■フェイズ04「明治政府と日露戦争への道」

 明治新政府の初期の頃は、明治三傑と言われた西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らを中心として運営された。しかし、こと軍事に関する限りは、大村益次郎の独断場であり続けた。
 天才にして現実主義者、唯物論者の大村は、日本の国防をその頭脳に描きあげ、そして達成していくだけの構想力と実行力を兼ね備えていた。変人とすら言われる変わった性格と言動の人だったとされるが、彼なくして日本の国防構築はあり得なかった。彼の合理的判断により、兵部省は陸軍と海軍に分離されることなく軍人を排除した官僚組織として維持され、海軍内には海兵隊も存在し続けていた。明治初期の海軍を低く見る向きを改め、陸海軍を完全に対等な関係としたのも大村だった。
 軍の統合指揮についても、参謀本部の常設という形で完全に一元化された。恐らく大村がいなければ、日本の軍事システムは大きく変化していただろうと言われている。
 大村の支持者となった海軍の西郷従道はともかく、陸軍の山県有朋などはまるで彼の子分や小間使いのようだったと言われている。彼は日本軍で、皇族以外の最初で最後の「現役元帥」となり、日本全軍と兵部省に君臨し続け、後に「日本のクラウゼヴィッツ」や「日本のモルトケ」とすら言われた。
 最初の組閣当然の彼は、日本で最初の内閣にも入閣して兵部大臣となった。第一回内閣で最年長の61才だったが依然として壮健で、明晰な頭脳に曇りもなく誰も異論がなかった。あっても言えるはずがなかった。大村以上に近代軍事全般に詳しい者など、日本にいなかったからだ。西南戦争も、大村がいなければもっと長引いていたとも言われている。
 一方、大久保利通が最初の内閣総理大臣になることにも、誰も異論は言えなかった。大久保は独裁的なマキャベリストで、人によって好き嫌いの激しい人物だった。だがその優秀さは、間違いなく日本随一だった。明治十年の事件を代表として、何度か暗殺未遂にあったほど独善的で独裁的ですらあったが、その優秀さは政治家、軍人の誰もが認めた。間違いなく、明治初期最高の日本の政治家だった。貧しい武士の出身ながら、極度の政治的潔癖(賄賂、蓄財嫌い)という希有な面も持っている。
 必然的に日本の第一次内閣は、大久保と大村を中心に動いた。しかも彼らは、大久保が薩摩、大村が長州という事もあって人事面でのバランスも良いとされ、日本政治の双璧としてさらなる活躍をしていく事になる。
 この中で異彩を放ったというか、半ば二人の緩衝、調整役という損な役回りを押しつけられたのが、外務大臣(外務卿)となった小栗忠順だった。旧幕臣の小栗の外相就任には異論も多かったが、彼の優秀さを知らぬ者はなく、内相か外相のどちらをさせるかでもめたほどだった。
 そうした三人の天才を中心として、日本最初の内閣は運営され、日本最初の選挙、日本最初の議会を経験する事になる。

 この日本最初の内閣の中で少し問題となったのが、海援隊の扱いだった。海援隊は日本政府の認可を受けた半民半官の武装組織であり、その性質は基本的に海上警察であると同時に傭兵組織だった。貧乏だった頃の日本にとっては、海外での軍事をほぼ全て担っている組織とすら言えた。
 大久保は、海援隊は海上警察でもあるため内務省の管轄にあるべきだとし、これを大村が一蹴して、日本の軍事組織は一元管理されるべきだとした。二人の対立で、内閣にも混乱が見られた。このため外相の小栗が、総理大臣直轄とする案を提示。これは海援隊が外国人も属する組織で陛下の軍隊と言えないので、内閣総理大臣が政府としての長であるのが自然ではないかとしたからだ。そして有事には内閣直轄という体制を利用して大本営(後の総参謀本部)に属させ、海援隊隊士は基本的に軍人ではなく軍属として扱うことで決着が付けられた。以後海援隊は、日本の中で軍隊ではない軍事組織という体裁を強めていく事になる。また当時の海援隊自身が、基本的に事務組織から末端に至るまで政府の人間がほとんどいないため、「陛下の軍隊」として扱わない事に、軍の側からも賛成は多かった。
 なお、この時の副産物として、大久保と大村個人の対立が表面化し、以後二人の元勲は互いに相手を個人的に好まない事を公言するようになる。もっとも、二人とも個人的感情と政治を混同する事は一切なかったため、他の政治家との違いを見せつける事にもなった。
 そして、明治政府が特に新政府と呼ばれていた頃は、もし誰かが暗殺や病気で突然死んだとしても、他の誰かが抜けた人の役割を担えたか担ったので、一人や二人歴史上の人物が欠けても大きな変化はなかったと言われることがある。しかし、大村、大久保そして小栗の存在は別格だったと、後世はもちろん当時から考えられていた。坂本龍馬の発想や構想、行動力にはまた別の尺度や視点が必要だったが、上記した三人の政治力、実務能力は古今東西を見ても突出していたと見られている。実際彼らが老齢を理由に第一線を退くまで、内閣総理大臣を始め要職には常に彼らの姿があった。

