■フェイズ11「海軍軍縮会議」

 パリ講和会議も一段落した頃、満州王国に対する協調行動に見られるように、蜜月関係にあると見られていた日本とアメリカの関係だが、俄に緊張が高まりつつあった。
 日本は、世界大戦に全面的に参戦してヨーロッパに大軍を派兵したことで国際的注目度が格段に上がり、さらに戦争景気で大幅に国力を付けたことで、諸外国が警戒感の目を持って見るようになっていた。
 その象徴が、1921年11月に開催された「ワシントン海軍軍縮会議」だったといえるだろう。

 「ワシントン海軍軍縮会議」は、世界大戦後の海軍拡張競争が原因していた。
 軍隊とは、基本的に国家防衛が主な任務である。そして主な仮想敵国を定め、そこに向けて軍備を整えることを心がける。古今東西を問わず、軍隊、特に海軍を揃えるのは金と時間のかかる事であり、可能な限り目標と方針を定めて効率的、合理的に行わねばならないからだ。
 明治初期の日本には、これという仮想敵国はなかった。日本が貧乏で弱すぎて、敵を定める事すらできなかったからだ。故に、とにかく予算内で出来るだけの軍備を揃える以外の手はなかった。しかし時代が進むにつれて、兵部省と軍は清国、ロシア帝国、ドイツ帝国と時代に応じて仮想敵国を設定するようになる。日英同盟という望外の状況もあるため、国防方針を定める事は容易だった。しかも日本国内では、兵部省と総参謀本部によって軍組織が統合的に運用され、軍事費も効率的に使用することが可能だった。当然だが、日本全体で仮想敵を想定することが通常行われていた。
 そして世界大戦までは、仮想敵を決めることに不自由しなかったのだが、大戦後俄に怪しくなる。兵部省、陸軍、海軍それぞれの主張が食い違っていたからだ。
 兵部省は明確な相手を決めず、全ての国に対する対抗措置と協調時の行動方針を定め、最も効率的な軍備建設を目指すべきだとした。陸軍は、ロシア人こそが日本の不倶戴天の敵であり、赤化した以上なお重視すべきだ考えていた。ドイツという敵のいなくなった海軍は多少苦しく、ほとんど消去法から太平洋にも大海軍を有するアメリカを仮想敵に据えた。
 しかし事態はさらに進み、満州王国が起こした「極東戦争」によって、赤いロシア人は日本海どころか事実上アジア・太平洋での橋頭堡を失ってしまう。チャイナに対しても満州王国が緩衝地帯となるため、当面ではあるがロシアは日本が極端に脅威を覚えなくても良い対象となった。海軍も、国内世論がアメリカを仮想敵に据えることに疑問を呈し、時の内閣も否定した。
 こうして陸軍、海軍双方の大規模軍備拡張の目論見が潰えた上で、軍の行政組織である兵部省が中心となって日本の新たな国防方針を策定する。
 新たな策定は、グレート・ウォーも終わって約2年後の1920年。新たな方針では明確な仮想敵は設けずに、同盟国を含め近隣の全ての国に対して、防衛と協力双方の軍事計画を策定することになる。この事は諸外国にも通達され、日本に友好的な諸外国も、日本の外交感覚とバランスの取れた軍備建設を目指す日本の国防方針を支持した。この裏には、結局のところ日本が第一の仮想的と据えるのは、常にロシア人の国だと誰もが了解していたからでもあった。日本海軍と一部造船メーカーは不満だったが、合理的考えを求められる時代に入りつつある中で、多くの者が常識を支持した。一部にアメリカを脅威と認識する者もいたが、基本的に日本とアメリカとでは国力差が開きすぎているため、実質的な仮想敵として認識する者は、現実面ではほとんといなかった。

