■フェイズ12「他戦線の東部戦線への影響」

 1941年の夏、各地の戦線は活発な動きを見せていた。
 北大西洋では、イギリス海軍の戦術が功を奏し始めてるため、ドイツ潜水艦隊の活動はかなり低調だったが、逆にインド洋はほぼ全域で日本軍が暴れ回っていた。
 セイロン島のコロンボを根城にした空母機動部隊(第二航空艦隊)は、アラビア海沿岸を一通り叩き終わると翌月には東アフリカ沿岸一帯の連合軍拠点を叩き、最後には長躯南アフリカのケープにまで日本軍艦載機が姿を現した。このため南アフリカ連邦では準備していた軍の派遣を中止し、一部のオランダ系移民の末裔が反イギリス運動を始める始末だった。
 潜水艦の猛威も続いていた。日本側が制海権と制空権を握っているため、インド洋では有効な対潜水艦戦術が難しかったからだ。イギリス側の船団が、日本軍の水上艦や艦載機で損害を受け散り散りになったところを潜水艦が襲撃するという構図は、この頃のインド洋西部では日常的だった。しかしインドを失うわけにはいかないイギリスは、紅海出口からインドに向けての船団を、主にアラビア半島やペルシャ寄りの航路を使いつつ幾つも送り出した。護衛も可能な限り付け足し、搭載能力の高い軍艦が輸送船代わりに使われることもあった。アラビア半島に築かれた拠点の一部には航空機も配備されたが、こうした拠点は日本海軍の空母部隊の襲撃で破壊され、その後補充もままならないことが多く、多くの海域で制空権も日本の手にあった。このため輸送船団は危険を避けるため高速艦艇を用いる場合もかなり見られ、こうした輸送を日本軍は「鼠輸送」や「ロンドン特急」と呼んだ。
 必然的に、大規模な通商破壊を仕掛けてくる日本海軍との間に戦闘が頻発。アラビア海では、最初は遣印が次に第二艦隊が出てきて、高速戦艦と重巡洋艦の群が、イギリス船団と護衛艦隊を粉砕した。特に夜間戦闘では日本軍の動きは際だっており、この頃になると日本海軍も少しずつRDF (電探)や逆探を装備しているので、地中海でのイタリア海軍に対したような優位はなくなり、どう猛な日本艦隊の前にイギリス海軍は損害を積み上げていた。
 地中海と本国からインド洋に注がれたイギリスの戦力と輸送船団は次々に消耗し、6月から8月にかけてのインドとインド洋を巡る戦いで80万トンもの艦船(戦闘艦艇含む)を失っていた。船に積載した物資や人員の損害も大きく、数個軍団分の装備と弾薬、丸々1個師団分の兵員、数百機の航空機が輸送中に失われていた。
 日本海軍も相応に疲弊、消耗していたが、元々相手よりもワンランク上の戦力を投入している上に制空権も握っているため、損失という点では比べものにならなかった。
 しかも日本軍は、通商破壊だけではなかった。

