■フェイズ16「日本経済の拡大」

 1930年代に入ってからの日本は、急速に国際関係を悪化させつつあった。「持てる国」による保護貿易、ブロック経済体制の前に、「持たざる国」である日本は貿易での不利を強いられ、それが日本人の英仏米への反発へとつながっていたのだ。
 なお、当時の日本の工業原料の輸入先だが、大きくは以下のようになる。

鉄鉱石 :日本勢力圏内(海南島、満州帝国)
     英領マレー、オーストラリア、米領フィリピン、蘭領東インド
石油 :国内(北樺太)、満州帝国、アメリカ、蘭領東インド
ガソリン・軽油・灯油 :アメリカ、蘭領東インド
錫、マンガン :英領マレー、蘭領東インド
亜鉛 :カナダ、オーストラリア
綿花 :英領インド帝国、アメリカ
ボーキサイト、ニッケル :カナダ、仏領ニューカレドニア

※項目が下になるほど自給率は低くなる
※重油は、満州から日本以外にも輸出されている
※石炭、銅、生ゴム、砂糖は勢力圏内を含めて自給可能
※鉄鉱石は、勢力圏内からの移入、輸入で8割程度の自給が可能
※主要食糧は、満州、朝鮮半島からの輸入が必要。一部、中華民国、東南アジアからも輸入。

 以上のように、日本国内及び勢力圏で不足する地下天然資源の多くを、イギリス及び英連邦から輸入していた。他にも蘭領東インド、アメリカからの輸入も欠かせなかった。そして経済が好調な日本がどんどん資源を輸入するため、主にイギリス、アメリカ、オランダにも良性の経済効果が波及している。特に1930年代は、経済が好調な日本との貿易を拡大するため、フランスやドイツまでが接近している。ニッケルの入手先にニューカレドニアが加わっているのも、フランスの積極的な売り込みがあったためだ。
 しかし日本が自給できる資源も、一定程度存在していた。
 石炭については、国内産出分と満州帝国、朝鮮北部の炭田利権を合わせると当時としては十分確保できて、多少なら輸出できるほどだった。産出量で言えば、1930年代後半だと総量1億3000万トン(うち満州3500万トン、朝鮮半島3000万トン)となる。国内炭田では、筑豊に代表される九州北部、夕張などの北海道、そして北樺太炭田(旧ズエ炭田)が主力となる。
 しかし石炭は徐々に主要燃料から格下げされつつあり、石油こそが国家の血液とすら言われる燃料資源になりつつあった。
 石油については、北樺太油田のお陰で1933年の国内産油量は300万キロリットル近くを記録していた。トン数にすると約250万トンで、1930年代前半の日本の石油消費の半分以上を賄っていた。しかし足りてない資源であり、日本政府も憂慮していた。
 しかしその憂慮を打開する一つの出来事が発生する。
 北満州油田の開発開始だ。

 「北満州油田」の存在は、古くは1908年の日米合同の地質調査で存在が確認されていた。しかし当時は、初歩的な簡単な調査しか行われなかった。原因は、地表近くの調査では油質が非常に重くワックス分が多いため、油質がかなり悪いと考えられたからだ。
 そして十年以上存在が忘れ去れるも、日本で石油需要が大幅に伸び始める1920年代半ばに再び目が向けられるようになる。この時は政府系の帝国石油と坂本石油の二社が合同で大規模な調査を行い、かなり深い地下に対するボーリング調査も実施された。そしてアメリカ資本は採算性が低すぎるとして見向きもしなかったため、この時の調査結果を日本政府は箝口令を敷いた。
 そして1928年に、日本が軍の駐屯地として同地を買収又は権利を取得。広大な土地が日本軍の「駐屯地」、「演習地」とされ、一般人の出入りが禁じられる。そしてその後、満州政府の協力を受けて鉄道の引き込み線が作られ、基地の外から見て地平線の向こう側に幾つもの巨大な建造物、油井が建ち始める。
 当然油田開発を行っているのであり、昭和石油という日満合同の政府系の合弁会社も新たに設立され、1930年から開発が本格化した。開発には先にも挙げたように坂本石油が大規模に参加していたが、同社が北樺太油田の開発とアメリカからの技術習得で高い技術を有していたからだった。
 1930年に最初の商業試掘に成功。埋蔵量は、当初から数億バレル以上(※埋蔵量50億バレル=約8億キロリットル)と予測された。この一面的な報告に政府は安堵したのだが、石油に詳しい人々はすぐにも眉を曇らせた。予想以上に石油の質、油質が悪かったからだ。
 油質は重質油と呼ばれるもので、原油性状はワックス分が多く(22.4%)、比較的重質で(API 33.2 度)、重油収率が 61%もあった。硫黄分が低いのがせめてもの救いだったが(0.08%)、流動点が非常に高い(+32.5℃)という特徴も有していた。つまり、屑油とすらされる重油が平均より二割ほど多く採れるが、価値の高い灯油、軽油、ガソリンは極端に少なかった。単純な数字で言えば平均の三分一以下で、軽質油になればなるほど採油率は低く、最も軽い高純度ガソリン、ナフサなどは現状の技術では商業的採算がほとんど取れないというものだった。またワックスが多く粘っこい油なので、産油の際のコストも通常より高くなりがちだった。

