■フェイズ10「パリ講和会議とシベリアの混乱」

 1918年11月11日、カイザー(皇帝)を追い出したドイツが連合国と休戦し、「グレート・ウォー」は終わった。
 しかし、講和条約を締結するまでが、外交としての戦争期間である。
 このため世界中の人々が、講和会議が行われるフランスの首都パリ郊外、ベルサイユ宮殿に集まった。会議は1919年1月18日に始まり、同年6月28日に調印が行われる。
 この会議での日本は、主要戦勝国として参加した。主要戦勝国とされた国は、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、そして日本となる。日本の位置づけは、戦争貢献度、本格参戦の時期などから、イタリア以下アメリカ以上だった。最終的な派兵数よりも、戦争参加期間や時期がアメリカより高く評価されたのは、日本としては外交的な勝利だったと言えるだろう。とはいえ、アメリカが派兵した兵士のうち半数は最後の半年で派兵された上に実質的に戦うことがなかったのだから、日本の方が上位に来るのはある意味当然だとも言えるだろう。
 アメリカは自らの扱いの低さを非難したが、これを聞き入れる国は少なくとも感情面では無かった。
 これに対して主要敗戦国は、事実上ドイツ一国だった。オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン=トルコ帝国が事実上崩壊したためだ。また、本来なら戦勝国となるロシアも、ロシア帝国が倒れて共産主義政権ができた上に事実上の内乱中のため、会議に呼ばれることはなかった。またベルギーやセルビア、ポルトガルなど他の戦勝国も会議に呼ばれており、事実上全世界規模での国際会議となった。
 日本の力の入れようは相当のもので、大規模な日本代表団を送り込み、軍人達が消えつつあるパリの遣欧総軍司令部を根城にして、活発な外交活動を行った。これは、日露戦争が自存自衛のための戦いだったのに対して、グレートウォーは日本が世界の一等国となるための戦いだったからだ。

 会議の主な議題は、極論してしまえば敗者となったドイツからいかに賠償をむしり取るかだった。法外な賠償金、全植民地の割譲、本国領土の割譲、賠償金が払えない分の現物での賠償など、とにかく取れる限り取った。でなければ、主戦場となったフランスやベルギーは、すぐにも国家が破産しかねないほど疲弊していた。通商破壊戦で痛めつけられたイギリスも例外ではなく、列強としての国力が不足するイタリアも十分以上に疲弊していた。主要参戦国で元気なのは、外様の日本とアメリカだけだった。しかもアメリカは最後の一年程しか実際の戦争に参加していないので、実質的には日本だけが元気だったと言えるかもしれない。
 賠償の次に重要な議題は、戦前の軍備拡張競争が戦争原因の一つだったので、ドイツの軍事力を奪い、ドイツを骨抜きにする事だった。
 アメリカ大統領ウィルソンが、14ヶ条にわたる理想論に根ざした提案を行ったが、とにかく上記二つが達成されなければ、ヨーロッパの国々は話を聞く気も無かった。
 この会議において日本は、相応の賠償受け取りを主張できる立場にあった。延べ100万人もの兵士を直線距離でも一万キロ以上離れたヨーロッパへと派兵し、約5万人の戦死者を含めて延べ30万人の死傷者を出したのだから、その権利は誰も否定できなかった。戦費、従軍兵士数の数ではアメリカに負けていたが、死傷者数では勝っている。外様では最大の犠牲を払っていた。
 ただし装備を含めた戦費の六割以上をイギリス、フランスが肩代わりしているため、日本側としてもあまり行きすぎた要求は出来なかった。
