■フェイズ13「日米蜜月と護憲政治」

 日本とアメリカの関係は、今更言うまでもないが1853年の「ペリー来航」から始まっている。近代における大きな転機は「日露戦争」だった。東アジア進出、さらには世界進出を狙うアメリカは、弱小の日本を応援してロシアの影響力を退けるべく、日本に大きく肩入れした。その結果、日本から南満州鉄道の共同経営権を得てアジアへの足場を作り、その後さらに日本と共謀して、中華地域から満州を完全に切り離してしまう。満州独立は、日本だけでは不可能だっただろうし、アメリカのどん欲さがなければ何事も無かったかもしれない。
 そして世界大戦でロシア中央の勢力からも満州を切り離し、広義の意味での満州一帯はアメリカ人にとってのフロンティアとなった。少なくとも、アメリカ人の一部はそう考えた。
 とはいえ満州の実質的な権利者と管理人は日本であり、アメリカは出資者というのが基本的な国際上での関係だった。満州王国という、いちおうの現地国家も存在して、「反漢」をスローガンにしたナショナリズムを用いて徐々に力を蓄えつつあった。さらに流石のアメリカでも、広大な太平洋にまともな中継拠点を持たないため、アジア進出には安定した国力と後方拠点、生産拠点として活用できる第三国の存在が必要不可欠だった。そして全ての条件に最も近い国といえば、日本以外の選択肢はなかった。
 中華地域から満州をもぎ取った以上、中華民国はあまり使えないし、日本が保護国化している朝鮮は全ての面から論外だった。それ以外となると、列強の植民地ばかりだった。アメリカの有するフィリピンが利用できればよいが、スペインによる劣悪な植民地統治が数百年間も続いたフィリピンに、自らの軍事拠点以外の近代的な何かを求めることができるには、最低でも四半世紀が必要だと考えられた。アメリカによる現地の内乱鎮圧だけでも、割譲してから十年以上の時間が必要だったほどだ。コルト・ガバメントという拳銃が何故誕生したのかが、アメリカによるフィリピンでの植民地統治を物語っている。
 このためアメリカは、取りあえずではあっても日本と共同歩調をとるしか、満州というフロンティアに足をかけ続けることが出来なかった。
 しかし、当時の日本とアメリカの関係が悪いのかと言えば、むしろ国際的に見れば良好な部類に属していた。無論、主にアメリカ側の人種差別や国家間の貧富の差はあったが、互いに相応の力を持った独立国であるという事と、両者に相応の利益が存在した事によって、相応の関係構築を作り上げていた。
 「日米蜜月」とも言われた時代の象徴は、1912年のワシントンへの桜の苗木贈呈・植樹と、1915年のハナミズキ(ドックウッド)の 返礼だとされる。