 しかし日陰者にされる海軍は納得がいかず、世界大戦にドイツ海軍への対向という側面と、既存艦艇の更新という二つの要素を満足させるべく、彼らの有するあらゆる政治的手法を駆使して「八八艦隊計画」案を了承させたものを、大戦後の軍縮の中でも継続しようと躍起になった。
 計画の概要は、戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を基幹とした大規模な外洋海軍の建設。8年以内に全ての戦艦もしくは巡洋戦艦を建造し、また艦齢8年以上のものは近代改装を施し、さらに多くの補助艦艇を揃えることで、あらゆる事態、任務に対応できる海上戦力を整備するものとした。
 そして計画が本格的に提出された頃は、まだ戦艦の排水量が建造中のものでも3万トンに達したばかりだった。他国も数多くの戦艦を保有・建造している時期のため、それほど法外な要求ともいえなかったので、兵部省からも政府からも認められた。だがこの時海軍で設計中の新世代の戦艦は、どれも4万トンを越える巨大戦艦であり、その性能も一段階も二段階も先に進んだものだった。建造費も大幅に上昇していた。
 ユトランド沖海戦で大損害を受けた艦艇を急ぎ調べ上げた海軍は、主砲塔構造の抜本的改良、水平装甲を中心とした各装甲厚の増加、そうした重量増加に対応した浮力と速力の付与を基本とした次世代の主力艦を設計しつつあった。主力艦はどれも高速戦艦と呼びうる新世代のものであり、戦艦、巡洋戦艦という垣根を取り払うほど高性能が与えられる予定だった。
 そうした新世代の戦艦の建造は、全予算が予算通過した1918年に順次開始され、大戦のおかげで著しく能力と規模を拡大した日本中の造船所で、主力艦とそれを支える様々な艦艇の建造が大規模に開始される。そして戦艦以外の補助艦艇については、世界大戦の最中に主に護衛駆逐艦の大量建造という形で海軍の予測すら上回る規模で進んだ。しかし戦争が終われば殆どが用済みなる事が明らかなため、大型艦艇の建造開始を急いだ。
 大きな受注を受ける造船業界も、大戦が終わると底の見えないほどの需要の冷え込みを予測していたため、この海軍拡張に飛びつき、海軍の目論見は現実のものとして動き出した。
 なお、この頃の日本では、大型艦の建造施設は5箇所あった。海軍の呉工廠、横須賀工廠、民間の三菱長崎造船所、川崎神戸造船所、坂本尾道造船所があった。このうち呉工廠だけが大型艦用としては当時非常に珍しいドック方式で、他は軍艦が建造できるように重構造とされた大型船台だった。また坂本造船は、大戦前のタンカー建造とその後起きた世界大戦で一気に規模を拡大し、尾道、今治という瀬戸内海に何カ所かの造船所を増設もしくは開設し、主に樺太航路用の大型タンカー、大型の戦時標準船を続々と建造していた。このため尾道造船所以外でも、別に一カ所(船台)の1万トン級の大型艦の建造能力があった。常識的に考えると、戦艦級4隻、大型巡洋艦2隻が、最大建造能力だったと言えるだろう。毎年1隻の戦艦級を作った上で補助艦艇も充実させようとするなら、それが当時の日本の物理的な限界でもあった。
 しかし、大戦のおかげで建造速度は大きく向上し、艦船用の鋼材供給能力も大幅に向上していた。海軍にしてみれば、重工業様々である。このため1917年頃から建造ペースが大きな上向き曲線を示し、戦時生産における24時間3交代操業によって、ものすごいペースで船を造っている造船所もあった。
 だが日本海軍の大軍拡は、世界大戦の終了と共に大きく減退し、1920年に日本政府によって否定され、「八八艦隊計画」も大幅に縮小される事が決まってしまう。
 計画はほぼ半分の規模となり、建造ペースも落とされた。
 日本政府は、今以上の背伸びを否定する、賢明な判断を下したのだと言えるだろう。

