■フェイズ03「坂本商会と海援隊」

 坂本商会は、日本で初めて海外で設立され、海外(パリ)に支店を置いた会社だった。しかも坂本龍馬が幕末に設立した亀山社中は海援隊の原型であり、海援隊こそが坂本商会の母体であった。坂本龍馬による会社は、日本でのダブルタイトルホルダーとも言えるだろう。
 しかも初期の出資者の多くは欧米であったが、日本最大級の資本金を持つ会社としてスタートした。出資した白人達は、ある者は新日本政府との繋がりを持つため、ある者は日本もしくは東アジアの植民地化の第一歩として出資していた。中には坂本や小栗個人の力量や人柄を買って出資した、当時の白人としては物好きもかなりの数いた。そして出所はどうであれ金は金であり、どう使うかは出資者(株主)の機嫌さえ損ねなければ使う者の自由で、設立当初の坂本商会には小栗忠順と後の陸奥宗光がいた。
 人間以外全てが借り物のような企業だったが、当時日本で最も有望な冒険的企業だったと言えるだろう。
 そして坂本らの手土産のような形の坂本商会は、日本に戻ってくると活発な活動を開始し、次々に借金を自らの資本、資産へと変えていった。長崎を当面の拠点(初期の本店)として、坂本、小栗を知っている人々を中心にした信用により最初の顧客を作り、帰国して三月もすると日本に確固たる橋頭堡を作り上げる。社員には、時代の変化で事実上の失業に追いやられた武士達を多く雇い入れ、彼らを短期間の座学と実地で鍛え上げて基幹社員としていった。武士が多かったのは、彼らが既に一定の教育を受けていた事、海援隊の武力を担うことが出来る事が理由だった。商売のためには数字に強い商人、町人の方が良かったし各種職人も必要だったが、商人達の一部は坂本らの持つ豊富な資金につられて自然と集まってきた。
 倒幕を影で主導した坂本と、幕府の重鎮だった小栗がタッグを組んだ形の会社に疑いの目を向ける者も多かったが、豊富な資金と欧州から回航されてきた船舶が大きな力となり、新政府は半ば面倒を押しつける形で坂本商会と海援隊の事業に認可を与えた。この裏には、取りあえず坂本と小栗の両名が、新政府に加わって自分たちの領分を侵さないかという恐れがあった。そして彼らが商売にかまけているのなら、そこから離れられないようにしておくべきだという思惑があったと言われる。

 初期の頃の坂本商会は、特に日本の海外移民と海外事業を一手に引き受け、大量に取得した船舶を使い各国から日本近海の航路を奪回すると共に、自分たちがツバを付けた地域との航路を開設して利益を拡大した。また初期の段階においては、経営の傾いた日本国内及び日本近隣の商店、企業を次々に買収、合併して量的拡大を図り、その中には幕末の日本で大きな役割を果たし、坂本龍馬、海援隊とも縁の深く、初期においては協力関係にあったグラバー商会もあった。日本国内では、新政府による武士、大名、藩に対する借金の棒引きから総崩れの様相を呈していた鴻池などのような幾つかの中小商店(高利貸し)を囲い込む形で取り込み、日本での地歩も固めていく。
 また坂本、小栗に共感したり実利を見いだした人々も合流して来るようになる。
 明治初期の頃の一番の問題は、坂本らが日本を離れている間に坂本らの資金と組織の一部を利用した、岩崎弥太郎が中心となって作った土佐商会(後の三菱)との関係だった。
 結局両者の関係は一時期を除いて改善しないまま進み、坂本商会は主に海外展開へと傾き、三菱と改名した岩崎らの会社は、政府との関係を強めることでそれぞれ独自の道を歩んでいく事になる。

