■フェイズ24「ボルシェビキの凋落」

 1943年6月12日、ドイツ軍は東部戦線で最後の攻勢を開始した。
 作戦名は「ヴォルケン(疾風)」。文字通り疾風のごとき進撃で、一気にソ連中枢に止めを刺すのが目的だった。
 この作戦には、東部戦線の全ての枢軸軍の戦力が参加する事になっていた。1941年の作戦のように、各所での電撃戦により8週間でソ連赤軍に止めを刺すのが作戦の骨子だった。
 攻撃開始日が6月12日とされたのは、1941年の攻勢日から選ばれたからだった。
 また同時に、シベリアでは日本軍が大規模な攻勢を仕掛ける事にもなっていた。
 なお、この攻勢の少し前に、一つの事件が露見した。
 スモレンスクに近いカティンの森で、ポーランド将校数千名(※最終集計結果は約2万人)の虐殺死体が発見されたのだ。この結果をドイツは国際社会に対して大々的に公表し、ソ連が如何に無法国家であるかをアピールした。この確認は、中立国だったアメリカ、スイス、スウェーデン、さらには国際赤十字の調査団も行い、ドイツの告発がねつ造ではないことが証明され、ソ連の評価は連合国、アメリカの間でも急落した。
 ソ連の凋落を現すような事件といえるだろう。

 「オペラツィオーン・ヴォルケン」の発動までに、ドイツ軍は再び北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団の三つに再編成されていた。編成の基本はバルバロッサの頃に近く、それぞれの軍集団に装甲軍が属していた。以前との違いは、多数の同盟軍と武装SSが師団単位で増えた事だった。また、全ての自動車化師団が士気高揚を目的として「装甲擲弾兵師団」に変更されたのも、この作戦の前の事だった。
 師団総数は200個を数え、総兵力は400万人を越えていた。
 これに対してソ連赤軍は、根こそぎ動員を実施しても20個軍を既に切っており、兵力数もどう数えても300万人に満たなかった。このうち9割近くがヨーロッパ方面に配備されていたが、戦力価値は枢軸側の半分以下だと判定されていた。
 開戦以来続く膨大な損害により、熟練兵はほとんど姿を消した。また戦闘の中で育った兵士たちも既に多くが姿を消し、兵士も適齢となる20〜25才の年齢の者はほぼ皆無となっていたからだ。ソ連軍が国家の兵力供給量を過信して、兵士を無駄遣いしすぎた為でもあるが、多くの国土を失った事も大きく影響していた。
 しかも動員された兵士の練度はさらに低くなり、構成年代も10代後半の子供と中年ばかりで、将校、下士官の数もさらに数を減らし、複雑な作戦は既に不可能だった。しかも歩兵に渡すべき小銃、弾薬は、1941年のモスクワ前面での戦いのように不足していた。度重なる疎開や枢軸側の爆撃、物資の不足、労働者の不足など数多くのマイナス要因のため、既に円滑な兵器生産がままならなくなっていたのだ。
 ソ連軍の頼みは、住民根こそぎ動員による人海戦術で構築された強固な陣地と重機関銃で、砲弾の不足のためロシア伝統の砲兵もアテにはならなかった。「スターリンのオルガン」とドイツ軍に恐れられている簡易ロケット砲も、既に十分な数が揃えられなくなっていた。
 当然と言うべきか、赤軍兵士の士気は概ね低かった。中央アジアやモンゴル辺境から無理矢理連れて来られた兵士など、最初から士気を期待する事すら難しかった。
 救世主だった筈の「T-34」戦車の量産は、ウラル山脈など各所で懸命に続けられていたが、既にドイツ軍は十分対向可能な戦車を投入し始めており、圧倒的性能を持つ新型戦車の投入までもが噂されていた。しかも機械的信頼性の低下、潤滑油、燃料の不足などにより、稼働率も大きく落ちていた。今まででも1週間の寿命と言われていたが、既に3日持てば運がいいと言われる有様だった。兵士の命も同様だ。
 空軍の戦力比は、数の上では何とか互角を保っていたが、RDF(ラダール)の有無、無線機材の差、運用能力、練度、全ての面で赤軍側が下回っているのが現状だった。航空機撃墜率は、もはや冗談のレベルに陥りつつある。ガソリン不足、時間不足でパイロットの訓練がままならないからだ。
 空軍はもはやただの的(まと)でしかなかった。ドイツ軍から「ペスト」と嫌われた地上襲撃機も、ソ連側に制空権が無ければフォッケウルフの餌食に過ぎなかった。
 そして全てを合わせた戦力比較では、枢軸陣営は攻撃者三倍の舷側を十分に満たしていると見られていた。
 しかもシベリアと中央アジア北部では、日本軍も「一号作戦」という作戦名の同時攻勢を企図していた。ソ連としては、国民の士気の面を考えるとこちらも完全に無視するというわけにもいかなかった。特に日本軍の長距離爆撃機は厄介であり、嫌がらせレベルではあったが、西シベリアどころかウラル山脈南部にまで出没するようになっていた。カスピ海のドイツ軍占領地やペルシャ側には、日本海軍の大量の飛行艇、水上機部隊も進出しているのが確認されていた。このうち最大級の飛行艇が、アストラハンとサハリン北端から飛び立った場合、驚くべき事にソ連領全てが丸見えだった。そして高射砲すら既に不足するソ連軍に、残る領土の全ての空を守ることは不可能だった。
 シベリアで日本軍と対峙している軍は、もはや足止めのためのものでしかなかった。