 取りあえず喜んだのは、海軍と海運会社だった。船の釜(ボイラー)は多くが重油で動いていたので、重油が多く取れるという点が評価された形だった。また当時爆発的に増えていた電力需要に対して、重油を用いた火力発電にはかなりの魅力があった。大規模水力発電所は山奥にしか作れず、石炭発電では煤煙が大量に出るため、都市近郊に発電所を置くことがそれなりに躊躇われたからだ。
 そして日本政府も、海軍と海運に大きく期待をしていたため、油田開発を精力的に行うことになる。それに、少しでも手持ちの資源が多いと言うことは、当時の日本にとってはとても重要だった。
 油田開発は満州革命以後規模を大きく拡大し、満州からアメリカ人の姿が減るのと平行するように油田地帯の規模が拡大されていった。また、巨大油田の開発は日本に産油に必要な産業の拡大も促し、産油用の特殊鋼材を中心に高精度の鉄鋼需要すら大きく増やす要因となった。油田開発のために、新たに大規模製鉄所が作られたほどだ。
 そうして日本が新たな大規模油田を得たことが諸外国にも知られるようになるが、規模や実数について正確な発表が行われなかったため、諸外国は憶測や予測で物事を計るしかなかった。しかし油田規模は北樺太油田より大きく、また油田層が比較的深いためか、大量の機械、鋼管、特殊鋼などの資材を投じていることは物流の流れから掴めた。また油田地帯に出入りするタンク車両(貨車)の数は増える一方で、そのうち主要鉄道線路までパイプラインが伸びてきた。油田地帯には、大量の備蓄タンク群や巨大な精油所(化学石油コンビナート)があることも判明した。しかし日本政府が軍の工兵、技術兵を多数参加させているため、秘密にされている部分も多く実体は知れなかった。
 それでも旧東清鉄道からウラジオストクや大連に向かうタンク車を連ねた貨物列車の数は年々増え、満州帝国の大規模河川付近の主要都市近郊には、重油を用いる巨大な火力発電所も建設された。日本本土でも、沿岸部の大都市近郊に巨大火力発電所が幾つも出現するようになった。日本海、黄海を行き来する大型タンカーの数も、増加の一途を辿った。そして何より、日本は他国から重油を買わなくなった。

