■フェイズ12「大災害と復活」

 1924年11月21日、坂本龍馬が自らの誕生日に天寿を全うした。本人は「百(才)まで生きる」と生前豪語し老齢となっても壮健だったが、幕末の風雲児も老いと病には勝てなかった。パリ講和会議への傍聴出席を、事実上の公的な最後の仕事として完全な隠居状態に入り、彼の後半生の本拠地となっていたハワイのワイキキにある別邸で静かに息を引き取った。
 死因は肝臓ガンによる病死で、半年ほど前から死期が予測されたため、大勢の家族、一族に囲まれての静かな最後だったとされる。
 なお坂本龍馬は、明治も数年経ってから妻おりょうとの間に初めての子を授かり、その後もさらに2人の子を得た。しかしと言うべきか、彼がこの世を去るときまでに「認知」した血縁者(私生児)とその子孫の数は、実子とその子孫よりも数が多かった。
 何しろ明治の元勲達は「英雄色多し」の言葉通りで、中でも坂本龍馬は抜きん出ていたと言われ、その噂通り「ご落胤」には事欠かなかったからだ。中には他国人の混血もいたほどで、口さがない者は「日本のドン・ファン」と言ったりもした。だが、どこかおおらかでもあった明治の気風が、坂本龍馬という英雄の存在を許したのだ。
 そしてそんな坂本龍馬が死去する約一年前に、最後の元勲として大仕事を行っている。
 俗に言う「帝都復興計画」への賛同と全面協力だ。

 1923年9月1日正午に起きた「関東大震災」は、当時の日本のGNPの3割から6割にあたる100億円から200億円もの被害を出す、近代日本史上屈指の大災害となった。帝都東京の半分を焼け野原とした震災直後の大規模な都市火災により、死者の数も十万人以上を数えた。震源地近くの横浜の壊滅、相模湾や東京湾岸の津波による被害も大きかった。そして首都を襲った事もあり、災害は戦争を上回る国難と認識され、世界大戦での好景気を全て吹き飛ばす災害だったと言われたりもする。あまりの被害の大きさに、一時はオカルト的なものが原因なのではないかと一部で言われた程だった。また、グレート・ウォーで日本が得た利益に対する、天からのしっぺ返しだとも言われたりもした。
 そして日本政府は、直ちに災害救助と復興計画を立ち上げる。
 この時、「大風呂敷」とのあだ名を持つ内相(内務大臣)の後藤新平が提案した大規模な帝都復興計画が発表されるが、100億円もの予算を必要とするため現実から離れた法外な提案だと考えられた。しかし、いち早く話しを聞きつけた坂本龍馬は、後藤案に全面的な賛成を示し、私財全てをなげうってでも協力すると、日本のみならず世界中に向けて宣言した。実際、日本政府などに対して、地震が起きてすぐに1億円もの各種私財(現金、金塊、有価証券など)を寄付している。この年の日本の国家予算が23億円だった事から考えても、いかに大金だったかが分かるだろう。
 坂本と同様に、安田財閥の安田善次郎も私財をなげうって復興を全面的に援助すると発言し、二人の財閥創始者の言葉は大きな言霊となって日本中に広まっていった。しかも坂本は、早々に日本復興財団を私設の形で設立し、自ら10億円もの出資を短期間のうちに行った。それ以前に、震災直後から東京湾に大量の救難船を派遣したりするなど、坂本龍馬の指示により財閥を挙げて災害復興にも動いていた。陸戦部門だけとなった海援隊も、全力で復興に動員させた。海援隊が災害救助を任務と業務に加えるようになったのも、関東大震災以後の事だった。
 坂本らの動きは日本全土を動かし、結局日本政府も可能な限り大規模な復興案を立案せざるを得なくなり、外債も加えた震災復興債を早期に発行して復興資金を集める事になった。寄付についても、日本の財界を代表する二つの財閥が億の単位で私財をなげうつのに、他の財閥がお茶を濁すような寄付や援助で済む話しではなくなっていた。三菱、三井、住友などの古参から、新参の日産、運営の厳しい鈴木商店なども応じて復興事業賛成を発表すると、あとは日本全体で復興に向けての動きが加速していく。金や資産を持っている者は、誰でも復興のために使おうという意識が、全国民の間にも広がった。当時の日本では、「貯めずに使え」、「宵越し銭は持つな」という言葉が標語のように語られた。
 当然国家予算にも深くメスが入れられたのだが、この時軍部が猛反発した。他の省庁同様に文官の集まりである兵部省自身は、基本的に復興計画に賛成していたのだが、実戦部隊である陸海軍が、国防が疎かになるとして強く反発したのだ。震災に伴う日本の国力減退に際して、諸外国が付け入る動きを見せる可能性が高いと言うのが軍人達の主な言葉だった。
