■フェイズ02「太平洋の行く末」

 西暦1869年秋、1年以上の旅路の果てに坂本らが日本へと帰国した時、日本は大きくそして急速に変化しつつあった。帰国した年の春には、明治天皇が東京と改名された江戸に行幸していた。その5月には函館の「五稜郭の戦い」が終わり、革命戦争もしくは統合戦争である「戊辰戦争」が終了していた。
 そして戊辰戦争が終わっていた事が、坂本らに有利と不利をもたらした。不利な点は、日本での革命と戦争、政治的混乱が終息したことで、もはや革命の風雲児である坂本龍馬が政治に関わる必然性が無くなった事。有利な点は、戊辰戦争の終了で薩長の旧幕府に対する復讐と粛正に一区切りがつき、帰国した小栗ら旧幕臣を厳しく処罰しようという向きが低下していた事だ。そして不利な点に付いては、既に坂本が政治への関心をなくして、移民や商売に関心が傾いていた事と、坂本らが手みやげのように持って帰ってきた巨大資本を抱えた会社の存在が、少なくとも坂本の当面の将来の道筋を作り上げていた。
 大量の空約束と莫大な資本金(事実上の借金)を抱えた坂本の会社は、日本で初めての国際企業であるのだが、諸外国の人々は日本という国家に対して出資しているため、日本政府として全面的に後押しせざるを得なかった。逆に日本政府としても、新国家建設のために莫大な資金と、資金や人脈を持つ国際企業の必要性は感じていたため、坂本らが勝手に外国で立ち上げた会社の存在は、渡りに船という感覚も一部にあった。
 そしてその会社の運営を実質を担っているのが「あの」小栗とあっては、当時の日本人として無視するわけにもいかなかった。
 しかし小栗が帰国したことで、一部の新政府の人々は警戒を露わにする。戊辰戦争初期の頃に幕府内で強硬論を唱えた小栗であれば、その知謀を活かして新政府に対するカウンターを仕掛けてくるかもしれないと想像したのだ。実際、帰国した小栗と接触した、反体制派や不満を持つ武士もいた。
 このため、俄に政府要人の警護が強化される事になる。
 そして、要人警護が強化されてすぐにも大村益次郎が襲撃を受け、断る大村を無視して付けられた数名の護衛のお陰で、大村自身は軽傷で済むという事件が起きた。大村を襲撃したのは、大村の軍の改革方針に反発する長州藩の武士だったが、以後の明治新政府では要人警護が強化され、政府要人には可能な限り護衛が付けられるようになっていく。この結果、幾人かの政府要人が暗殺やテロから逃れることができ、また要人警護の存在が不穏分子の活動を一定レベルで抑止する事になる。もしこの時の警護体制の強化がなければ、明治政府内にも敵の多かったと言われる大久保利通や大村益次郎が、生きながらえる事は難しかっただろうとも言われている。

 明治新政府の事はともかく、帰国後の坂本達は新たな日本において活動を開始する。
 坂本商会の初期の基本事業は、海運事業と日本政府が行うことに対する投資事業だった。何しろ彼らには僅かな数の同士(社員)と、口先だけで集めた金と見せかけの信用以外何もなかった。しかし坂本らがアメリカ、太平洋を巡っている間に、パリに滞在する陸奥宗光らが活発に活動して、ヨーロッパで買い付けた最新鋭から中古の船を何隻も日本に送り届けていた。少なくとも北東アジア海域の海運を日本人の手に取り戻し、さらには莫大な利益が見込める海運業を行おうという腹だ。この行動には、東アジア航路を持つイギリスなどの国々はあまり良い顔をしなかったが、アジアに利権のない商人や企業を使うことでカバーされた。
 そしてその船を得た坂本らが始めたのは、海運業と日本人の移民事業だった。先にも挙げたように、大きな変革で今までの職や暮らしを失う人々に新天地を提供し、そこでの物産を日本のために活用するのが主な目的だった。また日本という国家が、移民の推進を行う事で領土を拡張する事も大きな目標とされた。これは単なる領土拡張ではなく、いざとなれば借金の抵当として売り払うための担保を確保しておくという側面すらあった。近代国家として日本列島には何もない以上、その代わりのものを確保しておこうという、いささか乱暴な判断があった。