 日本政府が秘密にし続けた産油量だが、早くも1934年には300万トンを記録した。この時点で北樺太油田を上回り、日本は再び石油をほぼ自給できるようになる。それでも一部のガソリン、軽油、灯油、ナフサなどは依然として輸入に頼らねばならず、潤滑油の不足も続いていた。日本の産業発展のため不足分はむしろ増える一方だったのだが、重油など重い油に関しては完全に自給できるようになった。1938年を例に取ると、自動車用ガソリンだけで約300万キロリットルを消費しており、このうち3割程度しか国産と満州で自給できていなかった。このため有事の際の資源獲得を憂慮した日本政府は、1935年にドイツから人造石油のパテントを純金込みの大金をはたいて獲得。早くも37年には、年産50万トン規模の大規模な人造石油精製工場が稼働するようになっている。有事に備え、各種石油備蓄基地も日本各地に建設された。北樺太では、樺太島を横断するパイプラインも敷設された。
 一方では、満州での産油量は莫大な投資もあって年々劇的に増加し、1938年には1000万トンを記録。その後も大幅な拡大を続け、あり余っている重油については日本以外にも国際価格よりやや安価で輸出された。これを、その頃から関係の深まったドイツやイタリアが、1930年代中頃から近在からの不足分を購入した。特にエチオピア戦争で国際的な孤立を深めたイタリアは、日本から積極的に購入している。
 日本国内に出回る油は増える一方で、1935年ぐらいから大規模な重油火力発電所が日本各地や満州で操業を開始。大量の安価な電気を供給して、工場の電化、電化製品の拡大による一般の電力消費に対応した。
 船舶も安価な事実上の国産重油をふんだんに使うようになり、他の海運国家との価格競争をさらに有利なものとした。さらに有り余る重油については海軍が艦艇燃料として使い、海軍の訓練は少なくとも燃料面では非常に贅沢なものとなっていった。このため1930年代中頃からの海軍の訓練は、外洋での長期訓練が増えた上に、特に厳しくなったと悪評すら立つようになる。遠距離展開と平時の訓練のために、自前のタンカーも数を増やした。海軍内の、常備艦隊(連合艦隊)と護衛艦隊(旧海援隊)の油を巡る争いにも、ようやく終止符が打たれた。
 ガソリンや灯油に関しても、満州からの産油量のそれぞれ5%がそれらに精製されれば、高品質を求めない限り、かなりを自給できるようになった。単純に比較すれば、北樺太で200万トンの石油が取れても、せいぜい20%の40万トン余りがガソリンになるだけで、1000万トンの北満州油田なら5%でも50万トンのガソリンとなる。高純度が求められる飛行機エンジン用燃料はともかく、当時の自動車エンジン相手のガソリンなら北満州油田でも贅沢を言わなければ使用に耐えた。また、日本では、少しでも得やすい軽油を燃料とするディーゼルエンジンの開発と品質向上も進められた。
 また原油、重油に限り余剰分が輸出にまで回されるようになり、石油の輸入先に困っていたイタリア、そしてドイツに輸出されるようになった。もっとも、利益の多くは産油地である満州帝国と現地で採掘する企業が得ている事になるので、直接日本に外貨がもたらされるわけではない。その証拠に、満州帝国では得られた外貨による税の大幅な増収が見られ、工場や社会資本の建設、さらには軍備の増強が精力的に行われた。そして石油採掘会社以外では、工作機械の輸出や軍備増強の過程で、日本企業が潤うという構図になった。
 なお、通常より沢山出るワックス、重油以下の屑油の多くはアスファルト舗装の原材料に回され、極端に安価になったアスファルトによって日本、満州で俄に舗装道路が増えていった。あまりにも沢山得られるので、一時期道以外の舗装にも広範に使われたほどだった。数を増やし始めた飛行場の舗装にも使われた。
 そして満州から日本へ大量の油を輸送するため、ヨーロッパに輸出するため、大量のタンカーも必要となった。以前から北樺太から日本各地への輸送をほぼ一手に担う坂本海運は、満州から日本への輸送でも経験を買われて大挙参画した。タンカー建造を得意分野とする坂本造船、坂本重工も、造船所の規模を次々に拡大して需要に応えねばならなかった。日本が運用する1万トン級タンカーの数は、坂本海運だけでも50隻(排水量60万トン分)も増えた。2万トン級の当時としては最大級のタンカーも、多数建造されるようになった。大型の方が経済効率に勝るからだ。当然他社のタンカーも増えており、日本のタンカー保有量は、1933年から1939年まで毎年10万トン以上のペースで増え続けた。そして既存のもの、小型のものを合わせると、1939年の日本のタンカー保有量は150万トンを越え、その後も北満州油田の油を運ぶために増え続けた。海軍も、大量の油を使うため自前のタンカーを何隻も建造する事になり、艦隊随伴用の高速タンカーだけで1ダース以上もまとめて建造したりした。
 当然というべきか、日本に対して良い感情を持っていない国々は、日本に対する警戒心を増した。特に、急速に関係が悪化しているアメリカの緊張感は高まった。アメリカは一時低利での借款や技術供与、北満州油田の共同開発を持ちかけたりしたが、今度は日本側が警戒感を増したため両者の接近と妥協はなく、日本が豊富に石油を持ったことは両者の関係にさらに影を投げかけるという皮肉を産んでいた。

