■フェイズ09「グレート・ウォー(2)」

 戦争が始まった年の秋、イギリスとフランスは、日本に海軍だけでなく陸軍の大規模な派兵も要請してきた。数は15個師団。平時の日本陸軍のほぼ全力だった。理由は単純で、塹壕戦により膠着状態に陥ったフランス北部の西部戦線には、一兵でも多くの兵力が必要となったからだ。

 当時日本陸軍は、近衛師団と16個歩兵師団、2個騎兵旅団、4個重砲兵旅団を擁していた。平時の兵員数は約20万人。列強の中では小規模な部類の陸軍だった。しかし日本の国家予算規模を考えるとこれでも多すぎるぐらいで、列強の椅子を維持するため無理をして抱えている兵隊達だった。
 その陸軍を根こそぎ派兵してくれと、英仏が言ってきた事になる。
 しかし日本政府は、海軍はともかく陸軍については当初派兵を謝絶した。しかも大戦初期の頃は、海軍ですら海援隊が主体で、海軍そのものは艦艇を派遣していない。陸軍自体も派兵には反対で、自らが使い潰されることを強く警戒していた。また日本政府自身も、際限ない派兵要求へと拡大することを恐れていた。
 それに日本単独でヨーロッパに陸軍を派兵した場合、その後の補給と補充を考えると1〜3個師団が精一杯だが、そんな小さな数字では戦局に何ら寄与できない事が分かっているので、政治という面でも陸軍の派兵はしたくなかった。
 この状況に変化が訪れるのは、やはり海援隊が引き金となった。
 海上戦闘組織である海援隊だが、海兵や傭兵としての陸上戦部門を持っていた。その傭兵部隊は、戦争に伴って「需要」を見越した規模拡大を足早に行い、早速ヨーロッパに向かう自らの船に海兵隊員として乗船していった。これだけなら大きな問題はなかったのだが、海援隊はそれまで中隊規模だった基本編成の部隊を戦時編制の大隊規模に拡大し、全体の規模も旅団規模に再編成していた。部隊の水増しの為に、それまでの隊士全員の階級を1つから2つ引き上げて対応された程だった。この頃までの海援隊は軍隊ではないので、階級で語ることは少し無理があるが、単純な例えだと少尉が大尉に、軍曹が少尉になっていることになる。この辺りは、突如肥大化した海援隊の船舶部門と大差はなかった。
 だが、海援隊の有する余剰戦力のほぼ全力となる1個旅団が電撃的にイギリスと雇用契約を行い、トルコのダーダネルス海峡東端にあたるガリポリへの上陸作戦に、「イギリス軍」の増援部隊として派遣されてしまう。開戦からまだ一年も経っていない、1915年4月頃の事だった。雇用と派兵は、イギリスの政治家ウィンストン・チャーチルと海援隊の実質的オーナーである坂本龍馬の二人によって決められたと言われている。二人の関係は、南アフリカを巡る「ブーア戦争」から始まっていると言われており、日本政府は事が動き出すまで事実を掴めなかった。
 なお海援隊の扱いは、イギリス軍の傭兵のため日の丸ではなくユニオンジャックを背負っていたが、この事は日本の関係者に大きな衝撃を与えた。政府や軍の一部は、慌てて海援隊の契約を取りやめさせようとした程だった。しかし莫大な違約金を日本政府が払うことなどが海援隊の規定にも含まれているため、当時まだ金のない日本政府に止めることは出来なかった。

 なお海援隊は、イギリス軍が期待したように海からの上陸戦には慣れていたが、旅団規模での戦闘経験はなかった。創設以来今まで戦った相手も、本格的な軍隊はほとんど無かった。無論、今まで起きた戦争、特に「北清戦争」、「日露戦争」では軍隊として大規模な戦争も経験している。「ボーア戦争」など、アフリカでの戦争にも傭兵として出向いた事もあった。しかし今回の戦いは、全ての面で今までとは違っていた。
 また現地での戦闘規模そのものが、1個旅団が加わった程度でどうにかなるものでもなかったため(※最終的な兵力総数は、敵味方合わせて100万人近くなる)、強襲上陸戦や個々の小規模戦闘での巧さ以外で海援隊が評価されることはなかった。
 あのケマル・アタチュルクも参加したトルコ軍との戦闘でも、海援隊は戦果と引き替えに相応の損害も受けており、高い練度を活かした夜間の浸透作戦で若干の活躍をした以外、特に優秀というわけでもなかった。そして他国の軍隊同様に、大きな犠牲も出していた。海援隊の陸戦部門は、グレート・ウォーで最初に大損害を受けた日本人部隊だったのだ。
 加えて、海援隊の船舶部門も多くが上陸作戦にかり出されており、イギリス軍よりも的確で効率的な揚陸機材と作戦行動が高く評価されていた。現地のイギリス軍、アンザック軍が、海援隊を「劣った有色人種の部隊」と考えずに、海援隊側から行われた意見具申や小規模な作戦行動に同調していれば、戦局が大きく変化したという説も根強い。
 なお、ガリポリ作戦後の海援隊1個旅団は、その後バルカン半島南部のサロニカと呼ばれる、セルビアの残り滓と言える地域(戦線)に派遣され、終戦まで同戦線で活動する事になる。海援隊がガリポリで大きな損害を受けたせいもあったが、現地に急ぎ派遣できる部隊が限れていた為だった。