 しかし既に50代だった彼らが政治の第一線に立っていられる時間は限られており、日本が最初の対外戦争を経験する頃には、彼らは主に元老として大臣の座から退くようになっていた。
 そうした頃に起きたのが「日清戦争」だ。
 「日清戦争」は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月にかけて行われた、主に朝鮮王国(李氏朝鮮)の主権をめぐる大日本帝国と大清国の戦争である。 同時に、明治政府になった日本が行う、初めての対外戦争でもあった。
 そしてこの頃大村、小栗、そして大久保はすでに70代から60代半ばだったので、当時としてはかなりの老人だったが、いまだ存命で後ろから政治家達を鋭く見据え、愚かな行動は許さなかった。だが一方で、日本の国益に叶う戦争である清国との「偶発的」な戦争を止めることもなく、どうやって相手から出来る限りのものをむしり取るかを考えていたと言われる。この戦争に反対した元老と言える人物は、恐らくただ一人だった。その人物こそが坂本龍馬だった。
 当時坂本は、既に坂本財閥となっていた巨大企業体の名誉会長であり、ハワイ王国の名誉議員や名誉貴族でもあった。日本でも、幕末から明治維新の働きと坂本商会創始者としての働きから、伯爵位を授与されている。もっとも、基本的に彼は世界中を船で駆けめぐり、自らの信じるままに人々と語らって、物事を成し遂げていた。彼の実務をさせられる人々にとってはかなり迷惑な事も多かったのだが、結果として坂本財閥は拡大し、諸外国との関係は深まり、日本の領土すら広がった。
 そうした彼は、近代日本は王道を歩むべきで覇道を進むべきではないと、戦争に強く反対した。海援隊もギリギリまで清国との戦争には使わせないと言って、日本政府や日本の中枢との間に大きな溝を作り出してしまう。
 しかし結局戦争は起こり、坂本財閥と坂本と明治政府の仲立ちを小栗が行うことで両者の関係は修復された。海援隊も、輸送船団の護衛や哨戒活動に活躍した。
 そうして以後しばらく坂本は世界を巡る旅に出て、その間日本は初めての戦争に邁進していった。

 戦争自体は、日本の圧倒的優位で進んだ。
 近代国家を作り国民の軍隊を育て上げた日本に対して、旧態依然とした国家でしかない清国は、国家体制そのものが末期状態にある事も重なって、まともな軍隊は存在しなかった。
 阿片戦争以後、上辺だけはヨーロッパの文物をいくつか取り入れ、軍隊の編成も一部改められた。しかし制度や組織など目に見えにくい部分、いわゆるソフトの面までは取り入れられていなかった。しかも清国は満州族(女真族)という異民族が建てた王朝であり、主要民族である漢族にとって、清国という国家体制は命を懸けてまで守るに値しないものだった。そうした士気の面のため、軍隊としては烏合の衆に近かった。だが、清国の近代化を進めた李鴻章が育てた軍隊、実質的には私兵は例外だった。そして当時清国の主要な地位にあった李鴻章は、自らの「私兵」によって日本軍の迎撃を実施する。
 しかし結果は、清国の惨敗だった。
 戦艦を持たない相手に海で敗北し、半ば名前ばかりだった旅順要塞は一日で陥落した。戦闘は清国の負け続きで、大国清に戦争を吹っかけた事を不安がっていた日本人達は、彼らにとっての予想外の大勝利の連続に喝采を叫んだ。
 もっとも、戦争自体が基本的に日本優位に運ぶ事は、戦争を引き起こした日本政府、軍の人々にとっては、半ば既定路線でしか無かった。むしろ勝ちすぎたため、北京に進む気配すら見せた現地軍を日本中央が抑えるという一幕はあったが、概ね想定通りの結末だった。

