●開国と戦乱

 日本は田沼時代の末期に限定的開国に転向。清との貿易も活発化させ、その中で少しずつイギリスとの取引も増えていった。しかし天下太平にあった江戸幕府は、開国後の商業活動にこそ熱心だったが、脅威が少ないため軍事は疎かなまま過ごす。また開国当初の外国が、これまでの清、オランダ、朝鮮、琉球以外にロシアが加わったぐらいだったので、あまり変化はなかった。ユーラシア大陸の東端部は、ヨーロッパから遠すぎたからだ。
 その後19世紀に入り文化文政の時代になると、イギリスがこれに加わってきた。イギリスは工業化を先駆けて行い世界各地に植民地や市場を持つ既に世界一の大国であり、アジアに入ってきた時も武力を平然と用意していた。
 そして当時世界帝国へと邁進していたイギリスにとって、東洋における日本の価値が次第に重視されるようになる。
 日本は、比較的小さな島々に人口が密集して多く住んでいた。加えて、前近代的に開発が進んでいたため、市場としても有望だった。さらに北太平洋でアジアとノースアメリカを結ぶ場所に位置し、最大の市場チャイナに隣接していた。しかも日本自体は、独自の文化は進んでいるようだが近代的な軍事力はチャイナ以下だった。開国して帆船を模倣して作るようになっていたが、産業革命には遙かに遠くにあった。国土全体も島国で大陸とは接しておらず、東アジア地域の橋頭堡として打って付けだった。しかも領域もチャイナほど大きくはなく、征服するには手頃な大きさに思えた。
 そしてイギリスは、日本を籠絡するべく自国の優れた工業製品、砂糖などの嗜好品をどんどん輸出し、日本の金をはぎ取るような貿易を行おうとした。もっとも日本国内の手工業は意外に手強く、また日本で製造される珍しい物産の輸入も多くなり、思ったほど日本との貿易は利益にならなかった。利益が出ているのは、最初に結んだ通商条約を相手の無知から不平等条約としていたからだった。当然ながら日本側の不満は、日を追うごとに高まっていた。しかも日本人は、イギリスが積極的に交易するようになった頃には自力で近代化を始めている始末だった。軍事力も少しずつだが、近代的な装備を持ち始めている。中央政府(幕府)の動きは相変わらず緩慢だったが、地方政府のごく一部では革新的な動きも見られた。
 しかも日本は、海外と船でつながりを持つようになると、アジア各地さらには北米にまで移民が出始めるようになっていた。特に北米西岸は、現時点でメキシコのスペイン人排除によって無人地帯に近い状態だった。また移民が出るようになったのは、日本国内での人口が長らく飽和状態手前をギリギリで維持しているからだと分かった。しかしイギリスにとっては、新天地で奴隷や低賃金労働者以外で有色人種が増えすぎるのは好ましくなかった。
 有色人種の繁栄をこのまま黙って見ているべきではない。そろそろ日本にガツンといくべきだろうか。
 そんな事をイギリスが考えていた頃、一つの事件が起きる。
 「阿片戦争」だ。この戦争でチャイナ(清朝)は、海では惨敗したが陸では激しい抵抗を見せ、イギリスからの侵略を最低限のものとした。またイギリスが南京に艦隊を派遣すると、ここでチャイナが徹底抗戦の気配を見せたため双方で停戦が成立。イギリスにとって満足のいく結果は得られなかった。とにかくチャイナは大きすぎた。イギリスが完全制覇目前まで来ているインドよりも大きかった。
 これためイギリスは、チャイナをねじ伏せるには近在に強固な橋頭堡が必要だと決断を下す。そしてアジア支配のための強固な橋頭堡の候補地として、日本が注目された。
 しかもイギリスにとって幸いな事に、こしゃくな新大陸人(アメリカ人)はあまり極東及び西太平洋には入ってきていなかった。日本近海での捕鯨が日本の開国に伴って発展し、日本の漁場となっていたからだ。この点だけは、必要以上に勤勉な日本人に感謝すべきだった。
 そしてイギリスは、阿片戦争以後は日本への強引な進出を強化する。釣られてフランスなど他の列強も日本への進出姿勢を強め、俄に日本は西欧列強のホットゾーンとなる。
