■フェイズ05「日露戦争」

 日清戦争の勝利を足がかりとした日本は、約十年間国民挙げての血のにじむような努力の末に、有力な近代軍と重工業の基礎の建設にある程度成功した。外交面でも地盤を固め、ロシアとの対立姿勢をより強硬なものへとシフトし、自ら剣を抜き放つ形で1904年2月の開戦に至る。
 国力差は10対1と言われ、誰もがロシアの勝利を疑っていなかった。しかもロシアは、世界最強の陸軍国と認識されていたので、国力差以前の問題として、ロシアが負ける事はあり得ないだろうと考えられていた。日本に善戦して欲しいという意見は世界中で強かったし、同盟国のイギリスはそうなるように色々と算段したが、日本そのものに勝ち目はないだろうというのは既に決定事項に近かった。
 ロシア側が、ロシアが望まない限り日本との戦争はないと思っていたように、日本の行動はまさに「窮鼠猫を噛む」だった。諸外国が日本に期待したのも、ロシアの力を多少なりとも殺ぐ事にあった。
 日本は総力戦状態で戦争準備に望んだが、川上、田村という他者に代え難い作戦立案者を病気(過労死)で失うと、二人の大物政治家が降格人事の形で陸軍を背負い込む事になる。
 まずは閣僚経験を持つ児玉源太郎が参謀次長となり、その後彼が満州総軍を率いるようになると、既に80才の高齢だった大村益次郎が現役復帰して総参謀長に就任して、日本本土の日本陸軍を預かる事になる。8年前の72才の時(1896年)に、陸軍どころか政治の一線から身を引いて隠居していた大村だったが、近代日本軍設立の父である大村の現役復帰は、日本軍の士気を大いに高めた。そして世界も、首相経験すらある大村の軍務への復帰に、日本の並々ならない決意を感じる事になる。

 なお、日本軍の戦術面での戦争目的は、突き詰めてしまえば一つ。極東アジアにいるロシア軍を、「見た目」で撃破する事。ただそれだけだった。つまりは19世紀の戦争であり、既に20世紀の戦争へと変化しつつある中で、日本軍、ロシア軍共に19世紀の戦争を行おうとして、その膨大な犠牲の前にのたうち回りつつ血みどろの戦争を遂行していく事になる。
 ただし日本は、自分たちの力量を自覚していた。長期戦では必ず負けるので、短期戦の戦術的勝利によってのみ、辛うじて戦術的な勝機があると考えていた。またロシアは、まだ完成していると言い難いシベリア鉄道(※基本的に単線で、バイカル湖は1905年までフェリーで渡る状況)がアキレス腱となる。しかも満州での初期動員能力は日本の方が高かったので、日本はこの優位を利用する目算を立てていた。
 なおロシアがヨーロッパから満州までの鉄道輸送力は、一ヶ月当たり陸軍師団2〜3個と日本軍では見積もられていた。実際ロシアは、単線の一方通行を行うことで日本の想定の五割り増しの兵力と物資を満州に送り込むが、ここに日本の優位があると見られていた。
 日本の場合は、基本的に海路で兵士を満州沿岸部に送り込めばよく、その輸送力は一ヶ月当たり5個師団あった。つまり、ロシアの二倍の輸送力があり、3ヶ月で全軍を満州南部に展開することが可能だった。その後の補給と増援も容易だ。
 そしてこの海上輸送で力を発揮したのが、三菱系の日本郵船と並んで坂本財閥だった。
 坂本財閥は坂本海運という海運会社と、海援隊という準軍事組織を有していた。しかも太平洋広くに展開し、海外との取引も多いため、情報網も広かった。この当時坂本財閥は、ロンドン、パリ、ニューヨーク、上海に支店を開設しており、情報収集能力も日本政府より高いぐらいだった。
