新たに満州に送り込み、南樺太、千島列島の防備を強化する方針が出された。陸軍の航空隊の増強も決まり、インドに向かう予定だった部隊の一部は北を目指すことになったりもした。
 海軍は殆どの艦艇がインド洋に出払っていたが、修理や補給で戻っている艦と新造艦を少し加えて第五艦隊を編成し、日本海、オホーツク海のソ連海軍に備えることになった。
 そしてここで日本全体でまき起こった議論が、中東に進むかシベリアに進むかという議論、つまり「北進論」と「西進論」だった。主に日本陸軍は、インドのイギリス軍は既に壊滅しつつあり、ロシア人こそが真の敵だと言って「北進論」を支持した。陸軍の一部と海軍は、「西進論」を支持した。特に海軍と商工省は、ペルシャの油田奪取を重視していた。またドイツと直接手を結ぶというプランは、陸軍にとっても魅力的だった。
 しかし現状は流動的過ぎるという意見が大勢を占めた。
 ソ連に対する即時開戦は閣議でも見送られ、ドイツが余程有利な状況になった場合に限り再考するという決定が行われた。数日後に日本の対ソ連参戦を求めたドイツ側の要請に対しても、現時点ではインド制圧のため不可能と返答した。事実、防戦はともかく攻撃の準備は日本軍には全く整っていなかった。攻め込むにしても最低二ヶ月の準備期間が必要であり、インドなど他の戦線も可能な限り小さくしておくことが望ましかった。
 つまり日本の対ソ連参戦の決定は、7月末から8月頭に決まることになる。当然というべきか、ソ連との間の不可侵条約もそのままとされた。日本としては、この二ヶ月の間にインド戦線を片づけてしまうためにも、後方の安全保障が少しでも必要だったからだ。ソ連も日本を極力刺激しないようにして、ドイツへ全力を傾けた。同盟国のドイツはさらに一言以上言ってきたが、日本側はインド方面を中心に日本がイギリスを抑えるという案を提示し、これにはドイツ側も一定の理解を示した。

 一方イギリスは、突然降ってわいた味方の取り込みに走った。アメリカ市民は何が起きているのかもよく分からず無関心だったが、これで日本も複雑怪奇な世界情勢に一石を投じる事ができたと言えるだろう。何しろ、軍事同盟を結んでいる国にとっての敵国との間の不可侵条約を崩さなかったのだ。
 しかし、この時日本がどう動こうとも、結果はあまり変わらなかった可能性が高いという説も多い。
 ソ連指導部は、他を犠牲にしてでも欧州ロシアを守る決意であり、他は全て切り捨ててでも心臓部さえ守りきれば、その後取り返せると考えていた。極東も例外ではなく、というより極東は一番最初に切り捨てられる場所だった。
 その証拠とばかりに、ドイツとの開戦すぐにも兵士の引き抜きと欧州移動が始まり、現地司令部には民兵を動員した防衛が命令されていた。
 日本がシベリア鉄道をアムール川辺りで完全に寸断すれば話しも少し違ってくるが、既にイギリスと戦いインドまで進撃している日本に、即座にそれをを行う能力はなかった。
 加えて言えば、極東はともかくその先のシベリアに進むだけの戦力も国力も現時点での日本にはなかった。これは、例えどことも戦争をしていなくても同じである。シベリアという巨大な陸地そのものが、距離や自然障害として大きすぎるため、最初から領土として持っていない限り戦場として選択できないのだ。そのことを日本人は、シベリア出兵で思い知らされていた。
 このため日本は、念のための対ソ開戦準備を進めるも、インド及び中東での進撃速度の向上を決める。

 そして日本がインドでの侵攻を促進させつつ見守っていた東部戦線の戦況は、見た目の上ではどんどんドイツに有利になっていた。7月1日にフィンランドが枢軸側で参戦し、7月6日にはモスクワの表玄関といえるスモレンスクが呆気なく陥落した。
 60万人のドイツ軍に対してソ連赤軍が240万人も展開していたウクライナ方面では、9月4日にはキエフを中心にしたウクライナ地方で約70万人のソ連軍が包囲され、10日あまりの抵抗の後に降伏するという事件が起きた。その頃には、北の都レニングラードも枢軸側の包囲下にあった。そしてついに9月22日、ドイツ軍は首都モスクワに向けての進撃を開始する。
 この間日本陸軍は、一喜一憂していた。バスに乗り遅れるなという言葉も方々で噴出した。これは8月中頃に日本本土から1個軍(軍団)が満州に到着し、満州各地の部隊が国境線で戦時体制を強化するに従って対ソ参戦の声も強まった。そしてシベリアでの戦闘を行うのならば、8月末頃が戦闘開始のタイムリミットだった。


フェイズ11「他戦線の東部戦線への影響」