■フェイズ16「斜陽のイギリス軍」

 1942年2月11日、日本では当座の戦勝祝いを兼ねた紀元節が盛大に祝われているその日、ドイツ軍は危険度の高いフランスのブレスト港から艦隊をドイツ本土に引き上げる作戦を決行された。
 ドイツ軍は作戦を見事達成し、大西洋上での攻勢再開を警戒していたイギリス軍の行動を逆手にとって、全ての艦艇のドイツ本土集結を完了する。そしてその後ドイツ海軍は、安全なドイツ本国で艦艇の補修と改装、爆撃のため滞っていた訓練を実施し、来るべき次の作戦に備えた。
 そしてこれで北海及びノルウェー沿岸に、ドイツ海軍の大型艦艇全てが集中する事になる。その戦力は戦艦4隻、装甲艦1隻、重巡洋艦2隻、大型軽巡洋艦2隻、そして中型空母、軽空母が各1隻となる。駆逐艦(+艦隊水雷艇)の数はイギリス海軍に比べて大きく少なかったが、大型艦の規模はイギリス本国艦隊に匹敵するまでに強化される事になった。しかも空母「グラーフ・ツェペリン」と「ザイトリッツ」の建造工事も、前年初夏の空母の活躍に目を留めたヒトラー総統の命令によって急ピッチで進められており、早ければ1942年秋には実戦配備の予定だった。そしてその時こそが、イギリス海軍に雌雄を決する時だとドイツ海軍の水上艦隊とヒトラーは考えていた。

 一方イギリス海軍は、前年晩秋からの損害に危機感がいっそう強まっていた。そこにきてドイツ海軍に裏をかかれた失策の衝撃も大きかった。イギリス全軍を挙げたUボートの撃沈数は着実に向上していたが、ドイツ海軍が放つUボートの数そのものが大幅に増えたため商船の損害はむしろ大きく増えていた。インド洋での日本軍の攻撃も、イギリスにとっては痛かった。
 このため英本土での戦時生産の滞りはより酷くなり、艦艇、航空機、戦車、弾薬、全ての兵器の供給が十分ではなかった。一般生産を切り捨てられる限り切り捨てても、全てのものが足りなかった。国民の困窮度合いは、既に先の世界大戦末期を上回り、ほぼ全ての産業品と食料品が配給制となっていた。
 そして兵器や物資の供給力の減少は、前線での戦力低下と戦果の低下に直結していた。しかも依然として頼みとしているアメリカは、主にカナダとの間の取引には応じていたが、基本的に現金決済か資源などとのバーター取引の比率を高めており、ヨーロッパを独裁者の脅威から救うという考えからは日に日に遠ざかっていた。
 むしろアメリカ国民の多くは、独裁国同士のドイツとソ連が血みどろの戦いをしていることに安心しており、イギリスの降伏も無くなっただろうという希望的観測が大勢を占めていた。
 アメリカの「識者」の判断によれば、日本、ドイツ、ソ連のいずれの軍国主義国家は、いずれ戦争に疲れ果て向こうから戦争を止めたいと言い出すとの見解だった。そしてイギリスやフランスと言った植民地帝国主義国家は、敵国による「一時的」な占領と敗戦による影響力の低下から、全ての植民地を手放さなくてはならないだろうと結んでいた。
 つまり、何もしないアメリカこそが真の勝利者だと言っているのだった。まさに「金持ち喧嘩せず」というわけだ。
 しかしアメリカ市民の暢気な声など、依然として窮地にあるイギリスにとっては不愉快なだけだった。しかも、そのアメリカとの貿易と得られる各種工業製品がイギリス軍を支えているのだから、尚一層不愉快な状態だった。
 そしてイギリスとしては、あっという間にイギリスよりも窮地に陥ったソ連を、多少なりとも支えなければならなかった。強大なドイツ陸軍と空軍が自分たちに全力で向かってこないのは、間違いなくロシア人のおかげだからだ。
 故に10月になると、細々とだったがソ連へ援助物資を届ける北極船団が送り込まれるようになった。手段が北極船団なのは、他に援助ルートを設定できる場所がなかったからだ。
 主に届けられたのは、無線機、真空管、RDF、戦闘機、航空機用エンジンなどソ連赤軍で不足する先端兵器や工業製品だった。戦車やトラックも多少は送られたが、そうした兵器はイギリス軍でも不足しているものだったので、数は常に限られていた。
 そしてイギリスの動きをドイツも察知しており、1月17日の八度目の北極船団が初めて襲撃されたのを皮切りに、以後北極航路も激戦地へと変化していった。
 ブレストからドイツ本土への艦艇引き上げも、北極船団を叩きつぶすのが一番の目的であり、既に続々とノルウェー中部のトロンヘイムに艦艇が送り込まれていた。2月26日には、初めて「ビスマルク」と「テルピッツ」が肩を並べることになり、イギリス海軍にとって最大級の脅威となった。

