■フェイズ06「日露戦争後」

 日露戦争は、基本的には日本とロシアの戦争だった。しかし日英同盟、露仏同盟に代表されるように、世界の主な列強が政治的に絡んだ戦争でもあった。北東アジア地域でも、戦場となる清国と韓国が多少なりとも関わっていた。
 そして清国と韓国に共通していた認識が、日本は必ずロシアに敗北するだろうという点だった。そうした認識から外交を構築したため、日露戦争前から戦争中にかけては必然的に反日外交が行われた。その中で日本に対する完全な敵対行為だったのが、「露清密約」だった。
 内容についてここでは割愛するが、明らかに日本に対する敵対行為であり、交戦こそしていないが戦争行為に他ならなかった。このため日本政府は、偶然から露清密約を知ると、英国の調停を受けて清と戦勝国と敗戦国という立場で交渉を行う。清国とロシアは、日本が戦争に負けた後だけではなく、戦争中の事までロシアと密約を交わしていたのだから、国際的には罰せられて当然だったのだ。そして清国に、ロシア軍をうち破った日本と戦う力もなかった。
 この結果清国は、戦うことなく日本の敗者として会議にを持たなければならなかった。
 またも敗者の側につかされた清国だが、1900年の「義和団事変(北清事変)」で課せられた莫大な賠償金もあって、既に金銭での賠償能力はなかった。日本に渡せるような鉱山や港湾もなかった。清国にあるのは、父祖が築いた広大な領土だけであり、当然とばかりにその領土が賠償対象とされた。
 賠償には主に領土割譲、租借の二種類あったが、「露清密約」は政治上では戦争行為となるため扱いは重く、主に領土割譲が選ばれることになった。しかもロシアすら庇わなかったので、清国の扱いは非常に悪かった。
 日本への割譲対象には、日清戦争で一時期争点となった遼東半島全域が充てられ、加えて遼寧省の各種日本利権も九十九年契約に変更された。
 通常なら諸外国から非難を浴びかねないのだが、日本は基本的に一定の門戸開放を同盟国のイギリスなどに約束し、ロシアの北満州の利権を日本が認めることで互いの利権を認め合っていた。そして何より、日露戦争での勝利者としての日本の立場が、世界の果てでの利権確保に対して他国に文句を言わせなかった。

 日露戦争の結果、遼東半島に加えてロシアから割譲された領土(北樺太)を含めて日本領土は多少なりとも領土が広がり、使える地下資源も増え、開発のためにも外地での外資受け入れ機運が出来てくる。何しろ日本には、金が無かった。
 このため、日露戦争で同盟関係にあり幾多の支援を行った大英帝国に対して、同盟への感謝の意味をこめて南満州利権の一部を解放することが決められる。日本政府内では一部閣僚に反対意見もあったが、外交的借りの大きさと山と積まれた借金を考えると、その程度差し出さねば同盟維持すら危ういという意見が主流となったためだ。
 いっぽう、多額の戦争債務を買い、ロシアとの講話の仲立ちを行ったアメリカ合衆国に対しては、日露戦争の前後して結ばれたアメリカの鉄道王ハリマンとの約束を守ることになる。
 とにかく借金まみれの日本としては、国家の安全保障のためにイギリスを必要とし、アメリカの資本力が必要だったのだ。でなければ借金の債務不履行という最悪の事態が、今すぐではなくても恐らく十年後ぐらいには到来すると予測された。近代国家としてそれだけは避けねばならない日本としては、苦渋の決断だったとも言えるだろう。加えていえば、遼東半島とハルピンまでの鉄道を経営するだけの金もなかった。
 一部国民は、日露戦争での僅かな利権を明け渡すような行為に激高したが、先の講和の際の元勲達の説得もあって極端すぎる方向に走る者も少なく、この時も政府、元老達が国民の説得に力を入れたこともあって、日本国内に状況を受け入れさせている。
 そして各国の利権を確定させるべく、イギリスとの間には日英同盟が改訂され、日本政府の外交努力もあって日本とロシアとの間には協商関係(日露協商)が結ばれた。アメリカとの間にも、1909年にタフトが大統領になってから東アジア限定ながら事実上の限定的な協商関係が作られ、日本は白人国家とほぼ対等の立場で列強の末席へと着くことになる。
 そして日本が列強につく一方で、白人国家に分類されるロシアに対する日本の勝利は、植民地支配を余儀なくされている世界中のアジア、アフリカ民族を勇気づけた。特にアジア近隣では、独立運動家や独立運動グループが、同じ有色人種と言うことで日本をあてにするようにもなった。日本側もそうした動きには好意的で積極的支援を実施し、中華地域の孫文に対するように多額の資金援助を実施した例もあった。
 こうした日本の動きを欧米列強は少しばかり苦々しく思ったが、20世紀初頭で繁栄の絶頂にあった欧米社会は、日本という有色人種国家が頭角を現した程度で世界が変わる事はないと考え、多少釘を指す程度のことしかしなかった。
 この頃の世界では、日本という国は珍獣でしかなく、間違いなく欧米白人国家群の時代だったのだ。
 そして日本は、日露戦争での判定勝利により列強の末席に座ったに過ぎず、とにかく貧乏だった。

