■フェイズ15「オリエント戦線」

 1941年秋から冬にかけて、ロシアの大地で死闘が行われている頃、他の戦場も動き続けていた。
 ソ連が参戦してドイツがかかりきりとなったので、イギリスは一息付けたと思ったのだが、秋から冬にかけても大打撃を受け続けていた。インド洋で、日本軍の猛攻が続いていたからだ。西ヨーロッパ方面では、海の戦いはやや小康状態で空ではむしろ優位に立っていたが、船舶保有量の逼迫により英本土での生産は計画値が右下がりが止まらず、その分生み出される兵器、戦力は減少していた。
 この間ソビエト連邦という名のロシアは、捕虜の数だけで200万人を越えるという誰も予想すらできなかった大敗を喫し、ついには首都すら陥落していた。それでもフランスのように簡単に降伏しないのは見上げたものだが、たった半年間の戦いで400万人以上の兵士を失ったというのだから、後は短いと考えられた。ロシアの兵士の動員力はイギリスなどから見ても無尽蔵だったが、総人口、生産拠点の半分を失って出来ることも限られていると見られていたからだ。
 一方、イギリスの行く末も暗かった。
 インド東部では、日英互いにインドの人の海に翻弄されながらの、ロシアの大地に比べると酷くのんびりとした攻防戦が続いていた。しかしイギリスから見れば、カルカッタを占領した日本軍の機械化部隊は、まるで海上での石油流出事故のようだった。油は着実に広がり、一度汚染されてしまうと手が付けられなくなる。日本軍の進撃は、それと同じだったからだ。
 無知な民衆ばかりか、イギリス・インド軍にも汚染は広がり、次々に離反するインド系の兵士や部隊が出ていた。中にはイギリス人将校を殺害もしくは拘束して戦場で寝返る例もあり、イギリス・インド軍全体が疑心暗鬼に陥っていた。そうでなくても、イギリス・インド軍の士気はイギリス人部隊でない限り低かった。やや例外は、傭兵として雇われているグルガ兵やシーク教徒の兵士だったが、それでも日本軍、インド国民軍の士気には敵わなかった。しかも日本軍がヒマラヤ山脈山麓に迫っている今、グルガ兵の離反も時間の問題だとすら言われていた。
 それでもイギリス政府並びにインド総統府、現地軍司令部は、命令により軍を動員し、インド国民議会に色々と飴(自治拡大)と鞭(力の恫喝やインドに対する債務不履行)を見せて戦争協力を行わせようとした。だがインド民衆のイギリスへの反発、復讐心は強く、市民の動員や物資の徴発は事実上不可能だった。しかもガンジーですらが、「インドがもう少し高い自治を持っていれば、アイルランドのように中立を選択しただろう」と発言した。ボーズの掲げる政策を前に、藩王国の一部はイギリスへの協力を約束したが、藩王国の支配者の思惑と民衆の考えは違っており、かえってインド民衆の心はイギリスから離れた。
 仕方なく強引に力で従わせているのが現状だが、それは独立戦争に向けての沸点を高めているのと同じだった。
 そしてイギリス本国に、インドを救う手だてはなかった。
 初夏から夏にかけての苛烈な補給と阻止の争いの中で、現地海軍は完全に息切れしていた。戦艦や空母は1隻もなく、巡洋艦も数度の戦闘で10隻近くが戦場から消えるか去っていた。空軍の爆撃機も無理を押して英本土から現地に多数進出したが、まず何より現地に着くまでが大変だった。海路到着するまでに、半分から三分の一は海の藻屑となった。
 現地に着いても、多数の機体を受け入れるだけの許容量、物資のない貧弱な基地群での活動は、不屈の闘志だけでは尻窄みとならざるを得なかった。そして無理を押して日本艦隊の攻撃に出撃しても、慣れない洋上艦艇への攻撃力は低く、日本空母艦載機の格好の目標とされてしまった。
 しかも8月になると、日本の大型空母群が再びベンガル湾一帯を空襲して回り、インド洋の玄関口にあたるソコトラ島ですら事実上の沈黙を余儀なくされていた。数十機の航空機程度では、日本軍の空母機動部隊に対向どころか生存すら難しかった。
 9月になるとインド洋はほぼ完全に日本の海となり、11月には日本軍はセイロン島にさらに軍隊を送り込みつつあった。
 イギリス軍は既に紅海に逼塞している状態だった。インド総督府はまだデリーで健在だったが、インド自体が本国との交通路を遮断されてはほとんど意味がなかった。

