■フェイズ23「遣欧艦隊」

 1942年冬から1943年夏にかけて、戦争の焦点の一つはロシアの大地に注がれていた。だが、戦争の焦点は、ロシア戦線ばかりではない。地中海戦線、中東戦線はイギリスの敗北によって事実上消滅したが、まだヨーロッパ戦線、インド戦線が残されていた。大西洋での主に水面下での戦いも熱く静かに続いていた。
 そしてどの戦線も、それぞれの国の思惑によって動き続けていた。
 地中海では、頑強に抵抗を続けていたマルタ島が、イタリア海軍とドイツの空挺部隊により遂に奪取されていた。またスペインが、いよいよ枢軸諸国との参戦へ向けての話し合いを本格化させていた。
 インドでは、日英双方の半ば不毛な運動戦の連続の末に遂に東部要衝のデリーが陥落したが、広大なインドでの出口の見えない戦いは続いていた。日英どちらもが、戦線と戦域の規模に対して、中途半端な戦力しか投じていなかったからだ。
 また日本海軍が、スエズ打通作戦と南東アフリカ作戦を終えた1942年秋以後、主力部隊が再度の再編成に入っていた事も、インド洋で戦線が停滞していた大きな要因となっていた。
 日本海軍は、俄然豊富になった航空母艦群のうち1個機動部隊を常にインド洋に展開していたが、大規模な攻勢を実施するには流石に力不足だった。

 そして1943年夏のソ連の窮乏によって四面楚歌に追い込まれるイギリスだが、ソ連の現状以前の問題としてイギリス自身の状況は悪化を続けていた。
 通商破壊戦は、イギリス側のマイクロ波電探搭載機の増加、対潜水艦戦術の充実によってUボートの撃沈数は増えていた。だが、ドイツ側が多数のUボートを展開しているため、損害の方は増え続けていた。1943年に入ってからは、アメリカが実質的な援助で船舶の貸与を始めていたが、常に損害が供給を上回っていた。
 船舶量が大幅に減ってなおイギリスの被る損害が大きいのは、それだけイギリスが海外から輸入に依存していたかを現していた。多少数字が改善したのは、インド洋の戦いが実質的に終わって現地でのイギリス船籍の船が激減したからだ。それでも損害が大きいのは、ドイツ海軍の威力がいかに大きいかを現していた。またカナダからイギリスに送り届けられる兵器、物資の多さを同時に現していた。アメリカから原料資材の供給を受けているアブロ社のカナダ工場群は、この時期から月産100機近い4発重爆撃機を生産していたほどだった(※重爆撃機は直接英本土に飛んできていたが)。
 それでもドイツの戦争経済に打撃を与えるイギリス側の爆撃は、『爆撃屋』と言われたハリス将軍の爆撃戦術が既に破滅的状況に追い込まれていた。
 これはドイツが、早期警戒網と夜間防空体制を充実させた事と、展開する航空艦隊の数が1941年夏から以後一年間と違い、約2倍に増えていたからだった。このため重爆撃群による無差別爆撃から、高速のモスキート戦闘機による嫌がらせの爆撃へと主な戦術が移行しつつあった。またイギリス本土の戦時生産が大きく低下していることも、爆撃戦術の後退に強く影響していた。そして損害と労力に比べて効果の低い都市無差別爆撃は、1942年11月に大規模爆撃については遂に中止された。そしてそのリソースを戦闘機、護衛艦艇、商船という今後最も必要とされる兵器の生産に移していた。
 これはイギリスが再び攻勢が取れないほど窮地に陥りつつあることを示していたが、状況はむしろ1940年夏頃より悪かった。あの頃は海軍が圧倒的優位だったが、1943年に入る頃は違っていたからだ。