 しかしこの時は、首相、内閣、議会共に一致して復興が優先する事を決定し、また国民から強い非難を浴びたこともあって、陸海軍も自らの意見を引き下げざるを得なくなる。強硬論を唱えた一部の軍人が、軍人の政治介入などを理由に処罰されたりもした。しかしこの軍人達の視野の狭い行いは、大戦への大挙参加で上がっていた軍の人気を大きく押し下げる事にもなり、軍の国民に対する反発を強めるという悪循環の始まりともなった。
 また復興に際して復興省が立ち上げられたのだが、巨大な利益が見込めると言うことで多くの者が集まり、汚職、寄生虫、横領など様々な負の側面も見せる事にもなる。「全日本」のかけ声の元で結集した帝都復興だったが、全てがきれい事で済む話しでもなかったのだ。ただし、政府、官僚組織、公共事業に対する癒着体質にも一定の対策が取られてもいるので、マイナス面ばかりでなかったことを追記しておこう。

 日銀による様々な形での緊急紙幣増刷を含め、単年度で約50億円(国家予算二年分)もの復興資金を集めた政府は、巨大な帝都復興計画を開始する。
 復興相を兼任した後藤新平は、高橋是清など財政に明るい人々とも連携し、単なる復興ではなく積極財政政策としての帝都復興と、日本全体の産業振興を合わせて実施にこぎ着ける。世界大戦終了から沈みがちだった日本経済自体を、「災い転じて福となす」の言葉通りにしようという野心的な計画だった。
 そして帝都復興は、積極財政政策による景気の回復と、莫大な企業献金、復興外債公募のお陰もあり、後藤新平の計画を越える形で進んでいく。震災から3年の間に投じられた復興資金も、100億円を優に越えることとなった。国家予算の規模も、通常20億円の前半だったものが、復興予算を含めると毎年50億円を優に超えることとなった。使った額だけなら、数年前に行われた世界大戦での日本の戦費とほぼ同額という大きさだった。
 そして戦争による浪費ではなく、復興という名の生産、一種の積極財政政策を、戦時予算規模で行うようなものだった。このため、爆発的な経済の発展へと繋がった。
 一度、地震と火災で更地となった場所に立てられていた、主に廃材を用いた簡易のあばら屋(バラック)も、政府が用意した仮設居住区に住民ごと多少強引にでも移転させた。そしてその後、土地の売買交渉を一気に進め、土木機械を総動員して区画整理を行った。区画整理は、震災被害の大きかった横浜など神奈川県沿岸部などの焼けなかった他の地区でも大々的に実施され、規模は東京湾一円に及んだ。大量の瓦礫処理のために、新たに東京湾各所が埋め立てられることにもなった。しかも区画整理は、単に災害に強い街に作り替えるだけでなく、今後四半世紀先の社会資本整備や都市計画を見越したもののため、当面は公園や緑地帯として置かれるような地区もあったほど計画的だった。
 震災から僅か5年間で、帝都東京の姿は見違えるように変化していった。防火帯を兼ねた自動車時代を見越した近代的で幅の太い道路網と、防災を第一に考えた各地の広大な防災公園などを基軸として、都市区画も新たに割り直された合理的な都市機能を備えるように整備された。各地で放射状に広がる広域道路や円形広場、ロータリーは、この時の都市計画の名残だ。道路そのものも、当時最新の施工法となるアスファルト舗装とされ、埃が舞い上がることもなくなった。もっとも復興当初は道を走る車の姿がないので、帝都中を飛行機の滑走路にでもするのかと、復興計画を推進した後藤らを非難する声も出たほどだった。また、道路のひき直しに連動して、帝都一円での上下水道の大規模な整備も実施されている。同時に、普及が進んでいた電話線、電気の送電線の多くも、今後の発展を見越した形で地下に埋設された。一部では、道路工事と平行して日本で最初となる地下鉄工事すら実施された。
 さらには、短期間の不便を忍んで一部の鉄道路線すら合理的に敷き直したほどだった。この中で国鉄の鉄道路線は、周辺部を買収して標準軌化に向けての準備までが行われている。他の交通の便も考えて、高架にされた場所もあった。そして大規模な区画整理と鉄道路線の変化に伴って繁華街の再編成も進められ、鉄道路線の集中する東京各地に新たな繁華街が出現することになる。
 それ以外にも、都心から鉄道沿線沿いに作られた閑静な住宅地群や重厚な鉄筋コンクリートの建造物群など、復興計画で作られた新たな街や建造物は数知れない。和洋折衷の「文化住宅」による新興住宅地と共に、近代長屋とも言われた日本で最初の鉄筋コンクリートづくりの「団地(中層アパートメント群)」が誕生したのは1926年の事だった。これは防災を兼ねた防火帯を兼ねる地域に作られ、また区画整理や道路拡張、公園整理で元々住んでいた場所から立ち退いた人々に、なるべく元の場所に近い場所に戻ってきてもらうという目的もあった。このため団地の一階には、商店が軒を連ねたりもした。
