■エピローグ「ザ・ディ・アフター」

 ソ連と枢軸国との戦いは、1944年5月8日にソビエト連邦ロシアの滅亡という形で終わりを告げた。社会主義、共産主義による人工国家の、哀れな終末だった。
 その間ソ連と枢軸各国は、相応の損害と犠牲、そして戦費を積み上げ、ヨシフ・スターリンという独裁者が消えることでようやく終息を見ることになる。とはいえ、スターリンの死体は最後まで確認されなかった。このためシベリアや中央アジアの奥地で生存しているという説が蔓延り続け、その後も共産主義者の残党を中心とした政治問題を残すことになる。
 しかしそれでも戦争はようやく終わりを告げることになる。

 かくして、世界大戦は本当の終わりを告げることになったのだが、一つの事件が終わったに過ぎず、次なる問題は早くも頭をもたげていた。
 ニューヨーク講和会議とその後続いたフィラデルフィア会議は、1944年1月には全て終了した。その間クリスマスがキリスト教世界各地で盛大に祝われ、さらにソ連が滅亡した5月8日にも枢軸諸国の間で戦勝と終戦が盛大に祝われた。
 とにかく未曾有の戦争が終わったことを人々は喜んだのだ。
 ただし、冷静になって世界を見渡してみると、戦争と会議の結果、世界の色が塗り代わっただけというのが大方の印象だった。
 戦前世界を震撼させていた共産主義国家のソ連は化けの皮が剥がされ、共産主義には歴史上終止符が打たれたが、全体主義(ファシズム)と国家社会主義がイギリスなど一部を除くヨーロッパを覆い尽くした。
 イギリスは世界帝国の座から転落して英連邦は半壊したが、代わりに疑似軍国化が進んでいた日本を中心とするアジア陣営が構成された。
 日本が参加を募った「亜細亜会議」は、昭和19年(1944年)4月6日〜4月10日に東京で行なわれた。会議では、重光葵が中心となって「アジア諸民族が共存共栄を図る」という一大スローガンが理想として掲げられた。
 しかし参加国の中で安全保障を提供できるのは日本一国だけであり、日本の都合によって動く以外の選択肢に乏しかった。
 会議には西はイラン、一部のアラブ諸国からインドを経て東は満州国に至るまで、先の戦争で独立したかイギリスなどヨーロッパの支配から抜け出したばかりの国々が参加していた。日本から自治を返還される事になった朝鮮代表の姿もあった。しかしアジアの大国である中華民国は参加せず、英連邦に属しているオセアニア地域からの参加もほとんどない。当然だがイギリスの姿もなかった。インドシナ、中東地域を有するフランスは、日本政府に会議の開催延期もしくは中止を求めていたほどだった。会議にはオブザーバーとしてドイツ代表の姿があったが、ドイツ国内とりわけナチス党内、一般親衛隊内では、有色人種の独立国家の集まりである会議には反発があった。
 一方で、アメリカから独立したばかりのフィリピンの姿が異彩を放った。また秋の大統領選挙に向けて盛り上がりつつあったアメリカ政府自身も、亜細亜会議の理念に対して少なくとも表向きは賛同を示していた。
 アジア会議は、俄に「持てる国」となった日本の自立を目指す行動の一つなのは間違いなかった。しかし日本には、組織をどこに導いて行くのかという点での具体性に欠け、日本という国家そのものもまだ本当の重工業国として足りないものが多く、枢軸陣営の一角として見なければアジア会議に参加した国々の集まりは弱小な新興国連合でしかなかった。
 とはいえ、他の国々、陣営が強固だったわけではない。