 そして枢軸陣営の総攻撃を前にして、ソ連指導部では講和か徹底抗戦かが議論されていた。同時期大西洋では、日本海軍が大暴れして北大西洋を封鎖し、イギリス本土が完全に孤立しつつあった。さらに、枢軸主要三国の首脳がエジプトのカイロに集まるという情報も、すでに複数から入手していた。
 誰もが、戦争がそろそろ潮時だと考えていたのだ。
 しかし今や猜疑心の固まりとなった独裁者スターリン書記長は、ファシストとの妥協は全くあり得ないと頑なだった。ソ連政権内にも、ナチス政権下のドイツが、戦後にロシア人の大地を返すわけがないと言う意見も多く、枢軸軍が嫌気がさすまで領土深く引きずり込んで戦い続けるという意見が多数派だった。一方赤軍内では、一部の人々がロシアそのものが滅びる前に共産党と独裁者を排除し、一日も早く講和しなければならないと考えていた。加えて、兵士や国民の士気と現体制への不満や不安については、もはや問うまでもないという状況だ。
 こうしたロシア人の中での不和を、ドイツの諜報組織はある程度掴んでいた。疎開の中でソ連の政治中枢に混乱が見られた事と、既に共産党政権を見限った者がドイツと内通していたからだ。またソ連軍人の一部には、何とか戦争を止めようとドイツ軍と独自に接触を持つ者もいた。

 そしてドイツは、ここで一つの思案に立たされる。
 ドイツというよりナチス政権、さらにはアドルフ・ヒトラーの目的の一つが、ロシア共産主義政権の打倒だった。さらに踏み込んで言えば、独裁者ヨシフ・スターリンを抹殺することだった。ヒトラーの著書にある東方植民などは、現実の戦争とその中での混乱を経験した後では、もはや表向きの宣伝文句でしかない。現実問題として、ドイツの消費市場、経済植民地とする程度がドイツの目的だといえる。
 そしてドイツ人の多くは、ロシア人がどこまで後退するのか、恐怖に近い感情を持つ者が多くなっていた。また、主に一般親衛隊がソ連占領地で行っている蛮行といえる過酷な統治に対して、ロシア民衆の反発が徐々に強まりつつあった。このため、極めて弱体化した共産主義政権がロシアの奥地で残ることは、今後のドイツの東方支配のためには都合がよい面が多いと考えられるようになっていた。
 また一方では、ソ連を完全に打倒すれば、イギリスが自ら講和を求めて来るという政治的観測もあった。とはいえイギリスの方は、日本がヨーロッパに大艦隊を派遣しつつあるので、別にソ連とリンクさせる必要がないというのが、この頃のドイツ首脳部の主な見解だった。
 つまり、この時点ではヒトラーの考え通り、共産主義を完全に叩きつぶすまで戦いを続けるのがドイツの方針であった。そして戦いやすくするためにも、ロシア人内での不和は利用するべきだという結論に達し、一般SS(親衛隊)のラインハルト・ハイドリヒSS上級大将が中心となって一つの謀略が実行される。

