■フェイズ20「攻勢再開」

 1942年春を過ぎると、日本軍の大本営は北の南の双方で攻勢を行うことを企図した。ようやく忙しい時期が過ぎたとので、次はこちらの番というわけだ。
 北はソ連に対する夏季攻勢、南はイギリスに対するインド洋での大規模な攻勢。相変わらず日本軍は、戦力分散と派手な作戦ばかりを行うつもりだった。戦線が広がり続けたツケでもあったが、本来ならどちらも日本軍にとって荷が重いのだが、枢軸全体での戦いだった事、イギリス、ソ連が既に大きく弱りつつあった事が、この時の日本軍の強気を呼び込んでいた。
 またできれば後一年程度で戦争を終わらせたいという、純粋な戦争経済上での問題もあったため、尚更攻勢は急がれていた。
 日本としては、戦争は勝ちつつあり欲しいものはあらかた手に入れたのに、これで国が財政破綻でもしたら目も当てられない、というところだった。

 日本海軍は、インド洋での新たな作戦を企図した。主な目的は、海上での地中海ルートの完全な開通のためだ。戦争がここまで進んだ以上、戦略的に是非とも達成して置かねばならない作戦だった。
 この作戦を日本陸軍は「欧亜打通作戦」と通称していた。

 この頃日本軍は、セイロン島、チャゴス諸島をインド洋での主な拠点としていた。他にも、既にマダガスカル島のヴィシー・フランス政府組織との話し合いも済んでいるので、同島も小数の潜水艦程度なら日本軍の拠点として使えた。おかげで南大西洋までが日本海軍潜水艦隊の活動範囲だった。おかげで、海上封鎖されていた南アフリカ連邦は、連邦脱落寸前と言われていた。
 しかしアフリカ、アラビア半島南西部にはいまだイギリス軍が、小数ながら各地で頑張っていた。紅海、ソマリア半島、ソコトラ島には、多数のイギリス軍高速艇が潜んでおり、潜水艦の活動も細々と続いていた。他にも紅海には、イギリス軍が残した機雷が大量に浮かんでいた。日本海軍の海上護衛戦といえば、これらの地域のことだけを指していたほどだった。
 また北アフリカで戦っていたイギリス軍は、ナイル川を遡る形でケニア方面に向けて地道に退却中だった。こちらは主にイタリア軍が追撃していたが、イタリア軍は近在のエチオピア方面に軍のかなりを派遣していた事もあり、捕捉撃滅には至っていなかった。
 中東は既に日本軍がシナイ半島に入り、ドイツ軍がスエズ運河のイギリス軍を掃討中だったが、現地のイギリス軍残存部隊が頑強に抵抗しているため、長ければ制圧には数ヶ月かかりそうだった。
 そうした状態に対して日本軍は、ソコトラ島の無力化、アラビア半島南端のアデン、紅海玄関口のジブチの攻略を予定していた。イタリア政府はエチオピア奪回の援助を要請してきたが、日本軍は余剰の地上戦力がないのでこれを当面という形で謝絶していた。
 もっとも紅海方面での戦いで日本軍が用意した地上戦力は、特別海軍陸戦隊が5000名程度と、陸軍独立混成旅団1個の6000名程度でしかなかった。海軍部隊は多数投入されることになっていたが、基地航空隊もアデン駐留予定の部隊が1個飛行隊が進出するだけだった。既に現地イギリス軍が、面子のため駐留している小数の部隊だけとなっているため、制海権、制空権さえ完全に握ってしまえば、後は形式的な占領を行えばよいと考えられていたからだ。
 また、兵力が少ないのは、夏の間は日本陸軍がソ連への攻撃に集中しようとしていたからでもある。日本陸軍としては、スエズの道を開くのは海軍の領分と考えていたからだった。