 そしてイギリスは、日本人の部隊を作戦参加させた上で、その「活躍」を国内外に報道した。日本の海の傭兵達は、グルガ兵に匹敵する強兵である、と。イギリス軍や政府から勲章を授与される者も出て、中にはビクトリア勲章を授与された者もいた。
 そして日本では、日本人の陸での活躍に焦る者が増え始め、ヨーロッパに日本の旗を立てることの意義を唱えた人々の判断もあって、派兵に前向きになる風潮が出るようになる。
 この段階でイギリスは、再び日本に陸軍の本格的派兵を打診。派兵内容も1個軍団以上の最低限のまとまった兵力以上であるなら「出来る限り」で構わないとした。日本の内心を見透かした要請であることは明らかだった。
 この時期の日本陸軍は、各師団は動員体制を整え後備旅団も準出師(出撃)状態に置くために徴兵を強化して、約50万人の動員が進んでいた。多くは中華地域での戦闘と不測の事態に備えた予備的なものだった。ヨーロッパのような総力戦になれば、二倍の師団数と五倍の動員が可能だった。日露戦争の教訓から戦時将校制度(※1908年制定の短期現役士官制度)も既に作られていたため、準備期間さえあれば十分な大軍編成が可能となる戦時制度は作られていた。
 そしてこの時期ぐらいから、兵部省が中心となり自らの陸軍力の派遣について正確な研究と各種数字の割り出しを開始。同時に戦時動員の強化を開始し、徴兵も強化された。
 日本政府は、丼勘定の派兵時の予測数字が出てきた時点で、イギリス、フランスとの本格的交渉を開始。交渉において日本側は、日本とヨーロッパの距離の問題、自らの輸送力の不足、補給能力の不足、何より戦費の不足を理由にして自力での大軍派兵は不可能だと報告した。しかし一方では、一定額の戦費を英仏両国が負担した上で、英仏が輸送を手助けし、尚かつ現地で重装備、砲弾、主要食糧の供給を約束してくれるのなら、最大で1個軍(9個師団、ライフル兵約10万、前衛戦力約20万人、総数30万人)の派兵が可能だという数字を示した。無論日本側が示した条件、数字は交渉としての数字であり、実際の数字や求めていることは違っていた。
 しかし1916年に入りつつあるヨーロッパでは、とにかく一兵でも訓練された兵士、まとまった数の軍団が必要だと考えられるようになっていた。特にフランスの焦りは大きく、最大限の努力を行うという言葉を初期の段階で切りだしてしまう。しかしフランスも強かであり、いくらでも支援するのでより多くの兵力を出すように日本に求めた。イギリスはもっと慎重で、日本の本当の数字を調べ上げた上で交渉を行った。
 両者の交渉は基本的には日本軍派兵で動くも、出費と出血を少しでも減らしたい日本と、出来れば負担を減らしたいイギリス、フランスとの交渉が比較的長く続いた。
 その状況に変化が訪れるのは、1916年2月に「ヴェルダン攻防戦」が始まってからだった。本当の意味での総力戦、消耗戦の象徴である同戦闘の発生でフランスは色を失い、金で国が救えるのならと条件を大幅に譲歩。日本側から見れば破格と言える条件で、日本軍の大量派兵が決まる。日本側がついでとばかりに出した、日本への軍需物資などの発注を増やして欲しいという条件も、ほとんど即答で承諾が得られた。
 1916年2月末に決められた日本と英仏との協定では、イギリスとフランスが派兵費用(実質的な戦費)の半分、日本からの兵士、物資輸送の70%を費用共々負担する事になった。また日本軍の派兵に際しては、輸送量の軽減と補給の簡便化を図るため、重装備と砲弾の大部分がイギリス、フランス軍から多くを無償で供与されることになる。アームストロング、シュナイダーの野戦重砲、ヴィッカーズ、ホチキス社の機関銃などほぼ丸ごとが供与され、さらに最新兵器の戦車、航空機の供与も約束された。供与される兵器の殆どは、大戦が始まってから大量生産された最新兵器ばかりだった。日本が本土から独自に運び込んだ主な兵器は、三八式歩兵銃と、個人装備の拳銃や軍刀ぐらいだと言われるほどだった。
 全てを合わせると、戦費の6割以上を英仏が負担する計算になる。これでは、日本軍が丸ごと傭兵となったようなものだった。
 また、後の補給を考慮して、供与を受ける兵器の生産も日本で行われることになる。このため図面や工作機械が輸入され、同様の兵器を日本が一部生産、供給する事にもなる。