 特に早期に関税自主権を奪った事と、日本でまだ産業革命が未発達だったため、各国が不平等貿易姿勢を強めると日本経済と産業は徐々にダメージを受けていた。またチャイナ同様に阿片も積極的に輸出され、日本人の身体と経済を蝕んでいった。必然的に日本国内で外国排斥の動きが起きて、幕府もようやく阿片撲滅や軍備増強などの対策を取り始めていた。
 そうした中、1853年に浦賀事件が起きる。
 浦賀に入港していたイギリス国旗を掲げた船が臨検され、日本の幕府役人が阿片密売の海賊だとして逮捕。掲げていたイギリス国旗を引き下ろしてしまったのだ。これに激怒した形でイギリスは、日本(江戸幕府)に宣戦布告。フランスも同調して、日本に宣戦布告した。また一方では、北からはロシアが日本に交渉を持ちかけ、英仏への講和のための仲介の代償として雑居地樺太の譲渡と千島列島の割譲を要求していた。
 「日本戦争」の勃発だった。
 戦闘は一部を除いて一方的であり、江戸湾に連合艦隊が入ることで呆気なく終戦となった。日本側も既に多くの西洋型帆船を保有していたが、蒸気型軍艦をほとんど保有していなかったため、海上での戦闘が一方的なものとなったからだ。
 しかも江戸の街は最後の戦場となり、艦砲射撃と地上部隊の侵攻で壊滅。150万人の人口を数えた当時世界最大の都市は、三日三晩続いた火災で焼け崩れてしまう。あまりの火災に、英仏軍が一度海に逃げ出したほどだった。また焼け残った多くの大名屋敷などが上陸した連合軍将兵に略奪された。そして最悪な事に、火災は江戸城全域にまで延焼。多くの死傷者を出す事となって、江戸城は焼失した。
 江戸壊滅で、幕府は一時的に政府機能が停止して外国との交渉能力まで失ってしまう。こればかりは、侵攻した英仏軍にとっても誤算だった。武器を見せけて相手を脅して必要な物を手に入れるという手法が取りづらくなってしまったからだ。一時英仏は、日本との泥沼の戦いに陥るのではないかと危惧した。しかし幕府は最低限の機能は残していた。また日本の政治上では、今のところ将軍家と将軍を擁する幕府に政治の実権全てが集められており、弱体化したとはいえ彼らこそが英仏の交渉者であった。そして弱り切っていた幕府は、交渉を行う者に欠けていた事もあって、英仏を主力とする連合軍に対して全面降伏を余儀なくされる。また講和会議は半ば廃墟となった江戸での開催が難しいため、日本でのもう一つの政治的重心という事で京で行われる事になった。
 「京条約」とされた講和会議において、幕府は各国への戦費賠償(1000万両)以外に日本全土でのキリスト教布教を公認し、イギリスに長崎の租借を行わせることになる。また函館で行われたロシアとの条約では、約束通り樺太と千島列島をロシアのものとして認めた。だがロシア人は英仏への働きかけが弱かったと幕府及び日本人は判断し、以後ロシア人を信用しなくなる。加えて多くの領土を奪ったとして、江戸を焼き払った英仏よりもロシアを敵視するようになる。英仏、特にイギリスも、ロシアがいかに信用ならないかを熱心に日本人に吹き込んだ。無論自分たちがより多くの利益を得るためであり、ロシアをこれ以上日本に踏み込ませないためだ。
 戦後の日本では、戦争の敗北と江戸壊滅で幕府の権威は完全に失墜した。江戸壊滅により参勤交代も自動消滅した形になり、諸藩も江戸屋敷を再建するような財力を持つ藩はほとんどなかった。また幕府や諸藩の困窮の加速で、大坂の両替商の多くも困窮した。そして以後の大坂商人は、幕府、諸藩、武士を信用しなくなる。そして日本人は、一日も早い安定した新政府を望むようになり、各地の雄藩が日本をなんとかするべく活発な活動を開始する。
 そうした状況を利用するイギリスは、戦争中の上方への進軍の際に京を押さえた形になっていた事もあり、日本での勢力を急速に拡大した。江戸にのみ侵攻したフランスは、逆に幕府に肩入れしてイギリスに対抗。戦後の日本は英仏両者の勢力争いの場となって、日本国内は次なる混乱へと突入した。