 かくして、赤軍内のクーデター計画が共産党にリークされ、1943年7月20日を境としてソ連では大規模な逮捕・粛正と内ゲバが発生して大混乱となった。なお、この秘匿暗号名は「ワルキューレ」とされた。
 ドイツ側の作戦は成功し、NKVDが軍内部のクーデター派に対して一斉に検挙、拘束を開始。スターリンは、ベリア長官に対して徹底した事件究明と綱紀粛正を命令。ベリアも、いまだ強固な組織を維持しているNKVD、政治将校を駆使して、軍に対して強権を振るった。
 しかし、これに対して各地で軍人達が反発。疎開により多くの書類が失われている事もあり逮捕や粛正も徹底せず、カウンター・クーデターの当日から混乱が発生。一部では銃撃戦などの戦闘も開始される。そして逮捕や粛正が前線に及ぶと、前線では政治将校、NKVDに対する反発が一気に吹き出すことになる。これに対してソ連中央はさらなる強権を用いようとしたが、政治将校、NKVDの数は既に少なく、かえって火に油を注ぐことになる。
 今まで降り積もった敗北、首都疎開、政府首脳部の誤断に次ぐ誤断など、全てのマイナスがエネルギーとなって一気に噴出したのだ。そして一旦蓋が開くと、スターリンと共産党体制に対する不満や不審が如何に大きいかが表面化する事になる。
 状態としては、1917年のロシア帝国末期によく似ていた。
 各所で共産党と軍が衝突し、民衆の多くは軍の方を支持した。
 多くの民衆が、これ以上共産党が政権を握り続けば、ロシアが滅亡してしまうと考えるようになっていたのだ。
 開戦から丸二年に渡る敗北の連続が、この状況をもたらしたのだ。
 そしてソ連が中央も前線も大混乱しているところに、枢軸軍の総攻撃が開始される。

 前線での戦闘の多くは、もはや一方的だった。それどころか、もはや戦闘ですらない場所も数多く見られた。
 各地の枢軸軍の一番の敵は広大なロシアの大地であり、極東の日本軍ですらシベリアの大地をバイカル湖目指して気軽に突進していた。
 東部戦線の各ドイツ軍部隊は、もはや友軍との進撃を競い合う事が目的のような状態だった。一部を除いて柔軟性を失ったままの赤軍が、中央からの命令がとどかないまま無秩序に戦い、撃破され、包囲され、そして徹底抗戦することもなく呆気なく降伏していった。発生した銃火が、赤軍兵が政治将校を射殺しただけ、NKVD幹部や共産党幹部が自殺しただけ、という戦場は今まで以上に頻繁に見られた。そうした情景は、第一世界大戦末期のロシア戦線の焼き直しのような光景だった。
 また中央の命令が円滑に届かなくなり、同時に前線の状況を中央が知ることも難しくなると、まともにドイツ軍と戦おうとしている部隊や組織の行動も後手後手にまわり、各所で簡単に撃破、分断、包囲されていった。
 またドイツ軍の戦列では、イギリス空軍の爆撃低下により生産効率の上がった工場から、出荷されたばかりの最新鋭の「V号戦車(パンター)」「VI号戦車(ティーゲル)」が戦闘参加し、両者共に技術的な問題を抱えながらも持ち前の大火力でなけなしの「T-34」戦車を餌食にしていた。突撃砲と言われた新型の自走砲も、本来は防御用の兵器ながら侵攻作戦でも効果は十分だった。新たに長砲身を備えた「IV号戦車」も、何とか「T-34戦車」に後れをとらなくなっていた。そうした戦車の戦いも、もはやドイツの勝利の一場面でしかなく、全ての面でドイツ軍が優位に立っていた。敵を呑むという言葉が相応しい状況だった。