 最新兵器の大量供与にすっかり舞い上がった陸軍、兵部省に押された日本政府は、第一派として1個軍9個師団の現役師団の派兵をすぐにも決定。遣欧方面軍も新設した。その後、順次動員が完了した同数の9個師団を、交代用として派遣する事とした。無論だが重砲兵旅団、騎兵部隊、輸送部隊、戦車や飛行機を操る(予定の)兵士の派兵も含まれており、さらに後方で日本軍を支援する様々な部隊、医者と看護婦を始めとする軍属、あげくは芸者や日本人の職業娼婦まで派遣が行われることになる。そして国内では、巨大な数の人間の衛生環境を整えるため内務省内で厚生局が設立され、その後独立省庁として分離していく事になる。厚生部門の強化は、総力戦のために是非とも必要だったからだ。
 余談だが、日本人向け慰安所の通称「ゲイシャ・オーベルジュ」は、英仏軍兵士の間でも有名となったほどで、戦争中にヨーロッパに渡った芸者、娼婦などの数は延べ人数で数千人に達する事が、日本兵部省図書館に記録として残されている。
 そして日本兵のヨーロッパへの派兵のために、イギリスやフランスは、戦前大西洋航路で就航していた巨大客船を何隻も日本に向かわせ、武器の代わりに現地での調達が不可能な日本製の保存食を山のように抱えた日本兵を乗せて、次々とヨーロッパにとんぼ返りしていった。このため兵士を満載したヨーロッパ行きの船には、常に味噌や醤油、漬け物、納豆の香りが充満していた。日本海軍が、慌てて大型の給糧艦を複数作ったのもこの頃だった。変わったところでは、料理人(板前)と調理材料を大量に乗せた客船がヨーロッパに送り込まれたりもしている。
 そして、地中海沿岸からヨーロッパの西部戦線へと入った現地日本軍が当初最も困ったのが、兵士達に供給する日々の食事だった。不衛生で単調な時間の続く塹壕でずっと籠もりっぱなしの兵士にとって、食事の占める精神的支えの割合は非常に大きかった。当時欧米に比べて貧しかった日本人とはいえ、その比重は日露戦争での安易な状況が許されなくなっていた。また陸軍は、基本的に炊事(食事の用意)は個々の兵士に委ねていたが、大規模な塹壕線では非効率的でもあった。食事の煙が、敵の標的となりやすいのも問題だったし、敵の側から日本軍が食事していることが一目瞭然で分かるのも問題だった。
 このため日本兵部省と日本陸軍は、陸軍の食事に関して大幅な改訂を実施。各部隊に専門の炊事班を作り、野戦炊事車(要するに、湯を沸かしたり米を炊く釜と鍋を載せたリヤカーや馬車)を大慌てで生産して前線に送り届ける事になる。この糧食形式の変更は兵士からも非常に好評で、戦後も日本陸軍の正式な編成として組み込まれて行くことになる。
 こうした食事の制度は、既に海援隊の陸戦部門が取り入れていた方式でもあったため、大きな混乱もなく戦争中に日本陸軍全てに取り入れられている。
 なお、食に関連して日本軍将兵達の間で問題となったのが、現地での酒の調達だった。現地に日本酒はなく、酒そのものの日本からの補給は常に二次的で量も限られていた。正規の休息などだけでは、酒を飲む機会が限られているためだ。このためフランス語(+日本語)の出来る者が重宝され、後方で酒やその他諸々の嗜好品を調達する事が、そうした「特別任務」を与えられた人々の役割となっていた。そして主にフランス東部の地酒といえるワインが将兵達の主な酒となり、酒のアテとなるチーズやハムなどと共に戦後日本本土に将兵達が伝えることになる。

 日本陸軍のヨーロッパ派兵が開始されたのは1916年4月、日本列島が桜色に染まる頃に最初の船団が日本を離れた。合計3回に分かれる第一派の船団で、1個軍団・3個師団・約6万の兵士が輸送され、同船団と部隊は先遣隊と試験を兼ねた進出を行った。そして夏の終わりまでに、9個師団と支援部隊合わせて約30万人の日本兵がヨーロッパへと赴き、南フランスの港から西部戦線へと鉄路送られた。
 この派兵において、日本側で最も問題となったのは言葉の問題だった。他国の兵と意志疎通が出来なければ、戦う以前に何も出来ないのも同じだからだ。しかし、当時フランス語を話せる日本人の数は極めて限られており、英語に関してもまともに話せる者は限られていた。敵国語となるドイツ語は、将校や医者の一部が限定的に話せるぐらいだ。一方イギリス、フランス側で日本語を話そうという者は、一部の外交関係者や専門の学者、物好きを除いて当初はほぼ皆無だった。
 このため派兵の間の僅かな時間(約一ヶ月間)、船の中に閉じこめられた将兵達には、とにかく最低限の英語、フランス語、出来れば敵性言語のドイツ語が叩き込まれた。また日本本土でも促成栽培の語学教育が強化され、日本中の高等教育機関が大慌ててそれを行った。それでも初期の頃は言葉に不自由したため、民間にも全面的な協力が要請された。日本本土では語学学校が数多く設立され、前線の少し後ろでも暇さえあれば語学教育が行われた。将兵の中には、まともに戦闘を経験せずに言葉だけ学んで帰ってきたという者までいたほどだった。
 その中で存在感を示したのが、当時ヨーロッパに最も深く根を下ろしていた坂本財閥だった。大戦勃発当時、パリ、ロンドン、アムステルダムに支店を置いており、派遣されている日本人の数が100名を越えているのは坂本財閥だけだった。しかも坂本財閥傘下の海援隊は傭兵業務を行うので、多少なりとも英語、フランス語などへの対応が可能だったので、通訳や促成の語学教育者として本来の任務、業務以外で大量に動員された。
 もっとも主な受け入れ先となったフランスでは、名もない農村の多くが日本軍の後方駐屯地とされるも、場所を強制的に借り上げられた地元の人々は、日本軍が駐留しているとはほとんど考えもしなかった。多少知識のある者でも、フランス植民地のインドシナ兵だと思っていた者が殆どで、特に派兵初期の頃は些細な差別問題など大小の問題が多発した。
 当時のヨーロッパ世界一般での日本の認知度とは、つまるところその程度でしかなかったのだ。