 海路がだめなら陸路での中東、ペルシャ経由でインドとの連絡路を開くという計画も進んでいたが、その前に北アフリカと地中海が大変な事になっていた。
 北アフリカでは、先にも書いた通りドイツのロンメル将軍が少ない戦力を駆使した機動戦で勝利を掴み、一気にエジプト領内になだれ込んでいた。地中海では、イギリス海軍が主力艦艇に大打撃を受け、半身不随の状態に追い込まれていた。
 今度はスエズ運河が危機に瀕していた。
 主力艦艇の減少も考えれば、沈黙状態のマルタ島、ジブラルタル海峡も危なかった。
 このためドイツ本土爆撃のための部隊と予算、資財が、優先的に地中海に回される事になった。おかげでマルタ島は何とか息を吹き返し、枢軸の海上交通線に大きな損害を与え、ドイツは激戦の続くロシアの大地から1個航空艦隊を移動させざるを得なくなった。北アフリカへの増援、中東にはびこる枢軸寄り政府の征伐もようやく目処が見えてきた。
 しかし、イギリスの対応は一歩及ばなかった。ドイツへの爆撃とインドに固執しすぎたツケだった。その上イギリスは、日本とドイツのデモンストレーションに目を奪われていた。
 日本は、自らの機体を用いて、ドイツとの直接連絡を取り始めていたのだ。
 最初の例は、1941年9月17日だった。
 カラチを飛び立った日本海軍の機体は、ほぼ航続距離限界の飛行によって、ルーマニア沿岸部にまで到達した。このニュースは世界中を駆けめぐり、双方の士気を乱高下させた。
 とはいえ、日本軍、ドイツ軍全ての機体を集めても、6000キロの道のりを超えることの出来る機体は極めて限られていた。実質的には、日本海軍の「一式陸上攻撃機」「九七式飛行艇」だけで、すぐ後に「二式大型飛行艇」が加わるが、その頃には情勢がさらに変化しているので、この時は上記2機種により両国間の連絡が行われた。
 そしてこの日独連絡空路を空軍機で遮断するべく、イギリスは中東方面の中立国への侵攻を決めたのだが、その前に日本が動き始めた。これは日本にとっては、あまり予想していなかった動きだったが、イギリス軍が危険なインド洋方面を使わずに東地中海方面に努力を向け始めたのは朗報だった。

 1941年10月20日、日本海軍の大艦隊が輸送船団を伴ってセイロン島とチャゴス諸島のアッズ環礁を出撃。
 今やアッズ環礁は、日本海軍の一大拠点だった。アッズを根城とする潜水艦群は、喜望峰を越えて南大西洋までを作戦範囲としていた。かつて戦前は1000隻(=600万トン分程度)も常時航行していたインド洋のイギリス船舶は、アフリカ東部沿岸を細々と運行するまでに追い込まれていた。イギリス軍の対潜水艦技術の向上で、ドイツ軍潜水艦より劣る日本軍潜水艦の脅威はかなり下がっていたのだが、日本海軍が潜水艦と共に放ってくる通商破壊空母群、水上艦艇は大きな脅威であり、また長距離まで進出する基地航空機はドイツ軍を遙かに上回る危険度だった。
 そして主力艦艇を集中した水上艦隊や空母機動部隊は、もはや止めることの出来ない災害に等しかった。そしてこの時のイギリス軍は、遂に日本軍がマドラスかボンベイあたりを攻略すると考え、インド南部の各所に出来る限りの防衛体制を取らせていた。特にボンベイが危険と考えられた。占領したカラチは、日本軍側としても補給線を維持するには遠いし危険も大きかったからだ。既にインドのイギリス空軍がほぼ沈黙していると言っても、日本軍輸送船団に対する妨害と攻撃も皆無ではなかった。
 また同時に、セイロンからインド半島南端から一気に北上してくる可能性も考慮していた。ソ連軍と対峙しているとはいえ、日本はソ連に向けて陸軍の半数しか向けていなかった。その気になれば、インド全域に侵攻する可能性もある筈だった。
 しかし日本艦隊は、インド南部にもボンベイ沖にも現れなかった。航続距離の短いイギリス空軍機が到達できない航路をたどり、その一部と思われる船団がカラチ入りした事が、現地のスパイからの報告で分かった。だが、ほぼ同時にペルシャ湾口の岬が日本海軍陸戦隊の強襲を受け、ごく僅かな兵力しかない要地が占領された。他にもペルシャ湾側の航空基地が空爆を受けた。
 これはアラビア半島の侵攻の前触れだと考えられた。
 事実、この年の夏頃から日本軍の特殊部隊とでも呼ぶべき部隊がアラビア半島各地の反イギリス的な部族や勢力と接触を持ち、潜水艦で人材を交流させ武器を渡していた。そして現地イギリス組織に対してゲリラ活動やテロが行われたが、さすがに嫌がらせ程度の効果しかなかった。しかし日本軍が本格的に攻めてきたとなると、話しは別だった。
 日本軍ペルシャ湾襲来の報告はあっという間に駆けめぐり、案の定というべきかサウジアラビア王国が中立を宣言してしまった。他の部族や王族も、反イギリス的なものは日本軍に喝采を送り、気の早い者は反イギリス活動を開始した。