 ちなみに、日本が戦争中に費やした戦費は、総額約50億ドル。日本円にしてちょうど100億円ほどになる。この数字は主要参戦国の中では、トルコを除いて最も低い数字となる。しかも日本が実際払った戦費は約半分の25億ドル程度。その上、英仏から大量の兵器の供与を受けている。加えて、戦争中に抱えた債権の額を差し引きすると、収支決算はほとんど黒字の計算になる。戦争特需でGNPが名目上三倍に拡大したことを加えると、大黒字と言えるだろう。これに対してヨーロッパの国々は、どの国も摩天楼のような借金を積み上げて青息吐息状態だった。
 そうした経済面の事情もあり、日本側は賠償については強くは言えなかった。しかし25億ドル、50億円という数字は当時の日本にとって小さな数字ではない。戦争景気で国力が大幅に拡大したとは言っても、1918年の国家予算の2倍以上に達する金額であり、手放しには喜べない状況だった。
 故に日本代表団は、戦争での貢献に応じた正統な報酬を要求した。ヨーロッパ諸国も、国家、民族としての恩を無視できず、出来る限り日本に便宜を図った。また日本代表団は、要所においては言うべき事を言うも終始控えめな態度を通したため、各国代表から好感情を得ていた。理想論ばかり唱え、経済的優位を笠に着るアメリカと比べると、ヨーロッパ諸国としては「ルール」をわきまえた良きゲームプレイヤーだった。

 会議の結果、日本がドイツから得た賠償は、太平洋上のドイツ領の割譲(マリアナ、カロリン東部、マーシャル)と、総額1320億マルクの賠償金の4%の権利だった。南太平洋のドイツ領サモアについては、日本に渡すかどうか一時議論となったが、諸島の半分がアメリカ領であるため日本側が謝絶の形で断り、また近在のオーストラリアの異常なほど強い抗議もあって、アメリカへの賠償とされた。
 また、中華民国内で日本軍が接収したドイツの捕獲品についても全て賠償に認められたが、戦争前に結んだ協定に従って、中華民国内のドイツ利権そのものについては、中華民国政府に一部有償で返還されることになった。しかし、このままでは日本の貢献に対する賠償が少ないため、一時期列強の間で山東利権のうち経済利権だけでも日本への賠償に当てようと言う動きがあった。これは日本への賠償金割り当てを減らし、英仏などが少しでも多くの賠償金を得るための方策だった。しかし中華民国の反発があり、またアメリカも自分たちも賠償が少ないと文句を言っていたのと、アメリカが中華民国での列強の影響力低下を謳っていたため、受け入れられる余地が少なかった。日本も、国内の一部では大陸利権拡大を行えという声があったが、政府は多少の利権と市場よりも厄介ごとを抱えることを嫌がった。
 そこで列強は、「北清事変(義和団の乱)」で共同利権という変わった形で得ていた海南島の利権を日本に渡すことにする。特に必要性はなかったが、中華民国にもその事を了承させた。ただし最低限度の警察力以外は非武装が原則で、統治も植民地ではなく委任統治領という形にされた。
 この決定に日本国内の一部に大きな不満が生まれたが、いまだ満州王国に手間暇をかけねばならない事などもあり、それほど大きな問題に発展する事はなかった。また中華民国内では、山東利権の返還を棚上げして、海南島の件を大きく取り上げ、列強、その中でも日本を非難した。しかし中華民国政府は、自分が何もしていないのに多少のものが得られたので、政府としては極端に拳は振り上げず、海南島は日本の統治下に置かれることになる。
 かくして、太平洋地域と海南島のやり取りによって、日本がドイツから得る賠償金割り当てが初期の4%から3%へと下げられた。
 そして3%、約40億マルク分の賠償についてだが、日本側は金銭よりも工業機械や製品、兵器の比率を増やすように要求を通しており、日本から到来していた日の丸商船隊に、家路を急ぐ兵士達と共に積み込まれるものもあった。
 もっとも、ドイツ自身の経済の崩壊による賠償の滞り、各国合意の元での賠償金の減額、そしてドイツによる不履行によって、日本がドイツから得た賠償金は、文物を含めても予定金額の10%程度でしかなかった。それでも優れた工業製品や工作機械を現物で手に入れた事は、日本の産業界にとっては大きな成果となった。