 もっとも英仏が日本に傾注したのは理由があった。この頃チャイナでは、阿片戦争後の混乱の影響で「太平天国の乱」が発生。英仏などが日本に力を入れている間に反乱は無軌道に拡大。しかも清王朝にまともな鎮圧能力はなく、混乱に伴い中華の大地は荒廃。これに大規模な疫病が加わって、チャイナの市場価値が激減した。阿片戦争の頃と違って、清王朝は一押しするだけで倒れそうにも見えたほどだ。実際1857年にアロー戦争をしてみたら、清朝は呆気なく敗れ去った。しかもロシアが北からの歩みを進めてしまい、今以上手が出しづらくなっていた。
 つまり当面の市場として、日本に力を入れざるを得なかった。また、チャイナが内乱で混乱状態なままなら助長こそすれ、しばらく放置しておく方が賢明だと判断された。これでしばらくは、チャイナには誰も手出しがしにくいからだ。チャイナに対しては、チャイナが何かを求めてきた時だけできるだけ高値で売りつけてやれば良いと考えられた。
 また日本に対してはロシアもどん欲な姿勢を示しており、尚更日本に対する進出を手抜きするわけにはいかなくなっていた。少なくとも1850年代から60年代にかけての欧州の帝国主義ブーム上では、幾つかの偶然から日本が焦点となっていたのだ。

 日本戦争後も、幕府の権威は落ち続けた。逆に朝廷を押さえたイギリスの勢力は日本国内でも拡大した。イギリスは日本全体の市場化もしくは間接支配が目的なので、中央政府弱体化のため、幕府と雄藩との争いにますます火に油を注いだ。フランスは幕府の無力につけ込んで勢力拡大を画策したが、結局イギリスとの二人三脚で日本全体の力を落としていった。追いつめられた幕府が雄藩と争いを引き起こした挙げ句に強引な戦闘を行って、互いに消耗したからだ。無論日本人も馬鹿ではなかった。外国勢力こそが一番の問題だという事は最初から分かっていた。しかし力の差が圧倒的すぎて、藩の一つや二つでは太刀打ちできないし、幕府は有力者の一部は既に戦争による火災で死んでしまい、残っているのは事なかれ主義の小役人ばかりで対処が後手後手に回り続けた。一方イギリスやフランスは、まずは日本に力を入れると決めた以上、その力の入れ具合は当時の日本では物理的に抵抗が難しかった。特に薩英戦争で、薩摩藩がイギリスの大艦隊に本拠地鹿児島を焼き払われて壊滅した事で加速した。また一藩で諸外国に対抗しようとした長州藩も滅亡寸前まで追いやられた。そしてその後、諸外国の言葉に唯々諾々と従う日本人自身の手によって、改革派をことごとく粛正させて日本全体が骨抜きにされてしまった。そして様々な弾圧は諸外国よりも幕府への怨嗟の声へと、民衆の方向性をねじ曲げてしまう。
 そして自力ではどうしようもなくなって来ると、日本人の中にも英仏への同調者が増加する。特に目先のきく町人・商人は、安定と利益を求めて幕府や各藩を見限っていった。商人にしてみれば、積もり積もった借金を返す気もない奴ら(武士)にこれ以上肩入れすることは、すぐにも自分が倒れることを意味していた。
 そして一つの事象が、日本人の心をさらに動かしていた。それはイギリスが、京と共に天皇を押さえていた点だった。しかも攘夷派の孝明天皇は日本戦争直後に責任を取るとして退位し(※実際は白人から逃げ出した)、新たに即位した幼い天皇はイギリスの傀儡に近い状態に落とされていた。そしてイギリスは天皇を介して、上方を中心になってこれ見よがしに善政を実施。イギリスの優れた文物も積極的に投入して民心を掴む方策に出ていた。天皇(=イギリス)に刃向かえば滅びと過酷な支配が待っているが、従えば今以上の繁栄があるというわけだ。また幕府が力を失って江戸が壊滅した事で、海外貿易が横浜から神戸、大坂が中心となった事も上方を押さえていたイギリスを有利とした。大坂から京に敷設された鉄道が、その象徴となった。
 そして1860年代に入ると、幕府ではなく朝廷の権威が上方での支配権を拡大。何時しか民衆や一部の大名・武士も朝廷を擁するイギリスを次なる幕府(支配者)なのではと思うようにすらなりつつあった。またイギリスも天皇の効力をよく認識して、擁護する姿勢を強く見せるようになった事は国内の尊皇派のかなりを味方につけ、尊皇攘夷を急速に沈静化させる事になる。無論攘夷を否定したのは時の天皇であり、尊皇攘夷はまったく成り立たなくなっていた。
