■フェイズ19「インドでの停滞と各国の戦争経済」

 1941年11月から翌年の3月にかけて、日本軍は大忙しだった。
 全ては自分がまいた種のせいだが、賭博的な作戦、楽観論に基づく戦線拡大ばかり事への反動だった。しかも奇襲攻撃、陽動作戦を好み、目の前の状況が少しばかり有利になってきたと見るや、自分たちの持つ戦力を大きく二つに分けていた。海上交通路を押えている有利を用いているとはいえ、危険な綱渡りの戦争を続けていたのだ。
 実に日本軍らしいと言ってしまえばそれまでだが、これまで大きな失敗がなかったのは、大いなる幸運のお陰でもあった。
 そして日本軍が忙しいのも、半ば自業自得だった。

 この時期日本軍は、極東でソ連軍の冬季攻勢を受け、中東でドイツ・アフリカ軍への援助を行い、インド洋を中心に通商破壊に精を出し、そしてインドの人の海でもがいていた。
 インドには、多数の日本軍部隊が投入されていた。ガンジス方面軍とされた部隊には、合わせて7個師団と1個戦車旅団が所属していた。セイロン島には、警備師団と防衛師団が1個ずつ駐留し、インダス川河口域にはカラチを中心に3個師団が展開していた。そして中東にも3個師団があり、これがインド洋に展開する日本陸軍部隊の全てとなる。あわせて15個師団だ。これに東南アジアには2個軍4個師団の警備師団が残り、さらに日本本土では3個師団が派兵にむけて準備中だった。この頃の日本陸軍は、編成中を含めて各種60個師団ほどが存在したので、どれほどインドに兵力が傾注されていたかが分かるだろう。
 しかし欧州諸国に比べて機械化率の劣る15個師団、50万人程度の兵力では、インド全土の征服は到底できなかった。日本軍に加えてインド国民軍が20万人近くあったが、それでも全然足りなかった。航空隊も実働で500機近くあったが、自軍の上の制空権は相対的優位のおかげで圧倒的だが、インド全土を覆うには全然足りていなかった。
 イギリス・インド軍も、インド兵がほとんどはいえ同じぐらいの兵力を有していたが、こちらは広く分散して防衛に当たらないといけないうえに、インド各地の民衆も抑えなければいけないので、日本軍に対して基本的に劣勢だった。しかも戦闘機の航続距離が短すぎて、広いインドの戦場で全く有効に使えていなかった。
 そしてインド自体が広すぎるので、日本軍は攻めるに攻めあぐねていた。インドを征服するには、十分な支援を補給を受けた自動車化部隊があと10個師団ばかり必要だが、そんな贅沢な部隊は日本軍にはなかった。
 インドに展開している機械化部隊も、2個師団が自動車化師団な他は全て歩兵師団だった。戦車旅団は2個いたが、機甲師団は1つもなかった。インドに展開している全ての戦車、装甲車両を足しても、500両に届いていなかった。
 イギリス軍の機甲戦力も既に似たり寄ったりだったが、日本軍が侵攻する側で、広大な土地を戦場として選んでいるにしてはあまりにもお粗末というのが実状だった。移動は、インド全土に総延長6万キロメートル以上張り巡らされた鉄道網とガンジス川を利用して行うしかなく、場合によっては第一次世界大戦のような塹壕線での睨み合いという可能性も十分にあった。運動戦が主体で塹壕線に発展していないのは、インドが広すぎるのと、インドの人口が多すぎるからだった。
 イギリス側は、既にインド国民議会の「民意」を気にして戦わなくてはならないので、インド内の物流を止めるような戦闘はできなかった。そんな事をしたら、インド民衆の反発で自壊してしまっていただろう。日本側は、基本的に攻め込むのが目的なので、塹壕戦など最初から前提にしていなかった。加えて日英両軍共にインドの民衆を敵に回す気がないので、自然と敵軍だけを求める、昔のヨーロッパでの戦いのような運動戦が主体となっていた。それともアメリカ南北戦争での一部状況が少し近いかもしれない。
 日本にとって、インドの豊かさと温暖さは寝食をあまり気にしなくて良いので有り難い戦場だったが、インドの広大さは満州とはまた違った感覚の麻痺をもたらした。

