■フェイズ14「モスクワ攻防戦」

 ドイツ軍先鋒は、モスクワ市街中心部まであと50キロ。それが1941年11月中頃の東部戦線の状況だった。
 ここでのドイツ軍の問題は、現時点で冬ごもりをして春を待つか、モスクワ攻略を継続するか、の二者択一だった。ヨーロッパ人として、百数十年前のナポレオンの二の舞になることを潜在的に恐れての選択だったと言えるだろう。
 しかし選んだ選択肢はモスクワ攻略だった。
 「既にクレムリンの尖塔が見えているのに、冬ごもりなどありえない」というのが、モスクワ攻略を担当する中央軍集団のボック元帥の言葉だった。
 ドイツ騎士団の末裔として、東方の蛮族平定は悲願でもあるからだ。

 泥将軍も11月6日に退却を始め次に冬将軍が到来したが、冬将軍には一つだけ利点があった。大地が堅くなるということだ。これにより泥の海に足を取られて身動きできなかったドイツ軍の補給線は大きく改善され、滞っていた多くの物資が前線に到着するようになった。開戦前から準備されていた冬季装備は、当初の優先度の低さと本国から出発しなければならない条件のため前線までなかなか到着しなかったが、最低限戦争が行えるだけの状況は揃うようになった。
 この時ドイツ軍は、北側の第三装甲集団がモスクワから北西100キロのクリンを、南方の第二装甲軍がモスクワの南南東約100キロのカーシラを、そして中央の第四装甲集団がモスクワから真西に約50キロのスウェニゴロトを最前線拠点としていた。しかもこの距離は、モスクワの中心部からの距離であり、ドイツ軍そのものは、攻勢開始前から既にモスクワを半包囲していた。北の第三装甲集団は、既にモスクワ運河にまで達している。その向こう側は、ロシア人が防衛線をまだ構築していなかった。
 しかし冬将軍の猛威はすさまじく、またドイツ軍の消耗も既に通常の戦争なら限界に達しているため、二週間の攻勢でモスクワが落とせなければナポレオン同様に全面後退するより他無いという危険な賭けでもあった。

