■フェイズ17「『青作戦』」

 1942年春から夏にかけて、日本軍が各戦線で「ツケ」を支払うような戦闘を行っている頃、ドイツは自分たちの本命の戦いに向けて進んでいた。
 主戦場は東部戦線。目的は、ボルシェヴィキという共産主義者達を今度こそ滅ぼすためだ。ナチス、ドイツ民族、ヨーロピアン、全てにとって、今のソ連は最優先で戦うべき相手だった。

 幸い中東戦線、地中海戦線は、一部を除いて枢軸の勢力下となった。5月からは、マルタ島の攻略とエジプト南下作戦が実施されていた。枢軸主要参加国合同によるアラビア半島、紅海での作戦も順調に進展中であり、6月にはスエズ運河の再開も重なって、遂に枢軸によるユーラシア・リングが完成する。
 そうなれば、アジアからは生ゴム、キニーネ、タングステンなどドイツで不足する資源の他、ドイツ人の好物でもあるコーヒー豆も輸入できるようになる。これに対してイギリスでは、既にインドを失っているので紅茶に事欠く有様だった。
 そしてペルシャの石油も地中海に流れ込むようになるため、ヨーロッパ全体での燃料事情の大幅な向上も期待できた。これでイタリア海軍も少しは元気になると考えられた。
 戦闘の面では、強大な日本海軍が地中海に入ってこられるようになるため、ジブラルタルさえ何とかすれば堂々と制海権を奪ってのイギリス本土攻略も見えてきていた。
 そして通商路護衛を効果的に行うようになり、ヨーロッパ各地を爆撃しているイギリスを屈服させるためにも、先にロシア人を軍靴で踏みつぶしておく必要性があった。それにロシア人が倒れれば、今度こそ頑固者のイギリス人も自らの敗北を認める可能性も十分考えられた。そして何よりドイツ民族の未来のため、国家百年の安寧の為にも、まずは赤いロシア人の国家を滅ぼす必要性があった。ヨーロッパ各地での武装親衛隊への志願者増加が、ヨーロッパ世界の共産主義、ロシア双方に対する恐れを現していた。

 東部戦線の戦いは、12月のモスクワ陥落でピークに達した後、ソ連赤軍の猛烈な冬季反抗という次なるピークを迎えた。しかしモスクワを失った事による様々な分野でのマイナス面と、無理なモスクワ奪回作戦の失敗、モスクワで失った膨大な戦力の穴埋めのための他方面からの兵力抽出などが重なって、ソ連軍の冬季反抗は中途半端なものに終わった。しかもこの年は例年よりも厳しい冬だったため、ロシア人にとっても冬そのものが敵として立ちはだかった。守る側はある程度は建物などの中にいることも出来るが、攻撃する側には望めないからだ。
 冬の間に、モスクワ北方では大突破を狙ったソ連軍の包囲下に陥るドイツ軍部隊が幾つも出たが、ヒトラーの死守命令とドイツ軍のねばり強い防戦により危機を脱することが出来た。ソ連軍がレニングラードの開囲を狙っていた北部では6月後半まで戦闘が続いたが、結果的にソ連軍が3個軍を失う大打撃を受けていた。そしてここで失った3個軍は、ソ連軍北西部軍にとって攻勢に使える全ての戦力だった。
 南部では、ドイツ軍が伸びすぎた戦線を少し下げただけで、ロシア人の反抗は完全に失敗していた。前年秋の敗北と、冬にモスクワ方面に兵力を引き抜かれた結果だった。
 そしてソ連赤軍が総力を挙げて行ったモスクワ奪回作戦も失敗した。敗北と失敗の一番の問題は、兵力の逐次投入だった。どの部隊もが、疎開中のソ連指導部からの即座にモスクワを奪回せよという無茶な命令に従って攻撃を行うも、全てドイツ軍の防御陣地の前で潰えてしまったのだ。
 12月19日から、南北5個軍、元モスクワ守備軍の残存部隊3個軍を用いた総攻撃でも、結局縦割りの命令系統と中央からの指示など、軍の統帥面からソ連赤軍の反撃はうまく行かず、ドイツ側はモスクワを落としたことで効率的な戦力が集中できたため、防戦を貫き通すことができた。
 そしてロシアの大地に泥の海が復活する3月には、中央部のソ連軍は完全に兵力不足に陥った事もあり戦線は膠着する。前年11月からのモスクワ攻防戦で失われたソ連赤軍部隊の数は、合わせて11個軍にも及ぶ。その前のタイフーン作戦でも12個軍を失っているので、合わせて200個師団以上、250万人もの兵士が氷が溶けるように冬の間に消えてしまったことになる。6月12日からカウントすれば、ソ連赤軍が失った兵力は実に450万人にも及ぶ(※実数はもっと多く、その上半数以上が捕虜だった)。
 一方、対ソ連開戦以来無茶な侵攻を続けてきたドイツ軍の損害も酷かった。300万人で侵攻した戦力は、1942年4月の段階で実働半数にまで低下していた。戦死者、負傷者の数も累計100万人に上った。
 しかし戦争は続いており、ドイツ、ソ連双方の戦時生産は大量の兵器を供給し続け、新たな兵士が前線へと注ぎ込まれた。それが総力戦だったからだ。
 そして双方ともにため込んだ戦力を用いて、新たに春から夏にかけての戦争を行う目算を立てた。