 1941年7月25日、今度はセイロンに集結していた日本陸軍の有力な兵団が、一旦シンガポールに後退していた艦隊に護衛されてインド西部の港湾都市カラチに強襲上陸した。イギリス軍にこの上陸を阻止する力はなく、それどころか後退戦術以外で対向のしようがなかった。しかも日本は、現地のイスラム勢力に援助とイスラムの独立を約束しているため、イスラム教徒の多い現地ではイギリスに対するサボタージュやテロ行為が頻発し、日本軍を阻止するどころではなかった。当然だが、現地イギリス軍による組織的反撃もままならなかった。
 イスラムに対する姿勢はインド国民軍がインド統一の点で難色を示したが、別に現地をイギリスに代わって支配する気のない日本は、方々で「独立」の一札を渡して戦争協力させることに抵抗を感じていなかった。流石の日本も、インドを飲み込むのが無理なことぐらいは自覚していた。それ故に、無責任な口約束や支援を方々で行っていた。
 しかしカラチへの侵攻と占領には、戦略的に大きな意味があった。インド西部の開放という政治目的の名目上の達成、デリーの後方を侵すという軍事目的、航空隊の進出による活動範囲の拡大、そしてイギリス軍によるインド補給路の途絶だった。地上から反撃を受けやすいやセイロンから遠いという意見もあったが、現状のイギリス軍の戦力とイギリス軍航空機の航続距離の短さを考えると、受ける脅威は紅海からくる小数の潜水艦ぐらいで、日本海軍は十分に対処できると断言していた。
 その後カラチに上陸した日本軍は、その後周辺部の占領範囲を広げるも、周辺部のイギリス・インド軍を撃破した後は、占領地の拡大はあまり行っていなかった。しかしカラチの飛行場群には、大挙海軍航空隊が進出していた。彼らの装備する機体の航続距離ならば、戦闘機随伴でも半径1000キロメートル、攻撃機(一式陸上攻撃機)単独なら2000キロ以上が攻撃範囲だった。イギリス軍は航続距離の大きさに完全には気づいていなかったが、一式陸攻ならカラチからペルシャの油田すら攻撃可能だった。しかもそれ以上遠方への爆撃すら能力的には可能だった。

 一方インド東部だが、こちらは6月半ばにカルカッタが開城降伏し、その後もインド民衆の熱烈な歓迎と、インド総督府に動員されたイギリス・インド軍の防戦の二つに挟まれながらの進撃が続いていた。海路襲撃したインド東部のチッタゴンも既に陥落し、ガンジス川流域のイギリス軍は士気の低下やインド兵の離反もあって総崩れ状態だった。
 そして1941年7月10に日本軍と共に上陸していたインド国民軍は、解放されたカルカッタにてインド臨時政府の成立と共に、インドを誰の支配も受けない民主共和制の国家として出発さえると高らかに宣言した。これを受けて、ガンジス川河口部のインド国民会議の一部も合流した。日本や枢軸側各国も、インドの方針を支持すると表明した。
 なお、インド独立穏健派のガンジーなどはボーズ率いる武闘派の動きには否定的だったし、デリーに後退した冷静なインド国民議会主流派はイギリス軍にインド兵を供給していた。だが、解放、独立、自由などという単純で景気の良い言葉は、インド民衆の熱烈な支持を受けることになる。
 その後日本軍は1000キロ近いデリーへの道を進むが、インドという人の海に飲み込まれて進撃ははかばかしく無かった。インドはイギリスの統治の中で鉄道網が高度に発達していたが、まずは現地の鉄道運行を担う鉄道労働者の協力を取り付けるところから始めなければならず、日本軍は進撃と同時にインドの民衆からの好意を、目に見える形として受けることに腐心しなければならかった。
 そしてイギリス総督府とインド国民議会はイギリスからインドへ独立を与えるという条件をエサに「インドを守れ」とけしかけ、日本軍とインド国民軍はイギリスからの「インド解放」を謳った。
 もっとも日本は、インド全土を占領しようとは考えていなかった。できれば儲けもの程度には思っていたが、インドを占領、そしてイギリスに成り代わって統治できるほどの戦力と実行力が無いことぐらいは、自分たちの財布を見ればすぐにも分かることだった。たとえイギリス軍が酷く弱体化したとしても、インドそのものの広大さが日本軍、そして日本そのものにとって重荷だった。日本としては、インド解放後は勝手に独立して自活してくれて、戦争の間は要地を借り、物資を供給してくれれば、当面はそれだけで十分だった。イギリスが独占していたインドの原綿やその他の資源はとても魅力だが、戦時に日本本土まで運ぶには限界があった。
 このためカルカッタを含むガンジス川沿岸部、セイロン島、インド西部の要地を得るのがほぼ作戦目的の全てだった。ボンベイやマドラスなど沿岸部の港湾都市も欲しいと言えば欲しかったが、とりあえずイギリスの海空軍がいなければそれでよかった。
 重工業のないインドには、イギリス本土からの補給物資さえ運び込ませなければ、邪魔されることも追い出されることもないからだ。政治的にも、既成事実として「インドを解放したという事実」さえあればよかったとすら言える。