 また東京市全体の区割り、行政単位も一気に再編成し、周辺部の統合によって、大阪を抜いて日本最大の都市へと躍進している。

 なおこの時の復興事業では、アメリカから購入したり自国で製造した大量の土木工作機械が多用された。これは日本で排土車(ブルドーザー)、ユンボ(パワーショベル)、クレーン車が大量登場する契機となり、以後軍でも注目されるようになった。こうした背景には、大戦頃から主に満州王国でアメリカから輸入されたものが使われているのを日本人達が目撃したり、先の世界大戦で実際に戦地でも使用した事が呼び水となっていた。また大戦後の日本国内でも、少しずつ利用されるようになっているものだった。しかし帝都復興で一気に需要が拡大し、目聡い建設業者や財閥、商社は我先にアメリカ製の土木機械を輸入し、財閥、一部の工場では国産が行われるようにもなった。各地でエンジン音や金属音を響かせるブルドーザーやユンボは、帝都復興の象徴だった。初期の頃は蒸気を用いた中古機械が多かったが、そのうちディーゼル燃料またはガソリン燃料を使う動力を用いる機械が爆発的に増えていった。荷物や土砂、建築資材を運ぶ、各種トラック、ダンプカーも一気にその数を増した。リヤカーなど荷車を引く牛の変わりの、低馬力の単車やオート三輪が登場したのも帝都復興の最中だった。
 他にも、帝都中に広がっていったアスファルト道路を舗装するための土木車両も多数導入されるようになり、この時出来た道路舗装会社の群が、その後日本中さらには満州などを舗装して回ることになる。
 こうした土木作業や関連したトラック(自動貨車)の需要の計数的ともいえる拡大は、国産も進めることで日本の機械化産業拡大を大きく後押しした。また、土建関連の需要が爆発的に伸びたため、建設用の鉄鋼、コンクリート需要も爆発的に伸び、双方の生産高も極度の右肩上がりを示すようになる。業界人達は、この時の変化と拡大を「世界大戦以上だ」と表現したほどだった。実際、土建業、製鉄、コンクリート事業は、世界大戦を遙かに上回る規模で、しかも長期間拡大を続けた。車の普及によるゴムタイヤの需要拡大により、南方では天然ゴムの栽培も爆発的に伸びた。

 なお、この帝都復興で先導的役割を果たした坂本財閥だが、もともと関東地方に拠点が少ないため、受けた被害は比較的小規模だった。今まで国内では、京阪神や瀬戸内が活動の拠点で、それ以外では日本の外郭地、海外で活動していたためだった。しかし、それでも震源地に近い横浜にあった様々な施設の多くが壊滅しており、耐震建築をほとんど考慮していなかった煉瓦造りの洋風建築にいた一族からは死傷者も出ている。
 また、日本国内での政治権力構図上での坂本財閥は、海外植民地産業で政府とのつながりが比較的強い事から、三井を中心に富裕層が支持する政友会を支持していた。
 坂本龍馬が元気な頃は、小栗忠順が作り彼の次男である坂本譲二も参加した日本共和党があったが、立憲君主制を強める憲法改正など、当時としては革新的だった政策を掲げたりしたため国民の支持を伸ばすことができず、その後政友会に合流していた。そして人と資金を送り込んだ形の立憲政友会に対しても、高橋是清=後藤新平ラインを特に支持し続けた。その絆は、帝都復興で一層強まったと言えるだろう。
 また私財を含めて財閥全体で10億円以上の巨額な復興費用を出しているが、その分大量の復興受注を受けているので、実際は出した以上に儲けていると言われることが多い。復興で儲けたという点では、他の財閥についても同様だ。

 帝都復興は、開始から3年で一定の目処が見えてきた。それまで木造建築ばかりだった帝都東京は、各所で鉄筋コンクリートの建造物が建設されつつあった。このため帝都復興は、新たな時代を切り開くものだとも捉えられるようになりつつあった。
 そして「昭和」という新たな時代を迎えたばかりの1926年、政府は帝都復興の第一段階通過を受けて、「重要産業育成計画」通称「五カ年計画」を発表する。その名の通り、5年間を一つの枠組みとする、長期的視野に立った国家計画だった。
