●イギリス内の日本人

 イギリスによる日本支配は、日本内部でも様々な変化と動きが起きていた。世界的標準から見て随分と穏便だったとはいえ、独立国から保護国という名の実質的な植民地に陥ったのだから当然だろう。
 しかもアイルランドなどと違って有色人種の植民地であるから、人種差別という大きな壁がイギリスの統治には反映されていた。白人を中心とした当時の世界では、当たり前という言葉すら不要な当然の結果だった。

 イギリス編入に前後した混乱で、日本列島の域内経済全体が乱れて貧困層が増大した。連動して日本内での食糧供給力と流通機能も低下し、日常的に小規模な飢饉や餓死が発生するようになる。民衆の7割以上に見た目の変化はほとんどなかったのだが、混乱が皆無という事はあり得なかった。また、特権を失った幕府系の武士などによる小規模な反乱や反発も数多く発生した。
 これに対してイギリスの日本総督府は、他地域と同様に問答無用の弾圧こそ熱心に行うが、住民の保護政策については、さらなる反乱や混乱を呼び込まないための必要最小限しか行わなかった。しかも多くは、日本の地方領主達に任せられていた。何しろ日本領の8割近くは、地方領主の統治責任となるからだ。イギリスは上から命令を出せばよかった。
 一方で、不景気と食料不足そして元幕府武士の失業で、兵士のなり手も無尽蔵で、むしろ志願兵事務所のイギリス人役人を辟易とさせた。日本人下級官吏の募集も常に一杯で、日本総督府は統治に必要な優秀な人材を安価で十分な数を確保する事ができた。
 とはいえイギリス人は、日本で近代産業を発展させる気はほとんどなかった。今や日本は欠かすことの出来ないアジア・太平洋双方の橋頭堡だが、同時にイギリス製品の大きな市場でもあるからだ。イギリス本国で製造されている製品を作らせる気が皆無であったのは間違いない。日本でしか製造できない一部の製品のみの工場が、イギリス資本で少しばかり建設されたぐらいだった。
 日本経営で重視された日本の地場産業は、比較的産出量の多かった銅の精錬と、大規模な生糸生産ぐらいだった。綿織物産業は、安価なイギリス製品の流入でインド同様にほぼ壊滅した。石油の活用が広まるまでは、鯨産業(鯨油)も重視された。アメリカ人を太平洋深くに入れないため、鯨産業は技術支援や保護されたほどだった。また輸出品として利益の出る各種工芸品も、他との競争がない品目は生産が奨励された。無論、一番の利益を得るのはイギリス人だった。日本人はほとんどの場合、搾取されるだけだった。主従関係を考えれば当然だろう。
 ただし、イギリスにとって、日本での必要以上の不安定化は避けたかった。せっかくローコストで統治されているのに、支障が出ることが明らかだからだ。いかに日本人が従順な傾向が強いとはいえ、大規模な飢饉によって地域規模の暴動を起こしたり反乱する可能性は十分以上に存在していた。実際、小規模な飢饉や内乱は、それなりの頻度で発生していた。購買力を維持させるため、所得を必要以上に下げることも避けるべきだった。
 そこでイギリス人は、日本統治で過度の飢饉や餓死を回避するべく、自らのネットワークを利用した労働移民を許可した。日本人に、日本列島から同胞を捨てる事をアイルランド同様に認めたのだ。
 また日本人の移民は、イギリス各地の植民地や勢力圏での労働力として、日本人が有効だと判断された事も影響していた。特に一定のモラルのある日本人が多い事は、下層労働力や使用人としては得難いものと短期間で考えられるようになっていく。人種差別のため、「人の姿をしたしゃべる家畜」程度の価値しか持たれていない有色人種であるが、優秀な「忠犬」として非常に重宝された。
 加えて、イギリスにとって日本は「保護国」であり、住民に最低限の権利を認める地域だったことも影響していた。この点有色人種地域だとして、少なくとも政府の方針や法律上で大きな差別をしなかった点だけは、イギリスの統治姿勢を評価できるだろう。また世界帝国だったイギリスの余裕が、日本統治に現れた結果だったと言えるかもしれない。何しろ世界の四分の一を勢力下に治め、どこでも労働力は足りず開発できる土地は有り余っていた。フランスを含め、他の列強ではこうはいかなかっただろう。事実、ロシアの勢力下に飲み込まれつつある他の北東アジア地域では、少し後に酷い事態へとなだれ込んでいる。