 1942年3月末に策定されたドイツ軍の次なる目標は二つ。
 一つは、北部でレニングラードの包囲を完全なものとして開城降伏に導く事。もう一つは、南部でボルガ川までの到達とバクー油田の奪取だ。優先度は南部が高く、2個軍集団を投入して一気にソ連軍の燃料供給源を絶ち、戦争の帰趨を決定づけるのが目的とされた。ドイツ軍総司令部はウラル山脈突撃をするべきだという違った見解を持っていたが、総統による指導の結果、そうした作戦方針となったのだ。
 しかしソ連軍もドイツ軍の動きを察知しており、予防攻撃の形で先に動き始めた。
 5月12日から開始されたソ連軍の局地攻勢は、ウクライナ東部の要衝ハリコフ奪回を目指していた。ドイツ軍がハリコフを失えば、南方軍集団全体が危機に陥り夏季攻勢が不可能になるかもしれなかった。ソ連側が危惧していた、バクー油田への侵攻も不可能となる。
 このためドイツ軍はすぐにも徹底的は反撃を実施し、巧みな戦術の効果もあって突っ込んできたソ連軍の包囲殲滅に成功する。そしてここでの勝利は、ボルガ、コーカサスへの道が開けたのも同じだった。
 このハリコフでの勝利と北部でのソ連軍の反抗失敗、クリミア半島での戦いの結果、2000キロに達する前線に配備されるソ連赤軍の戦力は危険なほど減少してしまう。
 編成上で20個軍しかなく、兵員数にして300万人程度にまで減少していた。それでもドイツ軍を始めとする枢軸国軍より数は多いし、後方では多数の兵士が再編成と動員を受けていた。
 だが首都モスクワを失い冬季反抗も失敗したため、兵士の士気は依然として低下したままだった。クィビシェフに疎開したソ連政府中央もいまだ落ち着かず、何より官僚団が円滑に仕事が出来る環境にないため事務仕事が滞り、生産、動員、連絡、全てが後手後手に回り混乱が続いていた。当然ながら共産党に対する忠誠心も低くなり、党の指導体制に対する不信も増大していた。秘密警察は、水面下では蛇蝎のごとく憎まれていた。
 しかも独裁者スターリンは、度重なる致命的な敗北の連続に、すっかり軍の専門家、つまり赤軍の将軍達の意見を否定的に捉えるようになっていた。軍人の意見を聞かないのはドイツの独裁者ヒトラーも似たようなところがあったが、彼には勝利者としての心理的余裕があった。それは同時に慢心も生み出していたが、圧倒的優勢にあるなら慢心も余裕の一端と取れる場合もあった。
 1942年の夏季攻勢でも同様で、『ブラウ』と名付けられた作戦ではドイツ参謀本部の意見が多く取り上げられていた。ヒトラーの言う戦争経済や大戦略は相変わらずだったが、勝っている状況が欠点の多くを覆い隠していた。
 そう、戦略的に枢軸陣営は勝ちつつあった。
 北アフリカ、中東を勢力圏に飲み込み、地中海の制海権、制空権も既に枢軸のものであり、アレキサンドリアの港では着底したイギリスの旧式戦艦が捕獲され、その写真が各国の新聞を賑わせた。ペルシャも日本軍が入っていて、既にソ連国境には軍団単位の日本軍がペルシャ軍と共に布陣して、ソ連軍1個軍と国境線で睨み合っていた。日本軍は、極東とインドでは中途半端な戦争のツケを支払わされていたが、ロシア人への牽制では十分な働きをしていた。
 またドイツ軍自体では、北アフリカでの戦闘が下火となったので、その分東部戦線に送られる戦力も増えていた。アレキサンドリアにまで進出した第二航空艦隊も、夏には半数が東部戦線に戻ってくる事になっていた。北アフリカにいっていた輸送車両も、かなりが東部線戦に回せそうだった。
 ヨーロッパ上空では依然としてイギリス空軍の爆撃機が執拗に爆撃を仕掛けてきていたが、イギリス本土の戦時生産の滞りとドイツ空軍の防戦の前に、イギリス空軍は常に息切れ気味だった。水面下ではUボートの損害も多くなったが、多数の戦力が投入されているため、順調なペースでの通商破壊が続いていた。既にイギリス船籍の船が減少しているため、目標が減っているという結果が出始めていた。通商破壊については、インド洋を荒らし回った日本軍の貢献も大きかった。
 そうした総合的な戦略的優位の中で、『オペラツィオーン・ブラウ(青作戦)』は発動された。