 同政策は、1928年にソ連で開始された計画経済を先取りするものだと言われる、社会主義的・共産主義的だと一部の保守勢力から強い非難もあった。だが、国内社会資本の整備に加えて、大幅な工業力、機械力の向上が見込まれた事もあり、軍部は比較的好意的だった。軍人の多く、特に陸軍は平時に無理をして大陸軍を揃えるよりも、戦時に備えた生産力が重要な事を先の大戦で学んでいた。先の大戦で野原に山脈のごとく積まれた砲弾を見れば、誰だって認識を変えるものだ。
 そして巨大な公共事業による帝都東京を中心とした都市の急速な近代化は、日本の重工業化、機械化工業などの発達を著しく促した。初期の頃は土建業中心だったが、近代的な建設事業には鉄とコンクリートが必要で、大量の土木機械を導入しようとも大量の労働力が必要だった。しかも当時は過剰なほどの耐震建築が目指されたため、尚更だった。
 このため鉄鋼、コンクリート、土建業者は増産に次ぐ増産、増資に次ぐ増資、事業規模の拡大に次ぐ拡大を重ね、先の大戦特需を大きく上回る復興特需となった。大戦後の不景気で増えていた不労労働者もまずは土建業に吸収され、多くの機械操作資格者を産み出した。未就労者のために、分割や後払いによる官営の各種自動車学校が全国に作られたりもした。
 製鉄所も、既存施設による増産だけではすぐに足りなくなったため、1926年から新たに最新鋭の大規模製鉄所が姫路の広畑に建設された。同製鉄所の規模は、日本の鉄鋼生産の半分を担っていた八幡製鉄所に匹敵し、一つ当たりの高炉も大きく設備も欧米の最新鋭のため、非常に効率的で経済的、そして大きな生産力の発揮が可能だった。
 そして復興と日本全体のインフラ整備が進むことで、日本のモータリゼーション(自動車社会化)を後押ししていく事にもなる。だが逆に重工業を有する財閥、大企業への資本集中が進んだ。そうした中で輸出産業が大きな注目を浴びて、時の高橋政権は1926年春に新平価と金解禁を実施し、アメリカの好景気に乗る形で輸出拡大を画策する。この1920年代は、日本での品質向上もあってイギリス、アメリカへの綿製品、絹の輸出は大幅に拡大した。そして綿布生産拡大による工業生産の拡大は、日本国内での土建業とそれに伴う各産業の発展に好影響を与え、日本の工業生産高、GDP(国内総生産)を大幅に拡大させた。
 また帝都東京を中心にした復興景気と社会資本整備は、そのまま地方へと拡散し、地方においてもまずは土建業が大量の労働力を吸収していった。そして次に様々な工場が、これまで以上に労働力を飲み込むようになると、農村部では人出不足が見られるようになる。小作人が名主や自作農の下で田畑を耕すよりも、工場で働く方が稼ぎ(収入)が上だったからだ。土建業なら、一時的な労働であっても、より多くの稼ぎが約束されていた。しかも正規の工場務めになれれば、努力すれば長期的安定も得られるし、多少の法律による保護も期待できた。また初期の地方土建業や工場のかなりが、それまでの地主や名主が経営者となっていたので、新たな業種に働く際の人々の心理的垣根も下げていた。
 このため、俄に労働力不足に陥りつつあった農村では、各地で農業の機械化による省力化が進められていくようになる。伝統的な労働集約農業から、資本集約農業への変化の兆しだった。鎌倉時代から続いていた武士の時代から、農村経営の実質部分を行ってきた名主や地主達は、半ば伝統から農業経営者としても優秀な場合が多かった。
 そして、これまでは大規模農業の多い北海道、樺太でしか見られなかった景色が、日本の他の地域でも見られるようになっていく。そして農業の機械化促進は、日本全体での機械工業にさらなる供給先を提供する事になり、農業の省力化も日本の景気拡大を後押しするようになっていく。
 なお、日本経済の急速な拡大は、既存の最大級の社会資本である鉄道の改良も強く促した。後藤新平が以前から提唱していた国鉄の標準軌への変更も、1927年に全国一斉に行われる事になる。この流れは、北海道全域で標準軌が採用されていた事と満州の急速な発展も影響していたが、日本列島での大規模なインフラ整備が無ければ簡単には実現しなかっただろう。鉄道輸送力を拡大するために、標準軌への変更が必要となっていたのだ。

 そして産業発展に伴う日本での石油需要の高まりが、国産油田の開発を促進させた。そして国内での石油の安定供給が、日本でのモータリゼーションをさらに促進させていった。
 日本国内の油田は、新潟、秋田にある小規模な油田を別にすると、樺太北部の北樺太油田がほぼ唯一のものだった。