 一方、日本に対向そして凌駕しうる海軍大国のイギリスとアメリカだが、イギリスは次なる建艦競争どころではなかった。1918年といえばまだ大戦中だが、既にドイツに建造能力が無いため他にリソースが向けられた。大戦が終わると、旧式艦艇の大幅削減に乗り出さねばならないほど追いつめられていた。戦争も終わりドイツという強大な敵がいなくなった以上、余りにも多数保有された戦艦群はイギリスにとっても過ぎた戦力だった。
 そして疲弊したイギリスにとって、日本が1920年に策定し直した「比較的緩やかな」海軍整備計画ですら、世界国家として競争につき合わねばならないイギリスとしては迷惑なほどだった。
 他方アメリカだが、少し微妙だった。
 日本の海軍力への実質的な対抗意識としては、1906年のグレート・ホワイト・フリートが最初のものとなったが、その後は比較的穏やかだった。アメリカから見て、日本は所詮貧乏国が背伸びしているに過ぎず、しかも主に満州開発で協調関係が進んでいるので、対向相手として見る向きが小さかった。人によっては、日本の事をアメリカの為のアジアの番犬程度に見ていた。
 変化が訪れるのは世界大戦が始まってからで、同時期に日本が次々に大型で高性能の戦艦、巡洋戦艦を浮かべていくのに合わせるかのように、アメリカも新世代の戦艦建造に勤しんだ。そして日本の新鋭艦建造が「ユトランド沖海戦」で一時停滞するも、1918年には再び巨大な計画を予算通過させてアメリカを大いに焦らせた。しかし日本が1920年に策定した改訂計画は、一般常識範囲での軍備拡張でしかなくなってしまう。日本の激しい乱高下に、アメリカ海軍の軍備計画策定も翻弄され続けた。
 かくして、アメリカ海軍が一気に世界一の海軍になろうと進めていた巨大な海軍拡張計画は、実質的な対向相手に欠ける法外なものだとして、アメリカ国民から否定されてしまう。当然というべきか、世界中からもアメリカの「過ぎた軍拡」が注目され、批判の対象となった。
 このためアメリカ政府も、海軍拡張の大幅な下方修正を是とした。
 その後の厳重な査定を経て組み上げられた「改三年計画」は、計画途中のものから半分程度に縮小されたものとなった。戦艦10隻、巡洋戦艦6隻を中心とした大艦隊は、戦艦7隻、巡洋戦艦3隻へと縮小され、補助艦艇の数も大幅に削減されたものとなった。建造が続行されていた「平甲板型」駆逐艦も、1920年の最終建造分は一部が中止され、既に200隻以上も建造された一部はそのまま予備役に編入されたり、中小の国々への売却すら行われた。その上で、初期計画から漏れた分は、その後改めて議論を行った後に建造を決めることとされた。
 それでも日本、イギリスへの対向上として、相応の軍備拡張計画は進められる修正案となったのだ。
 こうした日本とアメリカの動きは大幅改訂が共に1920年だったため、それまでの計画は世界大戦を経たヨーロッパからは過剰なものと見られ、警戒感を向けられる事になった。また改訂上での計画も、数、戦力の上では常識範囲内であっても、艦艇の大型化、高性能化による価格高騰は、各国の財務関係者の頭痛の種だった。何しろ日米が新世代の戦艦を浮かべるのだから、ヨーロッパ諸国もつき合わなくてはならないからだ。そしてヨーロッパ諸国が耐えられる財政負担では無かった。このためイギリスが音頭を取る形で政治的な調整が行われ、1921年11月に「ワシントンで海軍軍縮会議」が開催される。
 もっともアメリカは、当初は自らの《コロラド級》戦艦4隻の完成を待ってから会議を開催しようとしていた。だが、完成する1923年内に、日本はより多くの新造戦艦(アメリカは合計6隻を予想)を完成させかねないため、イギリスと図って会議を予定より前倒しで開催にこぎ着けさせたという経緯がある。イギリスとしては、日本に対する大戦での恩義よりも、自らの懐具合を優先した形だった。

 ワシントン会議は、イギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアが参加し、世界初の国際的軍備縮小会議と言うことで大きな注目を集めた。会議の争点は、どの程度各国の戦艦保有量を削減するかだった。
 当時の大型艦保有量は、概算で以下のようになる。

 ・1922年初頭時点の保有量(準弩級戦艦、同巡洋戦艦以上)
・英/12インチ砲戦艦(準弩級):8
   12インチ砲戦艦:9、12インチ砲巡洋戦艦:4
   13.5インチ砲戦艦:12、13.5インチ砲巡洋戦艦:3
   15インチ砲戦艦:10、15インチ砲巡洋戦艦:3
・米/12インチ砲戦艦(準弩級):6、12インチ砲戦艦:8
   14インチ砲戦艦:11、16インチ砲戦艦:1
・日/12インチ砲戦艦、巡洋戦艦(準弩級):6
   14インチ砲戦艦:8、16インチ砲戦艦:2

 ※前弩級戦艦、装甲巡洋艦は割愛。
 ※日本は会議までに《長門》《陸奥》が完成。
 ※《加賀》《土佐》《天城》《赤城》が艤装中、《愛宕》《高雄》が船体工事中。他は計画段階で改訂設計中。
 ※アメリカの16インチ砲戦艦は1隻のみ完成。
 ※他の《コロラド級》3隻は進水済、《サウスダコタ級》、《レキシントン級》は各3隻が起工されるが建造初期段階。
 ※イギリスは、新規計画を策定するも策定したのみ。

