●英領日本帝国成立

 「日本帝国」成立後、日本ではただちに「廃藩置爵」が行われた。大多数が何もしないまま生き残った藩の主家には、新たに天皇(=イギリス)から爵位が贈られた。これにより江戸幕府の権威は完全に姿を消す事になる。そして藩を介したイギリスの間接支配が始まる(※藩主=領内の規模により侯爵から男爵。)ただし、日本の貴族は日本でのみの扱いに限定され、イギリス本国の貴族とは全く別扱いとされた。イギリス人一般からは、ジャパンの小王国の領主としか見られない。天皇家のみ別格で、ひとつの「王家」と考えられた。無論英国王室よりも格は下に置かれている。
 また旧幕府直轄領の「天領」のほとんどは、天皇家を表向きの君主としてイギリス領とされた。そして天皇家の行政府という形で総督府を置いて直接支配された(天領のうち、2割程度は朝廷派諸侯に報償として分配。その他一部のモザイク状態の小さな場所は他の藩に合併されている)。日本総督府は市街の半分以上が火災で焼失した江戸改めトキオに置かれ、半ば更地とされていた場所にイギリス的支配に必要な全てのものが置かれた。整然とした計画都市が設計され、中には壮麗な総督府や国教会大聖堂、迎賓館、多数の役所ばかりでなく、様々な工業生産施設や巨大な港湾施設、イギリス人のための広大な居留地と保養施設、さらには総合大学を頂点とする総合教育施設まで設置され、日本統治の一大センターとして新たに発展していく事になる。また数百年間消費と物流の中心地の一つとなっていたため、日本人も多くが焼け残った地区を中心に戻ってきて大きな市街をいち早く再構成していった。
 都市の再建は急速であり、江戸時代に十分な治水や土地整備が行われていた事を伺わせた。
 またイギリス直轄地とされた場所として、「エゾ・アイランド(蝦夷地)」があった。ロシアへの牽制が第一目的だったが、現地人口が少なかった当地では、より強固なアジアの橋頭堡を作るためにイギリス系の移民が実施される。イースト・プリマス(函館)、ニュー・エドワード(札幌)などの街が建設され、完全なイギリス人の入植地とされた。島のこともイギリス人は「エゾ」と呼ばず、「ファー・イースト・ビクトリア・アイランド(略称:V.ファー)」と呼んだ。出稼ぎ労働者や使用人としての日本人の居住は許され一部では移民も行われたが、現地では日本人よりも少数の原住民アイヌを優遇して、イギリス人への反感を反らす伝統的植民地統治も実施された。このため江戸時代末期には先住民ながら完全な少数派となっていたアイヌが、急速に勢いを盛り返す事になる。またイギリスがアイヌを重用した背景には、アイヌの外見が東洋人よりも自分たちに近かったからだと言われている。実際イギリス人の一部は、アイヌを最も「文明的な先住民族(原始民族)」だと評価した。
 いっぽう江戸時代から日本の影響力が強かった琉球王朝は、英領日本帝国の成立に遅れること数年の1875年にイギリスの保護国となり、そのまま琉球王国として、イギリスの事実上の植民地として長らく存続していくことになる。無論この時清朝が文句を言ったが、太平天国の乱鎮圧のイギリスへの「報償」として認めさせていた。
 また前後して、日本近在の島々の調査と領土化が行われ、西太平洋の多くの島々が次々にイギリス領に編入されていった。
 そうしてイギリス人による日本経営が本格的に始まる。
 日本人を使ったイギリスのための各種社会資本の整備が、急速に行われていった。1880年代中には日本主要部に鉄道が敷設され、各地の鉱山が開かれ、現地人(日本人)の食糧確保のための各種芋類の大量栽培が実施される。商品作物の小麦の栽培も奨励された。そして日本は、イギリスにとっての比較的良好な「市場」と化した。またイギリスは急速な日本統治を重視したが、それには大きな理由があった。
 日本での統治は、イギリス人がインドなどでの経験から予測したよりも、はるかに順調だったからだ。日本国内での統治を、形式上であれ天皇家とした事が効いているのは明らかだった。効力は、支配層とされた武士に置いて特に顕著だった。それまで江戸幕府に仕えていたサムライ達は、天皇に仕えるという形式を重んじて、いち早くイギリス統治下の下級官僚へと姿を変えていた。民衆も奴隷にするまでもなく、それまで通り勤勉に働いた。と言うよりも、イギリスに統治されようが同族に統治されようが、あまり気にしなかったと言うべきだろう。それまでの日本人商人の多くがイギリスにより徐々に没落を余儀なくされたが、一部はしぶとく生き残っていた。だがそれも、イギリスが日本の経済コントロールでは彼らが必要だったからだ。非常に組織化されているたので、日本経営にはかえって日本商人は必要な存在だった。すべては、江戸幕府という緩やかな統治機構が二百年以上続いていた事の遺産であり、イギリスはその上に天皇を介して乗っかっておけばよかったのだ。権威に弱い日本人には、天皇という存在は非常に有効だった。
 また日本人の宗教観は、世界的に見ても緩やかなものだった。キリスト教(国教会)への改宗こそ多くはなかったが、自分たちの宗教で団結して大規模な反乱を起こすような事はほとんどなかった。少なくとも大規模な宗教反乱はまったくなかった。イスラムやヒンズーのように食べ物のタブーがないのも有り難かった。イギリスも、政治が絡まない限り必要以上に原住民の宗教を弾圧しなかった。
 一方イギリス人から見て、日本の伝統工芸や美術・芸能は、物珍しさから存続価値のあるものが多く、前近代文明として熟成されていた日本の全てを自分たちの色に塗り替えてしまう事は惜しまれた。故に伝統産業や芸術・芸能の一部は、逆にイギリスの手によって保護され、近代的産業は一部を除いてイギリス人が牛耳る形が作られた。また利益と共に面倒もつきまとう言葉や文化面でのイギリス化政策も程度問題とされ、日本人が開いていた私塾(寺子屋)も余程反抗的でない限りそのままとした。各爵領(各藩)が行っている教育も、反英的でない限りは許された。むしろ英語教育が奨励されたぐらいだった。
 幕末時、既に四割に達していた日本人の識字率は、消費者、労働力として有望である事を示し、維持する方がイギリスの利益になると考えられたからだ。本来なら無学化政策を行うべきなのだが、既にあまりにも高い識字率だったため、逆に利用する事の方が利益が大きいと判断されたためだ。
 またイギリスにとって日本は、新たな植民地であると同時に、チャイナを始め東アジア進出のための拠点であった。そのため過度の極端な「市場化」による搾取や圧政は限定的なものにとどめ、日本人を自らの侵略の先兵に仕立て上げることも重要と考えられていた。一方では、必要以上に豊かにしてもいけなかった。そして何より武士という戦闘階級が存在した日本人は、外国人兵士として有望と考えられ、しかもグルガより遙かに沢山存在していた。
 日本人は一般階層の識字率や教育レベルが高い割には組織に対して従順であり、また勤勉でもあるため、労働者としてまた兵士としての価値も高いと判断された。故に安易に奴隷や農奴などにするのが惜しまれ、人身売買はほとんど組織化される事はなく、社会の底辺に対する程度問題のまま推移した。
 なお日本統治で一番の問題とされたのは、イギリス人に向かう反感を逸らすための優遇すべき少数派が民族や勢力としてほとんどいないという点だった。せいぜいが、日本占領で活用された朝廷派の諸侯以下の日本人ぐらいだった。しかもイギリスに反抗的な日本人の方が今のところ圧倒的な少数派だった。
 さらには、懐柔した従順派を盾に使おうと考えていたイギリス人の計画は、最初から機能しなかった。何しろ朝廷派の多くは改革の混乱の中で勝手に没落して、今自分たちの下でせっせと働いているのは、むしろ旧幕府の生真面目なサムライ達だった。サムライ達は戦士としてよりも、官僚として優秀だった。ロクに賄賂を取らずに勤勉に働くなど、不気味なぐらいだった。
 そこでイギリスは、当初の方針を一部変更する。強権ばかり用いる支配よりも、ある程度アメを見せる支配の方が日本に限り有効だと判断されるようになったのだ。またそれ故に天皇家の扱いには慎重にならざるを得ず、順次廃位しようとした考えは早期に破棄されていた。強権支配に必要な治安維持コストよりも、懐柔支配上でのコストの方が遙かに安上がりだったからだ。