 そして3月6日、再び英独海軍が海でまみえることになる。
 戦闘の発端は、北極船団のPQ-12船団の襲撃をドイツ海軍が企てて、トロンヘイムにあった稼働艦艇全てを出撃した事にあった。これに対してイギリス海軍も、本国艦隊の全力出撃を決定。両者は互いの姿を哨戒機、空母艦載機、潜水艦などによって探しながら接近した。
 この時ドイツ海軍は、主力として戦艦「ビスマルク」と「テルピッツ」以外に、巡洋戦艦「グナイゼナウ」、重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」「ヒッパー」、日本製大型軽巡洋艦「フランクフルト」「ドレスデン」、駆逐艦4隻が所属していた。ほぼドイツ水上艦隊の総力を挙げた出撃だった。また同時に出撃した別働隊には、空母「オットー・リリエンタール」と護衛の艦隊水雷艇3隻があった。そして単艦出撃した装甲艦「アドミラル・シェーア」は、可能ならそのまま長期通商破壊を行う予定だった。
 対するイギリス本国艦隊は、戦艦「キング・ジョージ五世」「プリンス・オブ・ウェールズ」「デューク・オブ・ヨーク」、重巡洋艦3隻、大型軽巡洋艦3隻、駆逐艦11隻で編成されていた。しかし所属する空母は旧式の「フェーリアス」だけで、やや心許なかった。修理された戦艦「ウォースパイト」と空母「インドミダブル」はH部隊としてジブラルタル海峡に派遣され、戦艦「ロドネー」は大西洋航路でこの頃船団護衛に酷使されており、とても戦場に間に合う位置にいなかった。
 両者の戦力を比較するとほぼ互角であり、戦闘は一年近く前のアラビア海のようにさぞ派手な展開になるかに思われた。
 しかしこの時の英独艦隊には不足するものがあった。まずは艦載機だった。
 イギリスは旧式の「フェーリアス」しか動員していないし、搭載するのも依然として旧式機ばかりだった。ドイツの「リリエンタール」は、ドイツ軍内の取り決めで艦載機が空軍に属する事が原因で、本来所属している航空隊の半数が他に転出している状況だった。
 このため両者共に限定的な防空と偵察にしか空母を使えない状態で、ドイツ海軍は洋上で制空権が維持できるだけで満足していたが、イギリス海軍にとっては非常に不満が多かった。
 そして両者不完全な航空戦力が当てに出来ないので、決着を付けるのは大型水上艦艇のみとなる。
 しかし春先の北極圏近辺の北大西洋の波は荒く、場合によっては流氷や氷山の危険もあった。しかも霧が多いなど天候が安定していないため、すんなりと会敵することは難しかった。艦載機とRDF(ラダール)のおかげで何とか敵を確認し、両者鏡を見るような艦隊編成に奮起するも、アラビア海でのような派手な水上打撃戦とはいかなかった。
 両者命中しない砲弾に業を煮やして接近するも、今度は両者互いに損害が多発し、イギリス側の大量の駆逐艦を警戒したドイツ側が戦場を離れ、両者共に大型艦艇の沈没なしで海戦を終えることになる。
 しかしイギリス海軍は、ドイツ海軍の「大艦隊」に気をとられすぎ、「アドミラル・シェーア」の存在を失念していた。そして「アドミラル・シェーア」は、別進路で見事敵船団の捕捉に成功。数隻の輸送船に自らの砲で損害を与え、その後周辺海域のUボートと遠距離進出した空軍の攻撃機が、バラバラに逃亡した輸送船うちの半数以上を撃沈した。
 このため海戦はドイツの戦略的勝利で終わり、以後北極船団はしばらく中止されることになる。
 そしてここでのイギリス海軍にとっての問題は、今回の戦いで互角に戦ったドイツ海軍が自信を付けイギリス海軍をそれほど恐れなくなったという事だった。
 そしてイギリス軍を恐れない男が、もう一人いた。