 1943年に入る頃のイギリス海軍は、戦艦が新型の「キング・ジョージ五世級」5隻を中心に合わせて7隻しかなかった。艦隊随伴用の空母は、古びれた「フェーリアス」と最新鋭の「インドミダブル」の2隻きりだった。しかも戦艦も空母も、以後一年以内に新たに就役する見込みはなかった。イギリスがイングランド時代から遡っても、歴史上これほど海で追いつめられた事はなかった。
 これに対してドイツ海軍は、戦艦4隻と空母は新鋭艦の「グラーフ・ツェペリン」「ザイトリッツ」を完成しつつあり、空母も合わせて4隻となる見込みだった。イタリア海軍も3隻目の新鋭戦艦を就役させ、合わせて6隻の戦艦を有するようになっていた。つまり、戦力比率は大型艦に限りすでに逆転していた。
 しかも枢軸側には、今や世界一の海軍となった日本海軍が存在していた。日本海軍は世界最大の巨大戦艦や無数の高速空母を保有しており、高い攻撃力も相まって現時点では間違いなく世界最強の存在だった。
 単純な戦艦数だけでも14隻と、英独伊全てを合わせたほどの数があった。しかも新鋭戦艦4隻は、超大型艦ばかりだった。「大和」「武蔵」は、あまりの巨体のためにスエズ運河を越えるには、船体内をほとんど空荷にして喫水を上げて曳船で引かないと通過できないという、度肝を抜くような巨体を誇っていた。(※当時のスエズ運河:幅44m、水深10m)
 空母については、1942年春から二ヶ月に1隻のペースで新型艦が就役していた。1943年秋になれば、新型の大型空母も迎え入れ、大型6隻、中型10隻、小型8隻の24隻にも達する。これらが全ての空母が統一運用された場合の艦載機数は、スペアを除いても実に1100機に達する。最大運用機数は、1300機にもなる。この数字を常時前線で運用されている航空機数に例えれば、日本軍全体の3割が洋上機動できる事を現していた。半ば冗談だが、半分は沈むつもりで作った空母が全部健在のため、日本海軍では乗組員と艦載機の手当が付いていないという話しがあった。実際、乗組員や搭乗員の訓練とやり繰りでは、かなりの苦労が見られた。
 そして1942年初冬ぐらいから、日本の巨大戦艦群と巨大空母機動部隊が、ついに大西洋に派遣されると言われていた。
 無論中立国のアメリカが日本海軍に匹敵する海軍を有しているので、アメリカを警戒する日本が海軍の全てを大西洋に注ぎ込む可能性はほとんどなかった。しかしそれでも半分が投入された時点で、イギリスの制海権は消え去ると考えられていた。
 実際1942年秋の日本海軍では、新たな空母機動部隊が編成された。そして1943年に入ると、再編成を終えた大艦隊がシンガポール入りした。そしてすぐにも、コロンボとアッズ環礁の部隊が新旧交代した。この交代した艦隊の再編とさらなる新鋭艦艇が迎え入れられた時、日本海軍の大艦隊が地中海か北大西洋上に出現するだろうと予測された。
 ただし、連合艦隊の全てではないだろうとは予測されていた。
 その理由は、アメリカが太平洋側に新鋭戦艦を中心にした強力な海軍力を置いているからだった。別にイギリスに遠慮しているわけではなかった。日本海軍にとっての本当の仮想敵は、イギリスではなくアメリカだったのだ。