 一方のイギリスとっては、インドが「使える」状態でなければ意味がなかった。このためチャーチルは可能な限りインドをイギリスに協力的にさせようと努力したし、インド総督府と現地軍はインド人を動員した軍隊の編成に躍起になった。
 そして他がどんな状況であろうとも、増援や補給はまずはインド戦線の維持が重視された。北アフリカには最小限の補給が行われたに過ぎなかった。求められた行動も、現状維持だった。地中海のマルタ島や北アフリカへの増援を送り込みたいのは山々だったが、インドへの補給と増援が第一であり、船舶、艦船の不足により他にまで手が回らない状況だった。
 主力艦艇の戦艦、空母は既に半減以下になるほどの打撃を受けており、日本軍との戦いでの巡洋艦以下の艦艇の損耗も酷かった。しかも、枢軸挙げての通商破壊戦の前にイギリス船籍商船の沈没量は一向に改善せず、1941年上半期だけで250万トン近くを喪失していた。船舶の建造量は1941年は80万トンを越えそうだったが、損失は新規分を遙かに上回っていた。戦争が始まってからの累計損失量は660万トンであり、開戦時に2100万トンあった排水量100トン以上の鋼鉄製船舶は、現時点では新規建造やアメリカからの購入分を含めて1600万トン近くにまで減少していた。このままでは最低限の経済維持すら難しくなるまで、後一年もかからない計算だった。
 1941年はインド洋での損害が特に酷く、日本海軍の水面下、水上、空の三方向からの立体攻撃により、全滅した船団、艦隊も一つや二つではなかった。日本海軍は、インドを目指すイギリス船団や艦隊に、アメリカに叩きつける筈だった漸減戦術の改良型をぶつけて、輸送船の狩りを楽しんでいるようだった。ドイツの潜水艦は狡猾な狼の群だったかもしれないが、日本海軍の破壊力はどう猛な虎か獅子の群のようだった。
 ベンガル湾一帯の港湾の損害も酷く、主要な港は一度は日本の空母機動部隊の空襲が行われ、インド南西部の要衝ボンベイなどは一度港湾部に艦砲射撃まで受けていた。日本軍が占領する気のない港には、機雷もばらまかれた。インド各地に逼塞せざるを得ない船舶の総量も30万トンに達しており、全てがイギリスの不利益となっていた。少なくとも海上通商路の面でのインド帝国は一時的に崩壊しており、守る術も短期的に立て直す術もなかった。
 そして一番のしわ寄せが、北アフリカと中東にきていた。