 また坂本商会は、手に入れた船の一部に武装を施す許可を日本政府から得て、そこに志願で集めた失業武士を乗せた一種の海上警備会社を立ち上げた。組織名には「海援隊」の名が引き継がれ、半民半官の会社、日本政府の名目上は補助海軍もしくは沿岸警備隊として立ち上げられた。直訳で名付けられた英語名だと「SSF(シー・サポート・フォース)」となる。もっとも海援隊の漢字の頭文字を取って、「KET」と言われることの方が多かった。
 海援隊には、イギリス屈指(つまり世界屈指)の海運保険会社ロイズも出資していた。主に東アジアの海の治安を向上させることは、ロイズの利益となるからだ。後に辣腕外交官となる陸奥宗光に抜かりはなかった。
 そして日本政府のお声掛かりもあって、日本中から多くの失業武士が集められ、過酷な移民事業、実質的には傭兵である海上警備事業へと参画していく事になる。移民の流れは、すぐにも琉球など既に人口が飽和しつくしていた島嶼部でも始まり、多くの船員を必要とする坂本商会と海援隊は、そのうち漁民達の多くを船員として雇い入れた。そして小さな島でもサトウキビや場合によっては米の栽培ができるという報告が舞い込むと、それが宣伝の形で日本中に知らされ、日本各地の貧農、都市部の貧民も移民に参加するようになる。
 ハワイ王国を発端とするアメリカへの移民事業もほぼ同時に開始され、イギリス、フランス、そしてアメリカから移民のニーズを知ることの出来る坂本商会は、移民事業による海運、日本人が住むようになった遠隔地での航路設定などにより、日本本土の改革と発展にあまり関連しない形で事業を拡大していく事になる。

 日本人による移民事業の拡大だが、少なくともイギリス、フランスはそれなりに好意的に見ていた。弱小な日本人が、ドイツやアメリカに代わって太平洋の多くの土地を得ることは、既に自らの膨張が限界に達しつつあったイギリス、フランスにとって利益だったからだ。特に1871年にドイツに戦争で負けて国威が落ちたフランスは、日本への援助や支援を熱心に行い、とにかくドイツの足を引っ張ることになるなら出来る限り日本人に協力した。
 そうした中で、多少なりとも問題が起きた場所もある。
 順に、朝鮮、琉球、樺太島、東部ニューギニア、太平洋諸地域、そしてハワイだ。
 朝鮮での問題は、領土問題ではなく鎖国中の同国を日本がどうするか、であった。強引に開国させようと言う「征韓論争」がこれに当たる。日本中央でのある種の政治的争いとなるが、ここで坂本商会の活動が大きな影響を与えた。
 坂本商会は、日本本土とは関係の薄いところで、太平洋各地に進出して商売と移民、航路の開拓などを熱心に押し進めていた。諸外国から金を集めたので、その動きは急速で当時の日本としては非常に大規模だった。このため日本人の目も、近在の大陸よりは広い太平洋に目を向ける向きが強く、特に新政府内で薩長から阻害されがちな土佐では、坂本らの動きを支持する動きが強かった。これは土佐を藩ごと征韓論から引き離すことになり、征韓派と内治派に加えて「洋上派」という派閥を形成させ、日本はかなりの期間朝鮮王国を無視する流れを作り出してしまう。最初の頃征韓論を唱えていた板垣退助も気が付いたら考えを転向し、一時期は坂本商会の代弁者となっていた。
 琉球については今更説明をするまでもないと思うので割愛するが、清朝が領有権を主張したため台湾出兵を経て日本領へと正式に編入された。同時に、琉球王朝という存在も、ここに幕を閉じることになる。しかし琉球が日本に含まれることで、同地域に飽和していた人々が日本の船を使って、いち早く各地へと移民していく事になる。琉球王朝にとっては悲劇だったが、琉球住民にとっては悲劇だけではなかったのだ。