 そして坂本商会は、失業した日本中の武士階級を勉強と試験の後に積極採用する傍らで、一応は明治新政府の後押しを受けた形での移民事業と海外展開を積極的に推進。各地に商館を設置し、人種偏見渦巻く世界で果敢に欧米各国との関係を作り上げていった。
 また海外展開の多い坂本商会は、基本的に外航洋の船を多用し、明治初期の頃の日本の各海運会社とはあまり競合したり衝突がなかった。このため日本政府のお声掛かりで作られた日本郵船が成立しても、坂本商会から派生した坂本海運は日本国内で競合が少なかった事もあり存続し続けた。また、大阪の木津川河口に建設した自社の造船所では、規格化された各種商船を建造し、自社で使うと共に日本ばかりか近隣諸国にまでも売却して一定の利益をあげた。
 そして移民先とされた地域での開発も多くを担い、明治初期に置いては北海道北部、南樺太、ニューギニア島、ニューギニア近在の島嶼(南天諸島など)、そしてハワイ王国が主な開発地となり、以後も海外で大きな影響力を発揮していく。
 海運と移民事業以外では、海外での鉱山開発が主体で、ナウル島で見つかった大量のリン鉱石は、初期の頃から大きな収益をあげていた。また移民達が作った砂糖と酒類(共にサトウキビが原料)を販売し、主に日本人の腹へと送り込んだ。後には、ニューギニアなどで生ゴムも栽培・生産するようになる。また現地の人々の食料源としては、お米の栽培が長い間難しかったため、主にジャガイモ、サツマイモ、そして現地のタロイモが栽培され、副食として豚、鶏も食料に組み込まれたため、日本人の食生活を変える一つの切っ掛けともなっていった。
 他の事業では、海運に連なる造船、造船のもととなる鉄鋼や機械など様々な産業にも事業を展開しいった。教育事業にも熱心だった。そして日本の他者に先駆けて、基幹銀行(坂本銀行)を中心としたコンツェルン(財閥)形態を取る企業として活動するようになっていく。こうした形態を早くにとった背景には、他の日本企業と違い白人側にやる気がある場合に限って彼らを雇用したからであり、坂本や小栗の個人的人脈によって一定数の外国人社員(白人)が坂本商会に務めていた事があげられる。
 ただし、海外展開以外では日本政府からのおこぼれは少なく、官営施設の払い下げもほとんど受けることが出来ていなかった。この原因の多くは、坂本、小栗が明治新政府の要人達からあまり好まれていなかったからだ。反面、初期の出資者がほぼ全て欧米だったこともあり、その後も海外企業との関係を深める状態を続けることになる。だがこの海外との繋がりが、欧米列強の植民地化を恐れる明治新政府から、坂本商会を敬遠させる大きな一因となった事は強く留意すべきだろう。日本政府は、万が一の場合は坂本商会を切り捨てる事も視野に入れていたのだ。

 ちなみに、創始者である坂本龍馬は、会社設立から5年もすると会長と自らを名乗り、会社経営そのもに深く関わることはしなくなった。彼は発想と行動の人ではあったが、万事が大ざっぱでお金のことには無頓着だった。このため陸奥宗光のような秀才もしくは天才的頭脳の持ち主が、物事の実質を行うことが不可欠だった。そして明治に入って以後の坂本も自身の欠点をある程度は自覚し、大筋を決めたり交渉ごとに専念して、経営は優秀な部下達に一任していた。また坂本は、日本に留まっていることは希であり、とにかく世界中を駆けめぐった。このため坂本商会の外航洋の船には、会長がいつ乗り込んできても大丈夫なように船長室と共に会長室という部屋が存在しているという噂があった。(※一部事実である。)
 また海援隊創設時からいた陸奥宗光は、パリからの帰国後その手腕とヨーロッパでの人脈を買われて明治政府に請われ、その後日本の外交を担う一人となっていく。
 さらに創業者の一人となった小栗忠順だが、彼は幕臣であるため長らく日本中央の政治に関わることはなく、事実上の坂本商会の最高経営者としてのキャリアをかなりの期間積み上げていく事になる。その中で海外の人脈を豊富に持つようになり、また日本の財界との関係を深めていった。
 彼に転機が訪れるのは、1881年に「国会開設の勅諭」が出た頃からだった。
 小栗が幕末希代の有力政治家もしくは超高級官僚であることは、日本社会の中枢を占める人なら誰でも知っていた。そして維新から十数年が経た今となっては、もうそろそろ有益な人々については活用すべきではないかという意見が明治政府内でも台頭し、まずは小栗の意見を聞くという形で彼の考えが政治に反映されるようになる。
 小栗が正式に坂本商会を離れて政府入りしたのは1885年の事で、同じ旧幕臣の榎本と共に閣僚入りし、以後閣僚の常連として名を連ねるようになる。また坂本商会は彼を財政面で後押しし、小栗は坂本商会をバックボーンとした政党「共和党」の中心人物の一人としても活躍していく事になる。ただ「共和党」は、その名の通り当時の日本ではやや前衛的で過激な政党だったため、日本政治の主流になることは出来なかった。