 作戦開始二週間後の6月28日には、ソ連政府がまたも逃げ出したクィビシェフは、マンシュタイン将軍(作戦中に元帥に昇進)の手によって呆気なく陥落した。ゴーリキーなどボルガ川までの大都市も次々に包囲、降伏していき、ドイツ軍は二年前と同様に僅か4週間で600キロも前進した。
 アルハンゲリスク、カザン、クイビシェフ、ウラリスク、ウラル川西岸、これが7月までにドイツ軍が進んだ場所となる。
 あまりの勝利の連続に、勲章の価値が下がってきていると言われるほどの勝利だった。当初、倍の8週間の作戦期間を予定していたため、今までの教訓を活かして今回十分に準備したと思われていた補給部隊も息切れしてしまっていた。それでも、補給が行われた第二弾の進撃が行われる8月中頃までには、ドイツ全軍がウラル山脈の東側に到達する予定だった。加えて、今回の夏季攻勢で包囲殲滅もしくは撃破したソ連赤軍は120万。最早、ソ連赤軍は組織として瓦解寸前だった。
 なお、本来のロシア人なら、民族存亡の危機として決死の反撃をしてもおかしくないのだが、ボルガ川辺りより東の土地は、多くのロシア人にとってロシアとは言い難い場所だった。多くが、半世紀、長くてもここ一世紀ほどの間に開かれた土地が多く、その上戦っている人の半数近くの故郷はドイツ軍占領下にあった。残りの兵士のさらに半分は、中央アジアやシベリア出身の有色人種で、忠誠心や決死の覚悟など最初からあるわけがなかった。
 加えて、ソ連にもはや勝ち目が無いことは、末端の兵士にとっても明らかになっていた。そこに来ての、クーデター未遂事件による軍と共産党の内乱状態だ。誰もが、もはやソ連という人工国家に絶望していたのだ。中には、ソ連共産党指導体制の揺らぎを利用して、民族自決を計る動きも再び活発化していた。枢軸軍に協力を申し出る者も多数いた。
 こうしたロシア人側の動きが、戦闘を一方的展開としたのだった。
 そしてドイツ軍の進撃は続き、予定より若干早い8月9日にはウラル山脈の東側へと到達。そこより向こうは、アジアもしくはシベリアだった。シベリアでも、日本軍がイルクーツクに入っていた。日本の場合は、地形的な問題もあってドイツ軍より進撃は楽では無かったが、抵抗が弱かった事、日本人達が蒙古側からバイカル湖を目指す別働隊を用いたこともあり、所定の時期までにバイカル湖に到達することが出来ていた。

 ソ連という人工国家が内と外から崩壊しつつある中でも、独裁者スターリンは最高権力の座にしがみつき、無茶な命令を出し続けていた。
 6月の攻勢開始の時点で、首都はウラル山脈の東側にあるチェリャビンスクに暫定的に移され、さらにシベリア奥地に逃れる準備も既に始められた。実際7月には、オムスクへと下がった。さらなる工場の疎開も平行して行われ、この頃既に最後の首都はある程度の重工業が存在するノボシビルスクになるだろうと言われていた。
 しかし度重なる敗戦と今回のクーデター未遂事件で、赤軍は半ば崩壊していた。兵隊の数は、数だけは取りあえず150万人近くがいたが、半数が30歳以上の老年兵だった。こちらも数を大きく減じた政治将校やNKVDに無理矢理戦わされているだけなので、士気が高いはずもなかった。兵器生産も大きく落ち込んでいるため、武器どころか軍服すらまともになかった。文字通り、「労働者の軍隊」だった。
 それでもスターリンは、宿敵ヒトラーに屈する気は全くなく、全軍死守とファシスト軍の殲滅を命じ続けた。この命令を、もはやスターリンに従う以外自らの生存の見込みがない生き残りの政治将校やNKVDが実行しているというのが、1943年夏以後のソ連という国家であり、赤軍という軍事組織の実態だった。こんな状態で政府や組織、そして軍が維持されていることを、いっそ誉めるべき状態と言えるだろう。

 そうして困り始めたのが、枢軸各国だった。
 既にソ連共産主義体制との戦争には、実質的な決着が付いた。誰もが納得する状況であり、物理的には間違いない事実なのだが、ソ連は崩壊せず、降伏もせず、スターリンは権力の座に居続けた。ソ連という組織と共産党、赤軍という軍隊も、取りあえず機能していた。ドイツの側も、国家元首はスターリンの首を求め続けていたので、戦いを止めたくても止められなかった。
 そして枢軸諸国にとって、ソ連という国土は途方もなく広かった。
 1943年8月時点で、西はウラル山脈一帯、東はバイカル湖近辺が枢軸側の占領下となった。しかしまだ、西シベリア、中央アジアのほぼ全てがソ連領として健在だった。そして分離独立の気配が見える中央アジア地域はともかく、西シベリアはソ連の支配が維持されていた。残されたのは夏は湿地、冬は氷原という不毛の大地ばかりで、抵抗力は知れていたが、だからと言って攻め込みたい場所でもなかった。
 そして枢軸側には、短期間でこれらの地域を占領することは物理的に不可能だった。占領するにはソ連が自ら講和を求めてくるか、ソ連、赤軍という二つの組織が瓦解するしかないのだが、もはや殻に籠もったカタツムリのような状態なので、取りあえず自らの軍を進める以外手だてがなかった。
 この時点で、赤軍のクーデター計画を潰すんじゃなかったと、ヒムラーSS長官が後悔したと言われるほどの状況だった。
 だが、それでもソ連が、軍事的抵抗力を無くした事は、世界に様々な波紋を投げかけようとしていた。
 そして、戦争を終わりに導く大きな道標となっていく事になる。


フェイズ24「決戦前夜」