 なお、大車輪の中でヨーロッパ派兵が進む中、一部で上がった日本本土の守りをどうするのかという国内の声に対しては、表面的には列強は誰も欧州で手一杯で全く問題無しと、時の政治家が説いて封殺した。この裏には財界の影響が強く、財界は国内外で発生する未曾有の戦争特需の恩恵がより大きいため、金や後の利権をばらまくことで、金に聡い人々を黙らしていった。
 (中華)大陸進出を謳う者は陸軍内に多かったが、あからさまにそうした声を挙げた者、以前から強引な大陸進出を唱えていた者は、陸軍内の勢力図や陸軍中央のエリートはほぼ中央勤務という「慣例」を日露戦争以来で無視して、ヨーロッパの最前線に送り込まれた。この措置により現実的考えを取り戻した将校もいれば、逆に酷く恨む者もおり、措置としては一長一短だったと言われる。
 ちなみに、次の世界大戦を大佐から将軍として軍を率いることになる陸軍の高級将校達は、この時の戦争を小尉から少佐程度で経験している。「大戦世代」とも呼ばれる促成栽培の将校は特に派兵頻度が高く、永田鉄山や東条英機も中堅将校としてヨーロッパの戦場を経験した将校の一人だった。最終的に一度でもヨーロッパ方面に赴いた陸軍将校の数は、全体の半数程度だった。

 日本陸軍の派兵数は、取りあえず1916年の秋までに30万人に達した。この数字は、ヨーロッパの冬は寒いと言う事で既存の冬季装備など、塹壕での冬営準備ができた人数分でもあった。おかげで、普段の年よりもかなり寒く、前線で多くの凍死者を出したその年のヨーロッパの冬を、無難に過ごすことには成功した。満州の冬に対応する装備を持っていた事が、功を奏した形だった。
 この事は日本軍将兵に多少なりとも自信を付けさせると共に、激戦に入る前の日本軍が各国から高い評価を受けた。取りあえずは、ロシアと戦ったことは無駄ではなかったのだ。
 そして日本陸軍の前線配備なのだが、当初は派兵数も少なかった事から、最初は数が揃うまで後方予備として置かれ、訓練と現地に馴染むことに重点が置かれた。そして数カ月経った夏頃に、日本軍が揃い始めた事とフランス軍の移動に伴い、あまり重要ではない西部戦線の一角が割り当てられるようになる。初期の頃の扱いは、連合軍の中でも最も弱小のポルトガル軍程度の役割しか期待されていなかった。それでも日本軍が派兵された分だけ、イギリス軍、フランス軍は重要戦線に戦力を投入できることを表しており、相応の歓迎を受けることができた。日本陸軍の一個軍が派遣される間、ちょうど「ヴェルダン攻防戦」と「ソンム会戦」が行われ、連合軍は一兵でも前線に置けるまともな兵隊が欲しかったからだ。