 一方モスクワ方面のソ連赤軍だが、状況はドイツ軍以上に酷かった。
 既にモスクワは、市内中心部までが戦場だった。
 ドイツ軍はフランス軍から得た長距離列車砲をロシアの奥地にまで強引に持ってきて、盛んにモスクワ市内に大口径砲を撃ち込んでいた。列車砲は、10月中頃にヒトラーの元にクレムリンの尖塔が見えるという報告があってから急ぎ送られたものだった。
 この砲撃のため一部市民が完全なパニック状態に陥り、既に軍政が敷かれていたモスクワ市内には、統制と警備の為に市内に政治将校や秘密警察を数多く配置しなければならなかった。当然ながら、市民の戦意は急降下だったし、政府への支持や忠誠心も同様に低下した。
 そして既に砲弾が落ちてくるようになっていたクレムリンでは、いまだ疎開できなかった機密書類の焼却作業が続いていた。一方では、いよいよソ連政府そのものの疎開が始まった。スターリンは自らモスクワに残ると宣言し死守するつもりではあったと言われているが、既にモスクワでの戦いで勝てる望みは戦争や政治として用いることの出来る勝率ではなかった。
 そしてドイツ軍の動きを察知した11月18日、モスクワ市は防衛都市宣言が出され、政府の疎開が決定した。しかし政府の疎開は数日間秘密にされた。士気低下を恐れたのと、初戦でドイツ軍の意図を挫けばモスクワが守られるのではないかという希望的観測があったからだ。
 一方、モスクワ方面に振り向けられる戦力は、他方面から根こそぎ集めて12個軍だった。スターリンはもっと他から兵力を引き抜きたかったが、大軍の移動には非常に多くの時間がかかるし、既に前線に配置されている部隊を移動するとなると至難の業だった。燃料不足による混乱もまだ尾を引いていた。移動させたくても出来なかったのだ。また、ドイツ軍のため既に移動が出来ない鉄路が出ていた事も、赤軍の移動を妨げていた。
 これに対してドイツの中央軍集団は、編成表の上では78個師団いた。実質的な戦闘力は既に7割程度と考えられていたが、ソ連赤軍の状況と比べれば兵士の数以外はましな状況だった。しかも数だけは揃えられた赤軍兵士も、スターリンが望む精強な赤軍兵士からは遙かに遠かった。
 兵士の2割程度は、ロシア人以外のロシア語もまともに理解できない中央アジアやシベリアの黄色人種だった。各地方で無理矢理徴兵され、連れてこられた者も多い。しかも多くの兵士の士気は、負け戦という雰囲気の中で最低だった。党のテーゼや偉大さを教えるよりも、暖かい食事とヴォカートだけが兵士の士気を多少なりとも高めた。既に最前線では、政治委員どころか多数のNKVDの督戦隊がいても士気の維持が怪しかった。既に10月中頃から、政治将校を射殺したり拘束することで集団逃亡やドイツ軍に投降する部隊は数多く出ていた。NKVDなど秘密警察関係者の多いユダヤ系ロシア人への風当たりは、既にドイツ人がユダヤ人に行っている以上だといわれていた。
 増援が期待されていたシベリア兵も、既に到着していた者は半分以上がこれまでの戦闘でいなくなっていた。そして残りは、いまだ寸断されたままのシベリア鉄道の向こうで、モスクワより寒いシベリアの寒気の中、動く気のない日本軍の精鋭部隊と空しく睨み合っていた。
 ソ連空軍の状況はドイツ空軍に比べればずっと良好だったが、いまだバクー爆撃の余波で十分活動できる状況ではなかった。燃料不足に関してはいまだに地上部隊も大きな影響を受けており、大量の揮発燃料を消費する機甲部隊は長期間の活動が出来ない状態だった。そして部隊の移動そのものにも遅れが出ていた。それ以前の問題として、燃料不足から兵器生産に支障が出ており、十分な武器が前線の兵士に供給されていなかった。士気を高めるため、厚遇した兵士達による親衛師団や突撃軍を編成しようとしたが、それすら予定の半分しか編成出来なかった。突撃軍を1個編成しようとしたら、別の通常一個軍が丸腰になるからだった。
 そして、モスクワを包囲しようとしているドイツ軍に対向するための戦力を配置するだけでも兵力が足りない状況で、モスクワ方面の西方軍が本格的な反抗を考えるのは既に贅沢な望みだった。
 最も激しい敵の攻撃が予測されるモスクワ正面には4個軍が配置に付いていたが、それよりも南北からモスクワを包囲しようとしているドイツ軍機甲戦力の方が脅威だった。しかもソ連赤軍としては、正面から突破されるのを完全に防ごうと思えば、南北の防衛を切り捨てなければならなかった。逆もまた同じだった。このためモスクワ防衛では、当初予備や反撃用に予定していた部隊も防戦に投入することが決定されていた。
 10月中頃から北西方軍、南西方軍の双方からの予備部隊が移動しつつあったが、南西方軍は先のキエフでの痛手が深い上にドイツ軍の攻勢を受けて混乱しているため、うまくいっていなかった。
 