 この場合海上輸送力が問題だが、坂本海運の船舶保有量は当時約12万トン。日本全体の15%程度を占めるに過ぎなかったが、外航用大型船が主体のため、効率的な輸送が可能だった。また海援隊は、海上警備のため「巡察船」という外航用武装商船をかなりの数有し、無線機など当時の最新機器が充実していた事もあり、臨時の通報艦、偵察艦、そして通商破壊艦として有事に活用されることになっていた。しかし当面ロシア海軍は旅順とウラジオストクにしかいないため、まずは船としての能力が海援隊にも求められる事になる。そして速力、航海性能に優れた船が多いため、輸送船として使うとかなりの能力が発揮できた。しかも多くが旧式とはいえ6インチ、5インチ、3インチクラスの砲を装備するため、そのまま臨時の護衛艦としても活用できた。
 坂本海運と海援隊が、日露戦争中に運んだ日本兵と各種物資の量は全体の約2割に達すると言われ、後には通商破壊戦を実施したロシア海軍との間の戦闘すら経験する事になる。
 ちなみに、ウラジオストクから出撃したロシア艦隊は、海援隊の武装商船(仮装巡洋艦扱い)と交戦を一度行い、海援隊側がロシア海軍の戦闘艦(巡洋艦)を沈める武勲を挙げたとして、海援隊の名が日本で広まるという逸話も産み出している。

 話しを大局に戻すが、日本軍は1904年3月頃から続々と兵力を大陸に送り込み始め、予定通り6月には投入可能な全戦力の展開を完了する。
 開戦時の日本陸軍は、近衛師団と14個師団を有していた。さらに2個師団が秋頃には投入可能で、加えて2個師団の編成が始まっていた。動員により、後年兵(予備役の年長者の兵)による各師団ごとにある後備旅団も順次動員され、続々と大陸に送り込まれた。正面戦力の不利を補うため、後備兵を一部師団編成にする話しも進んでいた。日本陸軍は、終戦までに21個師団を動員する事になる。
 ただし開戦当初は、15個師団のうち3個師団が本土に留め置かれ、日本軍にとっての数少ない予備兵力とされた。このうち第7師団、第8師団が本当の意味での予備で、南洋師団(第13師団が)は冬季戦の準備に他よりも多くの装備が必要だと考えられたため、出師が遅れ予備扱いとなっていた。
 そして近衛師団を含めて12個師団が満州に順次展開し、分進合撃という複雑な形で、戦略目標の遼陽を目指した。
 遼陽は、日本軍がというより児玉が定めた決戦地であり、ここでの野戦で現状のロシア極東軍を粉砕しない限り勝機はないと考えられていた。
 だが、封鎖だけの予定だった旅順要塞での戦況が、状況を一変させる。海軍による旅順艦隊撃破及び旅順封鎖作戦の失敗により、乃木将軍を司令官とする第三軍が編成され、同方面に3個師団もの兵力を振り向けなくてはならなくなったからだ。
 もっとも、近代要塞として建設が進んでいた(まだ未完だった)旅順要塞に対して、本来なら倍の兵力を用いても構わないほどであり、日本陸軍は根本的にコンクリートと無数の火砲で固められた近代要塞というものを、全く理解していなかった。そのツケは大きかったとはいえたが、戦闘経過自体は十分以上に日本にとって幸運だった。もし旅順要塞が最後の一兵に至るまで徹底抗戦したり、少しでも補給路を持っていた場合、第一次世界大戦でのヨーロッパ各地で見られた惨状がいち早く再現され、全日本軍が要塞に係り切りになっても落ちなかっただろう。
 なお、日本陸軍が近代要塞に対して認識が浅かったのかと言えば、少なくとも常識的な作戦行動は行っていた。