 戦争の帰趨が決まった段階で、互いの政府は講和すべく歩み寄りを見せる。戦争の結果清国は「東洋の眠れる獅子」というメッキが剥がれて周章狼狽し、日本も戦費に悲鳴をあげ始めていたためだ。幸い列強各国も調停に乗り出しており、誰もが戦争の潮時と考えていた。
 特に、日本が勝ちすぎたと考えていた列強は、清に賠償金のための借款(純金による法外なもの)を申し入れるなど根回しに余念がなかった。何しろ列強にとってチャイナ蚕食のための準備運動だから、手を抜くことなど出来よう筈なかった。そして弱小国同士の戦争の幕引きには、領土割譲は最低限として自分たちの為にも弱い方の領土は残すべきだった。だからこそ、右から左へと移動する純金の山を清国に貸し付けようとしたのだ。
 しかし1895年1月に李鴻章の到着と共に始まった日本・下関での講和会議は、同3月20日に日本側の強硬姿勢で一旦は決裂する。争点は、日本が領土割譲(遼東半島)にこだわったためだ。
 これにより日本は真剣に北京進軍を考え、当時から満州に軍を進めつつあったロシアとの対立姿勢を強めるかに見えた。しかし、日露との激突も北京陥落による清国政府の瓦解も嫌った英国が、日清双方に強く提案を行う。日本側の真の目的が、より積極的な列強の仲介を誘うためだったので、目論見通りだったとも言えるだろう。
 なお、当初の講和の争点は以下の通りだった。

一、清国は朝鮮の独立を認める。
二、清国は遼東半島・台湾・澎湖島を日本に譲渡。
三、清国は賠償金二億両を金で(一括で)支払う。
四、欧米並みの条件の対清条約を日本と結ぶ。新たに重慶・杭州などを開港する。

 これをイギリスは、最初に遼東半島割譲を日本が取り下げ、賠償金一億両(純金換算で百トン)上乗せにしようと提案した。しかし日本は、領土割譲を譲らない政府主流派に流され引き下がらなかった。しかも主流派は、勝利に乗じて北京進撃も強く主張しており、このままでは戦争が長期化する恐れも出ていた。
 そうした中、日本側の交渉を担った伊藤博文と陸奥宗光、小村寿太郎らは、清国の交渉相手である李鴻章と、英国、日本国内の政府・軍部を駆け回った。そして、将来のロシアへの脅威、朝鮮利権の完全確保、英国との関係強化を理由に国内の強硬意見を封殺する。
 イギリスも、日本の講和促進のため清をさらに押して、遼東半島の代わりの賠償金の大幅上乗せで対応させた。清国も父祖の地の一部を蛮族に渡すよりはと納得し、イギリスの申し出を受け入れて莫大な借金を行い、日本への賠償金を整えた。
 この時、大久保と小栗が影で活躍し、日本国内においては利を説いて周り、イギリス、清国との水面下での交渉を行った。
 かくして再開された下関講和会議で清国は、朝鮮半島の主権を失ったばかりか、台湾島、澎湖島の割譲、戦時賠償金として日本に四億両(テール=6億円)の支払いを受け入れる講和条件にサインする。
 四億両の金貨(金塊)は、イギリスの金庫から清国を素通りして日本の金庫へと流れた。
 だが、満州族の父祖の地に属する遼東半島割譲を日本が取り下げた事は、清国政府と李鴻章の名誉をごく僅かだが救ってもいる。だからこそ、四億両もの賠償金を清が即金で用意したとも言えるだろう。
 かくして日本では、清国に勝ったとして戦勝に沸き返ることになる。