 日本陸軍の最初の戦闘参加は「ソンム会戦」で、フランス軍の側面支援として戦線南部の最もドイツ軍への攻勢の弱い地域で補助的な役割が分担された。これはソンム会戦において、フランス軍が十分な兵力を準備出来なかった事への補完的措置で、また補助的役割を割り振られたのは日本軍がヨーロッパの戦場に到着したばかりなのと、日本軍の実戦力が未知数だったからだ。10年前にロシア軍と戦って勝ったとは言っても、それは10年前の話しで最近の事ではないからだった。
 しかし、徐々に出番も回ってくる。何しろ日本軍の向こうにはドイツ軍も陣取っていた。
 1916年9月15日からのイギリス軍の攻勢に合わせ、日本軍2個軍のうち前線配備されていた4個師団が、ドイツ軍に対して攻撃を開始する。隣接するフランス軍が日本軍に細かい指示を行わなかった事もあり、現地日本軍の裁量で戦闘が行われた。日本陸軍にとって、一カ所で4個師団も用いた大規模な戦闘は日露戦争以来の事だった。
 この戦いで日本軍は、脳天気な前進や杓子定規に決められた強硬な突撃は行わず、様子見を含め慎重な戦闘に終始した。これはドイツ軍を吸引して側面支援を行うという作戦自体にも、それなりに合致した行動だった。事前の砲撃でも、杓子定規に砲撃時間と突撃時間を定めなかった。日本軍は先の戦争で、重砲を撃ちながら兵を前進させるという危険な戦闘も知っていたからだ。そして全ての日本軍将兵には、戦場の過酷さは旅順と同じかそれ以上だと思えと訓辞が行われたりもした。
 日本軍としては、日露戦争で機関銃や砲撃の戦訓を規模や密度こそ違え持っていたし、日本軍なりに今回の大戦の戦況を研究した結果の行動だった。
 だが、結果として英仏などから得た評価は、「まあ、こんなものだろう」というものだった。手堅く無難な行動ではあったが、戦線は押しも引きもしなかったからだ。また日本軍の犠牲が少なかった事も、かえって連合軍内での評価を下げさせる事になった。
 この時日本軍内にも、「日本軍ここにあり」という姿を見せるべきだという強硬意見もあったが、日露戦争の体験を持つ現地上層部の将校、将軍達はこれを強く否定。結果として、慎重な作戦を行ったという経緯になる。戦線全てが旅順のようになった戦場で、何の準備もせずに将兵を突撃させることは、過去に戦場を経験した軍人達にとって到底受け入れられ無かったのだ。そして旅順という言葉が現地日本軍に広がったため、対要塞戦向きの(戦闘)工兵が重視されて臨時に増強され、やたらと坑道爆破戦術を取ったりもしている。このため敵手のドイツ軍からは、「黄色いモグラ」と呼ばれたりもした。
 その後も日本軍は何度か戦闘に参戦したが、主に両側に布陣するフランス軍の支援として攻勢に参加したり、ドイツ軍の反撃に対する予備兵力や側面防御の戦闘を行った。ドイツ軍から、毒ガス攻撃の洗礼を受けたりもした。
 そして、連合軍の攻勢に際して主戦線や主攻勢を任されなかった(任せてもらえなかった)ため、現地日本軍が色を失った大損害でも、日本軍の損害比率は連合軍の中ではかなり低い数字だった。またドイツ側が、日本軍の正面に積極攻勢をかけることが殆どなかったため、守勢にあっても日本軍が大きな苦況に陥るような事も局所的以外には殆どなかった。
 そして約束通りの1個軍が前線に揃っても、日本軍にとっての大規模な戦闘が発生しないため、兵士達は塹壕で過ごす日々を送る事になる。1917年の日本軍は、主に2個軍団6個師団で前線を担当し、残り1個軍団3個師団が後方で待機するか、休暇任務状態に置かれた。運のいい者は、後方で観光まがいの各国軍との交流や視察などを行い、パリ見物すら行えた者もいた。また最初に派兵された兵士達のうち一割ほどは、ほとんど戦うことなく交代の兵士達と入れ替わったりもしている。
 なお、イギリス軍、フランス軍共に、定期的に大作戦を発動しては大打撃を受けていたのだが、それ故に国家や民族の面子もあって、安易に日本軍を引っ張り出せなかった。それでも1917年4月にフランス軍の前線一帯で戦争に反対する大規模な反乱が発生した時には、日本軍に総動員が命令されて、フランス軍に代わり一時的に多くの守備を担っていた。もっともこの時、ドイツ軍はフランス軍の異変に気付かず、フランス軍も比較的短期間で事態を沈静化して体制を立て直したため、日本軍に本格的な出番が回ってくる事はなかった。大事件と言えば大事件だが、事件もその程度だった。

 しかし1917年は、世界史上では激動の一年となる。
 まず2月に、ドイツが無制限潜水艦戦を宣言。これを受けてアメリカが、遂にドイツと国交を断交。翌3月12日には、ロシアで社会主義革命が勃発し、ロマノフ王朝が呆気なく打倒されてしまう。さらに翌月の4月6日にアメリカが遂に参戦。最後の大国が、大戦に参加する。
 その後夏には、ギリシャが連合軍側で参戦してセルビア南部のサロニカ戦線にも加わり、11月にはロシアで再び革命が起きて今度は共産主義政権が誕生する。
 そしてロシア革命によるロシアの戦線離脱とドイツ軍の西部戦線への移動を恐れた英仏が、日本にさらなる大軍派兵を強く要請。アメリカ参戦による自らの存在感低下を嫌った日本政府は、さらなる優遇措置を取り付けた上で派兵を承諾。それまでの犠牲が少なかった事も、追加派兵の追い風となった。
 そして戦時動員で編成された師団を中心にした1個軍9個師団を中心とする兵団が、半年ほどかけてヨーロッパに渡って現地日本軍の指揮下に入る。日本軍は基本的にまとまって運用される約束とされ、支援部隊を含めた2個軍による小規模な軍集団(遣欧総軍)を編成して西部戦線の南部に分厚い布陣で陣取った。
 派兵の総数は、パリやロンドンにいる武官や軍属を含めると70万人にも達し、パリのホテルを一つ借り上げて、日本軍遣欧総軍司令部が置かれた。日本軍後方の休養地(疎開で無人化していた村)の「ゲイシャ・オーベルジュ」は拡大されて、「吉原」と通称される日本人用の歓楽街まで臨時に作られたりもした。
 またこの頃には、日本陸軍の航空隊もかなりの規模で編成され、イギリス、フランスから供与されたり自国でライセンス生産した機体を装備し、自軍の上を守れる程度の戦力を保持するようになっていた。日本陸軍も、ようやく空の騎士ならぬ空の侍を持つことができたのだ。日本のパイロットは、フランスの「スパッド系」戦闘機よりもイギリスの「キャメル」戦闘機を愛用し、格闘戦を好む傾向がこの時既にできたとされる。
 また約束通り戦車の供与も受け、50両程度の戦車を保有した日本陸軍初の戦車大隊が編成された。砲兵戦力も、師団用の重砲や迫撃砲だけでなく、軍団レベルの野戦重砲も十分に持つようになった。半ば象徴的だが、フランス軍から供与された2門の列車砲も有したほどだった。
 日本本土との補給線も日を追うごとに充実し、前線で不足する日本由来の物資を供給するようになった。この時、主にフランスに紹介された日本古来の食品も数多い。それまでもヨーロッパで隠し味用の調味料として使われていた醤油が有名になったのも、この大戦以後の事である。また、軍需輸送の傍らで多くの物資や商品が英仏を中心に輸出され、日本に貴重な外貨をもたらした。あらゆる物資の不足するヨーロッパでは、持ってきた物は何でも飛ぶように売れた。食べ物なら尚更だった。日本の南方各地での砂糖(サトウキビ)の増産が大幅に進んだのも、この大戦を契機としている。輸送船舶を扱う海援隊隊士の中には、日本と欧州の往来で、半ば商売をしていた者がいたほどだった。

