■フェイズ13「『関特演』と『タイフーン』」

 1941年9月10日、日本政府はソビエト連邦政府に対して、不可侵条約の一方的破棄と宣戦布告を同時に実施した。
 宣戦布告の理由は、ドイツに対する同盟の履行のためと、ソ連による中華民国に対する国際条約を無視した援助のためだと説明した。中華民国に対する援助は、不可侵条約の一方的破棄の理由ともされた。
 そして日本の佐藤駐ソ大使がソ連のモロトフ外相に宣戦布告文書を渡している頃、ソ連にとって想定外の事件が起きた。
 カスピ海沿岸のバクー油田からの緊急電が、日本軍機の爆撃によって、精油所、パイプライン、積出港、集積所、一時貯蔵タンク、一部油井に多大な損害を受けたというと知らせたのだ。しかも燃焼性の高い焼夷弾の投下が一部で行われたため、激しい油田火災も発生中とされた。
 対する日本本土では、現地攻撃機隊が打電した「トラ・トラ・トラ(我奇襲ニ成功セリ)」を受信し、喝采を挙げていた。
 バクー油田を空襲したのは、この日のために迷彩塗装をされた日本海軍の「一式陸上攻撃機」108機。彼らは占領下のカラチの臨時基地から飛び立ち、ほぼ一直線でバクーに向かい、戦前の情報に従って油田の重要箇所を、それぞれ用途に応じた爆弾で爆撃していった。
 日本軍の爆撃は、何も油田の完全破壊を目的としたものではなく、多少なりとも油田の稼働率が落ちればよいというものだった。日本海軍が日本陸軍に対して存在感を示すべく強引に行った、開戦に際する祝砲がわりというわけだ。そして政治的にヨーロッパの攻撃にこだわった結果、目立つ場所、攻撃できる場所という選択肢から、バクー油田が選ばれたに過ぎない。
 そしてソ連側も、念のためバクーの防空体制は強化していたが、基本的にドイツ軍を対象としていた。このため、予想外の方角からの空襲だったため対応が遅れ、また日本軍機が闇に紛れて逃げていったので追撃もままならなかった。撃墜された機体の全てが現地の対空砲火によるもので、しかも墜落した機体も油井などの施設に激突して落ちるものがあったため、射撃にも気を付けなければならなかった。何しろ日本軍爆撃機は、ガソリン燃料をまだ半分以上翼のインテグラル・タンクの中に抱えていたからだ。
 日本軍の爆撃の結果、油田全体の稼働率は要所を攻撃されたため一時的に40%近く低下したが、不眠不休の努力により三ヶ月後には90%程度にまで回復した。
 バクーへの爆撃は、日本全体として見てもソ連とヨーロッパ諸国へのインパクトを狙っただけの攻撃だったので、日本軍としては予想以上に効果が上がったと判定していた。
 それよりも日本軍の本命だったのは、シベリア戦線だった。

 『関東軍特別大演習』、通称『関特演』として秘密裏に準備されていた軍事行動が発動されたのだ。
 満州国、朝鮮、南樺太、日本本土、そして日本海上の全てに展開していた日本軍機は、一斉に極東ソ連軍の空軍基地に襲いかかった。しかもソ連極東軍は、ソ連政府中央から自分たちから絶対に手を出しては行けないと言われている上に、局地紛争か全面戦争かが分かるまでの反撃を禁止されていた。さらにソ連赤軍は縦の命令系統が重視されすぎているため、互いの状況確認が大きく遅れた。
 極東各地のソ連軍の惨状は、独ソ開戦時の焼き直しのような有様で、三日間続いた日本軍の航空殲滅戦により、現地航空戦力の80%以上が壊滅していた。
 海軍の拠点も大規模な攻撃を受け、ウラジオストク、ナホトカ、アムール川流域の軍港では、多くの艦艇が破壊され、港湾施設にも大きな損害を受けた。
 しかも日本軍の攻撃はこれだけではなかった。