 樺太島北部は日露戦争の結果日本領となり、油田については既に天然ガス漏れやごく小規模の自噴もあったので存在が知られていた。しかし当時の石油の需要と言えば、石油ランプ、蝋燭、潤滑油程度しかないのが現状で、政府はまだ乗り気ではなかった。しかし、アメリカでの大規模な自動車産業の勃興を詳しく知っていた坂本財閥が、これまでの北方開発によるアドバンテージもあって開発権を取得。アメリカから採掘技術と機材を輸入して、1906年に予備調査の形で試掘が開始される。試掘は難なく成功し、坂本財閥はアメリカから特殊鋼材などの産油のための機材、製油のための機材を輸入しつつ、技術習得のため採算を一時的に無視してでも集めた。
 それから3年後に商業採掘が開始されるが、その頃になると海軍が石油から簡単に精製できる重油に興味を向けた。イギリス海軍を中心にして、艦の心臓部であるボイラーで炊く燃料を、石炭から石油へとシフトしつつあったからだ。
 しかしまだガソリン、灯油などの国内需要は少なく、ガソリンの一部は自動車産業がものすごい勢いで発達しているアメリカまたはヨーロッパに、棄てるよりはマシとばかりに安価で輸出されたほどだった。
 大きな変化は世界大戦中に訪れ、船舶需要の重油消費の拡大と主にヨーロッパで使う自動車両、航空機の燃料としてガソリンが大量に必要となり、採掘規模も大きく拡大した。工業の拡大、動力装置の増加に伴い、潤滑油の需要も大きく増えた。
 主にアメリカから技術導入することで石油精製産業も発展し、北樺太油田の開発を一手に担っていた坂本財閥は、石油の採掘、タンカーによる運搬、そして石油精製事業によって大きく業績を拡大した。北樺太油田の開発には別に政府合弁会社(=帝国石油)もあったが、国産技術にこだわったため坂本財閥系の坂本石油の方が遙かに優位な状況を作り上げていた。
 大戦が終わる頃には、国内でのタンカー建造、石油産業は坂本財閥の基幹事業の一つとなり、安定した燃料供給を目指す日本政府と合弁の会社が幾つも作られた。
 また産油、製油のための特殊鋼製造のための製鉄所、高炉が必要になり、さらにタンカーを造るための鋼材の供給先も必要だった。このため坂本財閥系の製鉄会社も拡大を続け、日本全体の鉄鋼需要と生産も、大戦が終わっても右肩上がりの成長を続けることになる。

 その後の油田開発は、日本国内の消費に合わせる形で順調に規模を拡大した。北樺太油田は大きく二カ所で採掘され、1928年に産油量150万トン(約185万キロリットル=1130万バレル)を記録。その後も生産量を拡大して、250万キロリットルまで増加する。新潟、秋田の油田も、1930年代後半には40万キロリットルにまで増えた。また後の調査では、北樺太では海底油田の存在も確認されるが、油田先進国のアメリカですらまだ海底油田採掘の技術が未熟のため、当面は断念された。だが、その後1930年代後半に、一部の浅瀬を仕切る事で試験的に採掘を開始し始める。
 なお北樺太油田の油質は、硫黄分が少なく世界の既存の油田のものと比べても優良水準だった。しかし油自体の軽さは標準的なため、極端に良質というわけでもない。成分的にも、高純度ガソリン、つまり航空機用ガソリンにはあまり向いていなかった。
 また産油量自体も、せいぜい中規模程度だった。だが日本唯一の油田のため、開発には力が入れられた。
 そして政府は積極財政の一環として、採掘が軌道に乗り始めた北樺太油田を活用するべく、自動車の大量導入を計画に潜り込ませる。そして帝都復興に続く、大阪、名古屋、横浜など大都市再開発計画とセットとする。石油から取れたアスファルトを使った近代的な舗装道路も、帝都復興を契機として都市部の幹線道路を中心に広がっていった。

 そしてモータリゼーションの立て役者である自動車産業だが、1925年に坂本財閥がフォード社と提携してノックダウン工場を国内に建設した。坂本財閥は、1900年頃にまだ勃興期だった頃のデトロイトなどに、自社の若手技術者を武者修行のような形で派遣したり各大学に留学させ、そのうちの一つだったフォード社との関係が深まり、この時の合弁に結びついている。
 坂本財閥傘下の坂本重工は、千葉に広大な敷地を購入し、古くから昵懇となっていたフォード社との合弁自動車工場を建設。日本で初めて、フォード式とも呼ばれるベルトコンベヤー式の大規模工場を建設する。連動して部品製造の均一化や生産管理、能率化などの革新的な生産概念を日本に持ち込むが、当初の日本では高い経費が必要だった事もあり、坂本財閥傘下の企業に無理矢理押しつけるのが精一杯だった。この当時の日本の工業水準では、アメリカレベルの工業製品生産がまだまだ難しいことを思い知らせた。それでも1930年代には、ボールベアリングなどでも十分高品質なものが、工作機械の時点から自力生産できるまでに品質を向上させていく事になる。