 そして日本海軍に見くびられたイギリスとしては、たとえ悔しかろうとも日本海軍の大部隊が押し寄せる前に、ドイツ海軍の通商破壊戦を多少なりとも何とかしなければならなかった。
 そこでイギリス軍は、42年秋に夜間爆撃を止めた重爆撃機部隊を二つに分け、再訓練と装備の充実を行った。
 一つは対潜哨戒機への大幅転用。これまでの各種陸用爆弾を爆雷に載せ換え、優先的にマイクロ波電探を搭載して大量に配備し、洋上でのUボート狩りを行わせた。これは1942年頃から行われていた爆撃機の転用を大規模にしたものだったが、ドイツが有しないマイクロ波電探と新戦術の効果は非常に高かった。
 1943年5月には、ドイツ海軍はイギリス軍爆撃機の活動圏内でのUボートの夜間作戦、浮上を禁止したほどだった。しかし長い航続距離を誇るウェリントンを大量に投入したイギリスの対潜水艦戦を前にしては、この命令は損害に耐えかねたドイツ海軍側の通商破壊戦術の敗北を意味するものだった。このためドイツ海軍では、さらなる高性能潜水艦の開発に拍車がかかるようになり、日本の技術者も招き熱心な開発が行われるようになった。
 もっとも日本などは、現地の相手が弱いままのインド洋だから、性能的にドイツに劣る潜水艦でも十分に活発な活動をしていた。だが、イギリス本土への大西洋回りでの兵站維持をしていたオーストラリア近海にでは、新装備を持ったウェリントン爆撃機が配備されると、それまで暢気に通商破壊戦をしていた日本軍潜水艦が相次いで撃沈されていた。このためオセアニア地域を先に攻略すべきではないかという意見が、徐々に日本海軍を中心に台頭しつつあった。
 また一方でイギリス軍は、「トールボーイ」と呼ばれる超巨大爆弾などを搭載した重爆撃機群の飽和攻撃によって、Uボートの出撃拠点を徹底的に爆撃し始めた。想定外の飽和攻撃に対して、ノルウェー、フランスのブレストなど防空体制の甘かったは拠点、Uボートと共に大損害を受けた。無論全てが破壊された訳ではないが、無視できる損害でもなかった。
 重コンクリートで覆われたブンカーも、4トンから最大6トンの超大型爆弾、さらにはモスキート爆撃機による中型爆弾のスキップ・ボミングによる飽和攻撃には耐えきれず、多くが自らの自重で崩壊していった。しかもなまじ丈夫に作っていたものが崩壊したため、再建も難しかった。
 この攻撃に対して、イギリス軍が大規模な爆撃を準備中との情報をドイツ軍も掴んでいたが、北西部沿岸かルール工業地帯がターゲットという先入観もあって裏をかかれ、大きな損害を受けることになった。
 この攻撃に対してドイツのヒトラー総統は、イギリスへの報復としてイギリス本土の大規模昼間爆撃再開を命令。ドイツ空軍は、再び大挙して大ブリテン島への大規模な攻撃を行うようになった。しかしいまだロシア奥地で戦っていたドイツに、イギリスを本格的に攻撃するだけの力はなく、いたずらに損害を増やすことになった。
 そして通商破壊戦でのイギリスの勝利と言える状況は、総力を挙げて戦争を行う国家が、どこに国力を注ぎ込んだかという点で非常に興味深い。陸への努力、地上攻撃への努力を重視せざるを得なかったドイツが、安上がりな戦略として通商破壊を選択するも、その通商路護衛こそが第一の生命線であるイギリスが行った努力の前に敗北するのは、多少の国力差を差し引いたとしても自明の理だったのだ。
 また面白いのは、巨大な海軍を建設するも伝統の「艦隊決戦」とその後の泥縄式の通商破壊戦、海上護衛、そして遠隔地への侵攻能力という全てを追い求めた日本海軍が、巨大な海軍を抱えつつも本来の「艦隊決戦」の能力以外どれも中途半端でしかなかった事だろう。