 北アフリカでの戦いが落ち着いて遂にスエズが陥落した1942年4月、日本軍は本格的に紅海への道を開く作戦を開始する。
 投入される主な海軍部隊は、第一航空艦隊と遣印艦隊が主体で、これに侵攻部隊を護衛する部隊が投入され、補給部隊と紅海を掃海する掃海艇の部隊が後方で待機していた。
 インド洋での連続する攻勢作戦、通商破壊作戦の結果、日本海軍は自分たちの持つ全力を投入して作戦を行うという向きを弱め、適時必要な戦力を投入する形の戦闘をこの頃には常態化させるようになっていた。そうしなければ、ボクシングの試合のような長期戦は戦えないからだ。これは、5年ほど前まで1回限りの「決戦」に勝利する事だけを考えていた事に比べると、実に大きな変化といえるだろう。
 海上護衛、通商破壊の重視も合わせれば、日本海軍はドイツとの交流と第二次世界大戦によって、外洋海軍へ脱却しつつあったといえるだろう。
 また日本海軍が空母機動部隊を日常的に投入するようになっていたのは、無論敵地での制空権、制海権を得るためだったが、物理的には日本海軍の有する空母の数が大きく増勢していたからだった。
 開戦時、日本海軍の保有する航空母艦は、大中小それぞれ2隻ずつだった。これはイギリス、アメリカに匹敵する規模ではあったが、大規模な戦争を行うには十分な数ではなかったし、アメリカとの間に長期戦が発生した場合、非常に心許なかった。海軍自身もそれを自覚していたので、開戦以後熱心に空母の増勢を急いだ。しかも空母は艦載機の種類や数によって戦力、用途を調整できるため、非常に有意義な存在であることが分かった。空母を艦隊同士の戦いに投入すれば簡単に戦力を消耗してしまうが、そうでない場合は十分な補給さえ与えれば、非常に柔軟性の高い兵器であることが分かった。
 このため日本海軍は、戦時に空母に改装予定で建造していた艦艇、保有していた艦艇の一斉改造を実施、1941年に入るまでに全艦を軽空母として戦場に投入し、多くの戦果を叩き出していた。