 しかし戦後すぐに、日本にとっての近隣情勢は悪化する。
 遼東半島を日本が得なかった代わりに、今度はロシアが清国の借款の一部肩代わりを表面的理由に遼東半島先端部を租借したからだ。この時ロシアは、清国に1億ルーブルの借款を行い、その代金代わりとして遼東半島を租借。さらにザバイカル方面から満州を通ってウラジオストクにつながる鉄道、その中間点から遼東半島に至る鉄道の敷設権を手に入れる。
 また、下関条約で近代国家としての独立を確保し、日本軍の有力な駐留を受けた大韓帝国(朝鮮王国から国号を改称)だが、ロシアの南下に従って日本の反発を買う行動が多くなり、ついには親ロシア政策を強めていく事になる。これは朝鮮半島国家の金科玉条である事大主義に従っての事であり、場合によっては責めるべきでないかも知れないが、日本の反感は一気に高まった。日本の朝鮮への政策も、初期の頃は自立した近代国家を目指させる積もりだったものが、徐々に朝鮮半島の植民地的支配へと傾いていく事になる。
 朝鮮に鉄道・電信の敷設権に加えて軍駐留権を得ていた日本は、漢城への陸軍一個旅団駐留と、日本の租界がある仁川の艦隊常駐へと徐々に強まっていく事になる。
 しかしすぐにも日本がロシアとの対決を行う事はなく、日本は日清戦争で得た外交的得点を活用して外交を実施し、莫大な賠償金を使って国力と軍備の増強に余念がなかった。

 日清戦争で得た四億両、六億円もの賠償金(※当時の国家予算の約三倍。純金四百トン)を得た日本政府は、まずは日本円に作り直した金貨の多くを国庫に納め、自国通貨「円」による金本位制度を確立した。続いて、物心両面での「円」の国際信用力強化を受けて、列強からの低利による借款を行った。この借款には、イギリスとアメリカが主に応じ、他にもロシアと敵対する国々も多くが応えるなど、日本政府が思っていた以上の資金が短期間に集まった。英仏なども、これを見越していたからこそ清国に対する賠償金の借款に応じていたのだ。
 そして日本政府は、膨大な量となった余剰資金を用いて、主に重工業の建設と軍備の大幅な増強を実施する。当時の日本が国家として何より不足していたのは、大規模重工業と欧米列強と対等に付きあうための軍事力だったからだ。そして全く自由に使える予算として、国家予算の三倍もの余剰資金を元手に得たという事は、当時の日本にとって平時十年分の軍事予算を得たも同然だった。
 そしてロシアへの対向を見据えた日本政府は、未曾有と表現して構わないであろう軍備増強を実施する。国民も、卑怯な進出を実施したロシアに対する敵愾心を燃やし、軍備増強のための重税に耐えた。

 日清戦争での日本軍は、陸軍が近衛師団と通常の師団が6個師団、海軍は巡洋艦の数こそそれなりに多いが、決戦兵器である戦艦は皆無だった。近代的な戦艦については既に2隻がイギリスに発注されていたが、それも完成は日清戦争が終わって数年後だった。このため日本海軍が最初に得た近代的戦艦は、清国から賠償として得た《鎮遠》という有様だった。
 そこで日本陸軍は、師団数の倍増を計画。まずは6個師団を増設し、1899年に近衛師団+12個体制に移行する。そして1902年にさらに4個師団が増設が決められ、1903年、1904年にそれぞれ2個師団ずつが設立された。このうち1個師団は南洋師団とも言われたように、日本が有する太平洋地域とニューギニアに移民した人々とその子孫を中心にして編成される事になった。形式としては、屯田兵中心の北海道の第七師団に近い。
 また陸軍では、ロシア兵に対して貧弱な日本兵の力を補うため、可能な限り火力を与えようと努力が行われた。このお陰で、辛うじて欧米基準の砲兵戦力を与える事は出来たが、弱点も多かった。主力の師団砲兵の砲は、国産のやや旧式でロシア軍に対して射程距離が短く、戦争が始まるまで気付かなかったが砲弾の備蓄量も少なかった。それでも火力がロシア軍より劣ることを自覚していた陸軍では、火力を補完出来る上に砲兵より安上がりな機関銃の整備を比較的熱心に行う。開戦までに各32丁(各連隊4丁ずつ)の機関銃が各師団に配備されるように配備が進み、戦争中に格段に増強されることになる。
 海軍は、俗に言う「六六艦隊」の編成が目指され、1903年には改訂して「八八艦隊」の編成へと拡大した。この「六六」又は「八八」という数字は、それぞれ戦艦と装甲巡洋艦という当時の主力戦闘艦艇の数の事であり、大きな大砲を持ち強固な装甲と高い速力を有する艦艇こそが海上戦闘の主役だった頃の象徴的な事象と言えるだろう。
 ちなみに各艦艇の名称は、戦艦が《三笠》《朝日》《敷島》《初瀬》《富士》《八島》《瑞穂》《蓬莱》、装甲巡洋艦が《出雲》《磐手》《浅間》《常磐》《八雲》《吾妻》《春日》《日進》となる。短期間の間に揃えられたため艦齢が若く、また主にイギリス製の最新技術を投じた艦艇が多かったため、組織、乗組員を含めて質は非常に高かった。
 そして海軍増強の中で、海援隊も組織の改革と増強が進められた。海援隊は基本的に海上警察であり、また傭兵組織でもあった。主に日本の航路上、外郭地で活動し、傭兵として海外に派兵されていることもあった。そして日本政府は、海上警察として以上に活用する事は少なく、薩長を中心とした閥族政治が日本の戦闘組織を日本があまり活用しないという弊害をもたらしていた。
 だが日清戦争で海上交通路維持という問題が浮上し、急拡大した日本海軍は戦闘は出来ても、輸送船団に連れ添って護衛するという面が弱いことが露呈した。また敵海上交通破壊の能力、遠距離展開能力がほぼ皆無なことも分かった。これらを補完できる組織として、海援隊が俄に注目を集めるようになったのだった。
 かくして日清戦争から日露戦争に至る間に法制度が整備され、海援隊は戦時は可能な限り日本軍に属することとされ、隊員も従来の軍属ではなく戦時徴用された軍人として扱われるようになる。一方で海上護衛組織としての増強が行われ、依然として商船を改装した武装商船主体ながら、払い下げなどで武装が強化され、以前よりも旧式艦艇の払い下げも活発になった。有事には通商破壊戦を実施するための、古い言葉での私掠船、この時代以後使われるようになる通商破壊艦の整備も行われた。
 もっとも、日本だけが海援隊を独占するような行動は、アジア・太平洋地域の弱小国家や、海上交通を委ねている諸外国から日本に対する批判も多く、海援隊という組織が時代の岐路に立たされつつあることになっていく。