 こうして日本人の間に短期間で誕生したのが「朝廷派」と呼ばれる一派だった。そして京、大坂、長崎などの商業都市を押さえたイギリスの勢力は、もはや抑えられなくなっていた。当時上方を押さえるということは、日本経済と物流の中枢を握るにも等しいからだ。江戸壊滅によりその傾向がますます強まっていたから、尚更だった。そしてイギリスは、日本の流通を握る上方商人と結託してしまっていた。
 一方では、フランスが援助の傍らで無軌道に幕府側に武器を買わせて、幕府は戦争を行う前に事実上の財政破綻、債務不履行(デフォルト)を迎えてしまう。これは江戸幕府に日本の統治能力をさらに低下させると同時に、幕府に多額の貸し出しを行っていた上方商人に大打撃を与えた。そしてこの幕府財政の破綻が、上方商人が幕府を完全に見限る大きな機会となってしまった。そしてイギリスも、日本支配のため当面は日本人商人の優遇を積極的に行い、日本人同士の間でも反目が広まっていく。
 そしてイギリスの強い影響を受けていた朝廷は、1866年に江戸幕府の新たな将軍を認めることはなく、ここに江戸幕府は強制的に終幕した。幕府勢力による自暴自棄とも言える武力による訴えも、イギリス軍を後ろ盾とした朝廷派諸侯軍によって制圧されてしまう。朝廷派諸侯軍は一部の最新兵器以外でたいした軍事力ではなかったのだが、錦の御旗を前に幕府軍は脆かった。そしてイギリスは、天皇に与した諸侯をさらに優遇。新たに日本での権威を朝廷から与えると共に、多額の援助を行って幕府の徹底した解体を行わせる。
 そして朝廷に刃向かったとして幕府勢力は、朝敵として朝廷派諸侯に徹底的に弾圧され、連動して反抗的な藩も弾圧された。天皇を要したイギリス及びイギリスの威を借りた朝廷派諸侯に刃向かう者はいなくなっていた。
 そして日本に統治能力を持つ政治勢力がないと国際社会(イギリス)は判断を下す。そして誰かが、その代わりを行わなくてはならないとされた。
 かくして1868年、イギリスは「日本帝国」の成立を宣言。
 その前年には天皇家とイギリス王室が形の上で姻戚関係を結び、イギリス王室側の最も偉大な親族にあたるビクトリア女王が新たな国家の統治者とされ、天皇家は日本での代理人として置かれる事になった。つまり国際的には日本の統治者はイギリスのビクトリア女王だが、日本国内では天皇が統治者とされた詐欺師的な二重構造だった。この証として、日本には天皇の代理人として総督が実質的な権力を握った。
 また新たな政府は、半ば廃墟となった江戸改め「トキオ(和名:東京)」に建設される事になり、ここに日本列島及び日本民族はイギリスの一角を構成する事が決まる。
 ただし日本は、インド(後のインド帝国)のような完全な植民地とはされなかった。国際法上でイギリスの「保護国」とされたが、最低限の国内自治は保持された状態に置くともされた。政治的扱いは、インドよりは一時期のアイルランドに近い。インドや後のアフリカと同じとされなかったのは、イギリスが欲しかったのは新たな市場であり、またアジアで使うための忠実な兵士の供給先だったからだ。
 加えて日本は、東アジアを征服するための強固な橋頭堡なのであり、必要以上に疲弊やさせる事と内乱や反抗を助長する事はイギリスの利にならないと判断されていた。日本で供給できる物産があるのなら、その産業もある程度は保護するべきだと考えられたほどだ。何しろ日本は島国で孤立した経済圏をうまく形成しているため、その上にイギリスは寄生するばよいだけなので利用価値が高かった。
 また当時イギリスは、インドの統治と完全植民地化で手一杯だった。さらには様々な地域での反乱にも辟易としており、統治機構を持った責任階級のある蛮地での統治は、間接統治が最も相応しいと考えていた。
 そして日本人自身の異常なほどの識字率の高さが、不用意な統治をイギリスに自制させたからでもあった。ちょっとした圧政で、簡単に民族規模の反乱が起きると考えられた。
 加えて日本は、イギリス本国から遠すぎた。
 「ファーイースト」と言う言葉は、揶揄でも何でもなくイギリス人の本音だったのだ。


●英領日本帝国成立