 日本人の移民は、1870年代には早くも開始された。
 当然というべきか、爆発的な日本人移民が発生した。19世紀後半の30年間だけで、約700万人の移民者が日本列島を後にした。移民先は、もちろんイギリス領及びイギリスの勢力圏が多かった。環太平洋地域のカナダ、オーストラリアにも向かい、20世紀初頭の同地での自治権獲得時には、オーストラリア、ニュージーランドへの日本人移民が禁止されるほど移民が増えた(※当時総人口が合わせて500万人程度のところに、合計で約100万人が短期間に移民し、後の白豪主義にも大きな影響を与えた。)。
 またサトウキビ栽培を行う太平洋各地の島嶼や、奴隷制度を廃止したばかりでプランテーション維持に苦労している中南米へも移民した。またハワイでは、日本人移民が住民の半数近くを占めるようになり、1898年にはハワイ王国がイギリスの保護国に編入される大きな布石となった。ハワイでは圧倒的な数の日本人移民がイギリスの威を後ろ盾として、植民地人(アメリカ人)勢力を押しつぶしてしまったのだ。イギリス統治となった南半球のフィジー王国も、イギリスが他から労働者を持ってくるまでもなく、気が付いたら住民の半数が日本人になっていた。
 他の太平洋地域でも、早くから日本人移民が活発になり、砂糖や南洋特産品のプランテーション経営のための労働力として移民が進んだ。この結果、他の列強が入り込む前に太平洋の多くをイギリス領とする事ができた。北ボルネオでも、より多くの土地を確保できた。東部ニューギニアと周辺島嶼も、ドイツが手を付ける前にイギリス領とする事ができた。太平洋地域は、一部をフランスが有した他は全てイギリスの手に帰したと言えるだろう。
 日本から吸い上げた富を元手に、ロシアが売却に出したアラスカ地域も、アメリカとの購買競争に勝利してカナダへと編入された。当然そこにも、日本人移民が増えた。
 また新大陸では、北アメリカ大陸のアメリカ合衆国やカナダ、南アメリカ大陸のブラジルなどへの日本人移民も多く発生した。このためアメリカでは、1913年に日本人移民を完全禁止する法律まで制定された。何しろこの時までに、カリフォルニアを中心としたアメリカ国内の日本人移民の数は500万人に達していた。現地では最大規模のマジョリティーだった。英領カナダのバンクーバーなども、半数以上が日本人移民となっていた。日系人の異常な多さは、1830〜50年代に日本人が自力で西海岸に多数移民していた事も大きく影響していたのだが、この時期の日本人移民の多さを見ることができる。イギリスの持つ優れた世界ネットワークを介して、瞬く間に日本人移民が増えてしまったのだ。第一次世界大戦の勃発する1910年代半ばまでの日本人移民者の総数は1000万人を越え、二度目の世界大戦が終わるまでにさらに300万人が加わった。ブラジルなど南米諸国ですらが、慌てて移民規制をするようになったほどだった。
 こうしてイギリスが作り上げた「アーシアンリング」は、日本の植民地化とイギリス支配下の日本人の移民により強化され、19世紀後半のイギリスの繁栄、「パックス・ブリタニカ」をより大きくする事になる。
 もっとも、イギリスの世界帝国化にどれほどの貢献を果たしたのかは、評価が分かれるところでもある。日本を飲み込んだことでイギリスが膨張しすぎて、後の急速な縮小を呼び込んだという論も存在するからだ。

 なお、移民供給先となった日本人自体の人口は、英領日本帝国成立時の統計で約3500万人だった。併合時の混乱で一時人口は一割近く低下するが、その後イギリスによるイギリスのための社会資本と流通の整備、安価な海外食料の流入により、早くも70年代半ばからは人口は再び増大に転じた。しかも各藩(各貴族領)では、各地の領主によるイギリスから認められた開発やインフラ整備、西洋医療などの普及もあって、人口はむしろ地方で大きく増加した。日本のトノサマ達は、インドのマハラジャと違って住民のために尽くす者が多かった。イギリス本国の一部リベラリストが、本国のジェントリーも見習うべきだと評したほどだった。