 日露戦争では多額の借款をしていたし、その前の十年間も増税に次ぐ増税により何とか軍備を整えたに過ぎなかった。政府の一部では、最悪の場合は債務不履行すら想定していた。戦費そのものは、当時のGDP(国内総生産)を上回る20億円以上にのぼり、国民に対する過酷な増税で賄ってもなお17億円の借金が残っていた。しかもこれは、借金抜きの税収が1億円や2億円の時代の話しだ。
 欧米列強が日本を軽んじるのも、ある意味当然だったのだ。
 このため、少しでも国内の出費を減らす努力が行われる。最も削減対象となったのは、日露戦争で肥大化した軍だった。
 政府は、ロシアに対する勝利と外交努力によって安全保障体制は高まったとした上で、陸海軍の実戦部隊のかなりを解体し、それでも足りないので兵部省の人員すら削減した。この結果、陸軍は平時17個師団体制とされた。海軍では、ロシアから多数の戦利艦を得るも、修理も編入も多くが行われずに技術調査中心として据え置かれた。そしてその上で戦利艦の約半数は、二年ほど経って旧式化が明らかになった時点でロシアに売却という形で返却して外交得点とした。その上で数隻の戦艦を修理するも、修理した時点で旧式戦艦となってしまったので、数年を経ずして維持費惜しさに海援隊に払い下げてしまう。
 この削減には、日露戦争後すぐで「軍神」が徒党を組んでいた感の軍人達が猛反発したが、近代日本軍の父である大村益次郎が理路整然とした小論文を世に出した上で一喝すると沈黙を余儀なくされた。また、山本権兵衛など軍部の上層部にいた人々の賢明な判断もあって、比較的すんなりと軍備削減の実施を行うことができた。しかも大村は、他の元老、大元老達と共謀し、兵部大臣は文官とする法を憲法内に強固に盛り込み、さらには軍の統帥に関しも憲法内に一文を入れる事を自らの最後の仕事とした。幕末を知り、リアリストでも知られる大村は、勝利に驕った日本軍人達の危うさを見抜いていたと言えるだろう。その後も大村益次郎は晩年まで日本軍全体に睨みを効かせ、1911年にこの世を去るまで明治政府及び軍に強い影響を及ぼし続けた。