 話しが少し逸れたが、坂本商会の主軸産業は初期のおいては海運業だったが、そしてもう一つの柱が「海援隊」によるいわゆる海の傭兵事業だった。
 海援隊の起こりについて今更取り上げることはしないが、この海援隊は明治に入って坂本商会設立後に分離独立した、純粋な民間戦闘組織だった。その存在は、日本政府に認められることで国際的にも法的根拠を持ち、単なる傭兵派遣の半民半官会社ではなく、日本のコーストガード(沿岸警備隊)や海上警察としても国際的にも認知される。アジアでの安定した航路維持のため、欧米各国の各種保険会社からの出資も多く、潤沢な資金と日本から溢れてくる人材を活用することで瞬く間に組織規模を拡大し、1870年代には早くも東アジアの海で必要不可欠の存在となっていった。
 阿片戦争以来混乱の続く東アジアでは海賊は比較的多く、ヨーロッパからも遠いため列強も多くの戦力を派遣できないでいた。にもかかわらずアジアでの往来は年々増えており、海上警備の強化は是非とも必要だったからだ。当然だが、東アジア各地にある現地国家は外洋でのまともな警察行動は期待できず、それをするべき清朝などは海賊の主な発生源とすらなっていた。故に海賊対策は必要であり、それを比較的安価で担ってくれるうえに信用も高い組織は、誰にとっても使い道があった。
 と言っても、海援隊が保有する船は、商船に小口径の大砲、ガトリング砲などを積載したのがせいぜいで、高速で動ける船が主体だったのが海賊に対する主なアドバンテージだった。そして失業した武士の中でも武道に覚えのある者、覚悟の上で入隊した者が多かったため、兵士もしくは海上警察としての質は高く、白兵戦になってもほとんどの場合海賊を圧倒することができた。
 また海援隊は、設立から3年ほどで陸戦部門での傭兵派遣も行うようになっていた。港湾や沿岸部の警備が主体ながら、時折純粋な陸戦を目的とした派遣も行われていた。業務の中では、ハワイ王国警護が少し特殊だろう。しかし、日本の武士階級の失業対策という目的もあったため規模もそれなりに大きく、大隊(バタリオン)という1000人程度の戦闘部隊が4つ、陸揚げ出来る砲兵も独自に有するなど全てを合わせると旅団(ブリゲート)規模の戦闘部隊だった。そうした性質から、日本の海兵隊という向きで見られることもあった。ただし、日本海軍内には海兵隊が別に存在し、日本海軍内の海援隊に対する対抗心からか、一時廃止が取りざたされた事もある海兵隊は存続し続けている。
 なお、海援隊への入隊は、国籍、人種、さらには老若男女問わずというのが基本だった。無論、専門分野に応じて採用試験はあるし、日本語が出来る事が基本条件で、組織の性格上日本政府にも忠誠を誓わなくてはならなかった。また隊内では、人種差別、階級差別、男女差別を持ち込まないことが厳しく定められてもいた。官軍、賊軍という言葉を出すことも禁じられていた。それでも、日本及びアジア・太平洋地域での人気が高かった。日本国内でも下級士族(武士)、貧農、貧漁からの人気が高く、「隊士」と呼ばれ続けた人員応募は常に満員御礼、部門によっては数十倍の倍率となる難関だった。隊内では、能力、技術に応じて役割と報償が与えられるし、何より日本のド田舎から見れば、世界の海へと出ることの出来る海援隊は、立身出世の数少ない手段の一つだった。また海援隊及び母体である坂本商会では、海援隊向けの私立学校などでの教育、奨学金制度も広く設けていた為、そうした面でも人気が高かった。
 そして海援隊の特徴の一つに、女性も雇用するという面がある。
 食うに困る旧武士階級の救済を兼ねて、既に一定の教育を受けた武士階級出身の女性を事務や雑務、給仕として雇用したのが始まりだった。そして、明治時代で社会的な事業で女性を表立って使うことは非常に珍しく、また男性と対等な立場で女性が扱われる事も珍しかったのに、海援隊の規律は違っていた。
 このため非常に人気が高く、噂を聞きつけて欧米諸国からの隊士応募もあったほどだった。もっとも女性を使う部署は限られ、危険を伴う第一線に配属されることはまず無く、ほとんどが後方勤務で最も最前線でも医療部門までとされていた。しかし隊に入れば、基本的に護身術を身につけさせられ、咄嗟の判断力を付けるべく自主性も教えられるため、除隊後は社会からも一目を置かれるようになり、彼女たちは女性の社会進出、権利拡大の一翼を担う存在となっていく事になる。
 なお海援隊が広く人材を募集していた背景には、無論明治初期の再設立時の気風が保たれているからだった。しかし、日本政府及び軍が先に優秀な人材を確保してしまうため、抜け穴として女性や他国人に頼らざるを得なかったという背景もある。
 また傭兵という組織であるため、殆どが小規模でも戦場に出る機会も多く、欠員を補うため常に隊員を求めなければならないという理由もあった。