 イギリスの直轄地である大都市でも、特に日本の形式上の首都とされたトキオ(行政府)、キョウ(王都)、さらには商都としての地位を維持したオスカーの人口は貧民街を中心に大きく拡大した。1890年の日本列島内の人口は、4000万人近くに達していた。しかも途上地域特有の人口ピラミッドを構成し続けたため人口拡大は継続し、移民と日本列島での人口拡大はその後長く続く事になる。要するに日本列島で増えた分だけ、海外移民が発生していた。故に日本列島内の人口は、日本国内で産業が未発達だった1910年代までは4000万人前半を維持し続けていた。つまり、日本人の5人に1人が移民した事になる。
 一方では、藩主や各藩の上級武士などの支配階層と一部富裕層、またそれらに見いだされた優秀者の、イギリス及びイギリスの勢力圏への留学が活発化した。もともと日本の地方(各藩)での学術レベルが高かった事もあって上流階層の教育熱も高く、中産階級以上の日本人達は、自分たちの間で使う平準化された日本語と英語習得に平行して、積極的に世界最先端の知識の吸収に務めていた。
 イギリス側も、自らの円滑な統治と支配のため、大きく規制することはなかった。ただし多数の日本人が本国など白人居住圏に流れすぎては面倒なので、日本のトキオに多数の大学や学校が設立され、日本人から集めた資金で運営された。そして日本統治及びアジア支配の一大センターとなっていたトキオでは学業者の数は増加の一途を辿り、統治都市としてよりも学術都市としての側面が強くなるほどだった。学者や技術者の中には、世界初となる発見や試みを行った者も出てくる始末だった。
 日本人に言わせれば、他にすることがないので政治と軍事以外の学業をしたまでだと言うことになるが、これは他の植民地や勢力圏ではあまり見られない現象だった。イギリスの下にいる植民地支配層とは、骨抜きにされ怠惰で金にうるさく贅沢におぼれている例が多いからだ。
 また1870年代以後は、カゴに乗ったキモノやハカマを着た日本人貴族(JJ=ジャパン・ジェントリー=蔑称)が、ロンドンで頻繁に見られるようにもなった。そしてロンドンでは、インドの王侯貴族(マハラジャ)同様に物珍しく見られると同時に、イギリス本国の人間に自分たちがいかに異質なものを取り込んだのかと思わせるようになる。シーク教徒のターバンと日本人のチョンマゲは、ロンドン名物と言われたほどだ。
 そうした一連の動きは、日本の上流階層にイギリスの一員としての認識を深めさせると同時に、徐々に日本人としてのアイデンティティーも育てるようになる。物珍しがられると同時に、人種差別にもさらされたからだ。
 アイデンティティー上昇の動きは他のイギリス領とも連動するようになり、特に知識人(上流階層)の多いインド人と日本人の交流は活発になる。それを現すかのように、1885年に日本とインド同時に国民会議が開催された。ロンドンでの交流が、それを実現させたのだ。
 日本の開催場所は、依然として日本最大の商業都市だったオスカー(Osuka=大坂)で、天皇が住むキョー(Kyo=京)が近いことからイギリス本国も神経を尖らすようになる。
 しかし世界中で活躍する日本人兵士(傭兵)と、イギリスの市場としての安定した日本という位置は当面変化はなかった。それにロシアが遂にシベリア鉄道を開通させ、満州・朝鮮へと突き進んできた事は、日本列島を有するイギリスにとって日本をより重視させる事になる。しかも日本人のアイデンティティーも少しずつではあるが高まりを見せており、イギリスの日本での植民地統治は半世紀を待たずして揺らぎ始める。この裏には、各藩の統治を基本的に各藩任せにしていたのだが、各藩では貧しくても教育を熱心に行って日本語、英語共に識字率などが英本国よりも高い地域があったという、植民地としてはあり得ない状況が影響していた。
 しかもイギリス自身で「保護国」としている上に地方自治は物理的問題もあってほぼ放免していたため、今更日本人の教育を規制したらどんな反発が起きるか分からず、幾つかの規制を設ける以上は行われなかった(※日本の高等学校はあくまで私塾扱いで、イギリス領内での学歴とは評価されないなど。また、政治、思想面の教育は厳しく規制されていた。)。そしてイギリスが大きな文句を言われなかったため、マエダ侯爵領やダテ侯爵領、ホソカワ侯爵領のような大きな藩(域内人口が100万人以上が主)の中には、独自にイギリスと同じ総合大学まである学校制度を持つ教育体制を作り上げていたところも出てくるようになる。大坂でも、商人達が私立の高等教育機関を作ったりしている。