 日本軍は、開戦前にシベリア奥地に多数の特殊部隊を潜入させ、開戦と同時に各地で行動を起こしていた。彼らが実施したのは、シベリア鉄道の破壊だった。特に空爆での破壊が難しい鉄橋やトンネルを爆破、破壊することだった。作戦にはソ連兵に怪しまれないため、満州にいた亡命ロシア人で編成された特殊戦部隊や、ツングース系住民になりすます訓練を受けた兵士もいた。そして多数の部隊が入っていた事と準備も比較的入念に行われていた事、そして何より9月に入り日本軍の対ソ参戦が大きく遠のいたという心理がソ連軍の油断を呼んでいたため、多くの箇所で作戦が成功した。中には、極東からモスクワに向かっていた100両以上も連結された軍用列車が、破壊されたばかりの鉄橋に突っ込み大惨事を引き起こした事もあった。
 しかも開戦1日目から空爆による鉄道破壊も平行して行われ、橋やトンネルばかりでなく、鉄道修理工場、操車場、さらには発電所、変電所なども狙われた。空爆した機体の中には、内蒙古の秘密基地から中隊単位で出撃して、バイカル湖畔のイルクーツクや西シベリアのクラスノヤルスク、さらには機体内に増加燃料を積んで長躯ノヴォシビルスクにまで爆撃を行ったものもあった。
 開戦初日に行われた遠方の都市への攻撃は半ばデモンストレーションだったが、大きな成果があったと思われる攻撃も中には存在した。そして最も重要なのは、シベリアの奥地といえど安全ではないと教えた事だった。このため以後ソ連軍は、空襲に備える努力をシベリアの僻地でも行わなくてはならなくなった。
 しかし当面のソ連軍にとっての問題は、シベリア鉄道が各地で寸断され、そのうち幾つかは短期間での修理が不可能だという事だった。しかも日本軍は、最初にアムール川より西側の鉄道路線の破壊を重点的に行い、沿海州、ウスリー方面ではソ連空軍壊滅に向けた努力しか行っていなかった。その後ウスリー、沿海州でも鉄道や道路の橋梁などの破壊には熱心になったが、日本軍の攻撃は実に奇妙だった。
 樺太以外で、陸軍部隊による侵攻がなかったからだ。
 樺太(サハリン)では、戦車部隊を先頭にした電撃的な地上部隊が国境線を越えて侵攻してきたし、数日後には見たこともない塗装の新しい戦艦が、北樺太のオハに度肝を抜くような艦砲射撃をしかけ、海からは特別海軍陸戦隊が押し寄せ、空からは陸海軍合同の空挺部隊が降りてきた。
 しかし地上侵攻のあったのは、樺太北部だけだった。
 ヨーロッパへの移動準備をしていたソ連軍各部隊は、あわてて国境沿いの陣地守備に向かったが、日本軍は一向に攻めてこなかった。虎頭要塞の巨砲は一日中途切れることなく火を噴いているが、狙っているのは主にシベリア鉄道だった。これも見事に寸断されたのだが、後は目に付くソ連側の要塞砲、野戦重砲陣地を砲撃したぐらいだった。他の要塞や国境陣地の長距離重砲群も似たり寄ったりだった。攻撃されている橋や道路も、多くは日本軍が攻め込むためではなく、どう見てもソ連軍が満州に攻め込むために使うであろう場所ばかりだった。

 そして日本軍のソ連空軍に対する攻撃、鉄道及びその関連施設に対する執拗な攻撃、橋や道路に対する攻撃が一段落すると、流石にその意図が見えてきた。
 日本軍は、現地ソ連陸軍とまともに戦う気が無かったのだ。
 全ては、いまだ極東に残る50万人以上の精鋭部隊を西に行かせないためだった。日本軍は、ソ連極東軍に同じシベリアの冬の牢獄の中での睨み合いだけを望んでいたのだ。
 このため日本の陸上部隊は、樺太を除いて全く動くことがなかった。地上部隊は全て国境線やその付近の要塞陣地に配置についていたが、全ての部隊が戦前に建設された要塞や入念な野戦築城の中に籠もっていた。日本陸軍からの砲撃も長距離砲による越境砲撃に限られており、ソ連軍が攻めてくるように挑発しているようにすら思えた。
 日本軍の中での唯一の例外はザバイカル方面で、こちらにはソ連軍が国境線に偵察に出ても、日本兵は一兵も見あたらなかった。ここの日本軍の主力は要塞化されているハイラルに籠もっており、そのさらに後方に機動防御用の機械化部隊が配備されているという状態だった。平原ばかりの現地での陣地防衛が難しいので、日本軍は最悪の場合大興安嶺山脈での防衛すら想定していた。