 そしてドイツを丸裸にして一息ついた上で、ようやく世界はアメリカの意見を多少なりとも聞くようになる。しかしアメリカの言っている事の多くは理想論やアメリカに有利な話しなので、ヨーロッパ諸国は自分たちに都合の良いものだけを出来る限り選び、そして実現に向けた動きを見せた。
 アメリカの提案の中で最も成功したのは、同会議の後に行われた会議で設立された「国際連盟(LN)」だろう。しかし提案者のアメリカ自身は国内の反発によって参加せず、しかも敗戦国のドイツ、共産主義革命が進行中のロシアは会議にも呼ばれていないので、全世界規模の組織としては中途半端なものとなった。しかも帝国主義が継続している時代にあって、アジア、アフリカの殆どは欧米のどこかの国植民地であるため、三カ国の殆どがヨーロッパと中南米地域だった。アフリカ、アジア(アラブ除く)は、どちらも片手で数えられる程しか参加国がなかった。
 この結果、国際連盟の常任理事国には、イギリス、フランス、イタリア、日本の四カ国が選ばれることになる。
 またアメリカが提唱した提案の一つである民族自決についてだが、基本的に自決をすべきとされたのはヨーロッパにおいてだけで、本来他の地域は含まれていなかった。この事で日本が口を挟み、できるなら世界全てに対して、最低でも独立国家の多い中南米、北東アジアにも適用すべきだ論陣を張った。この日本の行動は、日本の保護国となっていた大韓帝国が日本併合派と独立派双方がうるさいため、両者を黙らせるための措置でもあった。また日本にとって朝鮮半島より大事なのが満州で、この国の独立を国際的に確固たるする為に、民族自決という言葉は非常に都合が良かった。ついでに言えば、中華地域を切り刻むのにも好都合であるため、他の国々も北東アジアを対象に含めることとした。
 しかしイギリス、アメリカの反対により、民族自決をヨーロッパ以外に適用することは否決されてしまう。
 そして民族自決の対象外とされた北東アジア地域では、大戦が終わる前後に大きな混乱が発生していた。
 「シベリア出兵」だ。

 ロシア革命阻止を目的とした軍事干渉である「シベリア出兵」では、当初英仏が革命の起きたロシア極東とシベリアへの出兵を日本に要請した。だが、アメリカは当初出兵反対して、日本に自重を促していた。しかし共産主義の脅威が広まることは阻止するべきだという世界的風潮もあり、アメリカも徐々に出兵に傾いていく。しかしアメリカは、自らも介入する場合には近在の日本と共同歩調を取りたがった。アメリカとしては、自分たちの権益でもある満州王国の不安定化が気になって仕方なかったのだ。不安定化すれば、株価の乱高下へと影響するからだ。
 一方の日本だが、当初は出兵には消極的だった。多くの兵力をヨーロッパに派兵しており、また戦費、物資の多くも費やしたばかりで、今以上の出費をしたくなかったからだ。日本国民の殆ども、無駄金を使うなと出兵に否定的だった。
 しかし各国の要請を無視する事もできず、このため各国と協議を重ねた末に最低限の出兵を行うことを承諾。アメリカなどとは、出兵の真意も測り合った。
 そしてアメリカとの交渉では、アメリカが驚くほど世界情勢に無知な事を確認する。当時のアメリカは、ロシア情勢に至っては分析する機関や組織すら存在しなかった。
 結局日本政府は、連合国の一員として英仏の要請を受け入れ、その支援を行うための派兵だと国民にも説明。それでも日本国民に対しては不足だったので、満州王国の安定化のためだとも説明した。
 アメリカも日本が動いた事で競争意識から派兵を決定し、共に最も大規模な派兵する日米間により密接な連絡部会を設置。それぞれ1個師団を出した日米両軍が、シベリア出兵の主力となった。
 しかし出兵後のアメリカ軍は、満州王国の自国民・居留民の保護を最優先して、政府の命令もあってウラジオストクからは動かなかった。また、シベリアで動けるだけの冬季装備を持たなかったので、動きたくても秋以後の極東で行軍できる装備もなかった。このため他国の兵は、アメリカ軍をボーイスカウトと呼んで馬鹿にしていた。