 中東では、イラクの親ドイツ政権も、シリアやレバノンの親ドイツヴィシー・フランス組織も、ほとんどそのままだった。戦前から駐留する現地のイギリス軍組織は、インド方面から貴重な大規模油田のあるペルシャへの影響力保持に努めるのが精一杯だった。本来ならエジプトとインドから共に部隊を派遣して、陸上交通路だけでも整えたいところだったが、そのための戦力と物資がなかった。
 北アフリカでは、5月にイギリス軍が一度反撃を試みたが、ロンメル将軍の的確な反撃により撃退され、戦力が枯渇していた。マルタ島も既にドイツ軍すら相手にしない状態で、空は閑古鳥が鳴いている状態だった。
 イギリスの余剰戦力と増援部隊は、全てインドに注がれているので、どうにもならなかった。しかもインドでは、日本軍の暴力的な破壊力のために、貴重な物資と船は多くが海の藻屑となっていた。イギリスにとっては、実にやりきれない状態だった。
 しかも地中海に回せる戦力は、常に少なかった。
 北大西洋では5月後半から六月半ばにかけてドイツ艦隊が暴れ回ったが、その後空襲による損傷、損害のための修理でこの時期は比較的活動は低調だったが、ドイツ海軍の主力艦艇は1隻も失われていないため、本国艦隊とH部隊を動かすことができなかった。地中海のアレキサンドリアには旧式のR級戦艦がいるだけで、H部隊の護衛でマルタ島に航空機を輸送しようとしたら、すかさずブレスト港からドイツ水上艦が出撃して陽動と通商破壊戦を仕掛けてきたため、結局それも敵わなかった。
 このため、イタリアから北アフリカにかけての短い補給線しか持たない枢軸側の補給線を効果的に絶つこともできなかった。当然北アフリカの枢軸軍は徐々に戦力を増強し、これに対して北アフリカのイギリス軍は増援もままならず、包囲下のトルブク守備部隊は疲弊していった。何とか北アフリカに送り込めた増援も南アフリカの部隊だけで、インド、オセアニアの兵士は一兵も送り込まれていなかった。
 一度オーストラリアとニュージーランド合同で、兵士を満載した船団が危険を冒して南アフリカ経由で地中海を目指したが、インド洋西部を進む間に潜水艦の損害ですり減らされ、通商破壊任務の軽空母と思われる艦載機の空襲を受け、止めにケープでイギリス本国の増援を受けていた護衛艦隊ごと、これをつけねらって襲撃してきた日本軍の水上艦隊の前に全滅の憂き目を見ていた。このためオセアニア二国は、イギリス本国からの派兵要請に一層頑なになっていた。この時イギリス側は、得意の情報戦で切り抜けようとしたのだが、日本海軍の張り巡らす哨戒網がイギリス軍の動きを的確に捉えていた。

 そして11月になって、補給物資を蓄えていた北アフリカのドイツ・アフリカ軍団が遂に攻勢に転じた。
 ロンメル将軍の大胆な作戦にウェーヴェル将軍は翻弄され、エジプト国境の防衛線を突破されてしまう。これに危機感を覚えたイギリスは、遂に地中海への大規模増援を決意したが、これが裏目に出た。
 既に地中海入りしていたUボートの前に、マルタ島への航空機輸送任務に就いていた空母「アークロイヤル」、H部隊の巡洋戦艦「レパルス」が相次いで撃沈されてしまう。しかも一ヶ月後の12月には、アレキサンドリア港で残り2隻となっていた「R級」戦艦が相次いでイタリア海軍の人間魚雷により沈められた。さらには機雷やUボート、空襲により多数の巡洋艦や駆逐艦を失い、地中海のイギリス海軍は素人の言うところの「全滅」に近い損害を受けてしまう。北大西洋はともかく、地中海の部隊はUボートに対する練度が低かったことも、この損害に影響していた。
 しかもこれでイギリスに残された戦艦は、新型の「キング・ジョージ五世級」戦艦2隻(他建造中が3隻)の他は「ロドネー」と修理中の「ウォースパイト」だけになってしまう。近く新型が1隻が就役するとはいえ、現時点ではドイツと同じ数にまで激減していた。艦隊随伴可能な空母も、「イラストリアス級」の「インドミダブル」が実戦配備につきつつあったが、「アークロイヤル」の沈没でプラスマイナスゼロだった。こちらもドイツが空母の建造を促進しているという情報があるので、1943年初旬には劣勢に立つ恐れすら出てきていた。
 この大損害を前に、地中海の戦力バランスは一気に枢軸側に傾き、あれほど臆病だったイタリア海軍の大型艦艇も、空軍の支援を受けながらだったが、積極的な活動をするようになっていた。フランスのヴィシー政府までが、勝ち馬に乗るべくツーロンの艦隊を説得しているという情報もあった。
 もっともこの時のロンメル将軍は、敗走するイギリス軍は追わずに、目の上のこぶだったトブルクを奇襲的に攻略してしまい、現地にため込まれていたかなりの量の備蓄物資を得ると共に、自分たちの海上補給路を延ばすことにも成功していた。


フェイズ12「『関特演』と『タイフーン』」