 当時のアメリカから見ての日本は、肯定的に見た場合、満州の番人で、世界大戦に自力で参加できる有色人種による近代国家だった。アメリカ西部を中心にした一部の者からは、自分たちの仕事を奪う労働移民という側面もあったが、東部、中部のアメリカ人にとっては、チャイナと同様に未知の東洋人の国でしかなかった。満鉄の啓蒙活動もあって、アメリカでの日本と日本由来の文物の認知度もある程度は高まった。
 例外は満州に進出したアメリカ人達で、彼らにとっての日本人とは、自分たちを武力で守ってくれる比較的真面目なガードマンであり、自分たちが満州でビジネスを行う上での便利な「道具」だった。イングリッシュが十分に出来れば、本国の黒人以上に満足できるだけの相手だった。
 満州開発は、一応は満鉄を通じて共同経営の対等な関係という事になっていたが、資金の豊富さと技術の高さからアメリカが主導することが多かった。何より殆どのアメリカ人は、日本人のみならず有色人種を基本的に見下していた。それでもアメリカのドルと機械力によって満州開発が爆発的に進展し、その影響は日本経済にも好影響を与えたので、一部のナショナリストを除いて文句を言う日本人はいなかった。世界大戦以後は、イングリッシュを学ぶ日本人が俄に増えたほどだった。また日本とアメリカの友好的な関係が作られたのも確かで、国際的、開明的な人々を中心として、満州では日米間の国際結婚も相応の頻度で見られた。アメリカ人の中にも、満州ではなく日本に住むようになった人もかなりの数に上っている。
 1910年頃から、満州進出の橋頭堡である大連は、日本領であるにも関わらず「東洋のニューヨーク」や「アメリカの香港」と呼ばれ、日本人とアメリカ人だけの上海のような町並み、整然とした計画都市が熱心に造られた。
 大連は、上海、天津と並んでアメリカの中華進出の拠点となり、最盛時は1万人を越えるアメリカ人が主に商業目的で滞在した。広大なアメリカ人居留地も作られ、一部は定住してそのまま「リトル・ニューヨーク」と呼ばれた。アメリカ西海岸から、ハワイ、日本を経由する航路も、年々拡大していった。
 また、アメリカ西部を中心にして冒険的な農民も年々満州に移民するようになり、1906年から1930年までの四半世紀で約15万人を数えた。チャイナとは違うマンチュリアという別の国家の存在が、鉄道利権だけでは不足する移民の意志を促したのだ。そしてアメリカの開拓農民が移民したという点において、満州はまさに最後のフロンティアだった。アメリカが約四半世紀の間に投資したドルの総額も、満州全体で20億ドル以上に上っている。経済波及効果はその数倍、数十倍にも及ぶ。
 かつて草原や荒野だった土地にも、アメリカ資本、アメリカの巨大な農業機械が入り込み、日本人、アメリカ人による大規模農業が行われた。鉄道には、アメリカ製の巨大な中古機関車が日常的に走っていた。資源開発、産業勃興も拡大の一途で、建国頃は鉄道路線以外ほとんど何も無かった満州経済は爆発的に発展した。アメリカ人と日本人が、1911年に満州を独立させようと思ったのは、ある意味当然だった。彼らにとっての満州は、自分たちが切り開いた土地と映っていたのだ。
 日本からも、日本領となっていた遼東半島を中心にして、多数の農業移民が移住していくことになる。
 そして爆発的な開発のため現地住民では労働力が不足すると、満州王国の安定と好景気を聞きつけた隣国中華民国、大韓帝国からは、いくらでも労働移民が流れ込んだので、低賃金労働、下層労働の担い手はいくらでもいた。大陸に進出した日本人も数多く、多くが成功者となった。
 また、ロシア革命とシベリア出兵で発生した大量のロシア移民の住む旧ロシア極東部も、日本、アメリカ資本の進出とロシア移民による開発により発展し、1930年代には明確に満州経済の一翼を担うようになっていた。
 そして広大な満州で栽培された大豆、こうりゃん、ビート(さとうだいこん)、ジャガイモ、小麦、さらには畜産物などの農作物は、国民生活の向上と人口の肥大化で食糧自給率が落ちていた日本本土に続々と輸出された。

 開発の機軸である南満州鉄道も、事実上の満州王国の国鉄(※この場合国営鉄道ではなく国家鉄道と呼ぶべきだろう)として経営規模、路線を次々に拡大した。もっとも鉄道は、日本側の努力にも関わらず、世界大戦頃までは強力なアメリカ製機関車の独断場だった。中央部に広大な平原の広がる満州は、アメリカ型の強力な機関車が合っていたからだ。しかし日本人達も少しずつアメリカから技術を学び取り、その技術を日本本土やその後の満州で開花させていく。ちなみに、1927年の日本国有鉄道の標準軌化には、満州の順調な発展も影響していた。
 なお満鉄は、初代総裁後藤新平の方針と株主の関係から、欧米式のトップダウン型の組織傾向が強かった。また減点主義ではなく加点主義でもあったため、官僚組織というより会社組織であり、保守傾向の強い日本人からは嫌われる事が多かった。現地に駐留する日本軍(関東軍)からも年々嫌われるようになり、満鉄が有する巨大シンクタンクの存在がそれを助長した。比較的巧くつき合ったのは、創設初期から欧米型の経営方針を取り入れていた坂本財閥や、新興の日産財閥だと言われる。また坂本財閥は、明治初期の頃から植民地開発に力を入れていた事もあり、必然的に満州王国での様々なものとの関係が深かった。満州王国の警備の一部には、海援隊も加わったりした。

 ちなみに、大型資本注入による大規模農業は、日本の保護国状態が続く朝鮮半島の一部でも実施された。このため一時期、朝鮮の土地がアメリカ人に買われてしまう前に日本は朝鮮を併合すべきだとの論調が出現した事もあった。
 しかし朝鮮半島(大韓帝国)が積み上げた国家としての借金や、日本が現在得ている朝鮮利権などの損得勘定から、併合どころか統治の強化にも至らなかった。現状維持の方が、日本の利益になるからだ。アメリカも朝鮮半島に深入りする価値を認めず、日本人の機嫌を損ねない程度の朝鮮半島進出に止めた。
 近所に赤いロシア人の国があれば話しも多少は変化しただろうが、赤いロシア人は数百キロ彼方だった。また、朝鮮人自身が自らの祖国の開発に尽力していれば別の方向で話しの向き方も違ってきたのだろうが、旧来から続く朝鮮半島の支配層は、自らの国土を開発することには異常なほど無頓着だった。
 このため、満州王国よりも朝鮮半島(大韓帝国)の方が、よほど植民地らしい経済状態に置かれ続けた。

