■フェイズ17「軍靴の足音」

 1936年2月26日は、革新派政党や政治家、運動家の間では、日本で政党政治が終焉を迎えた日だとされる事が多い。日本でほぼ最初で最後となる軍事クーデターの「二・二六事件」が起きたからだ。

 同事件の原因は色々言われるが、極論してしまえば当時の日本がまだ近代国家として未熟で、個々の日本人の資質はともかく民度の発達が未熟だったのだ。国家主義的な思想家の存在や陸軍内での勢力争いは、この場合単なる引き金や直接的な原因に過ぎない。
 事件の原因と経緯については割愛するが、軍事クーデターにしては少し奇妙な事件だった。
 確かに、日本の首都東京の中心部は、クーデターを画策したごく一部の陸軍若手将校と、彼らに率いられた何も知らない地方出身の兵士達によって占領された。しかし兵力は限られており、また計画も十分とは言えなかったため、日本中枢の全てが占拠制圧されたわけではなかった。
 クーデターを行った若手将校達の目的も、彼らが「悪」と考えた要人暗殺と、ごく限られた施設を制圧する事で、国民と腐敗した政府上層部にクーデターという行動を見せ、日本の中枢部に自分たちの理想とする政府を作ってもらおう、という程度のものだった。彼らの考えが基本的に幼稚だった事よりも、自身が政権の首班についたりする気がなかった事が、このクーデターの特殊性をかいま見せているとも言えるだろう。例えクーデターの目的が世直しの為だったとしても、権力を望む一部の人々が起こして政権を軍事力によって掌握するのが、本来の軍事クーデターだからだ。
 このためこの時の事件は、軍事クーデターと言うよりは、軍隊に属する者が軍隊を用いて行った大規模政治テロに過ぎないとも言える。しかも彼らは、今までの日本政治の経緯から、事件後に自分たちが厳しく処罰されることを最初から予測して行動を起こしている節が強い。彼らは、責任は自分たちにあり従った兵士に責任はないという主旨の血判状を、軍、政府双方の上層部に送り届けていたほどだった。そうした様々な要素からも、極めて特殊な軍事クーデターだったと言えるだろう。
 ただし、クーデターを起こした者達は、所期の目的すら達成できていなかった。このため「反乱部隊」などと呼ばれることも多い。

 約1400名いた反乱部隊は、既に自動車化(機械化)が進んでいた部隊がかなり含まれていたため、迅速に事を運んだ。雪が降りしきる夜の帝都中心部を突如大量の軍用車両が行き交い、次々に目標へと到達。彼らは、日本政治の中枢である霞ヶ関・三宅坂一帯を電撃的に占拠し、一部の政府要人宅を襲撃し、殺害もしくは重傷を負わせた。反乱部隊は、反撃に出てくるであろう機動隊の装甲車に対向するため、対戦車砲や走輪式の装甲車までも持ち出していた。
 反乱部隊は、六本木の新司令部に移動したばかりの総参謀本部、東京朝日新聞(朝日新聞東京本社)なども襲撃し、日本の政治の中枢である永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を「占領」した。ただし24時間体制で稼働する事が前提の総参謀本部は、当直要員と護衛部隊が強固な施設を盾にして籠城したため、事件の間ずっと睨み合いが続く事になる。
 また、帝都の治安を守る警視庁も襲撃対象となり、ある程度の抵抗を行うも当人達にとって屈辱的な降伏を余儀なくされ、事件中はその機能をほぼ停止した。
 要人襲撃では、総理大臣官邸( 岡田啓介首相)、斎藤實内大臣、高橋是清蔵相、鈴木貫太郎侍従長、渡辺錠太郎教育総監、後藤文夫内相、牧野伸顕前内大臣の各私邸、公邸、滞在先を襲撃。総理官邸では、警備の機動隊との間にかなりの銃撃戦も展開されたが、軽装甲車と重機関銃、さらには各種軽砲の前には流石の機動隊も歯が立たなかった。双方に死傷者も多数出ていた。
 さらに赤坂にあった坂本財閥の坂本邸も、襲撃の対象となった。坂本邸が襲撃対象となったのは、彼らの「進撃路」近くに存在したためと、第二次目標である坂本財閥当主、有力政治家、海援隊最高責任者などが邸宅に滞在していると考えられていたからだった。
 ただし、一連の襲撃されたうち殺害されたのは、斎藤實、渡辺錠太郎だけで、クーデターの規模の割にはいかにも中途半端に終わった。これは岡田総理を殺害したと誤認した事と、鈴木貫太郎を重傷で見逃した事も原因していたが、一つの事件も影響していた。