 イギリスが日本軍のアラビア半島侵攻を覚悟していると、10月末に日本軍の大艦隊がペルシャ湾の最も奥地に姿を現した。
 日本の上陸部隊は、空母艦載機と沖合の艦隊の支援のもと、たいした抵抗も受けずにペルシャのアバダンとイラクのバスラに上陸した。アバダンには2個師団、バスラには1個師団と戦車旅団が上陸した。
 上陸支援には最新鋭戦艦の「紀伊」「尾張」を中心とする新編の遣西艦隊が当たり、沖合にはカルカッタ上陸作戦でも活躍した第二航空艦隊が展開した。
 当時ペルシャ湾には、タンカーを護衛するための駆逐艦程度しかイギリス軍はいなかった。他の戦力で移動可能なものは、ほとんど全てがインドに回されており、警察活動とペルシャ王国に睨みを効かせる程度の鉄道輸送でしか移動できない軽歩兵部隊しかなかった。また、突然日本軍がペルシャ湾の奥に攻め込んでくるとは予想外だったため、機雷の散布や船舶の疎開もできていなかった。状況としては、ドイツ軍の電撃戦を受けて降伏を余儀なくされたような感じだった。実際日本軍の拠点はセイロン島から西は完全に飛び地状態で、圧倒的制海権と制空権による海上交通路が日本軍の進撃を可能としているに過ぎなかった。
 そして日本の海での跳梁を阻止できないからこそ、今回の侵攻を招いたと言えた。

 日本軍ペルシャ湾上陸の報も一気に駆けめぐり、イラクで頑張っていた親ドイツ政権首班のラシッド・アリ首相は、日本の上陸を熱烈に歓迎するという祝電を送り、ペルシャのパフラヴィー王朝のレザー・シャー(王)もイギリスとロシアの二つの悪魔を追い払う東洋の友人の到来を歓迎すると発表した。
 そしてイラク軍の案内でただ進むだけの状態で進撃を続けた日本軍は、バクダッド西80kmにある現地イギリス軍最大の拠点ハッバニアの空軍基地を呆気なく包囲。これを日本軍から装備を受け取ったイラク軍と共に攻撃して、開城降伏に追い込んだ。その後も日本の持ち込んだ武器で大きく装備を向上させたイラク軍と共に、他にも点在する小規模なイギリス軍の組織や拠点を次々に降伏させ、シリアのヴィシー・フランス総督府との握手に成功する。そして、ヴィシー政府の案内で赴いたベイルートの街が面する海こそが地中海だった。
 一方、ペルシャのアバダンに上陸した日本軍は、ある程度のイギリス軍の抵抗に遭遇した。なぜならそこは、当時イギリスにとって二番目に大きな油田地帯だったからだ。
 年間採掘量はおおよそ1000万トンで、当時の中東では最も巨大な油田だった。ベネズエラ油田を有するイギリスにとって致命傷ではなかったが、大きな痛手であることは間違いなかった。
 同時に日本に計り知れない利益をもたらすはずだったが、それほどイギリス軍も間抜けではなかった。
 主に現地に入っていた「特殊部隊」や情報部の手によって、アバダン油田の重用箇所の多くが破壊されており、すぐに日本が利用できるという状況ではなかったからだ。
 それでも日本軍の急な侵攻のため破壊も十分ではなく、また日本側が技術者を入れて修理したため、三ヶ月後には多少の利用可能になり、半年もすると現地で消費する分を十分賄えるようになった。
 そしてペルシャに上陸した二個師団の日本軍は、ペルシャ王国の案内で奥地へと至り、レザー・シャーと日本軍代表が会見。これに飛行機で飛んできたドイツ代表も加わって、ペルシャも枢軸陣営への参加を表明する。
 これは国境を接するソ連との敵対を意味していたが、現地に入った日本軍はそのままペルシャ=ソ連国境の山岳地帯に移動し、また持ち込んだ武器や物資をペルシャ人に渡して、共にソ連の侵攻に備える体制を整えた。これらの兵力は、ソ連軍に比べれば取るに足らない数でしかなかったが、戦略面でソ連が受けるプレッシャーは極めて大きくなっていた。