 樺太島は、幕末の頃に江戸幕府とロシアの間に、日本とロシアの雑居地とされていた。そこに坂本商会は、旧幕府士族を中心にした移民団を多数送り込み、樺太の厳しい気候でも何とか可能なヨーロッパでノウハウを仕入れた北欧風の農業(各種麦、ジャガイモ栽培、酪農、牧畜業)を実験という形で実施させていた。
 そして日本政府も、北海道よりもさらに先にある樺太に勢力圏を作ってしまえば領土交渉が有利になるとして、北辺での移民事業を肯定して資金と人材も提供した。農業指導のために、北欧やドイツからお雇い外国人もやって来た。ロシア人の膨張を阻止するためだと説明すると、北欧の人々は非常に積極的だった。
 このため1875年(明治8年)にロシアとの間で成立した国境設定では、樺太島を北緯50度で分けて北部をロシア領、南部を日本領とすることになった。また北部が、雑居地から完全にロシア領となる代わりに、千島列島が正式に日本領に組み込まれることになる。ロシアにとっては多少不満の残る決定だったが、これは既成事実を積み上げた日本側の外交勝利だった。
 そしてこの領土交渉を行う頃には、陸奥宗光は日本に戻って明治政府へと合流しており、ロシアとの交渉が最初の大仕事となって、以後しばらくは外交で実績を作り上げていく事になる。

 ニューギニア島の東部は、イギリスなどが開発は不可能な熱帯地帯だと判断して放置していたため、入植はともかく旗を立てたりする事は容易だった。近在の東部島嶼群(※後の新奄美島、新八重山諸島など)では、サトウキビプランテーションを目的として、一部平地に対する入植も開始されていた。
 しかし数年遅れてドイツが調査船を派遣し、商館を設置しようと言う動きがあった。このため話しは外交へと流れ、現時点でのドイツの過度の膨張を望まないドイツ宰相ビスマルクの判断と、日本政府の特使として交渉に出かけていった小栗の尽力によって、日本が開発権を得ることになる。また、ニューギニア島西部は、かなり昔からオランダが進出していた。オランダは今以上進出するのは様々な理由で難しいが、東部が日本に牛耳られる事を警戒した。既成事実の積み上げで、自分たちがニューギニア島から追い出されることを警戒したためだ。このため日本政府との間に交渉が持たれて、東経140度を両者の境界線とすることで話し合いは決定する。これにより日本は、日本列島の約二倍の面積がある世界有数の巨島の六割の権利を獲得する事に成功する。
 ただし、ドイツでビスマルクが失脚させられ皇帝ヴィルヘルム二世が膨張主義を取るようになると、再び日本との間に問題を起こすようになる。このため日本は、ドイツとの間に何度も交渉を持たざるを得ず、結局スペインが中部太平洋のうち領有権を主張していた地域を売却したのを契機として、日本が領有権を主張していた中部太平洋の一部の島々をドイツ側に譲ることで手打ちとされている。

 ニューギニア東部と並んで坂本商会から日本人の移民予定地とされた太平洋諸地域だが、当時は列強はほとんど手を付けていなかった。そして坂本商会は、手当たり次第に日章旗を立て、測量を実施し、有望な場所に拠点を設け、そして植民事業を行った。
 この中で、西太平洋のグァム島を中心とする地域はスペインが領有権を持っていたため、スペインとの交渉を重ねてパラオ諸島、マリアナ諸島の一部を獲得。マーシャル諸島では、ドイツが食指を伸ばしていたため、衝突を避けるべくドイツに優先権が譲られた。また西太平洋地域は、その後スペインがドイツに多くを売却したため、ドイツの勢力はさらに大きくなり、その先に勢力圏が広がる形の日本にとっての脅威となった。
 そしてニューギニアから連なる形の南太平洋地域だが、イギリス、フランスと調整を行いつつ正式に日章旗が次々に立っていった。フランス人は、ドイツ人が隣に来るよりはと好意的で、イギリス人も後で自分たちが分捕ることも可能な日本が領有権を主張する事を認める場合が多かった。イギリスの場合はオーストラリアの住民が有色人種が近隣を領有する事にかなり口汚く文句を言ったが、イギリス本国政府が、ならば自らが南太平洋に自力で進出しろと伝えると、渋々オーストラリアが引き下がる一幕もあった。