 事件は坂本邸で起きた。小さな丘状の土地にある一等地に広大な邸宅を構える坂本邸は、政府の許可を受けた海援隊隊士の武装警備員が常に警備に就いていた。この事は有名で、反乱部隊も反撃を予測して1個小隊に重機関銃や擲弾筒を加えた約60名で襲撃を実施した。
 しかし、大きな樹木によって周囲の視界から隠されている坂本邸は、その実まるで砦のようだった。屋敷の周辺部のかなりも坂本家の私有地で、丘に沿って石垣が組まれた土台の上に、震災後建築された重厚な造りの屋敷があった。しかもトーチカのような歩哨詰め所を門扉に持ち、高さ2メートル以上の分厚い鉄筋コンクリート製の壁を有する坂本邸は、まるで要塞のように襲撃部隊の前に立ちはだかった。正門を正面突破しようにも、軍、機動隊以外では海援隊のみが日本国内での保有と使用を許されている火器(短機関銃=マシンガン)が火を噴いて、不用意に押し入ろうとした反乱部隊は十数名の死傷者を出すという失態を起こして、襲撃そのものが失敗していた。そして強引に門扉を突破するにしても、中型以上の装甲車程度がなければ、電動で開閉する太い鉄格子の門扉を突破できなかった。数年前の国粋主義者のテロ(血盟団事件)の時、大型ダンプカーの激突にも耐えた頑健な建造物だ。
 そしてその後、坂本邸が反乱部隊の占領地帯に近いことから増援を受けて再度襲撃するも、手だれた十数名の海援隊隊士に反撃され、狙撃などで損害のみが増えて結局最後まで坂本邸は陥落しなかった。反乱部隊は実際に擲弾筒を発射して門扉や壁の破壊、さらには内部への直接攻撃を試みたが、狙撃兵により銃手などが倒されてしまい、しかも分厚い壁と丈夫な門扉は手榴弾や擲弾程度の爆発をものともしなかった。一説では、短砲身57mm戦車砲に耐えらる構造だと言われる。

 この時の戦闘は、後に海援隊の反撃が過剰すぎると軍から抗議が出て、警察からも過剰装備だと指摘を受けたが、結局不問とされた。坂本邸での戦闘は、それだけの価値があったからだ。
 そして反乱部隊は、自らの目的のためにもっと大規模な襲撃を行って坂本邸を「陥落」させるべきだった。それは、事件当日、近所に住んでいた高橋是清が坂本邸に招かれ、今後の政策について語り合い、そのまま酒宴となって逗留していたからだ。他にも何名かの有力政治家、しかも反乱部隊が嫌う人々が多数逗留していたのだから、襲撃に成功していれば彼らを一網打尽に出来ていただろう。
 なお事件当時の坂本邸には、高橋是清以外だと坂本家の人間が多かった。特に、親米英派政治家の筆頭と目されていた坂本譲二(男爵・貴族院勅選議員・元外務大臣)、坂本財閥総裁の坂本龍一伯爵が滞在していた。しかも坂本譲二は、鈴木貫太郎と同じく前日夜にアメリカのジョセフ・グルーの招待を受けて、その日のうちに帰宅していた。他にも坂本家とその縁戚には、欧米での高貴なる者の義務を実践するべきだという考えに基づき、財界以外にも政治家、高級官僚、軍人(将校)などが多数いた。もし襲撃に成功して全員を殺害していたら、明治以来権勢を誇っていた坂本一族は半身不随に陥っていただろう。
 そして襲撃後の記者会見に応じた当主の坂本龍一は、父(坂本龍馬)以来我が一族は暴漢には慣れておりますと言っておどけて、その場に居合わせた記者達を笑わせた。
 多少話しが逸れたが、この坂本邸での戦闘は、事件後に微妙な影を落とした。
 海援隊は民間団体ながら、政府から武装を許可された戦闘組織だったからだ。陛下の軍隊つまり皇軍ではなかったが、海援隊隊士の多くは軍を退いた者が多く、この時坂本邸にいた隊士のうち半数は一度は軍に奉職した者だった。また、警備していた者が短機関銃や狙撃銃をかなりの数保持していたことから、事前にクーデターを知っていたのではないかと疑われた。
 こうした疑問に対して坂本譲二男爵は、知っていたら甥が率いる海援隊本隊が、自分たちの救援のため事前に出動していただろうと挑発的に発言。これはこれで、私軍が皇軍を攻撃するのかと物議を醸しだしたりもした。