 インド戦線は、1942年が開けた頃でデリーまでの行程の3分の2程度しか消化していたが、弾薬や燃料の補給の関係で現状の戦力ではほぼ限界だった。しかし日本本土を出発した増援部隊は、インドでなく中東に向けられ、ソ連軍と向き合うべくペルシャの奥地をめざした。
 そして、日本軍の占領地と言える土地の拡大によりインド国民軍の数は膨れあがっていたが、今度は彼らに装備する兵器が不足していた。多くはイギリス・インド軍から捕獲した兵器を供給していたが、志願兵も多いのである程度は日本から送り込まなければならなかった。
 このため現地日本軍への増援は先送りされてしまい、尚更攻勢の再開は遠のいていた。
 仕方ないので、インド国民軍を用いてイギリス・インド軍の勢力の弱い地域へ侵攻させることにしたが、相手もそれなりに抵抗してきているため、あまりうまくはいかなかった。
 しかし、インド民衆の過半数は日本軍はともかくイギリスの支配には反発的であり、国民軍のおかげでテロやゲリラに苦しめられることもなく、日本軍と同じく武器弾薬、そして兵力が不足するイギリス軍兵士の多いイギリス・インド軍との睨み合いが空しく続いていた。
 純軍事的には、これほど広い戦場で、中途半端な戦力同士が陸上の覇権を争っている事態が不毛なのだが、不毛であっても今更両者は引き下がることもできなかった。
 そしてこの状況に決定的変化をもたらすには、どちらかが今までに倍する戦力を投入するか、他の戦場で決定的な成果を上げるしかなかった。そして日本が選択したのは他の戦場だったのだが、もはや戦争そのものがちょっとした勝利で覆るような状況にはなかった。

 第二次世界大戦は、列強(グレート・パワー)と呼ばれる近代国家が総力を挙げて戦う戦争だった。戦場が遠く離れていた日本本土からは少し実感しにくかったが、戦争の帰趨を決定しするのは戦場で勝つことではなく、戦場にいかに多数の有力な戦力を送り込めるかだった。戦術ではなく戦略で勝たねば意味がない戦争なのだ。
 無論、日本政府も、総力戦には彼らなりに全力を傾けてはいた。しかし日本の場合は、いまだ工場の本格的な24時間操業はほとんど行われていなかった。大学生はまだ勉学に励んでいたし、大都市の繁華街はそれなりの賑わいを保っていた。日本全体での工業化率、工業の近代化率の低さ、電力不足の影響、などが原因とされていたが、日本国民の多くは総力戦というものに鈍感だったと言えるだろう。
 1942年春までに招集(動員)された兵士の数も、これまで戦死した兵士を含めても400万人ほどで、日本本土の人口と比較しても5.5%程度しか動員されていなかった。兵器の生産効率も主要参戦国の中ではイタリアに次いで低く、前線の兵士はともかく国家として死力を尽くしているとは言い難い状態だった。
 これはやはり、戦場が本国から遠い事と、戦争が基本的に圧倒的優位に進展しているからであろう。日本人にとって、戦争とは軍人と軍属、せいぜいが船舶乗組員が行うものであり、一般の日本人にとっては、親族に戦死や戦病が出ないかぎり、配給制で物資が不足するという程度のものでしかなかったのだ。多くの日本人が戦争を比較的身近に感じたのも、満州でソ連軍が攻勢に転じて10万人近い戦死者が出たという事件がほとんど初めてだったほどだ。
 一方、ヨーロッパの戦いで主役を演じている、ドイツ、イギリス、ソ連はどこも既に限界近くまで生産力を高めつつあった。恐らくは1943年度にはほぼ上限値にまで達するだろう。
 無論各国ごとに問題はあった。