 適度な軍縮に代表される賢人達の政策によって日本の国家財政の健全化が図られたが、それだけでは不足だった。
 新たに得た植民地や利権を開発しなければならないし、それ以前の問題として日本には足りないものがまだまだ存在していた。
 そうした開発の象徴が「南満州鉄道株式会社」だった。
 日本政府は、ポーツマス条約締結後に、アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンとの協定に正式調印した。この時、日露講和の際の全権大使だった小村寿太郎が激しく反対したが、彼と一緒にアメリカから日本に帰国した坂本龍馬と、坂本が引き合わせた小栗忠順の説得に応じた。この時小村は、ハリマンと事実上手を結んでいたとして坂本を激しくなじったと言われるが、小栗の誠実かつ理路整然とした言葉には首を横には振れなかったとされる。この時小栗は、「畑には肥やしがいる」といって説得したと言われる。
 なお「日本=ハリマン協定」とも呼ばれるハリマンの南満州鉄道株式会社への参加において、ハリマンは日本政府に1億円の低利による借款を行い、その上で1億円を南満州鉄道株式会社に投資した。つまり日本は、満州での開発資金を得た上で、一部借金の事実上の返済も行えた事になる。その上で日本政府は、南満州鉄道のためにイギリスとアメリカ資本(モルガン・グループ)から約1億4000万円を借款。これに国内から募った株式を加えて、資本金3億円で南満州鉄道株式会社を立ち上げ、ハリマンの影響力をある程度阻止する事にも成功した。他のアメリカ資本とイギリスの影響力拡大も危惧されたが、アメリカの巨大資本家同士と、イギリスとアメリカが日本の利権上で適度に牽制し合う事は、日本にとっては好都合だと判断された。日本の利権にイギリスばかりかアメリカを組み込み、その上でロシアとの関係を作ることで満州の安定が図られると考えられた。この四カ国の関係に他国が立ち入ることは難しく、事実清国は完全に蚊帳の外とされた。
 そして南満州の開発は、労働力と軍事力を日本が提供し、アメリカは資本と技術を提供。足りない技術、資源などは、イギリス、ロシアから調達された。
 このため満州南部は、日本本土より遙かに速い速度で開発が進み、大連、奉天、長春などの主要都市は見る見る発展した。ロシア利権のハルピンにもアメリカ資本が入り込むと同時に、南満州鉄道の好影響を受けて活況となった。路線を走る鉄道も、アメリカが国内の中古品を大量に持ち込むことで、修理と機関車などの確保が行われ、すぐにも円滑な営業が実施された。さらにアメリカが持ち込んだ大量の蒸気土木機械は、日本人にアメリカの力を見せると共に、自分たちも利用したいという欲求を起こさせることになる。
 そしてこの満鉄は、初期の台湾開発で頭角を現した後藤新平が総裁に就任して会社組織の基礎を作り上げた事から、当時の日本の他の組織とは一線を画す組織となり、その後の発展へと繋がっている。満鉄調査部といわれるシンクタンクの整備がその典型で、当時こうした方向性を持っていたのは、坂本財閥の一部組織だけだった。

 なおハリマンは、シベリア鉄道を使ったヨーロッパへの乗り入れ、北京に向かう鉄道買収を画策した。1909年にアメリカで「ドル外交」を推進するタフトが大統領となると、新たなフロンティアである満州にも大量のドルが投下された。この資本投下は、日本領の遼東半島はもとより日本本土や朝鮮半島にも行われ、大きな資本投下と様々な分野での需要が発生した日本経済を大きく牽引した。また日本本土は、満州に必要な工業製品の生産拠点としても活用され、産業の工業化が進む一助ともなった。
 また、アメリカの資本投下によって、ロシア極東、ロシア利権の東清鉄道も好影響を受け、ロシア極東へのロシア人移民が進んだりもした。
 ただし、主権国の日本すら押しのけるようなアメリカのあまりにも強引な満州への資本進出は、イギリス、ロシアの反発を受けてアメリカの思い通りには進まなかった。日本でも、強引なアメリカに不満を持つ者は多かった。ハリマンは、何とか北京、天津への乗り入れには成功するも、イギリスが首を縦に振らなかったため、上海乗り入れは実現しなかった。本命であるシベリア鉄道に対しても、ロシアの既存利権であるハルピン以上には進めなかった。このためアメリカはイギリス、ロシアに不満を持ち、外交力に劣る日本にもたびたび文句を付けた。当然イギリス、ロシアもアメリカに不満を持ち、日本もとばっちりで英、露との関係が若干悪化してしまう。イギリス、ロシアは、何故日本はアメリカを満州に引き入れたのかと、アメリカのいない席でよく愚痴をこぼしたと言われる。
 この流れは、1911年の「辛亥革命」まで変化はなかった。
 ただし、遼東半島全域が正式に日本領となったため、日本政府による統治が実施され、植民地ではなく領土経営が始まる。大連には総督府も設置された。とはいえ現地には地下資源はほとんどないため、農地主体の開発が行われるが、とにかく社会資本が不足していた。加えて領土化したことで、無軌道な中華系住民の移住を禁じたため、労働力にも不足した。
 このため、当面は一部沿岸部を例外として主に鉄道沿線沿いの開発が主体となり、日本政府が期待したほど開発は進まなかった。それでも、まともな農業ができる新天地と言うことで、北海道のように大規模経営を目指した農業移民が徐々に流れていくようになる。
 なお1912年には、満鉄は別のアメリカ資本を加えて、日米合弁で鞍山製鉄所、鞍山鉱山を開設。以後現地での製鉄と鉱山採掘を行い、日本への鉄鉱石及び中間工業資源となる銑鉄の輸出を拡大した。しかしこの製鉄所と鉱山は、鉄鉱石の豊富な適地を選んで開発したため満鉄の鉄道付属地から外れ、当時は匪賊(馬賊、山賊)に対する警備が必要となる場所にあった。そして現地は日本の利権の外にあるため、海援隊にお鉢が回ってきて警備を担うようになる。
 もっとも、鞍山鉱山の鉄鉱石の質があまりよくないため、アメリカの技術がないと初期の開発や発展は不可能だった。それでも大規模な鉱山と日本の八幡に次ぐ大規模製鉄所の誕生は大きな効果を発揮し、満州発展の中心の一つとなっていく。