 満州王国での日米共同開発は比較的順調だったが、日米関係が必ずしも良好であり続けたわけではない。
 早くも1906年には、アメリカは「グレート・ホワイト・フリート」という大艦隊で世界一周を行い、自らの帝国主義性を誇示していた。満州王国設立の折りには、タフト政権が民主主義制度にこだわったため、アメリカで初めて日本に対する反発と警戒が表面化した。
 グレート・ウォーの最中には、中華地域全体での経済進出問題が起きて、1917年の「石井・ランシング協定」で一時沈静化。日米双方が大戦に参加した事もあって、友好的に政治的妥協が行われた。また日本も、この時は他の中華利権に手を出して国際的評価を下げるよりは順調な満州開発に力を入れる方が物心両面で得策と考えたため、特に大きな問題とはならなかった。
 しかし中華本土の市場進出では、日本、アメリカ双方の協調と連携を欠いたため、中華市場進出競争で対立が徐々に激化していく。日米政府間の満州、中華進出問題で、日本政府が徐々にアメリカへのハードルを高くしていく事になる。当然アメリカは反発した。
 これがワシントン会議での、アメリカによる日英同盟解消の提案につながったとも言われている。しかし中華問題では、満州王国という共同の問題を抱えているため、「九カ国条約」を結ぶことに日米共に積極的だった。(中華の)全てを一人で飲み込んで他者から恨まれるよりも、分け合って一定の利益を得ることを両国共に得策と考えたからだ。
 故に、中華域内での日貨、米貨排斥運動では日米は連携した。
 だが、利害が一致したからこその連携だったため、満州国の共同経営であるという点は、年を減るごとに日米の間に溝を作っていく事になる。
 そうした日米の微妙な関係をさらに危うくしたのが、日本国内の政治的変化だった。

 日本での本格的な政党政治は、1910年頃に始まる。いちおうは国会開設の頃から政党政治は始まっているのだが、当時はまだ明治維新の元勲、元老が現役でいたし、薩長を初めとする官軍閥(薩長土肥など)の勢力が強すぎた。しかし徐々に薩長閥、元勲が否定され、国民が自らの意志で政治家を選ぶ時代が到来しつつあった。そうした動きの象徴は、当時「護憲政治」と呼ばれた。
 1918年から比較的長期間続いた平民宰相原敬の内閣により、政党政治、民主政治は大きく前進した。この時期の普通選挙制の導入は、原敬の政治力が無ければ実現できなかったとも言われる。
 そして普通選挙の影響もあって、薩長閥、軍閥はほぼ駆逐され、政党を中心とした護憲政治が進んだ。だが一方で公官庁では、帝大を中心とした学閥の台頭、高級官僚の権力拡大が進んだ。軍隊内も、戦争を知らない純粋培養された将校達の勢力が日増しに強まっていった。また財閥や産業界が、献金や賄賂によって政治を自らの優位に動かそうと言う動きが強まり、まだ貧しい者の多い日本人の間に富める者への反発を産んだ。
 しかし明治初期の頃から構築されていたカウンター・テロ・システムのお陰もあって、少なくとも政府や財界中枢の暗殺、謀殺という事件はほとんど起きず、無軌道なテロによって政治が変わるという悪夢を見ることなく日本の政治は進んだ。強引さや賄賂で悪い評価をされる事が多かった原敬も、何度か暗殺未遂が起きたが、どれも事なきを得ている。
 なお、原敬の負の面での行動は、政党政治の前進と旧弊打破のために必要だった側面もあるのだが、偏狭な視野しか持たない者にそうした事は見えていなかった。

 ちなみに、1920年代の首相の流れを見ると以下のようになる。

・原敬(1918年7月〜)
・加藤友三郎(1922年6月〜)
・山本權兵衞(1923年9月〜)
・後藤新平(1927年4月〜)