 会議において、建造中の戦艦が大きな争点となった。特に日本が建造中の戦艦は、どれも16インチ砲を備え4万トンを越える巨体のため、完成したら軍縮の理念に反する存在になりかねないと考えられた。
 だが日本は、船体が完成して艤装も進んでいる《加賀》《土佐》《天城》《赤城》の保有を主張。特に《加賀》は、機関と主砲の据え付けもほぼ終わり建造が70%まで進んでいるとして、日本が強く保有を求めた。
 これに対して各国は、既に完成した《長門》《陸奥》はともかく、それ以上は軍縮の理念に反すると反発。特にアメリカと日本の間に溝を作った。このためイギリスが間に入った形で調整が進められ、日本が別に主張していた対米英70%の保有比率を認める代わりに、建造中の戦艦の完成を諦めるという向きで会議が進められる。この点は、イギリスが日本に大戦での恩義を返した形と言えるだろう。日本の70%保有には、アメリカが強く反対していたからだ。しかしフランス、イタリアも日本の肩を持ったため、会議は日本70%の保有が大勢を占めた。これは、世界大戦での貢献度が、外交に反映された形だった。
 そして日本代表団もここが落としどころと考え、上記条件で交渉がまとめられる事になる。ただし、アメリカの強い求めによって、日本の16インチ砲装備艦の保有量も対米70%とされたため、アメリカが建造中の戦艦のうち2隻を完成させる権利を認めなくてはならなかった。またイギリスも、最大3隻までの16インチ砲搭載戦艦保有枠を得ることになる。
 この決定は、日本海軍内の一部に不満を持たせることになり、日米関係に影をもたらす結果を生む。
 こうして日本が保有する主力艦は、超弩級戦艦の《長門》《陸奥》《伊勢》《日向》《扶桑》《山城》、巡洋戦艦の《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》以外に、既に旧式化している戦艦《摂津》《薩摩》《安芸》とされた。
 しかし条約では、艦齢20年で代艦建造が認められるため、日本は1932年、33年就役の新規建造を合わせて2隻認められる。
 その他の条件は以下のようになる。

・条約達成後の比率  英:米:日=10:10:7
・条約達成後の隻数  英:米:日=20:18:13
・100%=52.5万トン

・英/13.5インチ砲戦艦:4(7)、13.5インチ砲巡洋戦艦:1
   15インチ砲戦艦:10、15インチ砲巡洋戦艦:3、16インチ砲戦艦:(3)
・米/12インチ砲戦艦:4
   14インチ砲戦艦:11、16インチ砲戦艦:3
・日/12インチ砲戦艦(準弩級):3
   14インチ砲戦艦:8、16インチ砲戦艦:2

・個艦制限は、基本は排水量3万5000トン、主砲16インチ砲以下。
・日本の《陸奥》、イギリスの《フッド》を特例とする。
・日本は現状以上の16インチ砲戦艦を建造せず、アメリカは建造中のうち《コロラド級》2隻、イギリスは新規計画として3隻まで認められる。
・日本の保有枠は、戦艦36万7500トン、空母9万4500トン。
・《加賀》《土佐》《天城》《赤城》《愛宕》《高雄》は廃棄。
・うち《天城》《赤城》を空母に改装予定。
・その後《天城》を廃棄して《加賀》に代替。関東大震災の影響もあって、しばらく空母枠は4万500トンが浮いた状態となる。
・アメリカは未完の《レキシントン》級2隻を空母に改装。
・イギリスは既存の軽巡洋戦艦を空母に改装。
・イギリスは、新鋭戦艦建造まで代替として3隻の旧式戦艦の保有を認められる。