 日本の領有権は1880年頃にはほぼ固まり、太平洋の分割が終わる19世紀が終わるまでに諸外国からも認められるようになる。その領域は、主に南緯20度以北の南太平洋地域で、日本列島との間に若干ドイツの領域を挟むやや不安定なものに落ち着かざるを得なかった。また南太平洋地域も、サモア諸島はアメリカとドイツが分割し、日本とイギリスの境界が入り組む場所も見られるなど、安定しているとは言い難い場所だった。しかし、初期の頃の日本の海外進出そのものに、多少の無理があったと言わざるを得ないだろう。

 一方ハワイだが、ハワイと日本の関係は、1869年に最初の日本人(琉球人)移民が到達したことで始まる。
 当時ハワイは親英の王が続き、アメリカが密かに併合を画策して、白人移民を送り込み経済を牛耳ろうとしていた。しかし当時の日本にはあまり関係もなく、日本は現地のニーズに応えるべく、サトウキビプランテーションなどで働く移民を送り出すだけだった。ほぼ名目とはいえ奴隷が否定されつつあるため、労働集約産業であるサトウキビ栽培には低賃金労働者が是非にも必要だったからだ。
 その後、次代の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが1872年に急逝すると、王位決定権が議会に委ねられ、親米派のルナリロが1873年1月9日に即位したことでハワイの混乱が始まる。
 ルナリロ王は、現地白人移民の役人の言うがままにアメリカ出身の白人を閣僚に据え、アメリカからの政治的、経済的援助を求める政策を行ったからだ。ルナリロ王は結核ですぐに没してデビッド・カラカウア王が即位したが、自立を目指したカラカウア王も議会や大臣の言うがままに親アメリカ、さらにはアメリカへの併合へと進む政策を実施せざるを得なかった。このため日本では、主に坂本商会が現地日本人の権益を守るための活動を活発化させざえるを得なくなり、日本の軍艦という体裁を整えた坂本商会(海援隊)の武装商船が、半ば威圧を兼ねてハワイを訪問することが増えた。
 とはいえ、1890年代に入るまでのアメリカは、ハワイをそれほど重視していなかった。ハワイのアメリカ併合を画策していたのは、アメリカ人でも一部の人間だけであり、ごくごく限られた先見の明を持つ人々(※主に帝国主義的拡張論者)だけだった。このため日本の行動も容認され、日本人の移民も増えた。
 しかし日本人がハワイでの経済活動を活発化させると、ハワイに根を下ろしていた元宣教師のアメリカ系(白人)ビジネスマン達が、日本人への反発を強めるようになる。低賃金労働者ではなく自作農、地主、さらに各種商店主となるような日本人が増えるに従って、アメリカ系白人の反発が強まっていった。
 しかもそうした頃の1881年(明治14年)、カラカウア王は世界一周の旅に出て、最後の滞在国日本に立ち寄った。カラカウア王は、日本とハワイの間に平等条約を結び、その裏で自分の監視役で付いてきていた白人の大臣達に内密で、日本との関係を深めようとした。
 彼が画策したのは、自分の姪(カイウラニ姫)と日本の皇室の男性(山階宮定麿親王)を結婚させ、最終的には両者の間に生まれた子供にハワイ王の王位を継がせ、近代化を成し遂げた日本をバックボーンにしてハワイの独立を守ろうというものだった。
 このハワイ王からの内密の申し出を、当初明治政府は断ろうとしていた。日本はまだ弱小国であり、各国との不平等条約を無くすためにもアメリカとの関係を悪化させる要素は持ちたくなかったからだ。しかし、既に太平洋各地に大きな利権を確保しつつある日本にとって、アメリカがハワイを橋頭堡として進出してくることは大きな脅威でもあった。アメリカは既にアラスカを領有し、ハワイ近在のミッドウェー諸島も1867年に領有宣言を出している。
