■フェイズ18「極東戦線一九四一年冬」

 1941年12月ごろ、日本では戦争に対する楽観論が出始めていた。
 イギリス、ソ連は着実に追いつめられつつあり、アメリカは国際政治的には半ば呆然と座り込んだまま。日本を戦争に引きずり込んだ中華民国は、日本から見ても何をしているのか分からない有様。望みうる最良の状態だった。しかも日本軍はインドを覆い尽くし、中東にまで進撃していた。
 日本国内での兵器生産も順調で、海軍はもはや世界一と言っても間違いではなかった。
 しかし足下ともいえる極東地域が俄然揺れ動いた。
 9月の開戦以来にらみ合いが続いていた極東ソ連軍が、突然冬季攻勢を開始したからだった。

 この頃満州国境には、合わせて25個師団の日本陸軍部隊が展開していた。他には満州国軍部隊、各地の守備隊、独立部隊、国境警備隊などを合わせると、総数で120万人に達していた。うち5個師団20万人ほどが万里の長城あたりで中華民国軍に睨みを効かせていたが、主力はあくまでソ連極東を向いていた。
 航空戦力も、陸軍航空隊の半数以上、海軍航空隊の3分の1が冬に入っても、ソ連軍とソ連領内のインフラへの攻撃を続けていた。
 ソ連軍に向いた20個師団は、それぞれ3〜4個師団で1個軍(軍団)に分けられ、第3軍、第5軍、第2軍、第4軍、第6軍、第20軍を編成していた。このうち第20軍が関東軍総予備として国境からやや後方に配置されており、ウスリー・沿海州方面には第3軍、第5軍が、アムール川は第2軍、第4軍、ザバイカル方面は第6軍が守っていた。第6軍と第20軍以外は国境線沿いの強固な防御陣地の中に籠もっており、制空権の有無もあって突破は不可能だと考えられていた。しかも冬になればまともな戦闘ができる自然環境にないのが、シベリア、そして満州の冬だった。関東軍の将校達は、モスクワ攻防戦のうわさ話を聞いて呆れかえっていた程だと言われる。
 一方のアパナセンコ上級大将率いるソ連極東軍は、去年の秋以降イルクーツク以東でのシベリア鉄道の寸断により、動くに動けなくなっていた。それでも歩兵単位で多数がヨーロッパに送り込まれたが、やはり部隊として運用されなければ軍隊の威力は発揮されず、無為に兵力を失っていた。重武装が輸送できないことも、シベリア師団将兵の損害増加に直結していた。
 また秋までには、師団単位から中隊単位までで合わせて全体の三割がヨーロッパに向かっており、バイカル湖以東の極東方面には合わせて20個師団の部隊を中心にした軍団が残されていた。軍というソ連軍の単位で言えば、編成表の上では7個軍が極東に取り残されていた。どの軍もヨーロッパ方面に比べれば規模は小さいし機械化率も低かったが、シベリア兵は何と言っても冬季戦に慣れ訓練の行き届いた常備兵だった。初戦で多数の将兵がドイツ軍の捕虜になった事を考えれば、兵士の平均年齢も格段に若くなる。このためソ連では、冬までに鉄道が復帰したザバイカル方面の守備は殆ど切り捨て、送り込めるだけの兵士をヨーロッパに注ぎ込んだ。
 それでも、日本軍が圧倒的な制空権を得ても、それこそ全力を挙げて相手にしてどうにか攻め込めるほど強かった。それだけ日本陸軍の近代化が、ヨーロッパ大陸諸国の陸軍に比べて遅れていたからだ。
 しかし、補給のないソ連極東空軍を潰した後で交通インフラを叩き続ける戦争なら、日本軍でも比較的容易かった。事実、秋の戦闘は一方的だった。冬に入るまでには、ウラジオストクの海軍も空襲で事実上機能を停止しており、日本を脅かす要素はないように思われた。
 だがソ連軍は、ヨーロッパでの反攻作戦に呼応するように、突然攻勢にうって出てきた。
 無論これには訳があった。

 先にも触れたとおり、ソ連極東地域では無理な移住政策のツケで食糧自給率が70%程度しかなかった。しかも余分な食い扶持として、多数の兵士が駐留していた。そしてシベリア鉄道一本が、極東を支えていたのだ。ついでに言えば、ここ数年のうちに兵力が増強されているので、軍事用食料の備蓄も十分にはなかった。
 このままではアムール川以東にいる約300万人のうち、100万人近くが春の到来を待つことなく餓死するしかなかった。しかも日本軍の侵攻で北樺太のオハ油田やズエ炭田を失い、各都市でも発電所、操車場を始め多くの社会資本や工場が爆撃で失われるか、機能を大きく低下していた。そして重工業も不足する極東経済だけでは、施設を修理することが難しかった。このままでは餓死だけでなく、多数の凍死者を出す可能性が高かった。