 そして日本での重工業の進展と軍備の急速な増強が進む中、日本を中心とした国際環境も大きく前進していく。
 日本とイギリスの間には1902年に「日英同盟」が成立し、イギリスが「孤高の孤立」を棄てたことに世界中が大いに驚いた。日本でも、日本外交史上の奇跡と言われた。
 一方日清戦争の影響が、清国の「義和団事件」後の「北清戦争」で起きる。といっても、事件が起きたのは、清国政府が賠償金を支払う段階になってからの事だ。
 清国を袋叩きにした列強は、清国を半植民地化するべく過酷な条件をつきつけた。その中に4億両の賠償金が含まれていた。だが数年前に日本に莫大な賠償金を支払ったばかりで、さらに国力も振るわない清国は、賠償能力が既に無くなっていた。ほぼ全ての列強が相手だったので、借金を貸してくれる国もなく、仕方なく諸外国は顔をつきあわせつつ賠償金以外の賠償をしばし話し合う。
 領土割譲を欲したのは、一番がロシア、二番目がやや意外な事にアメリカだった。ドイツも領土割譲には積極的だった。とはいえ、8カ国もの国を全て満足させる領土割譲案などなかった。国によっては、租界以上の土地はいらないという場合もあったので尚更だった。そこで賠償金半額の引き替えとして、多くの土地が奪われることになる。上海の租界が拡大され、天津の租界も当初の予定よりも大幅に拡大されることになった。また海南島が各国共同統治という形で割譲された。ロシアは満州での租借地を増やし、鉄道利権をさらに拡大した。ドイツも山東省に大きな権益を確保し、イギリス、フランスはこれまでの権利を永久権利と同義語の99年契約とした。また多くの国が、清国領内での鉄道敷設権を得た。
 この中で日本が得たのは上海、天津での独自租界と海南島の共同権利だった。日本としては、ロシアの南進を出来る限り抑えたかったが、結局ほとんど何も出来なかった。
 なお列強が清国の領土を大幅に割譲しなかったのは、住民の反発が強く統治が難しいと判断したからだった。その事は北京に攻め込むときに実感されており、本来なら賠償金だけをむしり取って半植民地化できれば十分だったのだ。このため全員が得た形の海南島の統治は、かなりの期間放置に近い状態に置かれることになる。誰もが様々な場所で問題を抱えていて、阿片まみれの辺鄙な土地などに興味がなかったからだ。

 しかしその後もロシアの東アジア進出は強まり、「北清戦争」で満州入りした軍隊が引き上げることもなかった。
 日本にとって、国家の存亡を賭けた戦いが始まろうとしていた。

●フェイズ05「日露戦争」