 閑話休題。
 事件中に、岡田内閣は事件を未然に防げなかったとして総辞職。 
 また内閣総辞職後、岡田内閣でも蔵相だった高橋是清は、老齢(86才)を理由についに隠居。以後時折、訪ねてくる者に助言するに止まるも、手腕と実績を買われ、先に引退した犬養毅や西園寺公望共々、最後の元老と呼ばれるようになっていく。(※ただし高橋、犬飼共に元老にはなっていない。)
 しかも事件の発生によって軍部の影響力はかえって大幅に大きくなってしまい、兵部省という文官集団による軍の統制もほとんど不可能となってしまう。政治家達が、軍人達の直接的過ぎる横暴さに怯えてしまったからだ。
 それでもまだ政党政治は完全に崩壊していないし、現役軍人を大臣に据えることは、明治の時代に堅く禁じられる法律が強固に組まれていたため、取りあえずではあったが最悪の事態は回避された。そして新たな内閣を作った政治家達は、首都での軍事クーデターという国家の面子丸つぶれな失態を挽回するため、また急速に悪化している日本の政治に対する国際評価と信用を回復するため、さらには国民へのガス抜きとして、普通選挙制度の拡大を決定する。
 これで選挙権は、1937年から20才の男女全てにまで引き下げられることになった。これを以て、日本の政治が健全性を維持していることが諸外国にアピールされた。
 そして同年4月の第20回総選挙では、急速に軍の影響が強くなっていた政友会が大敗。元軍人というだけで、選挙に落選する者が続出した。一方では、急進的な事ばかり唱える社会主義系政党も惨敗し、受け皿となった民政党の一人勝ちとなる。民政党も軍人出身の政治家は、政友会と似たような有様だったが、野党だという点が有権者に評価された形になるだろう。
 選挙は、1925年から選挙権を持つ女性票が強く影響し、婦人運動家として古くから有名だった市川房枝らを中心とした女性議員の数も一段と増えた。そして選挙の結果を日本政府は殊更強く海外に発信し、日本の政治が民主的で健全であることを訴えた。
 これに対して一部の軍人達と国粋主義者、軍や全体主義者は、日本の伝統と制度を壊すものだとして、「女に政治力を持たすべからず」と強く運動するようになる。当然というべきか、民衆の選挙権の拡大にも反対した。そして所得拡大による意識変化が自然に進んでいた日本国民の多くからは、かえってひんしゅくを買う事になる。
 この頃既に日本本土の7割が中流階層とされるほど発展している国内において、軍という力を持つ組織と人間の横暴が簡単に許されない時代がきつつあったこと、この頃の軍人達は多くが気付いていなかったのだ。
 しかし日本自体がまだ未熟で、次なる時代への過渡期にあった事も確かであり、その象徴が軍が暴走する事になったこの時のクーデターだとも言えるだろう。そして文句を言うだけの民衆も、幼児的とすら言える暴力的な軍の影に怯えた事にも変わりはなかった。