 そして坂本財閥の動きは他の財閥各社を刺激し、1920年代は日本での自動車産業の勃興期となり、1931年操業の日産自動車、1933年操業の豊田自動車の隆盛へと続く。しかし三菱など他の財閥は、政府(軍)の指導で国産にこだわった。
 この中で、新興財閥の日産は操業すぐにアメリカのGM(ゼネラル・モータース)と提携、ノックダウン生産で坂本財閥を猛追、1930年代は中小企業だった豊田は自社生産にこだわるが、坂本とは部品関連で提携してアメリカの先端技術の習得に余念がなかった。しかも豊田の拡大は急速で、大阪の沿岸部にあった機織の方の親会社も、敷地規模を拡大して自動車工場としてしまったほどだった。
 そして日本でかなりの数の自動車がアスファルト道路の上を走り、軍艦だけでなく船舶も石炭から石油を燃料に転換するようになると、急速に日本国内での石油需要は拡大していった。
 北樺太油田は、アメリカから最新技術を導入して拡大と増産に励んだが、採算レベルでの産出量は250万キロリットルがほぼ限界で、1931年には日本は海外からの輸入を行わざるを得なくなってしまう。これが北樺太での海底油田開発の契機ともなるのだが、時代と技術水準からそれも叶わず、以後の日本は別の場所での石油開発に大きく傾倒していく事となる。

 一方政治だが、帝都復興計画の推進を契機とする大規模な積極財政政策は、高橋是清=後藤新平によるラインで支えられ、護憲三派内閣は立憲政友会が第一党となる。当然だが、日本国内での護憲派の政治力も向上した。
 そして国民からの支持も受けた護憲三派内閣は、軍備削減(宇垣軍縮など)により浮いた予算を公共投資を中心とする積極財政政策、産業拡充計画に投入。復興事業を発端として、開発の遅れている日本各地の開発が拡大しつつ行われていった。
 そして護憲派の拡大を後押しした民主政治だが、退役軍人ですら兵部省入りや兵部大臣になることが簡単には出来なくなる副産物も産み、制度上では軍事の文官統制を強めるも、軍部の政府、国民に対する八つ当たり的な恨みを増す事になってしまう。
 しかし、軍が面目を施した先の世界大戦では、兵士となった国民が数多く従軍し相応の犠牲も出したため、日本政府は終戦後の1919年に「普通選挙法」を制定している。同法は、25才以上の男子全てに選挙権を与えるもので、従軍に対する国民への報償、別の側面からすると権利を求める国民に対するガス抜きが目的だった。そして中流層(労働者階級)の拡大に伴い、さらなるガス抜きが必要となり、1925年には遂に女性に対しても選挙権を認める法律(婦人参政権)が国会を通過した。当然というべきか、女性の非選挙権も認められるようになって、女性議員も誕生する。
 婦人参政権を認めたのは、世界的に見ても早い方だろう。女性の権利拡大には海援隊が一助となったと言われるが、日本全体の発展がこれを達成させたと見るべきだろう。合わせて、主に共産主義者を弾圧するための「治安維持法」が制定される硬軟合わせた形だったが、日本の民主化が大きく進んだ事は間違いなかった。
 労働者を守る法律、社会保障制度、農業保護政策も、総力戦を行う為に必要だったので世界大戦中頃から進み始め、国民一人一人の権利についても徐々に考えられるようになっていた。

 なお、世界大戦への参加の際、日本は延べ100万の兵をヨーロッパへと送り込んだ。軍属、船舶要員、その他軍需に関わる人から娼婦に至るまで含めると、さらに20万人ほど増える。120万人という数字は、当時の日本人の50人に1人の割合で、兵士となった当時20〜25才の成年男子の5人に1人程度となる。
 そして100万の兵を支えるため、日本本土では延べ300万人の動員が行われている。日露戦争の約3倍の数字であり、当時の日本も限定的ではあるが総力戦を行ったことになる。伊達に100億円(50億ドル)もの金を使ってはいなかった。
 しかも戦争に犠牲は付き物で、他国ほど凄惨な戦闘を経験しなくても、5万人の兵士が戦死して軽傷者を含めて約25万の兵が負傷した。負傷兵の内5万人は体に大きな障害が残る、いわゆる傷痍軍人となり、戦死者を含めると10万の兵、その家族50万人に対して、政府は恩給など手厚い補償をしなければならなかった。また多数の兵士が徴兵・従軍したことで人々の権利意識が向上し、このため普通選挙権などの権利を与えなくてはならなかったのだ。