 全ては、ドイツがソ連の中枢部を叩くまで、強力な極東軍を拘束することが目的だった。
 こうした姿勢には日本陸軍内から反発も強かったが、いまだ独ソ開戦頃の三分の二の部隊がいるソ連極東軍を壊滅させるだけの戦力は日本陸軍にはなかった。それならばと、相手をまず空爆と兵糧攻めで弱らせ、自分たちは翌年春まで準備万端整えてから攻め込めばよいだろうという虫の良い意見が大勢を占めるようになった。
 当時のソ連極東地域は、強引な移住政策もあって全く自給自足できない環境だった。これは各種工業製品だけでなく、人間の基本である衣食住のうち衣と食にも当てはまる。食糧自給率はおおよそ7割程度しかないので、シベリア鉄道が復旧しなければ恐らく翌年春頃には多くの住民が飢餓状態に陥ってしまうのだ。そして一層の困窮を狙うべく、唯一の油田がある北樺太に対してのみ侵攻が行われたのだった。飢えだけでなく、寒さでも締め上げようと言う魂胆だった。何しろ樺太北部には、油田の他に中規模の炭坑も存在した。そして燃料資源がなければ暖房にも事欠き、シベリアの寒さは世界最強だった。
 そしてソ連の側から満州の食料や物資を狙って侵攻してきても、それはそれで有り難かった。ロシア兵が最も怖いのは陣地に籠もった防戦を行った時なのを、日本人は40年も前に学んでいた。そのうちソ連軍は進退窮まって陣地に籠もりきりになったが、それはそれで日本の望むところだった。
 鉄道への攻撃も、重要拠点は高射砲などで厳重に防衛されるようになっても、手当たり次第にほとんど無差別に実施された。橋の修理に対しては、危険を冒しても何度も攻撃が行われたりもした。
 無論、鉄道破壊だけでは国内を動く軍隊の移動を完全には阻止できない。だが、効率と時間という、戦争で最も重要な要素をソ連軍から奪ったことは間違いなかった。その上、簡単に修理されるため断絶できない区間で運行される列車の襲撃も日常的に行われるので、ロシア人がモスクワに行きたければ、極論1万キロのうち三分の一の行程を歩いていくしかない状況だった。
 こうした状態を日本は、「羽交い締め」と呼んだ。

 日本の参戦と攻撃により、ソ連は、赤軍、指導部、官僚組織の全てが大混乱に陥った。
 赤軍は、日本の突然の参戦への対応に追われていた。極東での戦闘はある程度予期していたが、日本がシベリア奥地まで爆撃出来ることは予想外であり、インドからバクーに爆撃ができるなど想像すら出来なかったからだ。無論日本軍の空襲は、護衛を伴わない爆撃機単体の攻撃だったが、爆撃される可能性のある重用箇所については防衛体制は取らざるを得なかった。
 このため、ヨーロッパロシア方面に全力を向けていた空軍戦力の抽出すら行わなくてはならず、機能不能にまで陥っている極東への増援はほぼゼロだった。
 官僚が最も混乱したのは、日本軍がバクー油田を爆撃したからだった。油田爆撃のため、ソ連全体の石油供給は実に30%低下した。何しろ当時のバクー油田は、全ソ連の75%の石油供給を賄っているのに、40%近い機能低下に陥ったからだった。
 むろんこれは一時的な事象だったし、一ヶ月もすると混乱もかなり収まった。しかし備蓄もなく直接生産現場に届けられていた石油の供給が滞って大混乱に陥った事は大問題だった。軍隊の移動だけでなく、工業生産とこれから冬に向けて必要な暖房燃料の供給にまで大きな影響が発生したからだ。
 とにかく軍への供給は可能な限り優先されたが、それでも秋の間は最大で2割近い配給の低下をもたらした。優先度が下げられた都市の暖房用ボイラーは本格的な冬になるまで止められ、発電所の稼働率も民需用はギリギリまで抑えられた。工場の稼働率も大きく低下した。鉄道以外の輸送も大混乱だった。