 もっとも軍自体も、世界大戦の頃から少しずつ変化しつつあった。特に海援隊の大部分と統合させられた海軍では、この頃変化が大きくなっていた。特に組織内に女性を受け入れるという点で、変化は進んでいた。
 あくまで後方勤務ではあったが女性軍人が増え、陸海軍に連動して兵部省でも採用枠が大幅に拡大され、俄に帝大の女性入学者が増えたりもした。しかも、経済の拡大と普通選挙の拡大に伴って女性の発言権も増しているため、この時も女性人気を得るべく軍への「雇用」、「採用」が動員の強化と共に急速に進んでいく。
 ただし士官学校への入学はできず、あくまで兵士、下士官としてであり、後方以外の配置はあり得ないという状況に変化はなかった。それでも女性用の官舎、兵舎が造られたり、便所、洗面所、風呂といった衛生面でも男女別とされる駐屯地や場所が増えた。
 また日本各地に拠点を有する陸軍は、依然として窮乏する農村地帯で娘を身売りに出さなくて良い選択肢もできたなどとして、軍への奉公が一定の評価を受けるようになっていた。
 海軍は、軍艦を用いるという組織の特性から女性の「採用」に非常に消極的だったのだが、海援隊を組み込んだことで先に女性兵士が入り込んだのは海軍の方で、元が志願制だった事もあって陸軍より絶対数が少ないながらも女性兵士の採用が進んだ。それは、国家が総力を挙げて挑むと言うことを日本が先の世界大戦で学んだ結果でもあったが、日本の近代化が進んでいた証でもあると言えよう。
 だが陸海軍共に、女性兵士を船に乗せたり外地に配置したり、ましてや戦闘部署に付ける事はなかった。内地での後方業務が中心で、せいぜいが通信まで。医療面でも女性枠は拡大したが、戦時中でも病院船以外で乗せられることはなかった。
 しかし問題も多く、単なる男女問題から、当時は一般的だった男女格差差別の問題、さらには暴行、集団暴行に至るまで、様々な問題を引き起こし、日本が依然前近代的な側面が多いことを軍関係者に思い知らせる事になる。
 しかし未熟ですまされないのが1930年代という特殊な時代であり、日本を巡る情勢は年々悪化を続けた。

 1930年代の日本の前に立ちふさがった大きな外交問題は、共産主義勢力との対立、中華地域との対立、アメリカとの関係悪化に絞ることが出来るだろう。
 順に見ていこう。
 共産主義組織の「コミンテルン」とは、ロシア革命すぐに成立した国際的共産主義組織だった。世界中に影響力を持つが、基本的にソ連を中心とした、ソ連の国益を第一とした共産主義組織である。世界中に共産主義を広めることを目的としているが、ソ連の国益を反映することがより重視され、命令に忠実な組織にはソ連は手厚い援助をおこなった。そして世界中の共産主義組織は、援助を受けるためにソ連の言うがままとなった。
 数年おきに開かれるコミンテルンの大会は、ほぼ毎回ソ連国内のどこかで行われる。そして世界中の共産主義者が集えるだけ集う同大会では、様々な方針がドグマやテーゼという形で示される。1935年7月に開かれた「第7回コミンテルン大会」においては、ドイツと日本が共産主義の敵と規定された。表向きの理由は、全体主義や軍国主義が共産主義の敵だとかおきまりの言葉だったが、ようはソ連にとって最も軍事的脅威となったのが日独の二国だったのだ。
 そしてこの方針に従い、中華ソビエトは日本、日本人へのテロや各種妨害工作に走り、謀略として日本と中華の全面戦争すら画策した。日本と中華が全面戦争すれば、中華内では共産党勢力の拡大が行いやすくなり、ソ連にとっては満州から圧迫をかけてくる日本の脅威が減少するからだ。また満州帝国も中華ソビエトの攻撃対象となったが、既に軍国化が進んでいた同国では徹底した共産主義狩りが行われ、かえって共産主義組織が根こそぎ壊滅させられる事になった。特に満州族は、漢族の工作員に対して容赦なかった。
 一方、自由の国であるアメリカには、水面下で「理想的社会」に対する憧れを主な原因とした隠れ共産主義者が多数存在し、彼らの一部は政府中枢にも入り込んでいた。一部の者は、明確にソ連のスパイとなって活動しているほどだった。そうした者には、影の共産党員も非常に多かった。
 そして彼らの暗躍により、日本はアメリカの悪と定義する向きが強められ、ルーズベルト個人の軍人嫌いと日本での軍部の権限の強大化と重なって、日本とアメリカの関係悪化を助長した。中華問題、満州利権が問題だったとする外交、歴史の専門家は多いが、水面下に流れるどす黒い闇がなければ、これほど短期間に日本とアメリカの関係が悪化することもなかっただろう。
 またソ連や共産主義の台頭がなければ、日本、ドイツが政治的、軍事的に極端な方向に向かうことも無かったかも知れない。
 そして外交的選択肢が狭めらた日本は、一つの危険な道に安易に進んでいくようになる。
 その道とは、軍国主義への道だった。