 この事をソ連政府中央に訴えても、死守せよ、兵士を送れ、という返答しかなかった。それどころか、日本軍を牽制するために攻勢を行えという命令までが11月頃に飛び込んでくる。既にモスクワ前面にまでドイツ軍が迫っている中での無茶な命令だったが、ソ連という国家の命令である以上、従うより他なかった。
 依然としてシベリア鉄道が寸断されているとはいえ、政治委員やNKVD要員がやって来る事ぐらいわけないし、小数の粛正者をモスクワなりに送り届けるぐらい簡単だった。空路は閉ざされていないからだ。
 そしてソ連中央の命令と自分たちの懐を何とかするべく、満州への急な侵攻が決定された。
 とはいえ極東ソ連軍の前には問題が山積みだった。
 まず制空権がなかった。それ以前に、極東で空を飛べる機体の数は全てを合わせても100機もなかった。増援も期待できなかった。これではまるでフィンランド空軍だ。これに対して日本軍は、依然として1000機以上の航空機を満州や周辺部に配置して、一方的な攻撃を継続していた。冬になるにつれて稼働率は落ちていたが、ソ連側の不利を覆させる程ではなかった。日本軍も満州で長らく経験を積んでいるので、ドイツ軍ほど能力低下はしていないからだ。
 地上部隊も、装甲車両はほとんどが旧式なうえに、燃料が不足していた。砲弾の備蓄も攻勢作戦を行うには十分ではなかった。しかもこの頃の極東ソ連軍は、相手領土に侵攻する能力に欠けていた。もともと防衛のために日本軍とのチキンレースで増えた部隊が多かったし、その戦力も陣地防衛が主体と考えられたためトラックなど輸送機材が少なかった。状況としては、日本陸軍と大差ないというレベルだ。
 他にも問題は沢山あった。
 満州の人口地帯に近い南部からソ連国境は山岳地帯で、進撃に最も不向きだった。北部では、アムール川をまたいだ補給のこと考えると、進撃は悪夢でしかなかった。冬になれば何しろ世界的大河の一つであるアムール川は凍り付くのだが、別に鉄道が敷設されるわけではない。補給は自動車か馬車で行わねばならない。それは、車両と燃料が不足するソ連極東軍にとって、苦行といえる作業となってしまう。
 他にも、日本から満州の食料を奪おうと思えば、大都市の穀物貯蔵施設を襲うしかないが、満州の大都市は西部、南部に集中している。日本本土に大量の食料を送り出している穀倉地帯についても同じだ。アムール川を越えたところで、100キロ先の山脈まで放牧以外の産業がない未開発の広野が広がるばかりだ。他の地域も似たり寄ったりで、つまり満州深くに攻め込まなくてはならなかった。少なくとも、満州の半分を奪うぐらいの攻勢を行わなくては、戦略的には意味がなかった。その上日本軍は、ソ連国境近くの日本人開拓団に対して、戦争が始まってから計画的な疎開すら実施していた。領民保護というよりも、戦闘が起きたときに邪魔になるのと、ソ連軍の侵攻が行われても何も渡さないと言うメッセージに他ならなかった。
 そしてさらに、遠距離侵攻ではロシアが選んだ伝統的な防衛戦略が邪魔をした。鉄道の軌道幅が違うため、余計な労力が必要と言うことだ。トラックなど自動車が補給手段として使えない以上鉄道を使うしかないのだが、ドイツ軍と逆の状況に極東ソ連軍は戦う前から追い込まれていた。
 なおソ連政府は、日本に対する攻勢を決めた時点で、中華民国に対して日本軍を大規模に攻撃するよう何度も「要請」が行われた。一応は同盟国だから、ソ連の要請はある意味当然だった。しかし中華民国政府は、いまだ国内の反対勢力の討伐を一番重視していたためと、日本軍と正面から戦っても撃退されるだけな事を理解していたので、満州国境で形だけ日本軍と向き合う以上の行動には出なかった。しかも既にモスクワが陥落して命脈も短いと見たソ連に連なる気はなく、努力するという言葉と長城方面の兵力を若干増やす以上の行動には出なかった。イギリスの弱体、アメリカの変節も重なり、既にこの頃の中華民国は枢軸側といかに有利な講和をするかだけ考えていたのだった。
 しかし退路などどこにもない極東ソ連軍は、進むしか選択肢がなかった。極寒のシベリア、秘密警察の拷問や粛正より、日本軍が一番楽な相手だったからだ。

 そして1941年12月19日に突如ソ連極東軍の前面攻撃を受けた東京の大本営だが、大混乱に陥った。ソ連極東軍の攻勢はあり得ない、という先入観からくる混乱だった。