 第三軍による第一回総攻撃では、予備知識や事前偵察の不備から無茶な突撃を行ったが、それは十年ほど後のヨーロッパでも見られた情景に近かった。一度は身を以て体験しなければいけない事なのだろう。その後の日本軍は、正攻法で要塞攻略を実施している。要塞攻撃の要とされた重砲兵についても、かなり初期の段階から海軍の海兵隊が全面的に参加して、長い砲身を持つカノン砲多数を要塞の周りに据え付けている。海兵隊が半ば勝手に重砲陣地を作ったことに、陸軍は各所でかなり怒ったと言われているが、海兵隊はかまわずに次々に要塞や要塞内の港に砲弾を送り込んでいた。そして海兵隊との功名争いのため、陸軍も早くから様々な重砲を旅順に送り込む事になったと言われる。この戦争で有名となった陸軍の沿岸防衛用に装備された28センチ砲も、8月には続々と旅順に送り込まれている。
 第三軍の攻撃方法も、第二回目の総攻撃からは塹壕、坑道などを掘って進む常識的な攻城戦法を主流としており、補給、補充の出来ない旅順要塞の弱点である兵員面での消耗戦を強いている。日本側の犠牲も、中盤以後は要塞攻略戦としては必要最小限と言っても良いぐらいだ。一部で非難の対象とされた乃木将軍も、当時の軍の統率者としては十分以上の力量を持っていた。
 しかし要塞攻略は、初期の日本陸軍にとっては大きな誤算で、旅順に1、9、11の3個師団を取られた満州の日本軍は、近衛師団と第2〜14から合計9個師団でロシア軍との最初の決戦に及ばざるをえなかった。

 1904年の夏の終わりに行われた「遼陽会戦」における日本軍は、第一、第二、第四の各軍(軍団)がそれぞれ歩兵3個師団を基幹とした編成で、総兵力は約15万だった。これに対して現地ロシア軍は22万を越える兵力で、数において五割以上も日本軍に対して優位だった。しかも守る側のロシア軍は、事前に陣地を野戦築城していた。当然砲兵戦力もロシア軍が圧倒しており、兵力の少ない側が相手を囲むように攻勢を行うという実に奇妙な戦いとなった。日本軍が優位な点は、機関銃の数が多いというぐらいだった。しかも日本軍が攻める側なので、機関銃の利点を活かすことが難しかった。
 戦闘自体も、日本軍がロシア軍の反撃を受けたときに、機関銃が大いに役立てられるという皮肉な場面が連続するような戦いだった。戦闘自体は、ロシア軍が決戦を望まず伝統の後退戦術を取ったことで日本の判定勝利となるも、日本軍としては実力の違いを思い知らされる事になる。
 このため早くも国内予備の第13師団(南洋師団)の増援が行われて第四軍に編入され、第四軍に所属していた第5師団が再び第二軍に再編入されている。
 また1904年が暮れる頃には、最後の予備兵力である第7、第8両師団が戦場へと投入される。これは編成中の第15、第16師団が最低限の編成と出撃準備を終えたためで、日本軍が本当に予備兵力を無くしたわけではない。

 そして日本軍が予備を投入する前後に、ロシア側の攻勢が行われた。これが1904年10月の「沙河会戦」と明けて1905年1月末の「黒溝台会戦」である。
 前者はロシア軍内の政治的要素と、運動戦を求める日本側の意図が合致した戦いだった。後者は、冬季戦はあり得ないと油断していた日本軍に対して、伝統の冬季反抗に出たロシア軍の攻勢によって起きた戦いだった。
 どちらも基本的に日本側が受けて立つ戦いだったが、戦場での日本側の異常なほどの積極姿勢と、ロシア軍上層部の政争、総司令官クロパキトンの心理状態、そして多数の機関銃の存在が、日本軍に辛うじて勝利をもたらした。この中で日本軍は、各師団にかなりの数が装備されていた機関銃への認識を大きく改め、旅順での機関銃の猛威もあって大幅に増強されていく事になる。