 北アフリカでは、ロンメル将軍の率いる枢軸軍が、エジプト深くに侵攻していた。
 前年11月の戦いに勝利したドイツ軍は、トブルクを陥落させて補給及び進撃体制を整えると、敗走したイギリス軍を追ってアレキサンドリア前面のエル・アラメインと呼ばれる地域にまで侵攻した。しかし地理的に防衛に適した場所はここより東には存在せず、事実上のカイロの最終防衛線だった。
 しかもイギリス軍にとっての凶報は続き、西からは中東を制圧した日本軍が現地のヴィシー・フランス軍と共に迫りつつあった。と言うよりも、エジプト国境で始まったドイツ軍の攻勢自体が、日本軍の中東侵攻に呼応したものだったのだ。
 そしてドイツ軍がエル・アラメインに到着した頃に、パレスチナ問題が発生して政治的問題のため一時開店休業に追い込まれ、その間に英独双方が戦力をエジプトに積み上げた。
 そして強制的なインターバルの間に、イギリス軍ではウェーヴェル将軍が解任され、新たにバーナード・モントゴメリー将軍が北アフリカの防衛任務に就いた。

 仕切直した両軍だが、やはりイギリス軍の方が劣勢だった。
 既存の戦力を先の戦いで失ったばかりだし、インターバルの間に増援を送り込むと言っても枢軸側がインド洋と地中海を締め上げているため限界があった。
 地上戦力は第7機甲師団、第4機甲師団、第22機械化旅団、南アフリカ第1師団の他、新たに送り込まれた第50師団が戦力の全てだった。日本軍さえいなければ、インド、オーストラリア、ニュージーランドから多数の援軍が得られただろうが、これで全てだった。しかもスエズ運河、中東の防衛を事実上切り捨てて集めた戦力であり、1個師団程度でゆっくりと東から迫っている日本軍に対しては、スエズで防戦する1個歩兵旅団にも満たない雑多で貧弱な部隊が当てられているに過ぎなかった。
 航空機も増援と増強、さらには現地の旧式機を合わせても300機程度で、とても心許ない状態だった。
 これに対してドイツ・イタリア軍は、ドイツ・アフリカ軍団が第7装甲師団、第15装甲師団、第90軽装甲師団で、現地イタリア軍は4個師団がいた。イタリア軍のうち1個は精鋭の自動車化師団で、兵士の士気と練度も比較的高くかなり強力だった。さらにイタリア軍は、最精鋭の空挺師団の移動も進んでいた。
 ドイツ空軍も、ロシアから移動してきた第二航空艦隊のうち1個航空軍団が展開しており、それまでに比べて格段に強化されていた。また航空戦力でいうならイタリア空軍の存在もあるし、中東に展開する日本軍の長距離攻撃機の存在も無視できなかった。すでにスエズやナイルの上空に姿を現していた日本軍の戦闘機は、相変わらず異常なほど航続距離が長かった。その上日本軍は、カラチの航空隊の多くを中東に振り向けたと言う情報がイギリス軍にも伝わっていた。それが確かなら、イラクのバスラには100機以上の日本海軍航空隊が展開している恐れがあり、実際そうなりつつあった。
 そして何より現地イギリス軍にとっての懸念は、自分たちが戦略的包囲下にあるという事だった。既に中東の主要な場所は日本軍に制圧され、インド洋への路もほとんど閉ざされていた。唯一のまともな補給路は地中海を通る道だが、増強されたドイツ空軍の猛攻が本格的に始まり、早々に同じく増援を受けて息を吹き返していたマルタ島では激戦が繰り広げられていた。事実上の退路は、ナイル川を遡ってアフリカ奥地へと続くルートしかないのが現状だった。