 なお、この時期の日本軍では、派兵された将兵の士気を鼓舞するためという方便で、「戦時武功勲章」が制定された。とはいえ、ヨーロッパ諸国への対向と見栄で、現地派遣軍の将兵達が強く要望して作られたようなものだった。
 勲章自体は、立てた武勲によって一等、二等に分かれた外見は質素なもので、恩給や式典などでの名誉は僅かしか与えられなかった。だが、戦争を知る人々にとっての一番の勲章として、その後評価されるようになっていく。この勲章は、戦後は「戦時」をとって正式化もされている。なお、勲章の意匠が日本刀二つを斜め十文字に結んだ形のため、欧米では「ジャパン・クロス」や「サムライ・クロス」とも呼ばれ、1930年代ぐらいからは軍への貢献度のみを判断材料とするという建前で、日本人以外にも授与されるようになる。
 また一方では、日本本土と戦場が遠く離れているため、戦時昇進の裁量権が現地司令部にかなり与えられ、さらに年数や試験以外での戦時昇進という日本らしくない制度も、「戦時」という言葉を付けた上で整備された。全ては、遠方での長期戦の中で将兵の士気を維持するためだった。それほど世界大戦は、日本軍将兵にとって精神的重荷でもあった。最初に大損害を受けた時、前線での士気低下が大きな問題となったため取り入れられたあくまで臨時の制度だった。
 もっとも、戦時昇進の背景の一つには、外国軍と行動を共にする際に階級を合わせるという側面と、先に派兵された海援隊が人材不足からどんどん隊士を昇進させているという背景もあった。それ以外にも、大量の兵士を急に増やしたので、大戦前までの兵役勤務者は以上に早く戦時昇進させ、不足しがちな下級将校、下士官を補わねばならなかったのも現地昇進の大きな理由だった。
 また戦時昇進が日本軍で容認された背景には、急速に肥大化した軍隊内では、多少水増ししても下級将校、下士官が大きく不足した上に、さらに戦闘での消耗を補うという目的があった。何しろ従軍者の4人に1人が死傷しているので、不足するのは当然といえば当然だった。
 ちなみに、戦争が終わって動員が解除されるとき、除隊するしないに関わらず全ての兵士は恒久的な一階級特進が行われた。これを「万歳昇進」や「大戦昇進」と呼ぶ。そして戦前からの軍役者だと、通常昇進、戦時昇進、万歳昇進を合わせて3年ほどの間に5階級も昇進した者も出た。仮に新品少尉だったとしても、終戦には大佐になっていた事になる。無論戦時昇進の多くは元に戻されるし、年次以外で昇進した者は戦後の昇進に苦労する事になるが、明治日本が作り上げた官僚による組織社会に大きな一石を投じたのは確かだった。