 なまじ大量に供給される石油の上に胡座をかいていたため、突然供給が滞った時の混乱は非常に大きな影響を与えていた。この混乱は、ドイツ軍の攻勢にも大きな影響を与えることになる。
 そして指導部の混乱は、言うまでもなかった。
 確かに、日本が参戦した場合、極東は切り捨てられることになっていた。だが、極東の兵士をモスクワに運べないという事態は想定されていなかった。鉄道関係者は死力を尽くして修理すると言っているが、大規模な鉄橋やトンネルの破壊や崩落は短期間での修理・修復が不可能だった。仮橋などで代用する事も難しい。何しろ破壊された鉄橋がかかっている場所の幾つかは、狭隘な場所や深い山の中だ。鉄道の迂回路を設ける場所もないような辺鄙な場所ばかりだった。それにシベリア鉄道は、基本的に一本の路線しかないので、一つにつながっていなければ意味がなかった。
 朗報は、10月にはイギリスの援助が始まることぐらいだったが、インド洋は既に日本軍があふれているため、ドイツ海軍が待ちかまえているであろう北大西洋航路しか援助ルートがないのでは、それもあまり期待できなかった。
 ドイツの攻撃開始以来アメリカにも援助を求めたりもしたが、アメリカはソ連も侵略国家だとして冷淡で、ソ連のために枢軸側から敵視される政策を取る気もなかった。

 そして日本軍の突然の参戦と行動の恩恵を受けたのは、言うまでもなくドイツ軍だった。
 ヒトラー総統も、ラジオ放送で日本の英断に最大の賛辞を送った。その後ヒトラーは日本陸軍が極東に攻め込まないことを蔑んだとも言われているが、行動自体の正しさは認めていた。今の時点でのソ連軍には、重用箇所への増援を与えないことが最も重要だった。極東空軍が壊滅、転用不可能になったことも、空軍力が一時的に疲弊しているドイツにとっては非常に有り難かった。
 そう、ドイツ軍は、首都モスクワ向けての進撃を開始する寸前だったからだ。
 ドイツとソ連の命運を駈けた作戦は『タイフーン』と命名され、9月22日に開始された。
 目標はソ連の首都モスクワ。ソ連共産主義の牙城を、ロシアで最も偉大な将軍「ヴィンター・ゲネラール(冬将軍)」が来る前に陥落させるのが目的だった。首都モスクワの陥落により、既にウクライナという経済の中枢を失ったソ連は、根を絶たれた樹木のように絶ち枯れる筈だった。
 実際、「オペラツィオーン・タイフーン」は順調だった。
 「冬将軍」の前触れの「泥将軍」が猛威を振るう10月後半に入るまでの約一ヶ月間、ドイツ軍は開戦頃のような進撃を各地で実施した。南から順にグーデリアンの第二、ヘープナーの第四、ホトの第三と並んだ三個の装甲集団は各地でソ連軍の大部隊を包囲し、一発も撃たせないまま陥落した都市もあった。
 ソ連軍が「ヴィヤジマ」と名付けたモスクワの第一次防衛線は、日時と統計数字の上では呆気なく突破された。作戦開始から僅か一週間、まだ10月に入る前に、ソ連赤軍は併せて8個軍もの大軍がドイツ軍に包囲された。しかも数日後には、さらに1個軍がドイツ軍の包囲下となった。合わせて80個師団以上もの部隊が、ドイツ軍の包囲下にいた。キエフを上回る、信じられないような大敗であり戦果だった。前線に配置されたソ連軍将兵の戦意が大きく落ちている何よりの証だった。ソ連上層部は、政治将校や秘密警察(NKBDと呼ばれる組織など)を使って将兵を戦わせようとしたが、味方に銃を向けて「督戦」する彼らをドイツ軍が粉砕してしまうと、ロシア人達は呆気なく両手を上げていった。
 ドイツ軍の攻勢はさらに続き、次の一週間でモスクワの第二次防衛線となるモジャイスク防衛線への到達にも成功した。合わせて二週間の攻勢で、モスクワまであと100キロにまで迫る事ができた。ドイツ軍としては、あと二週間の攻勢で一気にモスクワ中心部に突入する腹づもりだった。