 ヨーロッパの過半はドイツを中心にした一大帝国と化したが、強引な領土、民族政策、ドイツ一国主義が元々自立心の強いヨーロッパ各国、各民族の反発を呼び込んでおり、ドイツ自身は域内の統治に全力を注がなければならない状態だった。さらに言えば、1944年春までは、ソ連との戦いも継続していた。
 また、日本とドイツ、そしてソ連にとっての問題となったのが、完全崩壊したソ連領内の軍事占領だった。
 占領地については、基本的に境界線を決めて、ヨーロッパ(ドイツ)と日本による分割占領とされ、モスクワにはモーデル元帥を総司令官、ハイドリヒSS元帥を副司令官とする占領軍総司令部が設置された。
 そして占領軍総司令部を中心にして、戦後のロシアをどうするかについて議論されたのだが、多くの点で議論が噛み合わなかった。共産主義者の徹底した駆逐、更正に関しては全員一致を見たが、ユダヤ人を始めとする人種問題では日本が首を縦に振ることを渋った。全てのユダヤ人を収容所に収監するというドイツ一般SSが提示した案が、余りにも常軌を逸脱していたからだ。また、ドイツのヨーロッパ・ロシアの統治方法についても、日本人の常識を通り越えていた。
 一方のドイツ側は、日本人の考えが古い帝国主義に縛られ、またロシア人に対して甘すぎると考えていた。戦争を戦い抜いた戦友と言うことで、日本人に対して人種的な問題を口にするドイツ人は戦争中に激減していたが、全ての溝が埋められる間柄では無いことも理解された。
 結局、バルト三国の独立復帰、ロシアが周辺国から奪った領土の返還、12の共和国の完全解体と独立、旧ポーランド領の民族管区の設置などで旧ソ連の解体を進め、それ以外の地域では軍政を実施しつつ議論を重ねるという方向に落ち着いた。
 ドイツ、日本による旧ソ連領の領土割譲については当面の議題とされ、それぞれの国が軍事占領の中で既成事実の積み上げを行った。また、周辺国が少しでもかすめ取る行動を強め、イタリアも主に黒海方面での領土割譲に強い意欲を見せていた。
 しかし枢軸諸国によるロシア占領と分割に向けた動きが、バラ色の未来だったわけではない。
 ドイツというよりヒトラーとナチスの目指した「生存圏」「東方植民」の達成のため、ロシア人(スラブ民族)は多くの犠牲を強いられることになる。ロシア正教を復活させたからと言っても、全てを受け入れられるはずもなかった。共産主義政権が滅びてロシア住民の脅威で無くなると、徐々にドイツに対する反発が強まるようになっていく。そして地上の6分の1を占める旧ソ連領の軍事統治には異常な程の経費と手間がかかり、枢軸国の全てが旧ソ連領に係り切りになることを余儀なくされた。バイカル湖以東を軍事占領した日本は、人口密度の点から多少マシだったが、当時の日本の国力と比較して統治は容易くなかった。