 そしてどちらの戦場でも、日本軍の最後の砦は機関銃陣地で、機関銃陣地が突破もしくは破壊されない限り、日本軍の戦線が突破されることもなかった。初動で攻撃する側となったロシア軍が払った犠牲も大きく、「沙河会戦」で約5万、「黒溝台会戦」でも攻勢に出たロシア軍の方が日本軍よりも五割り増しの損害を受けている。かなりの数が機関銃の弾幕射撃によるもので、見晴らしの良い戦場での機関銃の威力は、もはや悪魔的ですらあった。この事は、10年ほど後に多くの白人達が、その身を以て知ることになる。

 そして1905年2月半ば、遂に決戦の時を迎える。
 世に言う「奉天会戦」であり、日本側はこの戦いで全てを決する積もりだった。後退戦術を旨とするロシア軍も、ハルピンまでの後退を予定しながらも、政治的要素もあって奉天での決戦に意欲的だった。
 この戦いで日本軍は、歩兵16個師団を中心に27万の兵力を用意。対するロシア軍は、やや後方の総予備や騎兵部隊を含めると約26個師団を中心にした35万人を奉天付近に動員した。依然として数においてロシア軍が優勢であり、砲兵も質量共にロシア軍の方が有利だった。日本側には、旅順攻防戦でも活躍した28センチ榴弾砲や海兵隊の艦砲転用の重カノン砲、ドイツから緊急輸入された新型の野戦重砲(クルップ砲)もあったが、総合的な質はロシア優位だった。他にも騎兵戦力は比較にならず、総数僅か2000騎の日本軍騎兵部隊の虚像に怯えたロシア軍のお陰で、日本軍は事なきを得ている。兵の質も日本軍は大きく低下しており、補充の兵士、後備の老年兵がかなりの比率を占めていた。奉天の戦場とは、そうした日本軍の不利の中にあったのだ。
 しかしこの戦いは日本側が企図し、基本的には日本軍がイニシアチブを握り続けた戦いとなった。同時期にロシア軍も攻勢作戦を立てていたが、日本軍に機先を制していた。しかも戦闘が始まると、ロシア軍の司令官クロパトキンは主に旅順を攻略した第三軍の幻影(※第三軍が要塞攻略部隊だったため、実数を遙かに上回る大軍だと勘違いしていた)に怯えて兵力を右へ左へと動かしていたずらに混乱し、第三軍とさらに後方に躍進した騎兵部隊の影に怯えて自壊した。日本側も主力は正面から戦い力戦敢闘したのだが、ロシア側の自滅とも言える行動がなければ、日本軍は間違いなく敗北していただろう。少なくとも膠着状態で戦闘は終わったはずである。
 だが後先を考えないような日本軍の猛攻の前に、ロシア軍は日本軍が大規模な予備兵力を抱えていると誤認した。そしてひたすら戦線の西側を進む第三軍の包囲行動に怯えるように、負けてもいないのに自ら後退を始める。
 ここで日本軍は、そのまま総攻撃、追撃戦に転じた。タイミングが半日遅れていたら間に合わなかったかもしれないが、日本軍の追撃は比較的うまくいき、流動的な状況の中で後退半ばのロシア軍の中央突破に成功した形の第四軍と第一軍の一部は、3月9日遂に第三軍先鋒と握手に成功。日本軍が取り囲んだ中には、約11万人ものロシア軍が後退半ばという最悪の状態で取り残されていた。
 この時第三軍の先鋒となっていたのは新設の第14師団で、包囲の先鋒にいたのは第四軍の南洋師団として弱兵扱いを受けていた第13師団だった。彼らは包囲網を突破しようとするロシア軍と一日以上激戦を繰り広げ、間断ない機関銃弾幕によって遂にロシア軍を降伏に追い込むことに成功する。
 「奉天会戦」の結果、日本軍の損害が死傷7万5000人なのに対して、ロシア軍は戦死約1万8000人、負傷約5万人、捕虜約10万2000人。質量共に勝るロシアが、半ば要塞化された野戦陣地を活用した極めて有利な野戦において敗北した戦いとなった。