 1942年春から夏にかけての日本海軍の空母の数は、大型空母が「赤城」、「加賀」、「翔鶴」、「瑞鶴」の4隻、中型空母が「蒼龍」、「飛龍」の2隻、軽空母は練習空母になった「鳳祥」を除いて、「龍驤」「瑞鳳」、「祥鳳」、「龍鳳」、「千歳」、「千代田」、「日進」、「瑞穂」の8隻となっていた。他にも高速型の大型戦標船を簡易改造した航空機運搬船が数隻(※数は不定・空母ではない)が補給任務で活躍しており、一部は自前の艦載機を有して対潜作戦任務も行っていた。本格的な海上護衛専門の性能を限定した低速の軽空母も、まもなく4隻が就役予定だった。
 しかも1942年3月からは、戦時量産型の「雲龍級」中型高速空母8隻が二ヶ月に1隻平均の間隔で就役予定だった。8隻(「雲龍」、「飛鷹」、「隼鷹」、「大鷹」、「雲鷹」、「沖鷹」、「海鷹」、「神鷹」)の空母は1年半以内の43年夏頃には全艦就役予定で、その頃には期待の「大鳳級」装甲空母の「大鳳」「海鳳」が実戦配備されている筈だった。加えて「改大鳳級」空母2隻も急ぎ建造中だった。そしてそれらの空母は、就役から最短三ヶ月の訓練で実戦投入が可能だった。
 空母の配備ペースは、艦隊建造計画が大きく後退したアメリカをしのいでおり、生産力低下で戦時計画すらままならないイギリスを大きく引き離していた。イギリスは、「雲龍級」より劣るとはいえ戦時建造型の軽空母を計画したのはいいが、未だに建造が始まっていなかった。
 しかも1941年度に定められた「第五次艦船建造補充計画」では、「超大和級」戦艦2隻と共に「超大鳳級」空母3隻の建造が決まり、1番艦は1942年4月から建造が開始されていた。このため「雲龍級」空母の追加建造は見送られたが、いまだ1隻の損失もない空母群は十分すぎるほどの充実ぶりであり、今や日本海軍の力の象徴となりつつあった。
 もし戦艦が主力のままだったなら、これほど円滑な侵攻は実現不可能だっただろう。敵地侵攻、船団護衛の双方に空母及び空母艦載機は非常に有効だった。
 だからこそ、どの戦場にも空母は姿を現し、ディーゼル機関を搭載した高速軽空母などは、通商破壊作戦任務にすら従事していた。
 しかも空母は単に洋上を移動する航空基地というだけでなく、自在な運用と戦力の集中が可能という、敵にすると非常に厄介な相手だった。相手を上回る迎撃機を用意し、電探、無線による有機的な迎撃網を構築しない限り、基地に依る軍隊に勝ち目はなかった。
 1942年春から夏にかけて行われたアラビア海から紅海にかけての戦闘も同様であり、これまでと同じく劣勢なイギリス軍は撃破される側だった。アデンなどでは電探(RDF)と無線を用いた航空管制を用意し、1個大隊のスピッツファイアが迎撃任務に就いたが、やはり数と集中度の違いからイギリスの敗北に終わった。しかも空母機動部隊は一撃で相手を破壊することを目的としている場合が多いので、ヨーロッパや地中海でのような息の長い戦闘を前提としているイギリス空軍にとって、日本海軍の戦い方は非常に異質であり、また対応が難しかった。日本海軍は、敵拠点、奪うべき拠点を、太平洋の孤立した島嶼と見立てているとしか思えなかった。ただ、戦域が広く拠点、戦力の限定されたインド洋での戦いでは、日本海軍の戦い方もある程度は正解だった。そして航続距離の短いイギリス軍航空機は、船というイギリスにとって当たり前だった輸送手段を失うと、絶海の孤島で孤立したのも同じだった。
 かくして戦いは、おおよそ日英両軍の想定範囲内で推移し、ついに枢軸陣営による「ユーラシアリング」が完成する。
 7月からは、ペルシャのアバダン油田で石油を満載したタンカーがスエズ運河経由で地中海に入るようになるが、イギリス軍にこれを阻止する力は既にほとんど無かった。沿岸からの高速艇(魚雷艇)による散発的な攻撃も、拠点ごと潰されて徐々に潰え、なけなしの潜水艦によるインド洋での活動も、日本軍の大機動部隊(2個航空艦隊の全力出撃)が南アフリカ各地の港湾都市を荒らし回った9月以後は極めて低調となった。

 一方、日本海軍がインド洋で暴れ回っている間、日本陸軍は本来の宿敵である赤いロシア人を総攻撃していた。
 ドイツ軍が6月28日に夏季攻勢を開始するのに合わせて、満州では同じく全面的な侵攻が開始され、ペルシャに派遣された陸軍部隊も、航空支援や国境侵犯などでヨーロッパ枢軸連合軍を側面援護した。特に陸軍航空隊の後退阻止のための空襲と、ドイツ空軍との共同による前線へのガソリン輸送(当然、空輸)は非常に有効だった。
 しかし日本陸軍にとっての主戦場は、前年お預けをくらい、冬には手痛い侵攻を受けてしまった極東戦線だった。
 満州に待機する関東軍は、冬に大損害を受けた兵士、兵器、物資の補充と再編成を終え、また冬から春にかけて増強された1個軍、さらには朝鮮軍も加えて、持てる全力で極東地域への侵攻を開始した。
 師団数にして24個。重砲兵などの各種補助戦力、後方支援部隊、航空隊を含めると100万に達する大軍だった。しかも、当面戦闘を行わないザバイカル方面からは兵力の半分を引き抜いて侵攻予定地に転進させていたので、戦闘正面となるウスリー方面には18個師団の戦力が集中する事になった。戦車や重砲も、ほとんどがこちらに集中された。