 また同ワシントン会議は、単なる軍備縮小だけではなく従来の安全保障体制そのものへの干渉が実施された。特にアメリカの新聞各紙は、軍備縮小の前提として日英同盟を破棄して、多国間の安全保障の枠組みを作るべきだと論調を張った。そしてアメリカマスコミの動きは、アメリカ政府の望みであることは明白だった。この件に対して日本とイギリスは、当初はどちらも同盟関係維持の意志を見せた。両国の安全保障と世界大戦での日英の関係を考えれば、同盟を維持することが国益にも叶っている事は明白だからだ。しかし、二国間条約が軍縮の理念に反するのは確かだった。そしてイギリスには、同盟は日本が利益を得すぎているという考えもあり、日本にはまたヨーロッパの争乱が起きた時に巻き込まれるのは避けたいという思惑が見えた。
 結局日英同盟は、新たに太平洋の軍縮を定める「四カ国条約」という形で再編成され解消される運びとなった。そしてこの時、太平洋での多国間条約と太平洋の防備制限が定めらる事になる。
 この中で、日本、イギリスが主張した、ハワイ王国の永世中立国化と中立海域の設定が認められる。この条約は、当然ながら時限付きではなく恒久的なものとされ、自然災害などの緊急事態を除いて、周辺海域(200海里以内)を含めて他国の軍(軍艦)が許可なく入ることが堅く禁じられることが各国間で約束された。この件に関してアメリカ代表は反対を唱えたが、国内からアメリカの安全、太平洋の安定に大きく寄与するとして猛反発に合い、諸外国からも強い非難を受け、ハワイの永世中立国化を認めざるを得なくなる。
 しかし太平洋全体での防備制限は、太平洋各地に広大な版図を有する日本にとって不利なものとされ、アメリカはアメリカでフィリピン、グァムが日本の勢力圏内深くにあるため、日本の艦艇保有枠に不満が強く残るものとなった。
 他にも、同会議では中華地域での紳士協定的な国際条約について話し合いが比較的順調に進んだが、会議そのものは各国に誰が一番得をしたのかという悪い後味を残すものとなった。

 なお、この時期の日本海軍の主力艦艇について補足しておく。
 日本の戦艦建造は、「ユトランド沖海戦」で大きな転機を迎えた。《金剛級》巡洋戦艦は1番艦《金剛》がイギリスで建造されたように、純粋なイギリス設計の優秀な戦闘艦だった。しかし「ユトランド沖海戦」で防御構造の不備が露呈し、慌てた日本海軍は建造中の艦艇の防御強化を行い、設計段階の艦艇については大幅な設計変更を行う。
 この結果《山城》《伊勢》《日向》は、弱点として露呈された各部水平装甲を増厚して、計画時よりも1000トン近い重量増加した上で就役した。このため計画時の最高速力を維持するため、ボイラーの構造を強化して圧力を少し高めに設定し、機関出力も若干引き上げることになった。そして主に主甲板、主砲天蓋、弾薬庫の装甲を増やし、初期の設計よりも重防御の戦艦としてそれぞれ就役した。既に就役していた《扶桑》や《金剛級》巡洋戦艦も、若干の速力低下を忍んでそれぞれ防御力が強化された。このため《金剛級》巡洋戦艦は、その後の近代改装工事もあって艦種分類を巡洋戦艦から戦艦に変更している。
 また、海戦当時建造が始まったばかりだった《長門》《陸奥》は、設計の見直しが行われて実質的な建造開始が半年遅れた。基本的には、装甲の全面的増強、主機関の強化が実施され、重量増加と機関区増加の浮力を増すための措置も行われた。この結果《長門》は、全長が5メートル、排水量は2000トン以上増加して、基準排水量34,800トンとなった。増えた分は、ほとんどが防御力の強化に当てられた形だ。
 しかも建造が遅れていた《陸奥》は、さらに強化と改良が行われて主砲塔を1基増やすことに成功し、10門の41センチ砲を搭載した上に排水量、全長はさらに大きくなった。全長231メートル、基準排水量3万7300トンという大きさは、未完に終わった《加賀》級に準じる巨体だった。しかもイギリスの《フッド》に次ぐ排水量でもあり、攻撃力は世界一のため、日本では長らく世界最強の戦艦と言われた。そして《陸奥》は、日本全体での艦艇建造技術、速度が戦争特需のお陰で大幅に向上したにも関わらず、大幅な改訂のせいで軍縮会議ギリギリでの就役となった。
 こうした強力な戦艦を多数整備していた事が、この時の軍縮条約を呼び込んだと考えると、皮肉も感じる現実と言えるだろう。
 また、平和を求めたが故の軍縮が、かえって各国間の関係を危うくさせ、亀裂を深めさせた事は、軍縮の難しさを物語っている。

●フェイズ12「大災害と復活」