 そしてその日本だが、陸軍主力は1943年夏までソ連に係り切りだが、極東の奥地に投入できる戦力が進撃路、補給路の問題から物理的に限られているため、1942年秋以後戦力に余剰が生まれるようになっていた。
 このため、全軍の四割程度はインド、中東など各地に展開していた。そしてソ連方面以外での攻勢も、財布の紐が許す限り行っていた。
 一番の焦点は、大軍を投じている筈のインド戦線で、1942年秋には主力部隊がようやくデリーの奪取に成功した。
 しかしインドのイギリス軍(主にイギリス・インド軍)はいまだ各地で勢力を維持しており、なまじ衣食住の面がインドでは自活可能なため、もはや出口のない戦いとなっていた。日本陸軍としては、ロシア人との戦いが終わるとすぐにも1個方面軍を増援で送り込んで「決戦」を挑むつもりだったと言うが、現実問題としてそれでインド全土が征服出来るのかというと疑問も多かった。
 そうした状況で日本政府が考えたのは、イギリスとの戦争状態を終了させて問題を戦争から政治に移そうというものだった。
 どのみち日本には、イギリスに代わってインドを征服しようとか植民地にしようという気はなかった。インドが独立して自分たちと友好関係を結んで自由貿易してくれれば、それで十分だった。しかも独立後のインドは、イギリスの侵略に備えるためイギリス及びイギリスの友人以外との関係を政治、軍事、経済全ての面で強めなければならず、それが日本をはじめとした枢軸陣営なのは確実だった。戦闘で完全勝利できなくても、インドが完全独立してしまえば、日本としては戦略的勝利が得られるのだ。
 中東地域についても似たようなものであり、ドイツはともかく日本は大盤振る舞いで自由や権利、独立を様々な支援の約束と共に売り歩いていた。日本としては、ペルシャ湾岸には沢山油(石油)が眠っていると予測されるので、とりあえず現地での友人作りに精を出すという程度だったと言われている。恒久的に軍事的にどうこうするには、中東もインドも当時の日本には遠すぎるのだ。
 日本としては、当面東アジアでの覇権があれば十分だった。日本人の一部には、全アジアの征服を考える偏狭的な考えの者もいたが、政府の方針になることはなかった。
 故に日本の目は、イギリスを降伏もしくは休戦に追い込む方向に向き、ドイツが不足する「大艦隊」派遣の話しが進んでいた。またソ連戦線の泥沼化のため、別の戦争解決手段を求める動きが加速した。
 かくして準備されたのが、「遣欧艦隊」だった。

 「遣欧艦隊」の出撃は1943年3月に開始され、日本海軍では取りあえず地中海まで向かう作戦を「い号」作戦、北大西洋に躍り出てドイツ軍占領下のいずれかの拠点に至る作戦を「ろ号」作戦と呼称した。
 1943年4月に展開を終え、霧のあまり出ない季節を存分に活用して北大西洋上とイギリス本土を荒らし周り、たまらず迎撃に出撃するであろうイギリス海軍との雌雄を決しようというのが、荒っぽいながらも基本構想だった。
 ここでの日本海軍内での問題は、自らの有する巨大戦艦をどうやってスエズ運河を越えさせるかだった。スエズ運河の水路幅は44mあるが水深が10mのため、ほとんど空荷にしないと日本の超戦艦は通行できないのだ。結局正攻法でいくしかなく、通過の際には事前に弾薬や燃料などほとんどの積載物を下ろして曳航船で引いて運河を横断させ、また積み込むという面倒な事が行われる予定とされた。
 この結果、旧式戦艦の「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」と最新鋭戦艦の「紀伊」「尾張」、それに就役して間のない中型空母群が日本本土の留守艦隊となった。そしてそれ以外で動員できる限りの艦艇が、大量の支援艦船と共に長駆欧州に赴くことになった。
 最新鋭の「紀伊」「尾張」が残留となったのは、表向きは日本本土の防衛という名のアメリカへの牽制のためだった。だが本音は、ヨーロッパに持っていったらそのままドイツ海軍に強引に買い取られてしまうのではないかという、ある種滑稽のな危惧が日本海軍内部にあったためだ。
 なお、以下が「遣欧艦隊」の概要である。