 加えて、戦争中は正規教育以外の兵士と将校を多数揃えなければならないため、軍の内部に僅かに残っていた薩長閥は物理的に完全に葬り去られた。そして戦後の動員解除で多くの「俄軍人」達は一般社会に戻ったが、それでも軍に残る者も一定数あり、軍閥を構成しつつあった陸海軍のエリート軍人達に対向できるだけの数と質を持つ一般社会から入っていた将校達が、軍に所属するようになる。ただしこれは、軍内部で正規将校と短現士官(後の予備士官)の対立を産むことにもなる。
 多少の例外は海援隊で、もともと一般から人材を多く調達していたのだが、大戦中には逆に大量動員された短現士官と正規将校が多数流入するようになった。海上護衛組織という巨大な組織運営の中で海軍を越える人員を抱えた事、対外評価が海軍そのものよりも高く、英仏から感謝され勲章を受けた数が海軍よりもはるかに多かった事が主な原因だった。
 このため組織自体も、これまでの半民半官で実質経営が民間と言うわけにもいかなくなり、1922年に「護衛艦隊」という形で遂に海軍の一組織への変更が行われた。これにより海軍内には、常備艦隊(連合艦隊)、護衛艦隊、海兵隊という三つの戦闘組織を抱える事になる。ただし、軍の組織自体は、軍政は兵部省、軍の命令系統は陸軍と合わせて総参謀本部で大本が統一されていたので、組織面で極端な変化が起きたわけではない。
 なお、護衛艦隊は、海援隊時代から行われていた海上警察業務もそのまま引き受けたため、諸外国からは「コースト・ガード(沿岸警備隊)」とも見られた。実際、平時の護衛艦隊は、航路警備と沿岸警備隊、さらには海難救助隊としての活動が主となる。
 結果、海援隊のまま残された組織は、内閣直轄の陸戦組織だけになり、傭兵組織、民間警備会社としての組織だけが残されることになる。一部に洋上組織も残されたが、あくまで陸上傭兵派遣の為の部門に限られていた。
 以後海援隊は、日本政府公認の武装組織としての側面を維持するも、海上護衛を専門とする組織としての幕を閉じることになる。艦艇の価格高騰、海上護衛の質的変化、任務の多様化を考えると、海援隊は歴史的役割を終えたと言えるだろう。
 しかし以後の海援隊は、政府の外郭団体もしくは傭兵組織としての向きが強まった。軍及び兵部省の退役、退官、途中脱落、兵役終了後の二度目の就職先という向きが一層強くなり、かえって日本の軍組織全体に対して大きな影響力を有するようになっていく。何しろ現役の軍人、官僚にとって、第二の就職先となるのだから、無視することは出来ないからだ。
 組織の特徴も、陸上での傭兵派遣と警備業務が増えるようになる。かつてイギリスから「海のグルガ兵」と言われたが、これ以後は「日本のグルガ兵」になってしまったわけだ。
 なおこの時太平洋、東アジア各地の小規模国家からは、海援隊に頼っていた自国の防衛をどうするかという懸念が表明されたが、世界情勢そのものが大戦前の帝国主義から変化が生じたため、極端な問題はないだろうと説得が行われた。またハワイ王国だけは、伝統として海援隊の陸戦部門を宮廷警護などで雇い続けてもいるなど、従来と変わらない面も多々見られた。

 一方、日本の南洋開発も、ドイツを追い出して地域としての安定を得たこともあり、さらに拡大していた。
 南洋開発と言えば坂本財閥の基盤の一つであり、日本列島から南緯10度辺りの南太平洋までのほぼ全ての地域が日本の勢力圏であり、同時に坂本財閥の勢力下のようなものだった。
 現地では古くからサトウキビ栽培が奨励され、品種改良による稲作研究も進んでいた。とはいえ陸地での主要作物はサトウキビとジャガイモ、サツマイモと現地の物産であり、米は南方米が少量生産されるに止まっていた。ゴムの木のプランテーション開発が進められたのが1910年頃からの新たな展開であり、サトウキビのプランテーションも、土地と天候に苦労しつつ開発が続けられていた。現地に住む日本人の数も、マラリアなどの疫病を克服しつつ根気強く増え、50万人近くに及んでいた。
 しかも1910年代ぐらいからは土地造成、耕地造成のため機械力(土木機械やトラック)も積極的に投入され、林業とサトウキビ栽培、ゴムを主軸に開発が進む。砂糖とゴムは主に国内で消費されたが、南方産の一部木材は欧米諸国で高値で取り引きされたため、重要な輸出品目だった。ゴムの方も、農園が拡大するにつれて輸出にも回されるようになっていった。
 そして開発の進展に伴い航路も整備され、1930年代には空路も整備されていった。中継地となるマリアナ諸島、トラック諸島、新八重山諸島各地の港湾、飛行場の整備も進んだ。平行して同地域の開発も進み、パラオ、マリアナ、トラック、東部ニューギニア諸島の各地では、それぞれの島を結ぶ海底ケーブルが社会資本整備として進められる程となる。これらの社会資本は、有事となれば軍事にも転用可能なものだった。