 なお日本軍が主に配備されたのは、ランスからヴェルダンの中間当たりになる。主戦線(西部戦線)の南翼に当たり、最重要ではないが極端に軽んじられる地域でもなかった。また日本軍をフランス軍が挟み込むようにそれぞれ重要地域に陣取っており、基本的にはフランス軍の密度を増すために配置されたという向きが強かった。
 しかし、日本軍が一定の重要度がある戦線を任されたのは、日本政府が政治的意図で尽力したわけではない。初期の頃は単にフランス軍の移動に合わせたもので、その後は一定の戦闘力があることが認められたという現実的側面が影響していた。またある程度まとまった戦力のため、それなりに使いやすかったという面もある。
 とはいえ基本的に日本軍はヨーロッパでは外様な上に有色人種国家の軍隊のため、主な任務は西部戦線の維持だった。連合軍の攻勢に際しては、殆どの場合、補助的な役割しか与えられなかった。これはフランス人、イギリス人など白人が、有色人種に対して自尊心や面子を重視したからだと言われているし、実際面でもそうした状況が多かった。
 陸軍によってほとんど現地で編成され日本軍の航空隊も、「頭の上」を守る以外でドイツ空軍との空中戦を行うことはどちらかと言えば珍しく、英仏から意図的に戦場から避けられ続けた。
 また日本軍が英仏から軽んじられた背景の一つに、植民地問題があった。有色人種が活躍しすぎると、植民地人が元気づく可能性があるからだ。派兵しろと求めたくせに、身勝手と言えば身勝手な話しである。
 一方日本軍の前に置かれたドイツ軍だが、基本的に日本軍は積極的な攻勢に出ることが少ないか、圧力が弱いのが常なのを見越した兵力配置を行い、戦力ほどドイツ軍を吸収できていなかった。とはいえ、周辺部でフランス軍が活発に行動すると、日本軍も相応に砲弾を浴びせて前進してくるので無視する事もできなかった。一定の数と戦闘力を持つため、英仏軍以外のようにあしらう事もできず、ドイツ軍にとっては中途半端に脅威であるため、あまり扱いやすい敵でもなかった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世などは、例の「黄禍論」を振りかざしたこともあると言われる。

 大戦と共に世界が激動する中、1918年へと入っていく。
 1917年の冬、ドイツは岐路に立たされていた。戦争経済の破綻による自滅、アメリカの大軍到来による圧死、ロシア離脱で得た余剰兵力を用いた最後の攻勢を成功させて少しでも有利な講和を結ぶ事、以上がドイツ側が考えたすぐ先の未来だった。そして何をするにせよ、1918年以内に戦争を終わらせなければ、ドイツそのものが破綻する事は確定していた。
 そしてドイツ軍首脳部は、大規模な攻勢による戦局の打開という賭けに出ることを選択する。この決断によって起きた戦闘が、「カイザー・シュラハト」と呼ばれる戦闘になる。
 この作戦立案案段階でドイツ軍は、第一撃目をイギリス軍とフランス軍の継ぎ目を狙うか、フランス軍と日本軍の継ぎ目を狙うかで議論があった。本国からの兵力補充が難しい日本軍を撃破すれば、その後の作戦展開が楽になると言うのが、日本軍を主攻撃対象に選ぶ場合の主な理由だった。英仏軍の継ぎ目を狙う目的は、英仏軍の継ぎ目は最近フランス軍からイギリス軍に担当が代わったばかりで陣地が不十分であり、両軍の連携の不備を付けるという点にあった。この点日本軍への事実上の正面攻撃は、長い間日本軍が同じ場所に布陣し続け、深い縦深で半要塞化されている陣地のため、少なくとも初動において攻撃の選択肢として選びにくいという面が重視された。また日本軍は、主に小規模戦闘だが、ドイツ軍が編み出した浸透突破戦術に似た戦法を防御戦闘などで仕掛けてきていた。ドイツ軍がこれから主戦法で行おうとしている戦術に対向され無駄に時間を取る可能性が危惧され、日本軍の側は最終的に主攻勢に選ばれなかった。