 事実、前線からはソ連軍の動きはある程度伝えられていたし、空襲を日課としていた航空隊からも、ソ連軍の移動の兆候や痕跡の報告は十分な情報として日本本土にも送られていた。極東ソ連軍に関してはプロフェッショナルの関東軍司令部も、大本営には危険な兆候だという事は出来る限り伝えていた。さらに関東軍司令部は、権限内でできる範囲での戦闘準備も進められた。また南満州鉄道の調査部も「ソ連赤軍ニ満州侵略ノ兆シアリ」と報告を各所に送り、日本本土の大和田通信所は電波情報として色々と極東ソ連軍の侵攻の兆候を掴んでいた。
 しかし大本営は、あり得ない、あったとしても陽動か牽制でしかないと頭から結論付け、本土で準備された戦力を次々にインド、中東に送り込んでいた。
 海軍などは、ソ連極東の海軍と空軍が無力化されてからはほぼ我関せずで、朝鮮北部、北樺太に展開する航空隊すら中東へ引き抜こうとしていた。
 そうした状態でソ連軍の侵攻を迎えたが、比較的冷静だったのは侵攻の矢面に立つ当の関東軍だった。国境線各地では、規定の方針通りの防戦が開始され、訓練を積み上げていたため非常に水際立っていた。しかも満州国境は侵攻できるルートが地理的に限られているため、日ソどちらが防戦するにしても比較的容易というのがこの地域の特徴だった。一部の将校などは、「ようやく来た」とむしろ安堵したと言われている。何しろ耳に入る情報は、インドや中東での派手な勝利の報告ばかりだったからだ。彼らにしてみれば、ようやく武功を得る機会が訪れたという感慨だったのだろう。
 そしてこうした末端の兵士の心理にもあるように、日本軍の側は関東軍ですらソ連極東軍の本格的な侵攻や、死にものぐるいの突貫など考えていなかった。
 しかしアパナセンコ上級大将率いる極東ソ連軍は、追いつめられていた。もはや攻めるしかないので、がむしゃらに日本軍陣地を激しく攻撃した。しかも一部では、少数部隊による迂回突破や日ソ双方がこれまで想定もしていなかったルートからの侵攻も実施された。正面から殴りかかったのは、半ば陽動だった。
 そして戦闘開始から数日すると、まずは関東軍がソ連軍の動きが異常なことに気づいた。また同時に一部の戦線で、防衛線そのものが浸透突破されつつある事をようやく発見した。一部を除いて両軍の密度が低いため、ソ連軍の予期せぬ動きを見つけるのが遅れたのだ。
 このため関東軍司令部は、この頃の日本陸軍に相応しく、ほぼ独断でソ連軍との全面戦闘を決意。予備の第20軍すら、敵の主攻撃正面に振り向けた移動を開始した。また陸軍航空隊は、すぐにも半ばルーチンで行っていたソ連領内の攻撃を中止して、それまで殆ど省みられなかったソ連軍部隊の攻撃を集中的に行い始めた。航空支援は海軍航空隊にも要請され、海軍航空隊も一日遅れでソ連軍部隊の上に爆弾と銃撃を浴びせ始めた。海軍としては、陸軍との武功競争に後れをとってはいけないという心理からの行動だった。
 またいまだ混乱の続く大本営だったが、日本本土で移動準備していた中東向けの増援を全て満州に送り込む決定を行い、すぐにも移動が開始された。早ければ一ヶ月後には、一部が前線に到着できる見込みだった。これも日本本土に近く、朝鮮、満州の優れた鉄道網が使えるおかげだった。
 そしてソ連軍の侵攻から一週間もすると、日本軍全体も落ち着いて事態に対処するようになっていた。
 とにかく日本軍にとっては、制空権があることが有り難かった。予期せぬ場所を突破されても、空襲で足止めしたり、場合によっては敵の意図を挫くことができた。また強力な戦車が現れても、空爆ならば簡単に処分できた。敵の補給線、進撃路に対する阻止攻撃も行えるし、何より地上部隊に情報を送れる優位は絶対的だった。

 一方地上では、既に一部の戦線が突破されていた。主に突破されたのは、ハバロフスク方面だった。この地域は春から秋にかけては一面沼が覆い尽くす湿地帯ため部隊が配置されず、冬の間も後方での陣地構築を行った独立守備隊を置いているだけだった。しかし冬に入ると沼も堅く凍り、遮蔽物となる地形はないが大軍の前進が可能となっていた。そこをソ連軍につけ込まれ、一気に前進されていた。ソ連軍の意図は、ハバロフスクから突出してきたこの第15軍と国境線の第35軍と共に、イマン方面の日本第五軍を包囲することにあった。