 そして出兵における英仏の腰が定まらないため、日本軍の動きもアメリカと歩調を合わせて低調となる。
 日本の政府関係者の多くと財務官僚は、出兵が一日でも早く終わることを願ったと言われる。このため、日本陸軍の一部がバイカル湖まで進むべきだと強硬論を唱えるも、日本政府は強い命令を発して許さなかった。言い過ぎた者を処罰したほどだった。不安定化の原因になりかねない、ロシアからの邦人の引き上げも実施させた。
 しかし一つの要素が、状況を変化させる。

 シベリアにいる白軍(反革命軍)が、ロマノフ王朝復活のため500トンもの金塊を持っているという確度の高い情報が伝わったからだ。これを聞いた日米そして満州王国関係者は、強引にシベリア鉄道の運行を現地の白軍系のロシア人に行わせ、とにかくその金塊を持った人々を自分たちの手の届く場所に連れて来ようとした。このため、鉄道運行の人員と護衛のための最低限の軍部隊が、白軍派の案内でシベリア奥地へと入り、日本がドイツから賠償で得たばかりの飛行船までがシベリアの空を飛んだ。そうして見つかったのが、シベリア奥地のオムスク近辺を流浪していた、白軍50万、貴族や僧侶など亡命民間人75万と言われる膨大な数の人々だった。うち25万人が女子供だったとされる。シベリアの季節は既に短い夏から一気に冬へと入りつつあり、このままでは全員が赤軍の手にかかって殺されるか凍死するだろうと見られた。
 この現状を、現地に一緒に行った新聞報道員が、世界に向けて発信。白軍はともかく、民間人だけでも救えないかと世界中に訴えかけた。飛行船から撮影された地面を歩く黒々とした人の帯は、世界中の人々に大きな衝撃をもたらした。
 そしてここで、突然の一大エグゾダス・オペレーション(脱出作戦)が動き出す。
 ロマノフ王朝の金塊や財宝を得るべく、各国政府の動きは極めて迅速だった。自分たちが直接戦争に巻き込まれたよりも迅速だったと言われる。既に中央官僚制の弊害が広がっていた日本ですら、稟議書の存在を疑うほど早く物事が動いた。
 すぐにも外交特使がロシア各地に派遣され、共産主義革命を進める赤軍と日米関係者との間に交渉が持たれ、白軍の持つ金塊の一部譲渡と引き替えに白軍及び難民の移動と亡命を了承させる。金塊を持つ白軍に対しても、帝国の復興の目を残すために金塊を渡すか、ここで滅ぼされるかの二者択一を迫った。
 この時赤軍に渡された金塊は、100トンだったと言われる。
 そして脱出作戦が動き出すが、シベリア方面にある車両だけではとても足りなかった。このため満州で王国内の鉄道運行を一時減らして、シベリア鉄道に列車を回すことすら行い、大量の人々を、まずは満州もしくは日本へと導いた。行きの列車は食料、防寒具、野営装備、暖房器具と燃料、軍の余剰の冬季装備など、とにかく現地の人々が凍死しない為に必要なものを運び、帰りには人間を満載した。輸送に多用された貨車にはそれぞれ石炭ストーブが置かれたが、ほとんどが貨車による移動だったため多くの人が移動中にも命を落とした。人を運んだ多くが貨車なのは、客車の手配が出来なかったからで、それほど急いでいた証でもあった。また世界最長のシベリア鉄道の半分以上という旅程になる事も、死者増加の原因となった。こうした事実は世界中にも伝えられ、日米を中心にして脱出のための寄付や支援物資が多数届けられているもした。
 人々の移動は、シベリアの厳冬が続く間行われ続けられた。だが、全ての金塊奪取を目論んだ赤軍の行動のため、人々はオムスクから徒歩での移動も余儀なくされた。殿(しんがり)を中心にして戦闘も頻発し、主に護衛に当たった日本兵を中心にしてかなりの死傷者を出すことにもなった。