 そして全軍の三分の一と重装備の多く、さらには殿(しんがり)となるべき兵力すら失ったロシア軍は、3月9日の時点で完全に敗走してしまう。満州平原での兵力差は、遂に拮抗するまでに縮まった(露:日=35:27→→18:19.5)。しかもロシア側の数字は後方の予備兵力を合わせた数字であり、前線での兵力数は数の上ではあったが日本軍が初めて有利となった。
 もっとも、その後の日本軍の追撃は、はかばかしくはなかった。何しろ、10日近くも連続して激戦をしたばかりだった。しかも前線の兵力(歩兵)が枯渇している上に重砲弾が弾切れしている事もあって、総崩れとなって逃げるロシア軍をただ追いかける形にならざるを得なかった。あまりの物資の少なさに、奉天で得たロシア軍の捕獲物資を使う事で追撃戦が行われた程だった。そしてロシア軍が守らずに放棄した鉄嶺、開原、四平街を何の抵抗も受けずに難なく突破。ロシア軍は、後退中の混乱でさらに1万人以上の兵力が日本の捕虜となる。これは後退戦術を得意とするロシア軍にとって珍しい事でもあり、それだけ奉天での致命的な敗北が衝撃だった事を伝えている。
 ロシア軍の敗走は春分の日を越えて約半月間続き、物資の補給と若干の補充兵力が得られた長春でようやく止まった。ロシア軍の後退戦術に乗せられてはならないことを十分に理解している日本軍も、3月23日に長春の手前にある公主嶺近辺で軍主力の前進を停止。両軍は、やや間隔を開けて対峙する事になる。
 対峙した両軍の兵力はほぼ互角。しかしロシア軍の捕獲兵器で一部武装しているような日本軍に対して、ロシア軍は元気のある部隊が半分程度残されていた。
 ただし勝ちに乗じる形での日本軍の積極姿勢は続き、秋山騎兵団は偵察行動や威力偵察を継続し、一部は東清鉄道沿線とハルピン近辺にまで進出して、東清鉄道の運行を一時寸断したりするなどロシア軍への偵察とハラスメント目的の攻撃を続けた。

 奉天会戦での大敗に慌てたロシア中央は、当然とばかりにヨーロッパから大規模な増援を送り込もうとする。ロシアの沽券にかけて、弱小な有色人種に対して敗北のまま戦争を終わるわけにはいかないからだ。
 実際、1個軍20万の欧露軍精鋭が移動の準備を、敗北すぐにも始めていた。
 だが、ロシアの国庫は既に戦費で酷く圧迫され、国民は重税と物不足に苦しんでいた。日本の水面下での活動も重なって、革命の危機も起きた。
 しかもフランスが、自国の安全保障上のために活発に活動を開始する。今以上のロシア軍のアジアへの兵力移動は、対ドイツ外交でフランスの不利となるからだ。またドイツも、ロシア軍全体がさらに軍(兵士)を動員しそうな動きを見せたため神経質になり、政治的活動を活発化させる。
 一方戦勝に浮かれた日本本土の軍の一部では、鴨緑河軍を長春方面から沿海州方面に移動させようとする。だが、当時日本軍の中枢にいた大村益次郎はこれを許さず、病床の身だった大久保利通は愚かな政治的行動を行う現役政治家達を痛烈に批判して、桂太郎首相らを援護した。大元老と言われた人々が認めたのは、北樺太(北サハリン)への侵攻、朝鮮北部からのロシア軍の掃討だけで、他方ではロシア軍への嫌がらせの攻撃以上は頑として認めなかった。組織の締め付けの為、何名かの若手将校を見せしめでパージもしているほどだった。政治的行動を見せた山県有朋も、大村に大勢の前できつく怒られている。