 一方の極東ソ連軍だが、既に半身不随だった。
 主力戦闘部隊は冬季攻勢のため半数が瓦解しており、侵攻を受けた場合根こそぎで動員する予定の住民の二割は餓死もしくは凍死していた。士気も大きく低下している。
 しかも皮肉と言うべきか、1942年5月にようやくシベリア鉄道が暫定復旧し、ソ連中央の命令するままに出来る限りの兵力、兵士がヨーロッパ方面に持って行かれた。代わりの兵士も補充されたが、言葉(ロシア語)すら分からない中央アジア兵やモンゴル兵、シベリア兵か、訓練を全く受けていない老年兵ばかりだった。武器弾薬も最小限以下しか持っていなかった。
 兵力数だけは30万人あったが、うち5万人は当面日本軍の来ないアムールとザバイカル方面なので、何もかもが足りない25万人で関東軍精鋭部隊を迎撃しなければならなかった。実質的な戦力格差は、防御に必要とされる3倍どころか5倍以上に開いていた。
 当然、住民の動員が行われたが、上記したように住民の数は極東全域で既に二割が失われていた。それでもウスリー・沿海州方面には200万人近い住民がいたが、使える若者は既に軍人か軍属になって多くがヨーロッパ方面に送られているので、残りは栄養不足に陥っている少年兵、老年兵、そして老人、女子供だった。
 しかも他にも問題は山積みだった。
 極東には自力の重工業と機械力がほとんどなかった。当然兵器の生産能力も極めて低かった。僅かな工場の多くは、これまでの空襲で多くが破壊されていた。その上、装備の多くを冬の戦いの時に満州内で失っているため、正規軍ですら武器弾薬に事欠く有様だった。陣地構築をするにしても、鉄骨、コンクリートもなく、丸太材だけでトーチカを作っている状態だった。その作業ですら、電動鋸の不足、輸送車両の不足でうまくいっていない。塹壕も、ブルドーザーなどの建設機械でなく、数万人の市民を動員してスコップやツルハシで手掘りしている状況だった。もちろんだが、燃料にも事欠いている。
 こうした窮状を前に、増援は無理でも兵器と食料の補給をソ連中央に訴えたが、兵器はほとんどやってこなかった。辛うじて食料と酒だけはある程度供給されたのが、せめてもの慰めだった。
 しかし何もかも足りない状況に変化なかった。
 軍の部隊で言えば、第1、第15軍は既に編成表にだけ存在するような状況だった。戦闘の主軸を担う第25、第35軍も冬の戦いで戦力半減しているのに、兵士の過半が既に元の訓練された兵士たちではなかった。アムールの第2軍は編成表上ではほぼ無傷だったが、中身はほとんど丸ごとヨーロッパに移動していた。ザバイカル方面も見る影もなかった。
 軍全体で燃料が不足するため鉄道以外での移動も敵わず、制空権は相変わらず日本側が握っていた。それ以前に、極東を飛ぶソ連空軍の飛行機は、冬季反抗の失敗以後誰も見ていないような有様だった。
 そうした状況を見透かしたのか、春以後の日本軍の航空機はたまにビラをばらまいていて、ソ連共産主義体制を住民の手で覆すように訴え、揺さぶりをかけていた。