 そしてこの当時の面白い現象の一つが、地域格差のあった日本語そのものについて、各地方が連携を取り合って可能な限り平準化が図られた事だろう。これには、江戸時代に武士の間で江戸で使う「山の手言葉」が普及していた事が大きな効果を発揮した。
 とにかく日本人の教育熱の高さは、反乱や自立を明確に目指すわけでもないのに異常だった。各植民地へ移民していった日本人も同様で、排他性の高さから他の移民(主に白人)から排斥される事も多かったが、時代の進歩と共に徐々に大きな力を持つようになる。
 こんなに教育熱が高いと予測していなかったのはイギリスであり、最初に禁止や弾圧しなかった事を後悔したが、今となってはヘタに介入できなくなっていた。

 そうした中で、イギリスの強欲と奢りがもたらした「ブーア戦争」が勃発する。
 南アフリカでの総力戦に近い戦いには、多数の日本兵がイギリス軍(英日軍もしくは傭兵)として送り込まれた。彼らは多くの活躍を示すと同時に多くの犠牲者も出す事になる。しかも日本人の戦死者、戦傷者に対するイギリスの補償がおざなりだったため、それまで比較的おとなしかった日本人が大きな反感を示すようになった。
 加えて、日本近隣でのロシア人の脅威に対してあまり積極的でないイギリス本国に日本人の反感は募った。
 これに対してイギリス本国も、手を抜いていたわけではなかった。
 1901年に清の没落を決定的にした「北清戦争」では、活躍した日本人への報償という形で、乱以後のロシア人への警戒感から、ファー・イーストでの大幅な兵力増強を決定した。日本人連隊も増強され、一部は師団編成を取るまでに拡大された。将校が足りないので、特務待遇で日本人も少佐(大隊長)にまではなれるようになった(ただし白人の指揮は、他の白人上官の命令がない限り厳しく禁止されていた)。
 各海峡の沿岸要塞も増強された。対馬にあるソウ伯爵領も、国際法上ではイギリスの直轄領とされた。
 それでもロシアが満州からは退かず、1905年に朝鮮王国を強引に属領とすると、日本人の間には大きな反感と不安が渦巻くようになる。しかもロシア人は、シベリア鉄道開通後は続々と兵力と移民を極東アジアに送り込んでいた。
 当然日本人の対外恐怖感は増大し、イギリスの統治に疑問を投げかけた。
 結果インドとほぼ同時の1906年に大坂で開かれた国民会議では、英貨排斥、日貨(両)復活、国産品愛用、民族教育、自立国防を採択した。さらには日本人が一致団結して、ロシア人の侵略を防ぐべきだと論じられた。
 イギリスは驚くと共に、流石に弾圧を行った。表面上は簡単に議会の鎮圧に成功するも、日本人にイギリスへの大きな反感と独立への機運を植え付けることになる。しかも不満分子の一部は、イギリス人が踏み入れることがない日本列島各地の峻険な山奥へと逃れた。
 イギリス人は、イギリスが日本を上手く丸め込めたのは天皇という「内政」を瞬時に押えたからであり、日本人が外圧に予想以上に敏感であるという点を迂闊にも見落としていたのだ。そう言う意味では、ロシアの南下はイギリスの東アジア統治にとって大きな脅威となっていた。
 そうしてイギリスが日本統治に不安を抱えるようになっている頃、北東アジア情勢はさらに進んでいく。

 朝鮮半島の自主独立と利権を巡って発生した1894年の「露清戦争」では、ロシアは清帝国に対して一方的とも言える圧倒的勝利を得て、朝鮮半島ばかりでなく満州地域と東トルキスタン地域に多くの利権を獲得していた。
 1901年の「義和団の乱」とその後の「北清戦争」でロシアは、万里の長城以北の勢力圏を確固たるものとした。この時点でモンゴル、満州北部は準ロシア領と言えるまでに支配が強化された。
 ただし天津に欧米列強の租界ができ、山東半島は英独の勢力圏となったため南進は停滞した。
 しかし、1910年にはモンゴルが自治権を獲得。当然後ろにはロシア帝国の影があり、万里の長城以北の広大な地域が完全にロシアの勢力下となった。誰も正面から止める者がいないため、ロシアは濡れ手に粟で極東アジアの半分を鷲掴みにしていった。東トルキスタン地域も同様で、短期間のうちに実質的なロシアの属領となっていた。