 一方国内では、石油需要にも現れている通り、景気拡大、経済の躍進が続いていた。
 長期の積極財政政策によって進められた国家規模の半ば計画経済は、その後も続けられていた。大恐慌後はさらに多くの国費が投じられ、これを高橋是清が中心となって全般的にコントロールした事から、関東大震災以後15年間ほど続いた財政状況を俗に「高橋財政時代」呼んだ。
 日露戦争の頃から日本の財政分野で活躍していた高橋は、昭和に入ってからは元老に匹敵する政治家と見られていた。ただし、老いても壮健で現役政治家として活躍し続けているため、西園寺のように元老ではなくあくまで現役政治家であった。
 そして高橋は、明治末期から昭和初期にかけての日本財政の第一人者だった。いや、日本屈指どころか世界屈指の財政家だったと言っても間違いないだろう。有名なアメリカの経済学者であるケインズが、自らの理論を発表する十年以上前から実践的に積極財政を推進し、その豪腕ぶりは世界中の財政家、金融関係者に知られるほどだった。アメリカの財界人ですら、「キヨ(高橋是清)がいる限り日本の財政は問題ない」という言葉を残している。
 後藤新平の後を受けた首相在任中も、金の禁輸、普通通貨制度の導入(円安誘導)、財政投資による軍事費の増額、重工業育成、公共事業拡大、産業合理化、企業統合を強力に推進。1932年度からの犬養政権で大蔵大臣になって成立させた財政方針は、「第二次五カ年計画」と揶揄される。
 ただしこの時は、積極財政、傾斜生産の一環として、公共投資だけでなく軍備にも多額の予算が投入されたため、諸外国からかなりの警戒感を持たれる事になってしまう。日本の軍人達は「神様、仏様、達磨様(高橋是清のあだ名)」と無邪気に賞賛したが、そうしたマイナス面もあった。
 しかし高橋の基本は、あくまで広範な経済の活性化を目指した積極財政であり、そして日本の誰であっても、高橋の手腕を評価せざるを得なかった。反発も、財政運営上での必要から軍事費を削減された時に、偏狭的な軍人やナショナリストが反発する程度だった。もっとも、効率的な産業運営のため国家社会主義的な側面も強くなり、これも諸外国に警戒の念を持たせることになる。
 工業化のバロメーターである製鉄産業は、国策会社として設立された形の新日鐵(新日本製鐵)のもとで事実上の統制下になり、需要が爆発的に伸びている電力部門の国家統制も強まった。それまで海外植民地展開や油田開発でかなり自由に動き回っていた坂本財閥系の各会社も新日鐵に組み入れられ、北海道・樺太ばかりか南洋各地の電力事業ですら国の統制下に置かれていた。