 一方、日本が日露戦争で得たもう一つの利権である北樺太だが、北緯50度以北に広がる極寒の地であるため、農業には不向きだった。これを北海道、南樺太開発の多くを担っていた坂本財閥が事実上開発権を独占した。
 既にロシアの手で炭坑(=ズエ炭田)が開発され始めていたため、それを引き継いだ形で北樺太炭坑を中心とした開発が始まる。農業は密度の低い牧畜が主体で、寒冷地でも行いやすい羊、山羊の牧畜(放牧)、酪農を目的とした牛の牧畜が行われた。農作物は、大麦やライ麦、ジャガイモが限界だった。
 樺太島は冬が長く辛く海は凍り付くが、5月から10月の半年間は日本本土よりずっと過ごしやすく、特に夏は素晴らしく、牧畜事業を行うにはそれなりに好条件の場所だった。
 しかし坂本財閥と日本政府の一番の目的は、島の北端部に存在が確認されている油田だった。既に日本でも、照明を中心に石油の利用は進んでおり、世界的には新たな動力機関の新エネルギーとしても注目されている石油は、国内には新潟、秋田に多少ある程度だった。このため北樺太油田(緒端油田)には大きな期待を持っており、坂本財閥がアメリカで学んだ技術を活かした開発が、早くも1906年から開始される。
 試掘は1907年に成功し、以後規模を拡大しつつ産油量を伸ばし、向こう四半世紀の間日本に安定した石油供給をもたらすと共に、開発と輸送を担った坂本財閥に大きな財を築かせる事となる。他社も石油開発に名乗りを上げたが、明治初期からのオホーツク地域での坂本財閥の優勢、石油採掘技術の優位から、坂本財閥が石油開発の殆どを占める事になる。