 しかし、例年よりずっと早い10月7日に雪が本格的に降り始め、それがすぐにも泥の海に変わっていた。だがそれまでに、ドイツ軍は第二装甲集団がモスクワ防衛の南の要となるトゥーラに達した。第三、第四装甲集団の連携で、ソ連軍1個軍をさらに包囲した。2週間攻勢の開始が遅ければ、泥の海で酷い目にあっていただろうが、ロシアの大地はまだ何とかドイツ装甲部隊の進撃に許可を与えていた。

 一方ソ連赤軍では、兵力が大きく不足していた。都合10個軍が突然消滅したことは、大きすぎる痛手だった。何しろ当初西方軍が前線に配置していた戦力の7割以上が消えてなくなったのだ。ソ連全軍で見ても、全体の3分の1にも達する。
 このため冬季反抗のために準備していた部隊を、急ぎモスクワ防衛線に配置しなければならなかった。また北西方軍、南西方軍からも、冬季反抗用に後方で準備していた部隊の抽出も行わなくてはならなかった。何としてもモスクワは防衛されなければならないからだ。
 他にも、シベリアから中央アジアにかけては根こそぎ兵力を持ってきたし、日本と睨み合っていた極東のシベリア師団も、日本の参戦までに中隊単位での部隊の引き抜きなどを合わせると都合10個師団近くが既にモスクワ方面に移動していた。
 しかし極東で最も精鋭な部隊は、いまだ日本軍と睨み合ったままで移動もままならなかった。一部の移動は行われているが、バイカル湖より東は日本の空軍(陸海航空隊)が激しい妨害行動を続けている事も重なって、円滑な移動など望むべくもなかった。兵士は極論歩かせれば何とかなったが、極東からの重装備の移動は事実上不可能だった。このためソ連軍は、2個軍の増援を失っているに等しかった。
 強引な動員と戦時生産のおかげで、表面上の部隊の数は多かったが、練度と士気の低さは隠しようもなかった。それが「タイフーン」開始直後の10個軍もの喪失の原因の一つだった。一度突破されると、縦割りの命令系統もあって赤軍兵士は非常に脆かった。これまでの戦いで今まで訓練を受けていた兵士を数多く失い、熟練兵の唯一の補充先であり冬季戦にも慣れた極東軍を部隊として得られなかった不利は大きかった。おかげで、腐った扉のように次々に防衛網を突破されている有様だった。
 人口30万を抱えるトゥーラは攻撃を受けた当初は何とか持ちこたえたが、まだ泥の海が本格化する前にドイツ軍は迂回してモスクワを後ろから包囲するべく進撃し、トゥーラとここを守っていた1個軍がドイツ軍の包囲下で降伏を余儀なくされた。
 独裁者スターリンの死守命令が、またも1個軍をソ連赤軍から奪ったのだ。
 しかもソ連全体での石油燃料の不足に伴う混乱で、兵力や物資の輸送が各地で滞っていた。そうしたソ連側の混乱につけ込んで、ドイツ軍は一点を突破し、包囲し、そしてソ連軍をさらに壊滅させていった。

 しかし泥の海は日に日に酷くなり、ドイツ軍は自らの兵力不足とソ連軍の味方の後方に日常的に督戦隊を置くような戦闘を前に苦戦も強いられ、酷い日には一日1キロほどしか前進できなかった。しかしドイツ軍は熱狂的と言える勢いでモスクワへの道を強引に進み、ドイツ軍総司令部が予定した頃までには、ソ連のモスクワの第二次防衛線を完全に突破していた。モスクワ中心部まであと50キロだった。南北から迫る二つの装甲部隊も、モスクワ中心部まで100キロに迫っていた。モスクワの防衛線も、後はモスクワ市民を総動員して作り上げられた最終防衛線を残すのみだった。モスクワは、確実に包囲されようとしていた。
 しかし、本格的な泥将軍の前に前進も補給も停止状態に陥り、前線で酷い物資不足に陥ったため、やむを得ず10月30日に一旦全軍に攻撃再開までの待機が命令される。
 ソ連の命運が決まるまで、あと少しだった。


フェイズ13「モスクワ攻防戦」