 そして統一された目標と豊富な資金の注入により加速した日本経済の拡大は続き、1932年に「弾丸列車計画」が予算通過(1940年に東京=大阪間が開通予定。)。社会資本整備と公共事業の象徴となった。1935年頃からは、高速道路計画と共に国内でもアスファルト舗装の道路が俄に増え始めた。
 しかも1935年に1940年の東京オリンピック、東京エキスポの同時開催が決定し、東京を中心にしてさらなる社会資本開発とそれに連動した都市開発、近郊開発が行われた。この建設特需によって、鉄鋼生産、セメント生産がさらに大幅に伸びて、年率150%の上昇を記録した年も出た。
 1930年代に入ると、都市部ではモータリゼーションも本格化し始め、市街には二輪車、小型の三輪車、産業トラック、建設重機が目立つようになった。自家用車は、特に大型車において依然としてアメリカ車(アメリカ車のノックダウン中心)が中心だったが、安価な小型車や三輪車で日本勢がシェアを拡大した。二輪車はほぼ国産となり、国民の足となった自転車の数も異常なほど増えていた。舗装された都市の道は、単車と自転車の群が埋め尽くすのが日常的風景となって、市電の往来を邪魔するほどだった。このため各大都市は、慌てるように地下鉄路線を拡大している。また土木作業機械は日本中で一般的に見られる機械の一つとなり、農村で稼働するトラクターや小型耕耘機も急速に増え、牛の声より発動機の音が日常となっていった。石油需要が大きく伸び続けたのも、当然と言えば当然だったのだ。
 船舶についても、タンカーや資源を日本に運び込む貨物船が異常な勢いで増えていたが、他の船舶の増加も著しかった。日本で重工業が盛んになれば、自然それを輸出するようになっていたからだ。一部では、生糸の品質を保つべく迅速に輸出するための「ニューヨークライナー」などとも呼ばれる高速貨物船も続々と建造されていたが、この時期の主力は大型の鉱石バラ積み船や一般的が外航用貨物船だった。また日本人の海外への往来が増えたり、観光旅行への熱意が高まったため、客船の需要も大きな伸びを示していた。
 日本の客船利用での特徴は、北大西洋上での超大型客船ほどの巨体はなかったが、移民の比重が小さかった。このため豪華な内装を施した観光用、娯楽用の客船が主軸となり、大量輸送を目的とした超大型客船は欧米の北大西洋航路のように重視されなかった。しかし、1920年代末に建造した「浅間丸」級がアメリカの大型客船に呆気なく追い越された負い目があるため、1935年により大型の客船が相次いで計画された。3万トン級の「新田丸」「八幡丸」「春日丸」、4万トン級の「樫原丸」「出雲丸」が1930年代終盤から1940年にかけて相次いで完成した。どの船も、1940年夏に開催予定の東京オリンピック、同年春から行われる東京エキスポに間に合わせるための建造でもあった。
 日本中の電力消費も大きく上昇し、中流階層では照明、ラジオ以外の家電製品が広く普及し始めた。特に、1930年代中頃に登場した小型の電気洗濯機と電気炊飯器は、「主婦を怠けさせる」と言われたほど家事への拘束時間を激減させる画期的な発明だった。また、従来の七輪などに代わる家庭用火力として、都市ガスと呼ばれるガス(石炭ガス)の調理への利用も大きく進展した。家庭用冷蔵庫に対する注目も高まった。
 各電化製品は、当時としては平均所得に対して割高な製品だったにも関わらず爆発的に普及し、家事の多くを担っていた女性を家から解放し、下宿以外の簡便な一人暮らしを可能とするようになる。当然というべきか、女性の社会進出も進んだ。
 生活の向上を物語る食品や衣料の消費も、1930年代に大きく拡大した。小売業もヨーロッパを追い越す規模で拡大し、日本中の都市にはモノ(商品)が溢れるようになった。食生活の中で肉料理が増えたのも、シャツやワンピースに代表される洋服が広まったのも、男女ともに洋式の下着が普及したのも、主に1930年代の事だった。日本全国の尋常小学校の学校給食で牛乳が取り入れられたのも、日本の女性が欧米のように絹製のパンティーストッキングを履くようになったのも、この時代の事だ。1930年代は、日本人の生活が今までにないほど格段に変化した時代でもあったのだ。
 当然だが、企業の設備投資も拡大の一途を辿り、1930年代には、経済低迷の続くアメリカやドイツから多数の最新鋭の機械を比較的安価に購入することで、見違えるような巨大工場が幾つも出現した。また一方では、日本国内での工作機械製造技術も多くが世界標準にまで向上が見られ、国内の需要を満たして日本の外貨流出をくい止めると同時に、安価で安定した工作機械が輸出されるようにすらなっていった。工業規模の拡大に伴い、国内の工業規格の整備も急ぎ行われ、さらにはアメリカ産業界発祥の能率化、効率化といった概念が導入されていった。生産企業の大規模化も大きく進んだ。
 1930年代は、日本の産業構造が本格的な重工業国家として大転換した時期でもあったのだ。