 1942年6月28日、ウクライナ東部に集結したドイツ軍2個軍集団は、イタリア、ルーマニア、ハンガリーなど同盟軍51個師団を引き連れ、一斉に突進を開始した。目標は、ヴォロネジ、ロストフ、スターリングラード、アストラハン、そしてコーカサスのバクー油田だ。
 北を進む「B軍集団」はモスクワ方面のトゥーラからの友軍の支援を受けながら、歩兵部隊が中心となってヴォロネジをめざし、その間麾下の第四装甲軍は一気に南西方向に進んだ。
 そして初期の攻勢開始の時に、ソ連軍3個軍の包囲に成功した。新編成のソ連装甲軍は足が速いため取り逃がしたが、一年前の開戦と同様にさい先の良いスタートとなった。これも精神的に追いつめられた、赤い独裁者のおかげだった。スターリンは、いまだ死守命令を出し続けていたし、赤軍の将軍達はロシア的思考停止で命令には従順なままな者が殆どで、一般的なソ連兵の士気は低かった。
 おかげで、その後の枢軸軍の進撃も順調に進んだ。その後すぐにドン河を越え、作戦開始から3週間後に重工業都市のスターリングラードへ難なく到達。防備体制がほとんど準備されていなかったスターリングラードをソ連軍1個軍ごと包囲した後は、攻略を後ろから来る歩兵部隊に任せさらに進撃を継続。ヴォルガ河を越えて以後は、同河川を下るように何の防備もしていないような状態だったアストラハンへと突進した。
 この間僅か5週間。8月2日にアストラハンは陥落し、枢軸軍の南にいた7個軍ものソ連軍は、コーカサス地方でソ連中央と分断されることになった。
 その後、かつて「ツァリツィン(皇后の都市)」と名付けられ「スターリングラード(スターリンの街)」と名を変えていたロシア南部随一の工業都市は、包囲下になって「ボルゴグラード」と三度名を変えた後に呆気なく降伏した。スターリンは現地部隊に死守を命じたが、都市名を変えた事で見捨てられたと思い、包囲下の兵士の士気が挫かれてしまったのだ。

 そしてコーカサスに追い込まれた7個軍を殲滅するべく、「A軍集団」が同時に攻勢を開始した。
 徹底的に都市要塞化されていたロストフの攻略には手間取ったが、最初の迂回突破で2個軍を殲滅していた。
 その後もコーカサス各地では、重要都市や大精油所の死守命令を受けたソ連軍が各地で包囲され、コーカサスに閉じこめられるソ連軍は、補給や増援が受けられない事もあって見る見る小さくなっていた。しかも8月に入ると、アストラハンから第四装甲軍がバクー目指してカスピ海沿岸から突進を始め、ソ連軍の最後の補給線であるカスピ海を寸断していった。その上、中東方面からは、嫌がらせを目的とした日本軍の長距離爆撃機が、ソ連空軍がロクにいないのをいいことに好き放題に攻撃し、各地で交通線を寸断したり兵力の移動を妨げていた。
 しかも日本とドイツの輸送機部隊は、ペルシャに大量の輸送機を送り込んで、そこで積み込んだガソリンをドイツ装甲軍の先鋒に送り届けていた。空輸で運べるガソリンなどたかがしれていたが、一刻を争うこの時点では決定的な効果を持っていた。
 8月後半に入ってコーカサス山脈での追撃戦となってドイツ軍の進撃速度は低下したが、山岳師団、空挺師団など歩兵戦の精鋭部隊を投入することで進撃速度の低下を最小限に抑え、着実に前進していった。
 コーカサス山脈の合間には、疲れ切ったソ連4個軍が閉じこめられており、9月3日にカスピ海沿いを進撃した第四装甲軍によってバクーが陥落。油田は、一年前の日本の空爆など児戯でしかないほど徹底的にソ連自らの手で破壊されていたが、これは同時にソ連の近代戦争遂行能力の過半が奪われた事も現していた。
 そしてこの段階でペルシャから日本軍がソ連国境を越えて、バクー油田でドイツ軍と握手した。
 この握手は宣伝でしかない握手だったが、コーカサスの戦いが終わったことを示す象徴的な出来事だったのは間違いなかった。