 見て分かるかも知れないが、何名かの軍人出身者が首相となっている。しかしもそれは主に個人の能力故で、政治家になった時点で彼らは単なる政治家であり、当時の日本の制度上でも特に問題はなかった。また病気(ガン)で退陣した加藤友三郎を除いて、比較的長期の政権が続いた時期でもあった。原敬はその後「大正の元老」や「黒幕」、「狸」、「妖怪」などと揶揄されつつも、晩年近くまで政治的影響力を保持していた。各政権が安定していたのも、原敬の影響があればこそだった。
 そして日本でも政党政治、民主政治が定着したと諸外国も考え、アメリカは非常に好意的に日本の政治を見ている時期でもあった。
 また当時の内閣は、政友会、憲政党が持ち回りで内閣を作るのが半ば慣例となっており、この時も守られていた。憲政党内閣が比較的短かったが、それは軍部との繋がりが強いため国民から嫌われる事が多かった為だ。国民の意識も、成熟しつつあったと言えるだろう。「大正デモクラシー」という言葉は、原敬内閣の頃に誕生したものだ。
 そしてこの頃に形成された力が、一時期の混乱を是正する時に大きな下支えとなっていく。

 この護憲政治に影をさしたのが、1927年6月に起きた「満洲某重大事件(張作霖爆殺事件)」だった。
 満州王国の有力政治家(+軍閥)だった張作霖が列車ごと爆察され、その犯行には現地の日本軍が強く関わっていた。爆察の原因は諸説あるが、基本的には張作霖が国(満州王国)の自主自立性を高めようとして、日本を切り離すべくアメリカに接近していたため、これを疎んだ満州駐留軍(関東軍)が現地の独断専行で爆殺したという事になっている。
 実際はもっと複雑で、満州王国内の権力闘争も含み、今なお解き明かされていない部分も多い。一般的には、張作霖が満州王国での権勢を望みすぎたため起きた、権力闘争の結果だと言われている。
 この事件は、日本国内の一部で喝采を叫ぶ声があった反面、アメリカ世論を硬化させることになった。そして当時の後藤新平内閣は、他国における軍部の独断専行は断じて許されざる行為だとして、兵部省に命じて公開での軍法会議の開催を断行させる。これに対して(陸軍)軍部は、「軍の統帥権」という日本でしか通用しない理屈を持ち出して反発したが、陸海軍は事実上政府の下部組織で天皇の統帥は「伝統」として憲法内に明記されているのであり、兵部省が内閣の下に位置しているため、その論法にも無理があった。実際、ほぼこの論法で反論も封じられた。
 しかも昭和天皇が内閣への支持を表に出したため、官僚的防衛本能をむき出しにした陸軍も沈黙せざるをえなかった。日本国民に至っては、陸軍に対する嫌悪を一層強めた。
 このため一時期日本国内の町中では、陸軍の軍服を着て歩くことが避けられるまでになり、日本の一般大衆からも「イモ」や「泥臭い」と悪し様に言われている。陸軍将校の一部で、立憲派政治家と自らが守るべき国民を恨み蔑む傾向ができたのも、この頃だと言われる。
 そして日本国民の殆どは政府の行動を賞賛し、アメリカ政府も日本政府の事後処理を評価した。そして好景気を背景とした民衆の支持もあって、護憲内閣は続く。
 しかし後藤新平は、1929年(昭和4年)に遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。一時は、暗殺説も飛び交った。
 後藤の死去後は、当時蔵相だった高橋是清が臨時に総理大臣に就任した。しかし以後、大黒柱を失った立憲政友会は不安定となり、しばらくして多くの退役軍人、国粋主義者が党内に入り込むようになっていく。そして護憲政治の旗頭でもあった後藤新平死去後、護憲政党は急速に衰退を始める。
 既に70才を越えていた原敬が現役復帰して、政権と政友会、さらには護憲政治を支えるも、老齢からくる力の衰えのため十分な活動はできなかった。しかも護憲政治の基本外交である、協調外交重視、対中融和政策という方針は、日本国内での不理解と、中華民国の日本から見ての理不尽な行動によって多くが無に帰した。
 また満州王国の張作霖の息子張学良は、日本政府が張作霖殺害を内外に認めて息子の張学良に対しても謝罪したにも関わらず、以後強い反日家として活動するようになる。このため満州王国の安定性も徐々に失われ、政治的未熟な国家に相応しく急速に全体主義に向かっていくことになる。

 そして日本での民主政治の混乱は、民主共和制の総本山を勝手に自負するアメリカにとって強く憂慮すべき問題だった。特に日本の政治が20年近くうまくいっていた事を考えると、突然のように軍部が力を持ったように見えた。そして日本での軍部台頭は、ヨーロッパの情景が重なったこともあり、アメリカの心証を一層悪くする事になる。

●フェイズ14「暗雲来る」