 それでも脱出作戦は続けられ、最終的に約100万の人々が死地を脱した。しかし20万から30万の人が、現地もしくは移動中に命を落としており、犠牲も多かった。だがこの時日米満州が手をさしのべなければ、オムスクにいた全ての人が餓死又は凍死していた可能性があるので、歴史的な善行として今日でも高く評価されている。
 また、オムスク以東のシベリア鉄道沿線では便乗者も多数出たため、最終的な亡命者の数は150万人を越えると考えられている。
 エグゾダスというよりは、もはや民族大移動だった。
 もっとも日米満州は、それぞれ金塊や財宝の殆どを山分けで代金として譲り受けているので、善行と言うよりは亡命商売と言えなくもないだろう。また日米満以外にも金塊欲しさに支援を行った国は多く、とにかく極東に手の届く国は物理的な支援を、それが無理なら別の所から借金してでも支援金を送ったりした。戦争で散在した国々にとって、金はそれだけの価値を持っていた。
 なお避難民と共に満州入りした400トンの金塊の総額は、単純に金銭にすると約4億ドルとなる。国家予算などと比べると一見少ない額だが、目減りしない完璧な現金価値を持つため、時価総額以上の価値を持っている。それを日米満各国が100トンずつ、その他支援を行った国も合わせて数十トン受け取ったと言われる。苦労して運んできた白軍の手には、最初の一割程度しか残らなかったわけだ。金塊輸送を巡る話しの中でも、多くの噂や陰謀、ドラマを産んだ。金塊を巡った同士討ち、暗闘、各国のスパイ合戦、盗賊の暗躍、様々な事件が水面下で行われたと言われている。
 また、この脱出行では、その後様々な人間ドラマや噂を作り出していた。何しろ僅か三ヶ月間で、約150万人もの亡命者だ。亡命する者も、貴族、僧侶、富裕層など共産主義者の餌食になる人々が多く、また曰く付きの人も多かった。運行された列車の中にも、やたらと厳重に警備された貨車と豪華な客車が連結されていたものが目撃されたりもしている。
 とはいえ、全員が故郷を追われた亡命者だった。亡命者の過半はその後満州各地に住むか、アメリカもしくはロシアコミュニティーが維持しやすいカナダに移住していく事となる。ロシア人にとって住みやすいとは言えない日本への亡命者も、数万人を数えた。そうした中で、アメリカに亡命した者の中に殺害された筈のロマノフ王朝の皇女アナスタシアがいるという話しが出たりした。そうした話しは、枚挙にいとまない。
 結果としては、革命と黄金が産み出した歴史的珍事件と言えるだろう。

 その後シベリア出兵自体は、1920年1月のオムスク政府消滅で日本政府は当初の名目上の目的(チェコ兵救援)達成と共に撤兵を行うと発表。エグゾダスも終わった同年3月までに、日本軍のほとんどがシベリアから撤退。一部の部隊(合わせて1個旅団程度)が、それまでロシア軍の管轄だった満州王国北部に残留したのみとなる。ロシア極東地域の日本人邦人も、一斉に引き上げを実施。革命ではなく、侵略者撃退を行おうとするロシア民衆やパルチザンとの無用の衝突を避けた。
 シベリア出兵での日本軍の出兵期間は1年半、戦費は約2億円、脱出経費は5000万円かかったとされる。金塊や財宝を2億円分以上得たので、収支決算的には実質的に大きな黒字だった。人命救助と言うことで、国際的にも高く評価された。
 それでも撤兵後に、日本国内では無益な出兵だとして政争が発生。実際、日本国内では米の買い占め騒動なども起きた。このため出兵の是非を巡り、陸軍内では積極的に出兵を押した総参謀本部次長の田中義一が事実上失脚してしまう。

 そして本来なら、これで一連の事件も幕引きの筈だった。だが、日本が強引に盛り込んだ北東アジアでの民族自決とシベリアで行われたエグゾダスが、次の戦争を誘発させてしまう。
 満州王国が、ロシア極東のアムール川北岸の旧外満州(アムール州)、東部沿岸の沿海州について、過去の帝国主義的侵略でロシア人に不当に奪われた土地だとして、国土回復戦争という手段に訴えたのだ。またエグゾダスを行った人々が、自分たちの暮らす場所欲しさに、満州王国に荷担した。元白軍などから満州王国に参加したロシア人の数も、10万の単位に達すると見られている。コサック騎兵の大集団を目撃したという現地特派員の記者もいた。