 日本列島とチャイナに多くの利権を持つイギリスや、チャイナに市場進出したいアメリカが事あるごとに文句を言ったが、それ以上の行動には出られなかった。
 朝鮮王国も、アッという間にロシアに完全に属国化された。ただし朝鮮王国の場合は、自らの事大主義に従い王族(李朝)や両班と呼ばれる特権階級(世襲官僚)の側が、日本を支配するイギリスの影響拡大を嫌ってロシアに接近したことが発端となっているので、半ば自業自得だった。ロシア人も朝鮮の支配階級を全く信用せずに、統治に際して害悪でしかない世襲官僚の多くは真っ先に弾圧・粛正された。特に貴族としての義務感に乏しい両班は、感情的にも嫌われたため殲滅に向かった。ロシア人に嫌悪されたのだから、相当のものだったのだろう。
 その間イギリスにできた事は、対馬を直轄地とした他は属国化前の朝鮮から済州島を事実上割譲した事ぐらいだった。またサッセホ(佐世保)軍港、ヨコスカ(横須賀)軍港を近代軍港として大拡張して、日本本土に戦艦を含む「太平洋艦隊」を常駐させるようになった。V.ファー(エゾ・アイランド)の防衛も強化された。
 これでロシアは、日本列島に向けて南下したければ直接イギリス領を犯すことになった。日本が海の向こうという事と、イギリスとの面倒を嫌ったロシアは、そのまま中華大陸中央部へと駒を進めた。
 しかしイギリスは、より狡猾だった。
 ロシア人の力を外に向かわせないために、ロシア国内の少数民族に対して水面下での多大な援助を行って、ロシアを疲弊させていたからだ。ただし革命未遂とも言える騒ぎが起きるなど少しばかりやりすぎた感もあり、後のロシア革命を呼び込んだとも言われている。

 そうした状況の北東アジアで、思わぬ国際環境の変化が発生する。1911年、遂に倒れた清王朝に代わり中華民国が成立したのだ。しかも袁世凱による独裁が進んだ事を表面的理由として、漢族以外の旧清王朝地域が突然のように独立を宣言した。この独立により、清王朝最後の皇帝を祭り上げられて「後清」が建国される。そしてこの「後清」建国で、万里の長城以北の全ての旧清王朝領から東トルキスタンにかけての広大な地域が中華からの決別を宣言する(※当時、青海、チベットはイギリスの勢力圏とされていた)。
 背後には、チャイナ・極東での支配をさらに確固たるものにしたロシア帝国の影が色濃くあった。何しろ独立地のほとんどは、既にロシアの影響下だった。事実上、後清はロシアの衛星国となった。ロシアがいなければ何もできない国だった。そしてロシアが、既に朝鮮を服属させている事を合わせて考えると、次の目標は日本ではないかと日本人達は脅威を感じるようになる。日本人の不満と不安は、かつてないほど高まった。
 しかしイギリス人は言った。サッセホ(佐世保)には極東最大の軍港が整備されつつあり、戦艦複数を擁するイギリスの大艦隊が駐留している。トキオやV.ファー(エゾ)を中心に、イギリス本国兵による師団級の戦力もある。日本兵連隊も日本各地に存在し、その数は治安維持組織を併せると20万人にも達している。しかもイギリス本国は、それらの維持のために本国から多くの予算を割いてまでして極東防衛を行っている。最新兵器も十分にある。有事に際しては、イギリス帝国中から援軍が直ちに駆けつける。主たるイギリスを信じよと。
 それでも日本人の多くは納得せずに文句を言ったが、事が外敵に関することだけに無闇に日本人を弾圧するわけにもいかなかった。仕方なくイギリス本国から日本へさらに増援を送り、日本兵の増強も行わざるをえなくなる。無論経費のほとんどは日本人持ちだった。いかにロシア人を封じ込めるためとは言え、これ以上自分の懐を痛める気にはなれなかった。そのための日本でもあるのだ。また太平洋艦隊用の新型巡洋戦艦を、日本人の献金で建造する事になった。これが1914年から相次いで4隻就役した「ジャパン級」巡洋戦艦となる(艦名:ジャパン、トキオ、キョー、オスカー)。この巡洋戦艦群は、就役当時は太平洋最強となる予定で、アメリカが文句を付けたほどだった。




●世界大戦と日本