 ・日本海軍「遣欧艦隊」 艦隊司令:小沢治三郎中将
第二艦隊(栗田中将)
BB(戦艦):「大和」「武蔵」「長門」「陸奥」
CG:4 CL:1 DD:16

第三艦隊(艦隊司令直率)
 第一機動群 (艦載機:310機)
CV(空母)  :「赤城」「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」
CVL(軽空母):「龍驤」
BB(戦艦):「比叡」「霧島」
CG:2 CL:1 DDG:4 DD:8
 第二機動群 (艦載機:230機)(山口中将)
CV(空母)  :「蒼龍」「飛龍」「雲龍」
CVL(軽空母):「瑞鳳」「祥鳳」
BB(戦艦):「金剛」「榛名」
CG:2 CL:1 DDG:2 DD:9
 第三機動群 (艦載機:270機)(桑原中将)
CV(空母)  :「飛鷹」「隼鷹」「大鷹」「雲鷹」
CVL(軽空母):「龍鳳」
CG:2 CL:3 DDG:2 DD:8

 第七艦隊(西村中将)
CVL(軽空母):「日進」
CG:1 CL:2 DD:6 DDE:8
給油艦、給兵艦、給糧艦、工作艦、油槽艦など約30隻

※物資については、当座の三ヶ月分。燃料の多くは、ルーマニア、バクー、ドイツ本土から調達予定。
※後続で、燃料、弾薬、食料などを運ぶ輸送船団をさらに多数追加予定。

 以上、当時の日本海軍が動員できるほとんど全ての戦力が派遣されることになる。残される水上艦は、戦艦と巡洋艦の数こそかなり多いが、多くは通商破壊または海上護衛を主任務とした艦艇だった。インド洋に展開する部隊も多い。残る空母も、インド洋での作戦任務があったり、就役間際か訓練中のものが殆どだった。「アメリカが突然参戦しない」という、政治的な前提がなければ、とてもではないが派遣できる規模ではなかった。
 また日本海軍は、この作戦に間に合うように新型の「三式艦上戦闘機(烈風)」と零戦の最終生産型の「零戦五三型」、攻撃機の「一式艦上爆撃機(彗星)」、「二式艦上攻撃機(天山)」、増加試作段階だった「三式艦上攻撃機(流星)」の部隊を可能な限り準備した。さらに遠方での作戦と戦力消耗を予測して、搭載された倍の数の機体の供給体制と150%分の搭乗員を後方待機の形で準備した。
 空母の威力は絶大だが、簡単に攻撃力が低下するという戦訓に従ったものだった。

 大艦隊がインド洋を出て紅海に入り、最後の順番となった「大和」「武蔵」が、砲弾や燃料の多くを下ろしてスエズ運河をゆっくりと進んでくるという情報は、当然イギリスの知るところとなる。しかも空前の大艦隊をイタリア艦隊がアレキサンドリアで総出で出迎え、派手な交歓の様子が世界中に発信された。巨大な艦隊の欧州派兵という民衆にも分かりやすい事象が、枢軸の圧倒的優位を宣伝していた。
 イギリス本土では、無敵艦隊、トラファルガーに匹敵する国難だとして士気を鼓舞した。しかし強大すぎる日本艦隊と正面から戦えば、国王陛下の海軍の必負確実だという事はイギリス海軍自身が理解していた。これほど巨大な機械化された艦隊を前に、かつての時代のような奇跡はあり得なかった。
 しかし何もしなければ、どこからともなく大編隊が襲来し、場合によっては大ブリテン島のどこかが艦砲射撃される恐れすらあった。艦隊は日本だけでなく、ドイツ、イタリアも有力な部隊を準備しつつあったからだ。日本海軍が戦艦をあまり派遣しなかったのも、アメリカを気にした事よりも、ドイツ、イタリアに有力な戦艦が何隻も存在したからに他ならない。
 また日本が大艦隊をヨーロッパに向けて派遣すると、アメリカではある種滑稽な動きが見られた。
 アメリカの納税者達が「大西洋の防備」を強く訴えたため、日本を牽制するために増強されていた太平洋艦隊から、有力な戦力を大西洋に動かさざるを得なくなったのだ。
 この結果、確かにアメリカ東海岸の防衛能力は大きく向上したが、太平洋側の戦力は日本を牽制するにはかなり迫力の欠けたものとなってしまう。イギリスを間接的に支援するための日本に対する牽制の効果は、まるで無くなっていた。まさに本末転倒と言うべきだろう。そしてまた、平和に慣れた民衆の行動を象徴する一例とも言えるだろう。