 これを受けて、新設の第15師団が投入されて、難なく樺太北部を占領。日本軍が初めてロシアの大地を占領する事になる。また陸での侵攻は行われなかったが、樺太北部から黒竜江(アムール川)河口部への牽制作戦が実施され、日本軍が攻め込むことが可能なことを見せた。また夏になると、海軍の一部がカムチャッカ半島やオホーツク海沿岸を散発的に攻撃して、ロシア軍に兵力分散を強いている。
 一方、奉天会戦の結果、日露戦争の決着が実質的に付けられたと考えた各国は、日露の講和を本格的に開始する。
 ロシア側のセコンドだったフランスなどは、これ以上ロシア軍が弱体化してドイツに対する抑えが無くなることを恐れ、ロシア側に一日も早い講和を画策するようになる。一方日本のセコンドに付いていたイギリス、そして講和会議の場を提供したアメリカは、日本の財政状況を知っていたため講和を急いだ。

 だが、弱小な有色人種国家に対し、賠償金支払いと領土割譲を一切行う気のないロシアの強硬な姿勢のため戦争は継続。1905年5月27日の「日本海海戦」を迎える。
 同戦闘は、決戦兵器である戦艦の数の差からロシア・バルチック艦隊が優位とも言われていた。しかもロシア海軍の艦隊は、その名が示すとおりロシア本国艦隊だった。一般大衆の認識からすれば、本来最精鋭を集めた旅順艦隊は植民地警備艦隊程度であり、負けても仕方がないという感情もあった。しかしバルチック艦隊は本国艦隊であり、白人国家の一角の本国艦隊が有色人種国家の海軍に負けるはずがない、というのが世界の一般認識だった。
 だが戦闘は、軍事史上で記録に残るほど日本海軍の一方的勝利に終わる。ロシア海軍の本国艦隊であるバルチック艦隊は、連合艦隊司令長官東郷平八郎提督が下した「トーゴー・ターン」とも呼ばれる戦史に残る命令と、日本艦隊の正確無比な艦隊行動と砲火に対して為す術がなかった。戦闘は会敵してから僅か数時間で決し、ロシア艦艇の殆どが沈むか穴だらけとなってしまう。それでも残存したロシア艦艇はウラジオストクを目指したが、日本艦隊の執拗な波状攻撃によって沈むか降伏を余儀なくされ、文字通り全滅。バルチック艦隊と同規模だった旅順艦隊の壊滅と合わせて、全ての主要戦力を失ったロシア海軍自体が機能不全に陥ってしまう。
 日本人の全てが、いや世界中が奇跡の現出を驚きそして称えた瞬間だった。いや、日本海軍が伝説となった瞬間だったと言えるだろう。

 これで流石のロシアも講和のテーブルに付く意志を見せ、ようやく戦争に幕が下りる。
 アメリカのポーツマスで開催された講和会議では、賠償金をロシアが支払うかどうかが最大の争点となった。
 また、日本軍の最大進出線がハルピン近辺の東清鉄道上だった事が問題となる。加えて日本側は、北サハリン(北樺太)を奪ったことで、ロシアの領土に攻め込んだ実績を強調した。
 ちなみに、当初日本側は、戦争の初期目的である韓国の独立、南満州の利権、遼東半島の権利以外に、樺太島北部の割譲、賠償金15億円などを提示していた。そして度重なる敗北を経たロシア側も、樺太島、賠償金以外は応じる姿勢を示していた。大国の面子として、有色人種の小国に領土を割譲され賠償金を支払うことは、自らの国家統治、外交など多くの面でマイナスが大きかったからだ。
 しかし軍事的にもサハリン(樺太)全島が日本軍に占領され、東清鉄道の円滑な運行がままならなくなる弊害が出ると、ウラジオストク、ハルピン、東清鉄道を是が非でも維持したいロシアもある程度の譲歩を行わざるを得なくなる。
 結果、以下のように講和条約は成立する。

・北サハリン(北樺太)の日本への割譲
・南満州鉄道の利権譲渡(ハルピンまでの乗り入れも認める)
・南満州のロシア利権の譲渡
・遼東半島の租借権の委譲