 そして経済の発展に伴って文化も発展し、文化の発展はさらなる文明の発展も促した。ラジオ放送は1924年に開始され、1936年には民間にも開放されている。次世代公共通信となるテレビジョン(テレビ)も、1938年にNHKで試験放送が開始され、翌年に一般放送を開始した。当然社会資本の整備を伴った発展であり、娯楽を得たいという人々の欲求が爆発的な普及を促した。落語、大相撲、野球などの大衆娯楽の存在が、ヨーロッパに先駆けて日本での公共電波普及を促した。そして大量の電化製品は、日本での電子機器事業を革新的に発展させる事になる。真空管の小型化と品質向上も、家電製品の爆発的普及が無ければ大きく遅れていただろう。
 そうした電波事業の中で伸びたものの一つが、電話事業だった。1934年に、東京・大阪間で新たな電話線が敷設され、これによってダイヤル通話が可能となって交換手を必要としなくなった。以後日本中に拡大し、1941年までには主要都市の殆どで現在と同様のダイヤル回線が導入されるに至っている。しかも海底ケーブルによって、満州にまでダイヤル通話が可能となっていた。

 また経済と文化の発展と連動しているのが、教育、中でも高等教育の変化だった。
 日本では明治以来教育が重視されていたが、所得が高くなければ高等教育が受けられなかった。奨学金制度などでは、量的な限界もすぐだった。
 このため昭和に入った頃の大学生の総数は、本土の総人口6000万人に対して7万人程度だった。これでも10年前の世界大戦前に比べると、劇的に増加していたのだ。しかしもっと大きな変化が起きたのが、1930年頃からとなる。経済発展によって、人々の所得が大きく向上して中流階級が多数形成されると、自らの子供に高等教育を施すようになるからだ。大学生の数は1931年に10万人を突破し、以後は鰻登りを示した。この間に学制の大幅な変更と大学数の大幅増加(「第二次大学令」)があった事もあり、1940年には50万人に達している。大学以下の高校、中学、師範学校、各種専門学校、技術学校の進学率も大幅に伸びて、義務教育である尋常小学校以上への進学率は、1940年に80%以上を達成している。学制の変更もあって、私立学校の数も驚くほど増えた。また就学率の増加は、女性への高等教育の普及が無ければあり得ないので、そう言った面でも日本の社会的変化を見ることが出来るだろう。
 急速な経済発展が、多くの古い価値観、旧弊を押し流しつつあったのだ。

 そして大衆消費材の消費拡大は、国内経済のさらなる拡大を促し、日本の実質経済成長率は関東大震災から以後15年間、毎年5%以上、平均8%以上を記録した。結果、日本のGDPは三倍に拡大し、機械工業生産が大きく拡大し、重工業生産額が工業全体の七割を越えるようになった。一次産業とも言われる農林水産業の割合は、1940年には15%程度にまで低下していた。(※GDP=1923年:220億円→1938年:650億円。ただし1922年は約250億円。)
 日本の製造業も、1920年代に急速に発展した綿織物産業に代わり、各種重工業製品が主流を占めるようになった。代わって、労働力が安価な満州で、日本資本を中心とした紡績業、綿織物産業が発展した。もう少し繊維産業の話しを続けると、少し変わったところでは、今まで主にアメリカに輸出されていた絹の国内消費が大きく伸びていた。これは、日本国内の絹製ストッキング需要の伸びがもたらした変化だった。
 もっとも、絹、繊維に代表されるように、1930年代は世界規模のブロック経済のため輸出は伸び悩んだが、新興国の日本にとっては、国内需要だけでもかなりの成長が見られたという事になるだろう。また満州を自由に使えるようになった事も、日本の製造業にとっては大きな追い風となった。
 なお、国家の工業化の一つの指標である粗鋼生産量は、1935年に1000万トンを記録。その後も日本国内の需要に応えるため毎年10%越のペースで増加した。施設の方も、1930年には姫路の広畑、34年には千葉の君津に大規模な製鉄所が新たに誕生した。それでも近い将来には足りなくなると予測されたので、大阪・堺に造成した大きな埋め立て地に巨大な製鉄所の建設も始まった。どの製鉄所も、安全操業と今後の需要拡大を見越して非常に大きな生産力が最初から付与されており、今後爆発的に伸びていく鉄鋼需要を満たす大きな要因となっていく。満州での鉄鋼産業も拡大した。保護国の朝鮮半島での鉄工業の拡大も考えられたが、保護国に工業力を与える真似は出来ないと言う植民地主義的原則論に従い、朝鮮半島からは資源を運び出す以上の事はされなかった。
 そして朝鮮半島からも鉄鉱石を運び出していたように、巨大製鉄所がバカ食いするようになった鉄鉱石についても、満州の鞍山近辺が機械力を大幅に導入して大規模に開発され、また高品質の鉄鉱石を産出する海南島の鉱山開発も進んだ。それでも足りなくなったので、近隣各地から輸入された。特に、良質の鉄鉱石を産出するオーストラリアからの輸入が進められた。
 他の産業についても拡大は急速で、阪神、中京、京浜の各工業地帯では、沿岸部の平坦な土地が足りないため大規模な埋め立て地の造成すらが行われるようになっていた。そして巨大な埋め立て地を作るべく、大量のダンプカー、ユンボ、ブルドーザー、ドーザーが各地に溢れ、山間部の一部は土を取って切り開かれ、後の郊外宅地などにするための造成も実施された。都市部でも、自動車の普及と土地の不足に対応するため、縦横に張り巡らされていた運河や堀のかなりが埋め立てられている。集合住宅や団地も次々に建設された。大都市の中心部には高層建築も、雨後の竹の子のように増えた。
 そして工場が林立する大都市の沿岸部は、林立する煙突が吹き出す煙で、日中でも薄暗くなっていく傾向が年々強まった。