 そして1943年3月末頃、日本の大艦隊が案内役のイタリア艦隊と共にイタリアのタラントに至る。タラント湾に入りきらないほどの大艦隊を、ドイツ、イタリアの首脳がこぞって出迎え、盛大な式典が行われた。国そのものが移動するような120隻もの大艦隊と800機の艦載機の価値は、そうするだけのの価値があったのだ。空前の艦隊と巨大戦艦を前にヒトラー総統は非常に感動し、得意の弁舌を以て士気を鼓舞した。
 当然、イギリスの警戒感が格段に上昇した。しかしもう、マルタ島は枢軸のものであり、空前の大艦隊を偵察することすら難しかった。
 だがイギリスは絶望していなかった。
 一つには、ジブラルタルがまだ健在だったからだ。ジブラルタル海峡を抜けない限り、大西洋に出ることが出来ないのだ。
 その上1943年春頃、イギリスはドイツ潜水艦の効果的な撃退と封殺に成功しつつあり、戦時生産にも多少は好影響が出るようになっていた。夏までに日本、イタリア軍が強引にジブラルタル海峡を突破するとしても、それまでに状況をある程度整えることができると考えられていた。
 ここでのカナダの存在は大きく、イギリス政府もイギリス本土の工場の幾らかをカナダに移して生産を強化していたほどだった。日本が、通商破壊戦以外でほとんど無視し続けていたオセアニアからの僅かばかりの兵器、物資も、この時のイギリスにとっては貴重な戦力となった。
 アメリカも中間選挙以後はイギリスへの援助を増やし、政治的にも他国への揺さぶりを強めていた。
 アメリカ海軍太平洋艦隊は、1941年春以来約二年ぶりにハワイへと進出して、日本海軍を牽制していた。新鋭戦艦も、ほとんどが太平洋艦隊に属していた。これを日本は外交非難したが、アメリカ政府は日本海軍が大きく増強されている事に対する、国防上の予防措置だとして取り合わなかった。ただしアメリカは前述した通りのため、イギリス人はかなりの失望も味わうこととなった。結局のところアメリカは、中立国でしかないからだ。
 だが、巨大なアメリカという国家に対して、依然としてドイツ、日本など枢軸陣営の外交は慎重だったため、それ以上の関係悪化にはならなかったが、実のところ戦争をそろそろ終わらせたいと考えていたのは枢軸陣営だった。
 何しろ欲しいものは、ドイツ、日本共に既に手にしていた。
 夏になれば、共産主義の総本山も事実上倒されてしまう。後は、頑固なイギリス人が戦争を止めようと言ってくれば、それで話しは丸く収まるんじゃないか、というのがこの頃の枢軸陣営の正直な気持ちだった。
 勝ち逃げしたい勝者の余裕と言ってしまえばそれまでだが、ようやくそこまで枢軸陣営は勝ちを積み上げたともいえた。
 そして戦争経済、総力戦の面でもそろそろ戦争を終えたいというのが、各国の本音だった。
 1939年9月以来、それぞれの国は国を挙げて戦争を行っていた。
 積み上げられた戦争債務は莫大な額で、1年あたりのGDPすら越える戦費を各国共に使い込んでいた。戦争期間も、既に先の大戦期間を上回る3年半に及んでいる。
 1942年に入る頃までは、戦火の及ばない日本の都市部では戦争景気だとして好景気のような雰囲気もあったが、あまりに巨大化した戦争を前にそれすら吹き飛びつつあった。
 日本が派遣した大艦隊も、そうした思惑が見え隠れするものだったと言えるだろう。
 


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