 そうして6月28日の日本軍の侵攻を受けたのだが、日本が行ったのはウスリーの平野部での電撃戦だった。
 既に制空権を得ているので爆撃機を集中配備し、一カ所に機甲戦力を集めて、一気に前進してきた。他の前線でも一斉に重砲が間断なく轟き、まるで東部戦線のような状況になった。
 そして日本側の歩兵軍がソ連軍主力を抑えている間に、一気に機甲部隊が前進した。突進していったのは、日本陸軍の第一、第三戦車師団と自動車化された第四十八師団を麾下に持つ第一機甲軍だった。他にも自動車化された野戦重砲兵旅団、独立速射砲部隊など多数を伴っており、ドイツ軍の情報を反映させた、恐らく日本陸軍で初めての軍団規模の装甲部隊だった。戦車の数だけで、定数で500両以上あった。
 そしてソ連側も日本の攻勢準備をある程度察知して、戦車旅団や騎兵部隊を投入して防戦に当たった。だが、圧倒的な制空権の前に移動を妨げられ、僅かな数の重戦車、高性能中戦車(T-34)は、日本軍の爆撃機や地上襲撃機と、日本軍が事前に用意していたと見られる強力な対戦車砲に粉砕された。重武装した装甲部隊の前に僅かに残されていた騎兵は役立たずで、何もしないまま重砲と機関銃の弾幕の前に壊滅した。
 前線を警備していた国境警備隊や歩兵部隊は、一点を突破された後はその場で包囲されてしまい、日本軍は一気に150キロ近くを突進して、まともな防衛体制を整えていないウスリー州の中心的な街のマンゾフカとヴォロシーロフグラードを占領してしまった。しかもこれでシベリア鉄道の寸断にも成功しており、極東ソ連軍は開戦一週間足らずで南北に分断されることになった。
 次の一週間で、日本軍三個軍の包囲戦を受けた南部のソ連赤軍第25軍が、戦力をすり減らされた上で降伏した。さらに二週間後には、中部のイマンの街を守備していた第35軍が、南方から転進して迫ってきた第一機甲軍と前面の日本第五軍の挟撃を受けて、大損害を受けた後にハバロフスク方面への後退を余儀なくされた。一方では、南部のソ連軍残余はウラジオストク方面に押し込まれていた。ウラジオストクは、海軍の町で海からの攻撃に対しては強固な沿岸要塞が存在したが、陸の側からの攻撃には脆かった。水兵の全てを臨時の海軍歩兵としたが、陸軍の残兵と合わせても3万人程度の戦力しかなかった。当然逃げ場はなく、日本側もジワジワと攻城戦を進め、秋までに降伏することになる。
 一方、ハバロフスク市の攻防戦も8月中頃に始まったが、市民総出による陣地構築は三分の一もできていない上に、完成箇所も資材不足で不完全だった。市民による義勇軍や防衛隊を組織しても、二人に一丁どころか小銃がひとつもない部隊もあった。そうした部隊は、少数の手榴弾ぐらいしかなく、あとは猟銃が一番の武器で、手製の爆弾、古くさい刀剣類、斧やスコップといった工具をそのまま武器として使うしかなかった。
 そんな未完成の防衛線に対して、日本陸軍の中で最も機械化された部隊が圧倒的制空権の下で進んできたので、攻防戦の帰趨も最初から分かり切っていた。その上日本軍の方が兵力で勝り、余剰戦力が平野部に作られたハバロフスク防衛線を迂回してくる有様だった。
 しかし、現地のソ連上層部は自分たちの保身のためにも人民と軍を無理矢理にでも戦わせなくてはならず、1週間近く続いた激しい攻防戦の末にソ連軍は壊滅して後退し、ハバロフスク市は日本軍に半包囲される事になる。そしてそこから攻城戦となるも、極東の町の多くは強固な建造物、構造物が少ないので、ヨーロッパ方面のように町に籠もるという芸当が殆ど不可能だった。
 それでも、極東方面軍総司令官の直接指揮のもとで絶望的な都市攻防戦が実施されたが、ハバロフスクの街は半ば無意味な市街戦の末に壊滅しただけに終わった。
 9月からは、体制を整えた日本軍の第二期作戦としてアムール川での作戦が始まり、枝作戦としてウスリー・沿海州奥地への掃討戦が行われた。またザバイカル方面では、日本軍が再びマンチュリアまで押し出して、工兵隊が翌年春の侵攻のために満州国内の鉄道と道路を懸命に強化していた。
 そして冬が来るまでに日本軍が主要な地域を占領したので、山間部に追いやられたソ連残存戦力は、シベリアの冬将軍が始末してくれる筈だった。

 日本軍の見るところ、戦争はあと一押しだった。



フェイズ20「アメリカ中間選挙」