 エル・アラメインでのドイツ軍の攻勢は、1942年2月24日に開始された。機動防御作戦を考えていたイギリス軍も動き出す直前だったのだが、ロンメル将軍の方が動きが早かった。
 周辺部の攻撃には、ベイルートに展開を終えたばかりの日本海軍航空隊も、決定的局面に約50機の戦闘機(零戦)を投入し、日独合同空軍がまずは制空権を奪取した。そして枢軸国揃い踏みの航空支援の下を、防御陣地を南から大きく迂回したドイツ・アフリカ軍団の主力部隊が進撃する。勝ちに乗じている上に枢軸揃い踏みによる制空権があるため、士気は非常に高かった。
 しかしイギリス軍は、枢軸側がイタリア軍でイギリス軍前面を牽制している間に、ドイツ軍による機甲部隊が背後に迂回しようという意図を正確に察知していた。このためイギリス軍は、後方に待機させておいた機甲部隊をドイツ軍に対して投入を決意する。
 この時の戦車戦は、ドイツ軍がソ連との戦いで得た教訓を最初に反映させた兵器を投入していた事が勝敗の明暗を大きく分けた。
 この頃ドイツ陸軍は、主力の「III号戦車」に3.7cm砲を搭載していた。新しく増援で受け取ったものは、非常に貫通力が高い新型の5cm砲(42口径)を搭載していたが、主力はまだ3.7cm砲を搭載した各種タイプだった。最初から使っている「II号戦車」の数もかなりに上った。対するイギリス軍の戦車は、ほとんどが2ポンド(40mm)砲装備でドイツ軍に対してやや劣勢だった。このため急いで6ポンド(57mm)砲が開発されていたが、この戦場には間に合っていなかった。しかもこの時のドイツ軍には、新兵器と助っ人があった。
 新兵器とは、ロシア製の76.2mm砲を搭載した「マルダーIII対戦車自走砲」だった。これはロシアの戦場で大量に捕獲した対戦車砲を、チェコ製の「38t戦車」のシャーシに搭載して簡単な防盾を設けた急増の兵器だった。だが、「ラッチュ・バム」と言われる高い初速を持つ砲の威力は絶大だった。そしてこれが、砲兵大隊丸々1個分あった。そして機動性があるので、主力高射砲にして重対戦車ほうでもある「アハト・アハト」並に価値があった。何しろイギリス軍の主力は、最大78mmという重装甲の「マチルダII」だった。
 助っ人の方は、日本軍からもたらされた。
 既に地中海側のベイルートまでやって来ていた日本に補給と支援を要請してみると、インドであまり必要のなかった中古の高射砲と戦車が丁度増援で届いたが現地では使い道あまりないので、両国の間に有償供与が短期間のうちに成立したのだった。
 これを各1個大隊分ほどを一定量の砲弾と燃料と共に受け取ることに成功していた。ベイルートから北アフリカルートは既に海路が使えるので、引き渡しも容易かった。
 日本から得た戦車は、ドイツからライセンス生産した砲身の短い5cm砲を積んだ「九八式中戦車」。高射砲も8.8cm Flak18のライセンス生産の「九九式高射砲」で、十分に役立つ上にドイツ軍としては自分たちの砲弾がそのまま使えるという利点があった。人員までは増援や援軍として来なかったが、この時の現地ドイツ軍にとっては千金の価値のある兵器だった。
 こうした事情を詳しく知らないイギリス軍は、ドイツ軍の迂回突破を捉えたと考えて一気に進撃した。
 しかしロンメル将軍は既にイギリス側の反撃を察知しており、イギリス軍が作った地雷原をあえて背に陣形をとって、勝てると考えて進撃してきたイギリス戦車部隊に対して濃密な対戦車戦闘を実施する。自らの反撃作戦が成功したと考えて突出してきたイギリス軍は、多数の大口径対戦車砲に捉えられ戦車群に大打撃を受ける事になる。同時に行われた空からの攻撃も、反撃作戦を中止して後退しようとしたイギリス軍を苦しめた。そして予備の機甲兵力を失ったイギリス軍に対して、ドイツ軍が本格的な進撃に転じ、イギリス軍は一気に崩れてしまう。
 後は互いが敷設した地雷原で待機しているイタリア軍に現地での包囲殲滅戦を任せ、ロンメル将軍はアレキサンドリア、カイロ方面への追撃を開始する。
 そしてドイツの勝報を受けたパレスチナ方面の日本軍も進撃を開始し、イギリス軍の退路を断つべくスエズへと駒を進めた。
 この後イギリス軍はアレキサンドリアからの脱出を断念し、ナイル川を遡りスーダン経由でケニア方面への長い撤退を決意するに至る。既にマルタ島も沈黙し、中東まで日本軍が出張るようになっては、地中海からの脱出が非常に難しいと判断されたからだった。
 置きみやげにアレキサンドリアの港とスエズ運河を多数の沈船と機雷で封鎖したので、当分は利用できないようにしていたが、こうして北アフリカ・中東での戦いも体制を立て直せないままイギリスの敗北に終わった。


フェイズ16「『青作戦』」