 そしてここで、シリアのヴィシー・フランス軍が動き始めた。
 現地ヴィシー・フランス軍のダン将軍が、トランスヨルダンとパレスチナ方面への進出を企てたのだ。
 シリア方面に進んだ日本軍は1個旅隊だったが、航空隊もまとまった数が陸揚げされて展開し、戦車や多数の自動車も保有していると言う点は、この時の中東では大きなアドバンテージだった。実際イラクでは、鉄道以外の移動力を殆ど持たない現地イギリス軍は、孤立したまま撃破される一方だった。
 それはヨルダンでも変わることはなく、ヴィシー・フランス軍が現地の有力部族と連絡を付けて、イギリス軍の駆逐と自治の拡大を条件に協力させていた。ここでの日本軍は、ほとんど用心棒状態で、戦車や飛行機でイギリス軍の弱小部隊と現地民衆を威圧するのが任務となっていた。
 そしてパレスチナ地方で問題が起きる。
 第一次世界大戦の頃から、パレスチナには多数のユダヤ人が流れ込むようになっていた。それはユダヤ人差別を政策にしているナチス政権が勢力を拡大すると共に、再び拡大していた。そして ヴィシー・フランス軍も日本軍もドイツと同じ陣営だった。一般の日本人はユダヤ人の事は眼中にもなかったが、日本兵が日の丸を付けてパレスチナに入っただけで大問題だった。しかもヴィシー・フランス軍のフランス人は、当時のヨーロッパでの一般的な価値観を持ち合わせていた。ユダヤ人が自分たちの迷惑にならなければ気にしないが、邪魔するようなら容赦する気がなかった。その上、話しを聞きつけたドイツの悪名高き一般親衛隊が、いつの間にか隣接するレバノン地方のベイルートにやって来ていた。
 そしてユダヤ人の側も、枢軸軍が攻め込んできたと言うことで事態を悲観的に捉えていた。
 現地のユダヤ人達は、何としても父祖の地に残ると決意する者、また流浪の旅に出る事を覚悟した者、様々だった。日本軍やドイツ軍が中東に侵攻しそうになってきた頃から、パレスチナを離れるユダヤ人も増えていた。そしてパレスチナを出るユダヤ人を手助けしていたのが、中立国のアメリカだった。より厳密には、アメリカに住むユダヤ人達が手助けしていたのだが、全ての国々にとってアメリカ国籍を持つ者がユダヤ人に構っている事が問題だった。
 またユダヤ人問題そのものがヨーロッパ諸国にとって大きな内政問題であり、それはユダヤ人弾圧を行っているナチスドイツですら例外ではなかった。正直なところ、大戦争をやっている最中にユダヤ人問題に構っていたくはなかったのだ。
 ベイルートにやってきたナチスの一般親衛隊も、表向きのプロパガンダはともかく、ユダヤ人を狩るために来たのではなかった。少なくとも戦争中の問題を最小限にするため、エキスパート(専門家)として派遣されたのだ。
 そうした中で、幾つかの政治決着が図られた。
 まずパレスチナ地方は、枢軸の占領下になるとヴィシー・フランス政府の管轄とされる。また当面の現地守備にはドイツ軍は一切関わらず、日本軍が加わることになった。その上で、幾つかの中立国を使って、現地ユダヤ人の自主的なアメリカ亡命ができるようにもされた。アメリカからインド洋を経由して紅海にまで、中立国の印を付けたアメリカ船が、何度もパレスチナにやって来た。
 一方、問題当事者といえるアメリカだが、一部の陰謀論者、歴史学者などは、この時期ユダヤ問題を理由にして対枢軸参戦する陰謀がアメリカ国内やイギリスによって推進されていたと言われる。しかしアメリカが恐れていたのは、自国がユダヤ問題に深入りすることで国内のユダヤ人、反ユダヤ人的な市民の双方が激発する事だった。
 対する枢軸諸国は、日本はともかくドイツやイタリアは、現地でよほど酷い事(大規模な虐殺など)行わない限り、問題が大きくなるとは考えてはいなかった。だが問題が何らかの弾みで大きくなる可能性は否定できないため、とにかく深入りしないことが暗黙の了解として成立した形が作られたのだ。
 そして現地を追い立てられたイギリスだが、全員の足を引っ張るにはユダヤ問題を大きくすることが望ましかった。しかし自国にも問題が飛び火する可能性が高いため、結局情報収集とちょっとした嫌がらせ以上の事は出来ずじまいだった。パレスチナ問題で、最も「脛に傷持つ」のはイギリスだったからだ。
 かくしてパレスチナ地域は、名目上の枢軸側勢力下になると一種の軍事空白地帯となっていった。ユダヤ、イスラム(パレスチナ)双方の現地住民は、ほぼ以前のままの生活を維持し、戦争期間中のほぼ残りを何事もなく過ごすという、一種異常な状態が維持されることになる。
 しかしこれは中東のごく限られた地域の話しであり、戦争はまだ続いていた。



フェイズ15「斜陽のイギリス軍」