 そしていち早く日本を再編成したイギリスは、いよいよ東アジア全体の植民地化を始める。フランスでは、普仏戦争での敗北でナポレオン三世が失脚していた。ロシアは、いまだ政治や産業の近代化をなしていなかった。隆盛著しいドイツは、まだまだアジアには手が届きそうにない。憎たらしい新大陸人も、まだ太平洋のこちら側には本格的に至っていない。今こそ、東アジア及び太平洋の支配権を握るチャンスだったのだ。
 そして日本人の再編成と平行して、日本人によるアジアでの軍事力の編成も急がれた。早くも1870年代初期には、日本人志願兵によるイギリス軍日本連隊が日本各地で編成され、太平天国の乱鎮圧で実戦を経験するに至る(※ただし将校はイギリス人。日本人は下士官まで)。
 これ以後イギリス軍所属の日本兵部隊(英日軍(ブリティッシュ・ジャパン・アーミー=BJA))は世界各地で活躍を繰り広げ、軍隊規模は徐々に拡大。1870年代後半に起きた日本国内での大規模な反乱でも大きな活躍を示し、イギリス人にグルガを凌ぐ兵士だと認識され、以後植民地侵略の先兵となっていく。特に予定通り行われたチャイナ進出での活躍はめざましく、長らく続いた太平天国の乱で疲弊しきっていたチャイナの半植民地化に大きな役割を果たした。チャイナでは多数の兵士が必要となったが、失業した武士が多数いたため日本人志願者にはまったく不足しなかった。しかも日本兵達は、自領の名誉のために戦うと自らを定義して非常に勇敢で忠実だった。また真面目で盗みもしないという評判が広がると、後に使用人として多くが求められるようになっていくようになる。
 1874年の太平天国の乱鎮圧時までに、上海租界、香港の多くの地域に加えてチャイナから化外の地とされていたフォルモサ(台湾島)、海南島の獲得にすら成功した(同時期仏がインドシナを獲得)。なおインド帝国に続くチベットの支配権拡大も行われて、青海も完全な勢力圏に納めることができた。ただしこちらは、日本兵活用で余裕の出たグルガ兵が活用された。
 イギリスによる日本支配は、完全な成功を持って幕を開けたと言えよう。



●イギリス内の日本人