 しかし作戦の完了した10月始め頃、実は東部戦線南部のドイツ軍は順軍事的に危機的状況にあった。あまりにも戦線が広がりすぎていたのが原因だった。
 コーカサスには、装甲2個軍、歩兵2個軍他同盟国の軍隊が投入されていたが、ロシア中心部方面を守っているのは、ボルガ河河口近くのドイツ第六軍を除けば、イタリアなどの独ソ軍に比べると貧弱な戦力しかない同盟国軍だけだった。
 このためコーカサス戦役が終わり始めると、ドイツ軍は急ぎ新たな前線へと向かった。また一部は、再び危機が強まっているレニングラード方面とモスクワ方面に移動していった。こうしてヴォロネジからスターリングラードの間の薄い戦線は急速に補強され、反撃を焦り始めていたソ連軍の前に立ちふさがった。
 もっとも、この頃のソ連軍に総反抗に転じるだけの力があったのかと言えば、それは難しかった。
 夏の間のコーカサス、ボルガ川南部を巡る戦いで、またも10個軍が消滅していた。シベリア兵は、鉄道の復旧により春頃からヨーロッパ方面に根こそぎ持ってきていたが、もはや焼け石に水だった。春以降イギリスの援助船団も来ていなかった。
 兵器の生産も、冬にモスクワを失った痛手は極めて大きかった。モスクワとその周辺部の都市は重要な工業地帯でもあったからだ。夏にはスターリングラードも落とされた。しかも、バクーを始めコーカサスの油田喪失により、ソ連は燃料供給の8割以上を失っていた。石油資源の不足は、ダイレクトに機動戦の縮小という要素に結びつき、大胆な機動戦闘、突破戦闘を選択できなくさせていた。
 しかも既にソ連の総人口の半分がドイツ占領下であり、兵器生産の低下も合わせると兵力の増強には限界があった。残りの国民を根こそぎ動員すれば800万人にまで一応の増強は可能だが、それだとボルガ、ウラル方面に疎開した工場の稼働率がまったく維持できなかった。
 婦人や老年齢者、少年の動員などで生産現場を何とかしようとしても、出来た兵器が役立たずとなるからだ。しかも製品の精度は、ロシア人でも共産主義的合理主義でも許容できる範囲を超えていた。このため動員できる兵力は1941年冬の時点でおおよそ600万人。このうち夏までに150万人を失い、ボルガ河口部とコーカサスの喪失で50万人の兵士供給先を失っていた。
 残りは「たった」の400万人だ。しかも中年世代の兵を入れた数字が、400万人だった。20才から25才のロシア人男性の健常者は、捕虜となっている者以外では既に希少種だった。
 このため兵器の生産を一部縮小して兵士を増やしたが、それでも450万人。しかも実際前線に投入できる戦闘部隊となると、さらに数が減る。加えてこの数の中から、軍そのものを維持する軍内部の後方支援部隊も出さなくてはいけない。空軍、防空部隊の兵士もこの450万人の中に含まれている。実際前線に配備できる兵士の数は、多く見積もっても300万人程度しかなかった。
 イギリスの反抗を気にする必要が低下したため、イタリア軍すら陸軍の主力を振り向け始めた枢軸東方軍相手では、決して十分な数ではなかった。その上、極度の燃料不足が全軍の足を引っ張っていた。
 装甲軍や親衛軍という景気の良い部隊をいくつも編成して士気を鼓舞したが、それ以外の一般部隊の士気は既に最低だった。督戦されて嫌々戦っている兵も多く、ドイツ軍が来ると即座に督戦隊やNKVD、政治将校を殺して降伏するという光景も、この頃でも日常的に見られた。
 それでも全てのソ連軍を集めると後方を含め27個軍が存在したが、予備としてドイツ軍のような機動戦に投入できる戦力は、全体の二割程度しかなかった。他は2000キロの戦線に広く分散して守備に就かざるを得ず、戦闘力差などを加味すれば全体としてはソ連軍の方が不利だった。
 それでもコーカサスでの敗北を少しでも挽回しなければならないため、秋頃から予防攻撃を兼ねた反撃が行われた。選択されたのは比較的相手戦力の低い北部。本当はモスクワを奪い返したかったが、南部での5月の敗北以来手を付けることもできなかった。しかもモスクワ近辺の野戦陣地群は、モスクワ市民を根こそぎ動員したドイツ軍によって、ロシア人ですらたじろぐほど野戦要塞化されており、正面から奪回を試みたら昨年冬の二の舞は明らかだった。このためドイツ軍の機動戦力が少ない北部が選択された。
 しかしドイツ軍の増援の方が一足早く間に合い、結局一部深く切り込んできたソ連軍の精鋭部隊は、再びドイツ軍の包囲の輪の中に閉じこめられて消滅し、ソ連全軍の燃料不足と兵器生産の滞りもあって、救出すら敵わなかった。
 そして、ここで殲滅された3個軍30個師団の損害によって、ソ連赤軍の活動は以後極めて低調なものとなっていく。この時点で、ソ連赤軍は機動戦力のほぼ全てを失っていたからだ。


フェイズ17「極東戦線一九四一年冬」