 こうした事実の方を重く見た明治政府は、不平等条約の解消を数年遅らせる事になってでも、緩衝国家の可能性を持つハワイを後援することを決意する。また日本がハワイを後押しした理由の一つに、イギリスがアメリカの膨張を嫌っているという面が作用していた。
 かくしてカラカウア王が日本を離れる前日、カイウラニ姫と山階宮定麿親王の婚姻が日本政府から発表される。これをイギリスが祝福し、ハワイを巡る日本とアメリカの第一ラウンドは日本の勝利に終わる。そして日本の皇族と関係を結んだ国と言うことで、日本からハワイへの移民は大幅に膨れあがり、現地日本人が徐々にハワイ経済で重要な地位を占めていくようになる。1883年には、坂本商会の手により日本とハワイの間に定期航路までが開かれ、「憧れのハワイ航路」として日本人の移民熱を煽った。
 そしてハワイを巡る事件の背後には、坂本商会、特に坂本龍馬の姿があったと言われている。坂本龍馬は、やはり動乱の人物だったのだろう。

 日布関係の進展により、1875年に結ばれた「米布互恵条約」は延長されることなく廃止が決まり(元の期限は7年間)、アメリカのハワイに対する影響力は大きく低下する。
 この事は、ごく一部のアメリカ人を怒らせ日本に対する警戒感を持たせることになったが、海外、特に太平洋に興味のない圧倒的多数のアメリカ人は見向きもしなかった。逆に、米布互恵条約が不平等条約だと言うことで、正しい行いだとするリベラルなアメリカ人もいたりした。
 そしてその後、ハワイ・オワフ島の真珠湾は1887年に国際港として改めて開かれ、日本だけでなくイギリスの船も立ち寄るようになる。
 こうしてハワイで追いつめられたアメリカ系白人達は、日に日に増える日本人移民に対する脅威もあり徐々に態度を硬化。1887年にハワイの王政を転覆するための秘密結社「ハワイアン・リーグ」が作られる。ハワイの白人市民義勇軍も反発を強めた。これに対して現地日本人、日系人も自警団を組織し、自ら資金を投じて海援隊を雇い入れた。この結果、真珠湾には海援隊の武装商船が常駐するようになり、海援隊の雇用主はすぐにもハワイ王国の名義となっていた。
 その後カラカウア王は、日系人の力を利用する形で白人勢力の影響力排除を図り、白人移民が作ったベイオネット憲法も廃止して新憲法を公布。政府内にも、ハワイ人と日系人を多く採用していった。そして多数の日系人の前に、数ばかりか政治的、経済的にも劣勢に立たされた現地白人移民とその子孫は、リリウオカラニ女王の治世となってすぐに遂に激発。1893年にクーデターを実施する。
 しかし王宮を守る小数の近衛隊とハワイ王国に雇われていた海援隊の陸戦部隊、さらには日系人自警団がカウンターを実施。テロ又はデモに毛が生えた程度の稚拙なクーデターは失敗して、多くの白人が逮捕されることになる。
 この事件はアメリカ、日本も巻き込んだ国際問題となり、日本自身も日本人保護を理由に海援隊だけでなく日本海軍から正規の軍艦を派遣して自らの存在を誇示した。
 だが基本的に太平洋への興味が薄かった当時のアメリカは、アメリカ系移民の現地での横暴を非難する声明を行った事もあり、アメリカ人がちゃんと保護されるのが分かると、大きな問題に発展する事もなかった。
 こうしてハワイ王国の独立は維持され、リリウオカラニ女王が1917年に没するとカイウラニ姫と山階宮定麿親王の第一王子がカメハメハ6世として王位に就き、日本との協商関係を結ぶという流れにつながっていく事になる。
 もっとも、アメリカと日本の衝突は、ハワイだけではなかった。

 アメリカはマッキンリー大統領の時代(1896〜1901)になると、俄然帝国主義路線を強めた。自らが定めた「マニュフェスト・ディスティニー」従い、次なる西進の対象を太平洋、そしてアジアに定める。