 11月19日、運命のモスクワ攻防戦が開始される。
 それより早く、既にドイツ軍の各地では、攻勢のための有利な地形を得るための攻撃が開始されており、モスクワ攻防戦は実質的に11月16日から開始されていると言っても間違いではなかった。
 そしてドイツ空軍の3個航空艦隊の、僅かな数の稼働全機が航空支援を行う中、最後の攻勢が開始された。
 各所でこれまでにない激戦が展開されたが、まともな訓練を受けていないソ連軍歩兵は脆かった。ソ連軍の方が空軍も砲兵も強力になっていたが、最後に勝利を決めるのは歩兵の力だった。そして攻勢から3日目、ソ連軍の継ぎ目を見つけた南部のグーデリアン上級大将の装甲軍が一気に戦線突破に成功し、ソ連赤軍2個軍を側面の友軍と共同で包囲。さらに前進して、モスクワ南東部を流れるモスクワ川に到達した。しかも完全な戦線突破に成功しており、長大なモスクワ防衛線も凍結して重戦車すら渡れる川の向こう側には伸びていなかった。
 そして一気に前進した『韋駄天ハインツ』は、その異名の通りに一気にモスクワの最終防衛線を迂回突破し、同じく北部から迂回突破しつつあったホト将軍の第三装甲集団とモスクワ東部を流れるクリャズマ川の近辺での握手に成功する。
 モスクワ市を中心とする包囲網の中には6個軍が閉じこめられており、周辺には包囲されたのと同じだけの兵力しかなく、しかもドイツ軍以上に分散してしまっていた。加えて、周辺のソ連軍には、もう予備兵力が無かった。ソ連軍では、北部戦区から1個軍が移動しつつあったが、既に時を逸していた。
 ここで命令系統を失ったソ連軍のかなりの兵力が、包囲網を突破するために各個に突出。外からも包囲網を破るべく自ら出戦して、ドイツ軍が構築した防御陣地にまともにぶつかり、多くの兵力を無駄に消耗した。兵士の訓練度が低いので密集して突撃してくる兵が多かったが、そうした部隊は機関銃や重砲の的でしかなかった。そして命令系統を絶たれているため、ソ連赤軍の動きに統一性は見られなくなっていた。

 11月25日には、モスクワは完全にドイツ軍の包囲下に陥った。
 既にモスクワ郊外の南では、進退窮まった1個軍が降伏していた。無茶な包囲網突破作戦のため、未だ抗戦を続ける5個軍の戦力も既に半減していた。包囲網を破ろうとした周辺の部隊も、命令系統の不備からそれぞれが別個に動いてしまっていたため、ドイツ軍の各個撃破を受け攻撃力を消耗していた。政府中央、西方軍司令部双方のもまともな命令系統が失われているため、各ソ連軍はひどく焦るNKVDと政治委員の言うままに場当たり的に戦うしかなかった。一方では、NKVDと政治委員を射殺して降伏する前線部隊も後を絶たなかった。
 そして戦場の心理がソ連兵の士気を見る見る下げていき、各地で無理矢理動員されていた兵達が戦闘を放棄し、精強無比と宣伝された赤軍の多くが、首都モスクワでドイツ軍の包囲網の中で戦う前に瓦解していった。最後まで戦ったのが、政治委員やNKVDだけという場所もかなりあった。ただし捕虜になればどうなるかを知っている政治委員やNKVDは、最後まで頑強に抵抗する事が常だった。
 一方のドイツ軍だが、既に戦力は通常の半分以下に下がっていたが、士気は天を突かんばかりだった。彼らは不屈の闘志と熟練した手法で包囲網の維持と防戦にあたり、周辺のソ連軍だけでは包囲の輪を破る事はできなかった。
 モスクワ包囲という報告に、ヒトラーは賞賛の言葉と共に増援と物資を直ちに送るよう指示を出し、スターリンは速やかなる奪回を現地司令部に強く命令すると共に、ソ連各地からの大規模な兵力引き抜きを命令した。このため北西方軍からは、3個軍が急ぎモスクワ奪回のために中央部に移動を開始した。また南西方軍からも、2個軍が引き抜かれた。しかし双方の戦線は、共に予定通りの冬季反攻作戦がそのまま実施されることになった。北西方軍はレニングラードの包囲を解き、南西方軍はハリコフを、西方軍はモスクワを奪回するのが、冬季反抗での目標とされた。
 三つを達成しなければ、ソ連が滅びるよりも党とスターリンへのロシア人の忠誠心が崩れると考えられたからだ。