 諸外国が引き上げた直後にシベリアでの戦闘行為は開始され、満州王国駐留の日本軍の多くも満州南部に引き上げた後だったため、旧式装備の騎兵中心でしかない満州国軍(と元白軍)を止めることが出来なかった。しかも間が悪いことに、日本は世界大戦が終わっていらなくなった武器弾薬の多くを、満州に供与もしくは極めて安い価格で売却したばかりだった。
 こうして勃発したのが、満州王国軍とソ連赤軍との間に発生した「極東戦争」だった。
 そして民族自決、国土回復という言葉に諸外国が反応し、日本海からロシア人を追い出すチャンスと見た日本と、満州王国の長期的安定につながると見たアメリカが、満州王国への支援と援助を開始。満州王国は、短期間のうちに自らが奪回すべき領土とした地域の多くを占領下に置いた。この地域の住民数は、先住民を含めても100万人もいなかった。黒竜江沿いでは、シベリア鉄道が通ったばかりの場所も多く、未開発の場所ばかりだったからだ。その上、共産主義者は、収容所から出てきた人々ぐらいだった。現地の普通の人々は、満州王国とその後ろにいる日本、アメリカからもたされる文物と、共産主義が神を排除するという点を重視し、多くが現地の共産主義者に敵対した。
 しかも当時はまだ白軍と呼ばれる反革命派もロシア各地にかなりの数が活動していたし、何よりエグゾダスした元白軍や僧侶達も密かに現地入りして反革命運動を行った。
 このため事態は満州王国優位で進んだ。しかし交渉相手となるソビエト連邦(共産党又はヴォルシェビキ)が、満州側に白軍の影も色濃く見えるため強硬な姿勢を崩さず、事態は徐々に泥沼化していった。ロシア中央部から極東に送り込まれる赤軍パルチザンも増えて、満州王国は一時苦境に陥る。このため日米などは、主に水面下での満州王国を支援を強化。だがこれで元気を取り戻した満州王国は、敵の補給を断ち切るためとして他のシベリア方面にも進軍。事態は余計に悪化した。
 この状況を救ったのは、ロシアを挟んで満州王国の反対側にあるポーランドが起こした戦争だった。
 「ポ=ソ戦争」では、ドイツ系のポーランド軍人達の活躍によって赤軍は大敗した。このためソ連は、自らの貧弱な軍事力に怯えた事と、満州王国の後ろに日本、アメリカ、イギリスがいる事を踏まえて、遂に満州王国との和平交渉に応じたのだ。この結果、ロシアが帝国時代に清国との間に領土割譲した地域全ての返還に応じる事になった。ただし、ロシア時代に作られた文物の満州王国による買収、現地ロシア人の当面の移住の自由などを認めさた。またソ連側の条件としては、現地にロシア人による国家や自治国などを決して作らない事とされた。
 このため、満州側に荷担した元白軍が構想していた「極東共和国」や「沿海州帝国」とでも呼ぶべき国の誕生には至らなかったが、それでも多くの白系ロシア人、革命に反対する者、粛正対象の者などが、エグゾダス以外でもかなりの数、満州王国領となった旧ロシア領に亡命する事になる。
 そして満州王国は、日本、イギリス、アメリカなどから莫大な借款を受けて全ての文物の買収を実施。合わせて、満州王国本土での旧ロシア利権も全て買い上げた。鉄道買収は南満州鉄道が行い、これにより赤いロシア人は多少の金を得るも日本、アメリカなどのどん欲さを知る事になる。
 そしてその後、旧ロシア極東地域には、結局ロシア人自治区がそのまま建設されている。ソ連は激怒したが、ソ連と満州の間には国交と呼べるものはなく、しかも1920年頃はソ連の力が極東では非常に弱かったので、満州がソ連の足下を見た結果だった。
 そして、満州王国領内での元ロシア帝国系住民の自治確立は、満州王国の戦争資金の出所の一部がどこなのかを伝えていると言えよう。

●フェイズ11「海軍軍縮会議」