 だが、経済発展は、良いことばかりではなかった。
 強引な為替相場の操作によって円安として輸出を伸ばしたが、欧米先進国にとってあまり重要な産業でなかった衣料は真っ先にブロック経済の洗礼にあい、世界最大の綿製品輸出国となった日本(及び満州)の輸出は伸び悩んだ。幸いこの時期の日本全体の産業として綿製品の重要度は低下していたが、変わりに満州の産業が打撃を受けており、日本経済全体にとっての打撃は大きかった。当然だが、伸び始めた国内需要だけで吸収できる打撃ではなかった。
 また1935年にアメリカのデュポン社がナイロンを発明したため、それまで絹で作っていたストッキングが安価なナイロンに置き換えられていき、特にナイロン製品がアメリカ市場にあふれ出した1938年以後、日本の生糸輸出は大打撃を受けてしまう。
 そして日本経済の躍進と拡大は、資源消費量の大幅な増大ももたらし、主な対日資源輸出国であるイギリス、英連邦、蘭領東インドからの輸入が増える一方のため、外交関係に特に気を遣わなくてはならなくなっていた。アメリカからの輸入も、日本でのモータリゼーションの進展や航空産業の一定の発達のため、高純度ガソリンの輸入が大幅に増加し、自らが使える油田が増えたからと安易に喜べなくなっていた。
 また、大震災後の高橋財政には、光と同様に影もあった。
 経済発展に伴う二次産業、三次産業の発展は、確かに多くの余剰労働力を吸収した。これは農村から都市への大規模な人口移動すら促し、産業別の労働者数を大幅に塗り替えていった。農村から都市へと出ていく若年労働力は「金の卵」として重宝され、彼らを乗せた就職列車は1930年代の日本の象徴的情景だった。
 そして農村では、在地名主、自作農を中心にして、それまでの農耕牛を使う労働集約型の農業からトラクター、耕耘機などを使う農業の機械化、資本集約農業が進んだ。これは小作農が他産業に吸収され農村から都市に多数出ていった事が影響しており、農村部での労働力不足が機械化を促していたのだった。そして機械化による農業経営そのものの大規模化と商業化も始まり、日本の農業に大きな変化が訪れつつあった。
 だが一方では各産業の低賃金労働者も増え続け、都市では貧富の差が拡大し貧民窟の広がりも強まっていた。そしてそれ以上に、都市と農村の格差も拡大した。生糸輸出の停滞がこれに拍車をかけ、政府は農村対策にも多くの予算を投じなければならなかった。
 そして急速な経済発展は物価のインフレーションももたらすため、低賃金労働者、下層所得者にとっての苦境は続いた。

 そうした中で外交問題となったのが、積極財政の一環となった軍備の増強だった。
 これはその後日本外交の足を大きく引っ張る事になっていく。

●フェイズ17「軍靴の足音」