 その間もモスクワ市内には、ひっきりなしに列車砲弾や重砲弾が落下し、防衛線の隙間、主に東方からドイツ軍はモスクワ市内を目指した。
 そして完全包囲から10日後の12月5日、モスクワ市内の各地で一斉に火柱が立ち上った。
 スターリンは、ナポレオン戦争の故事に習ったのかのように、相手に何も渡さない戦法つまり焦土戦術を残してきたNKVDの者たちに命令し、モスクワ市内の守備軍がいよいよ降伏すると決めた直後に、一斉に市内に仕掛けた爆薬の雷管を起動させたのだった。しかし一部ではロシア人の手によって爆破が防がれ、その中にはクレムリン宮殿の過半も含まれていた。それでもこの爆破の為に、それこそ3日3晩モスクワの町は燃えさかった。この爆発と火災、そして家を放り出された事による凍死・凍傷により、死者だけで50万人に達したと言われている。
 モスクワから立ち上る盛大な炎は、100キロ以上離れた場所からも目撃された。モスクワの方角は、空が真っ赤に燃えているようにすら見えた。その炎は独裁者の抗戦の証であったのだろうが、周辺のロシア人全ての士気を完全に砕いてしまった。自分たちの首都から噴き上がる炎は、国家崩壊の証のように思えたからだ。
 モスクワ防衛軍司令官のジェーコブ将軍は責任をとって自殺したと言われているが、実際は市内に残ったNKVDによる射殺だったという説の方が有力だった。ジェーコブ将軍は、徹底抗戦ではなくモスクワの明け渡しと包囲下の軍の降伏を選択したのがその理由だとされる。

 モスクワ陥落により、戦争は一つの通過点を過ぎた。
 しかしその後も一週間ほどドイツ軍の攻撃は続き、周辺部にいたロシア軍が一時的に完全な士気崩壊を起こしていたため、モスクワと周辺部は多くがドイツ軍の占領下となった。少数のドイツ軍の追撃により、算を乱して逃げ惑うか何もせずに降伏するソ連軍部隊が各所で見られた。
 しかもソ連軍はモスクワの戦いで6個軍が包囲殲滅され、無理な奪回を行おうとした周辺部の部隊も半減以上の損害を受け、その後2個軍が編成表から姿を消した。モスクワを防衛していた西方軍は文字通りの壊滅状態だった。
 それでも2週間後の12月19日、モスクワ方面に到着した北部の3個軍、南部の2個軍を中心にして強引なモスクワ奪回作戦が開始された。同時に、半ば延期された状態のソ連軍による冬季反抗が各地で開始される。
 しかし、今度は交通の要衝であるモスクワを使えることになったドイツ軍の方がやや有利な立場になり、押し寄せるソ連軍に対してモスクワを守り通すことに成功する。また若干の時間が貴重な補給と休養をドイツ軍に与えていたので、その分ドイツ軍を有利にした。モスクワのかなりが破壊された事も、近代という時代においてはそれほど効果は発揮しなかった。

 東部戦線各所での攻防戦は春の先駆けの雪解けの季節まで続くが、ヒトラーの死守命令もあってかモスクワは保持され、さらなる増援を注ぎ込んだソ連軍のモスクワ奪回作戦は失敗に終わった。そしてソ連軍は、モスクワ奪回作戦だけで3個軍が編成表から消えてしまうほどの損害を受けていた。厳冬期の冬季反抗は、ロシア人にとっても大きな試練となったのだった。
 しかも北部も南部も兵力が不足する中での反抗作戦だった上に、首都を奪われた事でソ連全軍の士気は低下し、指導部は疎開中で命令が錯綜して徹底せず、どこの反攻作戦も全て中途半端なものに終わった。
 冬のソ連軍の動きは南部では3月で一旦落ち着き、北部でも7月までには戦線は沈静化してしまう。
 そして首都を奪え返せなかった事、冬季反抗が実質失敗したことで、ソ連兵士及びソ連国民の士気は低下したままとなった。


フェイズ14「オリエント戦線」