 そして日清戦争、日露戦争の争点だった朝鮮半島問題だが、こちらは一筋縄では話しが進まなかった。
 朝鮮王国は、日清戦争によって近代的国際ルール上でようやく自主独立を達成して大韓帝国と名を改めた。帝国という名は不釣り合いだが、近代以前の東アジアでは「皇帝」とは欧州での「国王」を現し、「大」の頭文字は自主独立の国の事を現すため、ごく普通の国の名前と言うことになる。要するに「韓国」または「韓」であり、欧米からはコリアと呼ばれた。
 だが、自主独立を達成させたのが近隣で最も弱小な国の日本だった事が、主に朝鮮半島住民にとって問題だった。
 近隣で一番強いのは、強引に南進を進めるロシアであり、大韓帝国と名を改めた朝鮮民族の一部の人々は、彼らの半ば遺伝子的行動である事大主義に沿ってロシア人に接近する。これが日露戦争の原因の一つでもあったのだが、そのロシア人は日本人に叩かれ朝鮮半島から手を引いた。これにより朝鮮半島の生殺与奪は日本の手に帰することになり、近隣諸外国も「どうぞお好きに」と利益も少なそうな朝鮮半島を諦めた。
 そして朝鮮半島の生殺与奪の権利を与えられた日本では、衛星国もしくは保護国として勢力圏に含めようという一派、併合して日本の一部にして積極的に開発を行い国富の拡大と国防の一環に据えようとする一派、そしてごく小数の自立を促して朝鮮半島住民自身による近代化と国家建設を進めさせようとする一派に分かれていた。もっとも、自立を目指させようとする一派は、朝鮮半島住民からも僅かな支持しか得られず、また日本国内からの反発も強いため、まともな勢力を形成する前に自然消滅していった。
 そうして保護国派、併合派が対立したのだが、政府中枢を見ると年齢を重ねている者ほど併合には反対していた。理論的には、近隣情勢はある程度安定し、朝鮮王国時代からの借金を日本が抱える能力はなく、誰かに取られないように半植民地化して実利だけ吸い上げれば良いという考えの方が筋が通っていた。併合派は国防のための開発、領土化を最終目的とした長期的植民地経営による総合的国力の拡大を旗印に掲げたが、元老達の意見は大きく二つに割れた状態が続いた。
 しかもここに市場進出を実施しているアメリカが、保護国で止めるのが文明国としての節度ではないかと「意見」し、日本国内のナショナリストは反発を強め、かなりの者が併合へと傾いた。
 しかし大元老である大村は、寝床に老齢の身を横たえながらも併合には断固反対を貫き、首を横に振るだけの大村の意志を拒絶できない長州閥も基本的には併合反対だった。大村の子飼いでもある伊藤博文は、その急先鋒となっていた。
 また、旧幕臣のため発言力がやや小さい小栗も、合理的側面から併合に反対していた。坂本財閥の坂本龍馬は、イギリスのアイルランド問題を見るように、文明地域の併合は百年の禍根を残すとして断固反対していた。財界は、基本的に利権が一銭でも安く得られるのなら文句はなかった。そうした意見を汲んだ伊藤博文が、保護国派の主導権を握っていった。
 また日露戦争で新たに領土を得た事で余力がない事、明治初期の頃に得た太平洋各地の植民地経営にも力を入れなければならない事など物理的な制約もあって、結局朝鮮併合は無期延期。時期を見て再度議論するという一文を添えた上で、大韓帝国は日本の保護国のまま留め置かれる事が閣議と議会で決定される。

 しかし大韓帝国は、近代国家としては何もかもが足りていないため、外交、軍事、中央税制を日本が握った。故に保護国状態だった。主に日本が行った主要鉄道、重要港湾、電信の敷設権と最優先使用権、関税権、炭坑、鉱山の採掘権を日本が獲得した。さらに、釜山港、縦貫鉄道とその付属地は99年契約で租借(便宜上西暦2009年まで)された。済州島のみ「国防上の理由」で大韓帝国から日本に割譲。その代わり大韓帝国の借金の一部を日本が肩代わりして、両者の新たな関係が成立する。
 しかしこの結果、朝鮮半島の経済的利益は、完全に植民地化したり併合したよりも多くが日本に奪われるだけの結果となる。加えて、大韓帝国の日本に対する借金はその後も増大を続けたのに対して、朝鮮民族自身による近代化、国土開発は低迷を続けたため、日本の主に経済的な支配は年々強まる結果となった。
 しかも朝鮮国内では、依然として両班と呼ばれる世襲官僚による民衆への無学化政策を基本とした伝統的な支配が続いたので、発展の速度はイギリス統治下のインドを下回ると言われた。民族独自の文字を数百年前に作っておきながら、両班の権力維持の無学化政策ため、その多くが無為に失われるという失態も犯している。両班達が、自分たちの朝鮮半島内での権利、権益を維持するために国を日本に売ったのだと後世言われるのは、そうした大韓帝国自身の国内政策のためだ。
 それでも、保護国となったことで朝鮮半島から日本への留学や技術習得への道は開かれ、日本側も朝鮮人の日本への留学受け入れ、技術支援などは有償ながら一定割合で行ったため、徐々にではあるが朝鮮半島も発展へと進んでいくようになる。朝鮮住民にとって、日本人が運営する縦貫鉄道や釜山の港は、外の世界に行くための夢の架け橋の象徴となった。
 しかし朝鮮半島が選ばされた道は、半世紀ほど前に日本が選んだ道よりも険しく厳しいものだった。19世紀の間に帝国主義に乗れた国と乗れなかった国の違いは、決定的だったのだ。

●フェイズ07「グレート・ウォーまで」