 話しが少し逸れたが、イギリスをほぼ例外としてアジア地域で自前の傭兵や兵士をすぐに用意できない国々からの「海援隊」への要望はかなり多く、日清戦争まで正規の日本軍よりも有名な日本の戦闘部隊となった。イギリスでは、「海のグルガ」と呼んだりする事もある。
 しかも日本が徴兵制を施行して以後は、隊内での教育制度を強化した以外でも、退役した軍人を優先的に雇い入れたり、場合によっては一本釣りでヘッドハントすることで、失業武士達の年齢が上がった後も兵士の質は維持され続けた。
 そして台湾出兵を契機として、兵士を運ぶ船の護衛などとして日本政府からも正式に軍事組織として運用されることも行われるようになり、日本政府から支出される予算も徐々にだが増えていった。運用する船についても、旧式となった戦闘艦艇を日本海軍から払い下げられることも、日露戦争以後は日常的に行われるようになった。
 一方では、海上警備、警察活動を行うための専用の船は自前で建造したり、場合によっては欧米諸国に依頼した船を輸入したりもした。そもそも日本政府としては、自分たちの手に海上警察として活動できるだけの船と組織がないから、海援隊を認めたようなものだったのだ。

 そうして海援隊は、規模と組織を拡大して実績により信用も勝ち取ると、「アジアの海の牧羊犬」として重宝されるようになっていく。日本との関係が良好な国で、東アジア、太平洋地域に軍事力を投射できない国々は、必要な場合海援隊を使った。アジアにまだ存在していた小国も、海上警備や小規模な紛争や戦乱の鎮圧のために、一時的な出費で済む海援隊を頼った。このため、海援隊同士が向かい合う可能性も出てきたため、雇用主にも注意するようになり、情報収集や外交にも敏感になり、政治的行動すら身につけていくようになる。
 もっとも情報収集や事実上の外交は坂本商会の領分であり、日本最初の総合商社には、設立された初期の段階から主に商業目的のための情報収集と分析を行う専門の部署が設けられていた。しかも世界各地に移民した日本人からの情報もすくい上げるシステムを作り上げているため、情報収集能力はかなり時代が進むまで日本政府よりも情報量が多く、精度も高かった。

●フェイズ04「明治政府と日露戦争への道」