 同じような戦いは、日本第三軍が守備する方面でも行われていた。極東ソ連軍で最も大規模な第1軍と第25軍が、二カ所から侵攻を開始して、うち一方が国境を突破して第三軍を包囲殲滅しようと言う意図だった。しかもこちらには多数の戦車部隊が投入されており、数倍の敵に攻撃されたため、事態は容易成らざる状態だった。日本軍が制空権を持っていなければ、この時点で日本軍の側が軍団ごと包囲されていたかもしれなかった。そして日本陸軍第三軍、第五軍の崩壊は、満州での防衛失敗すら意味していた。
 この侵攻作戦でのソ連側の意図は、現地日本軍の戦線に大穴を開けた上で満州中枢に侵攻し、掠奪をしつつもそこで日本軍の増援部隊を防ぐというものだった。
 しかし、ソ連側は燃料不足な上に補給車両も不足しているため、進撃はすぐにも尻窄みとなった。例年にない寒波が襲う極寒の大地も、予想以上に将兵の体力を奪っていた。
 しかも皮肉なことに、大規模な第1軍は規模の大きいまま戦線突破に成功してしまったため、かえって深刻な補給不足に陥っていた。歩兵部隊には補給もあまり必要なかったが、それでも戦争には様々な物資が必要だったからだ。期待の機械化部隊も、数ヶ月補給を受けられなかった上に急な進撃が重なって、故障車両が続出していた。その上当時の極東ソ連軍は、補給部隊を削って既に不足していた前衛戦力を増やしていたため、尚更長期の大軍による進撃が難しかった。そして両者予期しなかった大軍が、予期せぬ大平原の上に広がることになる。
 そこを日本軍航空部隊が猛烈な攻撃をしかけ、進撃途上の無防備な状態の中で次々に撃破され、進撃速度も遅々として進まなかった。平原をのろのろ走る戦車や装甲車はただの的だった。歩兵も、極寒の土地で簡易塹壕を掘ることも難しいため、容易く機銃掃射の餌食となった。
 そしてそこを、戦場に到着した日本陸軍第二十軍が側面から攻撃をしかけた。この部隊は関東軍唯一の機動戦力で、戦車第一師団を中心に全ての部隊が自動車化されているという貴重な機械化部隊だった。しかも対戦車火力も充実しており、ドイツ生まれの8センチ砲も豊富に持っていた。半包囲を受けつつあった日本陸軍第三軍を救ったのも、東部戦線同様にドイツ製の8センチ砲で、ソ連軍の装甲車両は予想外の強力な火力の前に次々と撃破された。
 ソ連極東軍最精鋭は、進撃速度が鈍った所を隠れる場所も確保できないままに爆撃と各種砲撃でほとんどすり減らされて敵中に孤立し、そして逆に日本軍に包囲殲滅されていくことになる。
 一方で日本陸軍第五軍は、イマン前面の虎頭要塞を中心にして、ソ連軍の半包囲下に置かれていた。とはいえ、国境方面はいまだ破られていないので、こちらも北から侵攻してきたソ連第35軍が問題だった。こちらでの戦闘は、第二十軍が南部から転進してくる約半月間、日本軍の窮地が続く事になる。しかしソ連軍が補給線を確保できなかったため、日本軍の増援を見て後退しようとしたが、相手が機械化部隊のため多くが捕捉されて多くの犠牲を出した。空からの攻撃もあり、逃げる前に日本軍が追いすがっていたのだ。
 結局極東ソ連軍の大規模な攻勢は1月の終わり頃まで続いたが、どれも無惨な失敗に終わった。
 極東ソ連軍の犠牲も大きく、攻勢に参加すた将兵50万人のうち実に30万人もの兵力が失われていた。凍傷、負傷者を含めれば、攻勢をかけた極東ソ連軍は組織全体が壊滅状態だった。
 しかも越冬のための食料を確保できず、以後ソ連極東全域は飢餓状態とソ連中央の威光が届かないという状況の中で混乱が続き、軍民合わせて約50万人が餓死、凍死を中心とする理由で死亡するという悲劇的結果に至ることになる。
 結局この侵攻で極東ソ連が得たものは、食い扶持を30万人減らして飢餓状態を一割ほど緩和したに過ぎなかった。
 一方の日本軍は、ソ連軍の無理な攻勢は、本来は期待していた要素だった。しかし油断の上に胡座をかいていたため、対応には齟齬が付きまとった。また、厳冬の中での戦闘は、戦闘による損害よりも凍傷による損害を続発させ、予想より多くの犠牲を出していた。損害も戦死、病死、凍死よりも、凍傷による負傷がダントツに多かった。戦死と戦病による退役者の合計は、実に20万人にも上った。戦死者は5万人に達しなかったのだが、精鋭部隊を20万人を失った事は、日本陸軍としては大きすぎる痛手だった。そしてここでの損害は、後のソ連との戦いにも影響を与えたので、極東ソ連軍の攻勢が無駄では無かったと結論できるだろう。


フェイズ18「インドでの停滞と各国の戦争経済」