 またナウルの燐鉱石は、安価な天然の肥料として明治初期の頃から日本の農業生産拡大に貢献していた。日本全体での砂糖(サトウキビ)の自給率も大幅に向上した。しかも坂本財閥は、明治初期の頃から北海道、樺太、さらには満州でのサトウダイコン(ビート)の栽培を加えたヨーロッパ式の混合農業を熱心に行い、連動して牧畜産業を一層進めると共に日本の砂糖供給量を増やした。
 話しが少し逸れたが、新奄美大島のラバウルは明治以来ずっと南洋入植の中心地として栄えるが、1937年に起きた花吹山の火山噴火のため大損害を受け、軍事的重要性を帯びる1941年夏以後まで日本はラバウルからほぼ撤退。ニューギニア島北東岸のマダンに臨時拠点が置かれた。
 とはいえニューギニア島は、密林で覆われている上に島の中央部が殆ど全て4000メートル級の高山地帯のため、開発は思うようにいかなかった。しかし、1920年代から飛行機を用いた調査が行えるようになることで、大きな転機を迎える。今まで謎だった3000メートル級の盆地上の地形に、高度に発達した未知の畑、つまり文明社会を発見したからだ。
 今までは高山と密林のためなかなか入り込めなかった高山地帯に、世界とは隔絶した文明の発見に日本中が驚き、その驚きは世界にも伝えられた。現地には地上からの探検隊も送り込まれ、近隣住民をリレー式にした通訳として雇って、遂に未知の文明人との接触を行う。
 そこは赤道直下ながら3000メートル級の高山地帯のため、温帯地帯に近い気候区分に属する場所だった。そこでは芋の栽培を中心にした独自の畑作が行われ、多くの人々が住んでいた。しかし金属を用いるまでに文明は発展しておらず、一部オカルトマニアが期待を寄せた未知の超高度文明ではないことが明らかとなる。しかし日本政府は、原住民との友好的接触に力を入れ、文明の交流を行い、さらには近代文明の啓蒙活動まで熱心に行うようになる。
 それは日本と近隣諸国の関係が緊張感を強めるようになった、何よりの証拠でもあった。

 そして、もう一つの南方領土なったのが海南島だった。
 海南島は、委任統治領で位置的にも政治面で気を付けなければならない場所だった。しかも台湾同様に住民は阿片まみれで、清朝時代から開発がほとんど行われていない荒れ地が広がっていた。列強が比較的簡単に日本に渡した背景にも、そうした要素が無視できなかった。日本が得たというよりは、日本に押しつけたという側面の方が強かったのだ。
 しかし日本は、せっかく自分のもになったので、その後熱心な開発を実施した。経営、開発双方のノウハウ自体は既に台湾で実施されているものを改良して導入すればよく、既に鉄鉱石の存在が知られていたので、資源開発面でも日本政府の意気は高かった。
 石緑鉄鉱山は良質の鉄鉱石を産出するため、その後資本と機械力を導入した大規模な開発が行われ、日本にとっての主要な鉄鉱石供給地の一つとなっていった。また地道な資源調査により、量こそ限られていたが錫・タングステン・金・水晶・オイルシェールも見つかり、開発に拍車がかかることになる。
 また亜熱帯性の気候のため降水量も多く、灌漑、治水事業を積極的に進めることで、農業の開発も熱心に行われた。日本からの農業移民も募り、それでも足りない分は選抜制で帰化を前提とした移民をアジア広くから公募している。
 日本が委任統治領としてから20年以内に産業となった同島の主な農作物は、水稲・さとうきび・落花生・ゴム・油やし・胡椒・コーヒー・サイザル麻・レイシ・竜眼・ココヤシと豊富で、熱帯・亜熱帯性作物の主要な産地の一つとして発展していった。特に水稲は1年3作できるため生産性が高く人口も拡大し、さらにさとうきび・落花生に適した気候のため生産量も多かった。
 無論、島の開発のために日本から投資された金額も相当にのぼったが、有望な植民地が多いと言えない日本にとっては貴重な植民地となった。また、1920年代から30年代という日本の発展時期に開発が進んだため、その開発速度は非常に早いものであった。
 現地の「日本化」も急速で、1940年頃には既に中華ではなく日本の一地域といえる程になっていた。公用語はほぼ日本語となり、住民の意識も中華ではなく日本に帰属意識を強めていた。
 そうした開発に対して諸外国から懸念がないわけではなかったが、少なくとも1920年代は世界は取りあえず平穏だった。

●フェイズ13「日米蜜月と護憲政治」