 しかし太平洋は、日本の妙な膨張主義によって殆ど染め上げられていた。アメリカ人の一部が画策したハワイ併合はとん挫し、日本とイギリスの影響を受けながらもハワイ王国は独立を保っていた。アメリカ人が手にした太平洋の島嶼は、アラスカの先にあるアリューシャン列島の過半を例外とすると、ハワイ諸島近在の小さな珊瑚礁の島でしかないミッドウェー島だけだった。
 このためアメリカは、難癖を付けてハワイでの失地回復を図ろうとしたが、既に現地のアメリカ人は多くが既にいなくなり、残った者もほとんど無害な存在になっていた。一部の強硬論者がハワイ王によって国外追放とされ、有色人種の勢力が強まったことを嫌った白人達の多くがアメリカなどへ移民してしまっていたからだ。残っているアメリカ人は、有色人種の国で暮らすことを受け入れた者、一部の開明的考えの持ち主、または移民する金もない者だけだった。
 これに対してハワイの日本人、日系人は大幅に増加し、ハワイと日本の間にはそれこそ毎月のように船が行き交い、ハワイから日本には砂糖を中心に煙草やパイナップル、コーヒーなどが輸出されるようになっていた。缶詰などを中心に工業の萌芽も始まっており、日本の海援隊が常駐していることを考えると簡単に手出しできる場所ではなかった。しかも外交面でも、日本が王室外交を行って支援し、古くからのライバルであるイギリスが力の影を投げかけているため動きづらかった。このためアメリカは、太平洋への進出を阻止されたも同然だった。

 そうした中で大きな機会が訪れる。
 スペインとの間に、帝国主義的な戦争である「米西戦争」が起きたのだ。
 1898年に起きた米西戦争の主戦場はカリブ海のキューバで、港に籠もったスペイン艦隊をアメリカ艦隊が包囲する形が作られた。しかしアメリカの目的はキューバだけではなく、一気にスペインの植民地全てを奪い取る事だった。白人国家同士の戦争で、これほど帝国主義的な戦争も珍しいだろう。
 しかしアメリカにとって、スペイン領のフィリピン、グァム島に侵攻する為には大きな問題があった。アメリカ西海岸からの中継点を、アメリカがほとんど有していない事だった。
 仕方なくハワイ王国に寄港許可を求めるが、ハワイは戦争に際して局外中立を宣言。アメリカ、スペイン双方に対する協力と、軍艦の寄港を拒絶する。拒絶したのは太平洋上に領土を持つ列強各国も同様で、アメリカの白人国家に対する無体な帝国主義的戦争に対する言葉無き非難となった。ただし、別にアメリカの行動を非難するのでなく、取りたければ勝手に取ればいいが自力で行えという事だった。このためアメリカは、フィリピンに攻め込みたければ長期間の手間をかけて太平洋の真ん中を押し渡る事を余儀なくされるかに見えた。
 しかしこれを、当時の世界情勢が覆してしまう。
 既にロシア帝国と対立状態に陥っていた日本が、アメリカの関心を買うために自国領内への寄港と有償補給を認めたのだ。それでもハワイの局外中立は支持すると声明しているので、当時の日本の窮状を知ることができる。
 そしてアメリカは、日本の申し出を諸手をあげて喜んだ。ハワイほど好位置にはないが、日本が有する太平洋各地の拠点や島嶼が使用できることは、出来ないことに比べると雲泥の差が出るからだ。
 当時の船(蒸気船)は石炭を燃料として稼働しているが、船には長距離航海に必要なほどの石炭を積載出来ないため頻繁な補給が必要で、世界最大の海洋である太平洋を押し渡りたければ、是非とも補給拠点が必要だったからだ。
 故にアメリカ政府は、日本の行動を賞賛した。一方で日本は、自国の利益のためにフィリピンを売り渡したと見られ、植民地とされた地域を啓蒙する向きは若干後退した。またスペインからは当然恨みを買い、国際政治上のマキャベリズムとしてイギリスなどは日本の行動を評価した。
 これ以後のアメリカの親日姿勢も、米西戦争での日本の行動がなければ生まれなかっただろうと言われているほどだ。
 そして20世紀を迎えようとしていた世界において、日本には一人、一国でも多くの味方が必要な状況が訪れようとしていた。

●フェイズ03「坂本商会と海援隊」