 ドイツの場合、1942年2月7日に軍需大臣のトートが飛行機事故で死んだのが大きな転機となった。次の軍需大臣には、アルベルト・シュペーアが就任したからだ。
 当時シュペーアは若干36才。建築家としてヒトラーに気に入られていただけの、無害で穏和で平和的な人物と見られていた。しかもそれまでは単なるヒトラーのお気に入りの建築家で、政治にも深入りしていなかったためかナチス内外を問わず友人、知人が多かった。平和的な人物なのは間違いなかったのだろう。
 しかしヒトラーの鶴の一声で軍需大臣に就任したことで、彼の隠されたそして世界的な才能が開花する。
 彼は超が付くほど一級の組織者、今で言うところのマネジメントの天才だったのだ。
 しかも彼は、権力闘争渦巻くナチス政権内を過不足無く泳ぎ切り、ドイツ全体の軍需産業を徹底的に合理化させていった。ある意味、ドイツ及びドイツに従属していた周辺国を本当の戦闘マシーンに作り替えてしまったのが、平和的な人物だったシュペーアだったのだ。
 そんなシュペーアでも、ドイツ女性は家庭を守るものだというようなナチスの保守的な考えは最後まで打破できなかったし、縄張り意識の強い地方勢力の扱いにも苦労させられていた。また効率的な軍需生産によって、大企業の独占状態になるという弊害ももたらされた。しかしそれでも彼が、この戦争で最も偉大な戦争経済、総力戦の体現者だったことは間違いないだろう。アドルフ・ヒトラーは、彼を半ば偶然に見いだしただけでも歴史に名を残せるほどだった。
 個人として、シュペーアのような人材は他国には現れず、人口と産業拠点の半分を失ったソ連は、ただただ独裁者と共産党指導体制による強権と、敗北の中での人民(国民)の危機感情が戦争経済を維持させていた。
 一方イギリスだが、当時イギリスはアメリカと並んで最も資本主義経済が進んだ国だった。国民の民度も高く、世界でも最も豊かな国の一つだった。
 しかし既に、重工業国家としてのイギリスは、開戦前から斜陽だった。工業国としてのイギリスのピークは、実のところ第一次世界大戦だった。
 驚くべき統計数字上の情報として、粗鋼生産力は1300万トンあったが、造船力は最大でも1942年の年産130万トンの商戦建造が最高値だった。造船量は、第一次世界大戦のピーク時の7割にも満たない。しかも、粗鋼生産量が本国だけだと、総量で750万トン程度だった日本のピーク値を下回るものだった。しかも日本の場合は、船舶面だと損害よりも供給が上回っていたため、1942年夏頃に100トン以上の鋼製船舶保有量は、開戦時の750万トンから100万トン近くも増えていた。ほとんどが、日本の戦時生産の中で作られた戦時標準船なので性能は今ひとつだったが、とにかく数は力だった。また、侵攻の中で敵から捕獲した船舶量も無視できない量で、日本の船舶保有量は900万トンに達していた。この「物量」こそが、日本のインド、中東への進撃を円滑に支えていたのだ。
 また日本の場合は、石油資源が豊富な地域の中心都市シンガポールを航路の中継点として使えたことが、戦争経済の運営を容易くしていた。日本本土からは、艦艇も船舶も燃料を最小限積み込んでシンガポールまで向かい、そこで燃料を満載してからインド洋へと出ていった。また資源を満載して日本に戻る船も、帰路は燃料満載が当たり前で、危険の大きいとされるドラム缶などによる過積載も一般的に行われていた。何しろ太平洋にまで攻撃にくるイギリス潜水艦は、ほとんどいなかった。イギリスに襲撃されるのはよっぽど運の悪い船というのが、一般的な見解だったほどだ。1941年内は、イギリスもオーストラリアを拠点として太平洋での通商破壊を行っていたが、距離が遠いので数は限られ、最新兵器である魚雷の供給などが全く追いつかないため尻窄みだったからだ。オーストラリア海軍の「活躍」については、言うまでもないだろう。

 話しをイギリスに戻すが、イギリスの商船保有量は開戦以来急速な降下線を描き続けていた。これはドイツが中心となり、日本も熱心に通商破壊を行った結果だった。
 1942年夏の段階での鋼製船舶保有量は、約1400万トンだった。開戦時2100万トンあったのが、新規生産やアメリカからの大量購入を入れても70%に満たない数字に減少していた。これを単純な計算式にすると、2100+350−x=1400ということになる。つまりイギリスは開戦から33ヶ月の間に、開戦時の半分に当たる1050万トンもの船を失っていたのだ。これを月平均にすると30万トンを越える。それが、200隻のUボートと100隻を越える日本軍潜水艦、水上艦艇群を中心とした通商破壊戦の結果だった。他にも機雷、航空機など多くの要素による損害が、この数字を現実のものとしていた。
 しかも日本軍を中心とする枢軸軍の猛威により、東アジア、インド東部、インド洋、インド西部、地中海、エジプト、中東と次々に植民地や通商路を失っていた。日本が海上交通破壊以外ではほとんど無視しているオセアニア地域も、距離の問題もあって戦争経済に貢献するよりも負担の方が大きく、半ば孤立状態だった。1942年になると、イギリス本国からでは、オーストラリアは何をしているのかほとんど分からないとすら言われていた。実際は、日本軍の上陸に備えた防衛準備を懸命に行っていたのだが、結果論的には全てがオーストラリアの杞憂でしかなかった。
 しかも、自体はオーストラリアだけの問題ではない。
 戦前のイギリス経済は、世界の四分の一の陸地面積を誇る広大な植民地間の貿易、様々な物資、資源、商品のやり取りで運営されていたのが、カナダとアフリカの一部以外で途絶している状態にまで追い込まれていたからだ。
 加えて、通商破壊対策は順調に好転していたのに、枢軸側の通商破壊部隊の規模が拡大しているため船舶の損害はむしろ増えていた。
 これではイギリスの戦争経済がうまく回転するはずもなく、船舶の損害の影響が深刻になりはじめた1941年後半からは、英本土での生産は右肩下がりだった。
 分かりやすい例としては、イギリス本土からヨーロッパ各地を爆撃する機体の数が、ドイツ側の防戦の激しさもあって1942年初め頃をピークにして降下線を描いていた。イギリスが船舶と護衛艦艇の次に重視していた爆撃機の生産が、如実に滞りはじめていたからだ。
 この影響は、爆撃が減少したドイツの戦時生産の向上や、枢軸側の海上交通路の損害率の低下にも大きな影響を与えており、総力戦と戦時生産こそが戦争を左右すると言うことを如実に物語っていた。
 極論、イギリスが枢軸諸国に最初に袋叩きにされたことが、ソ連の連敗にも結びついているとも言えるだろう。


フェイズ19「攻勢再開」