・韓国の独立の保証(再保証)
・カムチャッカ半島、オホーツク海全域での日本の漁業権

 なお交渉の中でロシア側は、南満州の一部利権の代わりに、一時期カムチャッカ半島と周辺島嶼を日本に割譲する提案を行っている。しかしこれでは日本とアメリカが国境を接することになるので日本側は神経質になり、エスコート役だったアメリカも反発を示した。この代替案として、当初ロシア側が長春までと考えられていた日本の鉄道利権を、実質的にハルピンまで伸ばすことを認めるに至る。
 ただしロシア側は最後まで賠償金については譲歩せず、日本側、特に日本国民を大きく落胆させる事になる。
 この時、国内情勢を重く見た日本政府だったが、勝利に安堵した事もあったのか、実質的にほとんど何も行動を起こさなかった。だが老齢のため病床の身である大久保利通は、今後の国家戦略上での重要性を看破。周囲の反対を押し切って議会の壇上に上り、人々に日露戦争の意義を訴えた。
 老齢かつ病床の身を押して壇上に立った大久保利通は、今回の戦争目的は直接的にはロシアからの侵略を防ぐための自存自衛のための戦争だと人々に伝えた。その上で、この戦争の勝利によって、日本が列強から蹂躙されることが無くなる大きな機会となる戦争だったと付け加えた。そして、自存自衛を達成する事はペリー来航以来日本人の悲願であり、その悲願が遂に達成されたのだと話しを結んだ。
 その中でロシアに対する勝利は、日本国民一人一人の努力の賜物とするも、大いなる僥倖であると断じた。勝利にはイギリスの手助け、イギリス、アメリカを始めとする日本に好意的な国々からの手助けや借金無くして叶わず、日本の力がまだまだであるとも説いた。
 日本軍内でも、総参謀長となっていた大村益次郎が軍部の浮かれ具合を徹底的に締め上げ、そのために今で言うオペレーションリサーチを徹底的に行わせ、日本本土に残留したエリート軍人達に現実を教えるべく老骨にむち打って奮闘した。また大村は、戦争中も頻繁に陸軍中央の秀才達を無理矢理戦場に赴かせ、素行の酷い者は最前線に配置するなど、後の日本軍のエリートから恨まれる行動をかなり行っている。だが、日露戦争の戦勝に浮かれた軍部の綱紀粛正には一定の効果が見られた。当時の日本では、官僚組織、純粋培養の英才教育の弊害が萌芽し始めていたからだ。
 ほぼ同時期、70才に迫る高齢にも関わらず依然として世界中を駆け回っていた坂本龍馬が、アメリカから帰国。人々に世界と日本の関わりについて説いて回った。また坂本は、以前から自らの財閥が抱える報道関係を駆使して日本人の啓蒙に務めていたが、この時の活動は完全に採算度外視で戦争の意義と日本の現状を伝えた。
 こうした大元老達の動きには一定の効果があり、扇情的に国民を煽り政府をけなしていた報道(新聞)もその論調を弱め、国民の多くも落ち着きを取り戻していった。
 しかし一部に不満を持つ者、過激な人々を産み出すことにもなり、大久保利通が療養中の病院で暗殺されるという悲劇的事件を起こしてしまう。この暗殺劇は、日露戦争後の日本人に冷や水を浴びせると共に、勝利を後味の悪いものにしてしまう。そして大久保利通は、日露戦争最後の戦死者だとその後語られるようになる。
 さらにその後、大久保の方針、人格、行動が見直されると共に、無軌道な暴走を抑止する一つの切っ掛けとなっていった。これは政府要人の警護の為の専門組織が警察内に作られ、軍内部での武器所持に制限が行われるという物理的な側面だけでなく、個々の日本人に対する教育、啓蒙活動にも現れる事になる。

●フェイズ06「日露戦争後」