 そうしてドイツ軍最後の大攻勢が始まる。
 ドイツ軍の戦法、戦う相手の選択肢は正しく、不意を付かれた形の連合軍は、ドイツ軍の大攻勢の前に大幅な後退を余儀なくされた。大戦開始頃の快進撃のような状況だった。しかし自動車の発達がまだ未熟だった当時、無数の砲撃で穴だらけになった前線での補給が難しいため、ドイツ軍は主に補給能力の不足から、成功しつつある攻勢を途中で終了させざるを得なかった。この点は、開戦初期の頃から、あまり大きな変化はなかった。
 なお、この時のドイツ軍の攻勢は一度ではなく、西部戦線各所で何度も行われている。原因の多くは、前線への補給不足による進撃停滞が短時間の間に起きるからだった。
 攻勢は大きく分けて3月、4月、5月、7月と行われ、日本軍に本格的な出番が回ってくるのは、5月末に開始された攻勢に際してだった。この時ドイツ軍は、初期の頃に集中攻撃したイギリス軍の壊滅を諦め、牽制の意味を込めて別方面のフランス軍を攻撃した。
 18個師団揃えた日本軍のお陰で密度の増したフランス軍だったが、浸透突破攻撃という新戦術には脆く、1個軍が壊滅的打撃を受けて大幅な後退を余儀なくされる。その段階で自らの予備兵力の乏しくなったフランス軍司令部は、近くに布陣していた前線の日本軍全体(12個師団)が前に押し出してドイツ軍を牽制し、さらに日本軍の後方に置かれていた予備の1個軍団の増援を要請した。合わせれば15個師団となるので、ドイツ軍に十分圧力がかけられると想定された。
 ほぼ同時に、既に一定数の兵力を戦線の後方に展開するようになっていたアメリカ軍に対しても、フランス軍は増援要請を行う。この時アメリカ軍は、自らの兵力を分割して逐次投入される事を警戒したため行動が遅れ、既にフランス軍の「我が儘」に慣れていた日本軍の方が、先に軍を動かしてドイツ軍への反撃を開始する。そして日本軍が比較的早期の段階で全面的に動いたことで、フランス軍によるアメリカへの要請も順位が低くなり、アメリカ軍はさらに出遅れる事になる。
 このためアメリカ軍は、その後英仏軍から長らく「臆病者」や「戦争見物人」と非難される不名誉を浴びることになった。
 なお、この頃には、完全に第一次世界大戦型の陸軍となっていた日本軍に対して、まだ戦闘経験のないアメリカ軍との間には歴然とした差が出ていた。鉄兜にカーキ色の合理的な野戦服に身を包んだ日本兵が、可能な限り遮蔽を利用し複数の重火器を多用して慎重に戦ったのに対して、後から出てきたアメリカ軍はドイツ軍の重機関銃に向けて正面から突撃し、大戦初期に見られたような凄惨で一方的な光景を再現していた。
 しかもアメリカ軍は、英仏が既に日本に対して多数の武器供与や戦費援助をしていたため、日本と同様の供与を受けることが出来なかった。アメリカからの兵員輸送の代替も低調とならざるを得なかった。英仏としては、したくても出来なかったのだ。このため重装備のかなりをアメリカ国内で用意して運ばねばならず、派兵に余計な手間と時間がかかると共に、アメリカ軍自身の近代化も遅れることとなる。そして近代的装備の不足するアメリカ軍の損害も、必然的に大きくなった。
 なお、この大戦でのアメリカは、ドイツ軍の最後の攻勢が開始された1918年3月までに60万、12個師団を送り込み、最終的に35個師団、約160万の兵士をヨーロッパに派兵した。このうち曲がりなりにも前線に立った将兵の数は、全体の約半数程度となる。この将兵の中には、当時中堅将校だったマッカーサーやパットンがいる。ただし実戦参加は5月末から半年にも満たない間で、その上夏以後はドイツ軍はすっかり元気を無くしていたため、ただ前線に立っただけという将兵が半数以上だった。
 それでもアメリカ軍という元気な増援の存在は、ドイツ軍を押しとどめる大きな力となった。日本軍の頑強でねばり強い反撃とアメリカ軍の本格的投入を受けて、パリへの道が閉ざさされた事を知ったドイツ軍は、その後因縁深いマルヌ近辺での戦闘を展開。少しでも戦術的な有利を作るべく、敵野戦軍の撃破に力を入れる。これにより「第二次マルヌの戦い」が始まり、逆に連合軍の反撃が始まる事になる。結果としてドイツ軍の「カイザー・シュラハト」も終わりを告げ、以後ドイツ軍は二度と攻勢に出ることはできなかった。
 なお、「カイザー・シュラハト」の間に、ヨーロッパ全土では毒性の極めて強いインフルエンザである「スペイン風邪」の猛威が押し寄せていた。酷い時期は両軍了解のもとで自然休戦状態になるほどで、いい加減毒ガスにも慣れた日本軍にも大流行して、他国軍と同様の惨禍に見舞われている。日本本土での損害は世界的に見て少なかったが、ヨーロッパに派兵されていた日本兵達は前線での劣悪な衛生環境も重なって、他国とほぼ同じ比率の病死者を出すことになる。日本兵の傷病兵のかなりも、このスペイン風邪によるものだった。

 そして、戦争そのものは「カイザー・シュラハト」の失敗によって、最後の節目を過ぎようとしていた。同盟軍各国の総力戦能力は既に限界を超えており、国家の崩壊点に達しようとしていた。長らく、バルカン半島南部のサロニカに閉じこめられていた海援隊の陸戦部隊も、秋には増強された他国の兵士達共に大きく北に向けて前進し、同盟軍の崩壊に大きく貢献することになる。ベオグラードに最初に入った連合軍の中にも、海援隊の姿があった。そして日本兵の中で最大級の前進を果たしたのが海援隊となったため、海援隊は日本国民からも最も人気が出ることになる。
 その少し前の8月には、ドイツ軍がイギリス軍の機械化部隊を全面に押し立てた攻勢で大敗を喫して、士気を大きく低下させてしまう。
 この時の戦闘は、戦車を中心にした機械化戦闘が効果的に行われたという軍事上のエポックメイキングな出来事だったが、戦略面での影響はもっと大きかった。ドイツ人達、同盟国の兵士、国民達が、自分たちの負けを自覚した戦いとなったからだ。
 これ以後同盟軍の戦線は、サロニカ戦線を例に見るように次々に全面崩壊していった。それに応じて、同盟軍各国が戦争を投げ出して国家として降伏を選択。同盟軍の盟主であるドイツ帝国も、キール軍港での水兵達の反乱を切っ掛けとして降伏の道を歩む。
 そして11月に皇帝が亡命して敗戦を受け入れ、4年以上に及んだグレート・ウォーは連合軍の勝利で終幕を迎える。

●フェイズ10「パリ講和会議とシベリアの混乱」