 そして枢軸諸国は、旧ソ連領を中心とした占領統治の中で外交的余裕を失い、枢軸諸国から見て理想論的な事ばかり言ってくるアメリカは非常に不愉快な存在だった。しかも、戦後世界経済がある程度通常状態に戻ると、アメリカの経済力は枢軸諸国の経済を圧迫し始めていた。このため枢軸諸国の結束は、ドイツ、日本の思惑によって強まる方向に進んでいく。
 せっかく手に入れたものを、アメリカにかすめ取られないようにするためだ。
 枢軸諸国の一部で議論された、アメリカを軍事的に屈服させるという考えも、自らの経済状態、政治状態、さらには二つの大洋を挟むという地理環境から考えると、夢物語である事ぐらい誰もが理解していた。
 そうした中で、取りあえず解決できる問題から、枢軸諸国は対処していく事になる。
 まずは、自らの国際的政治機構の編成だった。
 これは日本が「亜細亜会議」によって一歩リードしていたが、ドイツもヨーロッパの再編成を急ぎ、1948年にウィーンに本部を置いた「欧州枢軸連合(EAU)」という国際組織を作り上げる。そして「亜細亜会議」と「EAU」の二つを軸として、「ユーラシア条約機構(UATO)」を編成。そして何度か行われた亜細亜会議の結果、1951年に「アジア連合」が成立することでアジアとヨーロッパの棲み分けと連携の形が明確になる。
 これをアメリカは、「アクシス・ビック・デュオ」と呼んだ。
 一方、枢軸諸国から爪弾きにされたイギリス、アメリカだが、こちらも現実を見据えつつ独自の歩みを進めるしかなかった。
 戦後のイギリスは、インドを始めアジアの全ての植民地、地中海地域を完全に喪失して、国家経済が立ち行かなくなっていた。莫大な戦費による天文学的な負債もあり、国家としては破産寸前だった。状況としては、ソ連の次に悪いと言うことになる。このため、経済的にアメリカへの依存を高めざるを得なかった。これは、枢軸の魔の手から逃れた英連邦諸国も同様であり、五大連邦のカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの全てが、アメリカへの依存を強めざるを得なかった。そして英連邦のさらなる解体は進み、上記した国々は完全独立し、さらには隣国のアイルランドも完全独立した。しかしイギリスの政治力は依然として高く、何とか英連邦を維持しつつアメリカとの外交的接近が行われた。
 そしてイギリスが経済的に頼ったアメリカだが、国民は世界と関わることに対して依然として消極的だった。このため政府は国民への説得に力を入れ、海外市場の欲しい産業界の後ろ盾を得る形で外交に力をいれるようになる。このためアメリカの歩みはやや遅かったのだが、依然として広大な勢力圏を維持しているイギリスとの関係強化を行っていった。
 この結果が1958年に成立する「大西洋条約機構(AOTO)」であり、巨大なアングロ同盟の成立だった。参加国も英連邦諸国と一部中南米諸国が参加する巨大組織となった。またこの組織には、戦後も日本との不仲が続き、ヨーロッパ諸国との関係も悪化した中華民国が急速に接近していた。
 そうした中で、1950年に旧ソ連がロシア共和国という形で主権を回復する。しかし旧ソ連領時代の3分の2程度の領土しか認められず、多くの領土をドイツと日本に割譲されていた。しかも戦争と戦後統治により人口も激減し、枢軸諸国の占領政策によって各種産業も衰退。その後のロシアは、かつてヒトラーが望んだ通りに、遅れた農業国、資源輸出国に落ちぶれる事になる。また、新たにドイツ領とされたヨーロッパ・ロシア地域は、その後ヨーロッパからの移民地域とされ、大戦前のアメリカに代わりヨーロッパ移民の流れる場所となる。このためヨーロッパ移民の流れた地域での産業振興と開発は徐々に進み、特にウクライナなど肥沃で人口の多い地域は、急速にヨーロッパ化してロシア色が薄れて行くことになる。
 このヨーロッパでの人の動きに最も影響を受けたのは、結果としてアメリカとなった。
 ヨーロッパからの移民が大幅に減少したため、人口増加が極端に低下したからだ。終戦から以後十年の間に流れてきた主な移民は、数百万といわれる財産を失ったユダヤ人ばかりだった。白人の姿は、ドイツが強く規制した事もあって殆どなくなってしまった。そして人口増加と、ヨーロッパ市場、日本市場(アジア市場)との断絶によってアメリカ経済の低迷は続き、1920年代に異常なほど膨張していた工業力は、その潜在力を発揮しないまま徐々にさび付いていく事になる。
 当然というべきか、アメリカがかつて示した大量消費社会の再来及び拡大は望むべくもなかった。戦後のアメリカ経済は、表向きは英連邦を飲み込み、中華民国に市場進出して拡大していたが、実際は英連邦と中華民国で食いつないでいるに過ぎなかった。英連邦諸国はどこも人口が少なく、中華民国は長い間国民が貧しすぎ民度も低いため、市場としてはアフリカ南部よりマシという程度でしかなかったからだ。しかも中華民国に対しては、何かにつけて日本が邪魔をして圧力をかけてきていた。

 そして国際陣営として最も経済的な規模が小さくなった日本だが、その後結局はドイツ(ヨーロッパ)の風下として長らく過ごさねばならなかった。アメリカが中華民国への進出を強めたため、この流れは止めようがなかった。日本一国では、アメリカの国力、経済力に到底太刀打ちできないことぐらい誰でも理解していた。アメリカの豊かさは長い間日本人の憧れだったのだから、理解できない訳がなかった。
 産業の中核とされる重工業、先端産業で日本は依然として劣っており、何とか太刀打ちできるようになるまでに、さらに四半世紀の歳月が必要だった。しかし皮肉な事に、1970年頃までの日本のヨーロッパ連合、アングロ連合に対する劣勢が、ユーラシア条約機構という枢軸諸国の関係を継続する事になる。
 そしてその後、日本がようやく一定の経済成長を成し遂げると、その頃には低迷が目立ち始めたヨーロッパが、アングロ連合に押し切られないため、逆にヨーロッパが日本(日本圏)に頼る構図が出来上がる。もっとも、1980年代頃から高度経済成長を開始した中華民国とも日本は対立を深めたため、日本に大きな余裕が出来ることはなかった。

 こうして、ドイツ=日本枢軸、アングロ=中華連合という対立構造が年々明確になり、一般的には全体主義と自由主義の対立として、主にアメリカで語られていく事になる。
 そして、政治的に全体主義と自由主義の対立という分かりやすい構図は、ナチス政権が続いたドイツ及びヨーロッパ世界にとっては、とりわけ都合がよかった。しかし国力と経済の求めがなければ、現代にまで至る枢軸の連携、日本とドイツの連携はあり得なかっただろう。




あとがきのようなもの