 日本は、満州帝国成立での軍事干渉と、その後の同国での日本の影響力拡大と連携は国際的に非難された。同時に、軍事クーデターで新政権をうち立て満州帝国自身も、クーデター後の主に内蒙古での軍事行動を強く非難された。
 これに対して日本政府は、満州は中華ではないので中華での国際条約は効力はなく、日本の出兵と「助力」は満州政府の要請を受けたものだと反発。満州政府も、現地住民の要請を受けた出兵であり、内蒙古も正統な領土だとして反発を強めた。
 しかし中華民国、ソ連などが、日本、満州への反発を強める。結果、満州帝国が国連から脱退し、日本は会議への不参加を決め込み、日本人職員全員を連盟から引き上げさせた。
 日本にしてみれば、自分たちは欧米の帝国主義路線を少しばかり踏襲したに過ぎず、国連から追い出せるものなら追い出してみろ、ということになるだろう。
 そして日本が見透かしたように、国連は何も出来ずに自らの権威を失墜させるだけとなる。それ以前にイギリスやフランスは、そのうち問題は沈静化するだろうと考えていた。日本がしたことは、欧米列強基準から見ればその程度の事でしかなかった。有色人種国家がしたから、多少のやっかみがあったぐらいだった。ただ、日本の居直りは、国連加盟国、特に常任理事国の体面を傷つける事になったのは確かで、中心となるイギリス、フランスは日本に対する悪感情を強めた。
 そして中華民国は、今が絶好の機会だとして日本を非難し貶める行動を続け、アメリカは満州から閉め出されていった恨みを日本にぶつけるようになる。そしてアメリカへの債務がいまだ山積みなヨーロッパ列強も、アメリカの言葉を無視することはできず、日本の国際的孤立は急速に進んだ。

 一方日本国内では、「二・二六事件」事件後、なんだかんだ言って軍部の力が強まりが決定的となった。
 明治以来兵部省は現役軍人ではなく、あくまで文官官僚による組織とされていた。軍人出身者が兵部大臣になることも多かったが、全て退役軍人となってからの大臣就任だった。だが、急を告げる時節に対応するためという表向きの理由で、遂に「軍部大臣現役武官制」が憲法改正で成立した。これをもって、日本の軍国主義化とする事が多い。自由と正義を謳う諸外国(主にアメリカ)からも、日本が強く敵視されるようになったのも、この憲法改正が大きく影響していた。
 そして陸軍では、永田鉄山を中心とする「統制派」と呼ばれる派閥が陸軍内で主導的地位に立つようになり、統制派に乗り換えそのまま軍を退役した林銑十郎が次の兵部大臣となった。
 1936年3月、広田弘毅内閣が成立すると、永田鉄山は中将に昇進して総参謀次長に就任し、永田の腹心であるもそれまであまり目立つ人物ではなかった東条英機が頭角を現すようになる。
 「メモ魔」といわれ秀才軍人の典型のような人物だった東条は、現役軍人として初めて兵部次官に就任し、その後急速に頭角を現し、その後も永田の懐刀、腹心として力を発揮する事になる。
 一方の海軍も、陸軍への対向上兵部省へ人材を送り込むことに躍起になる。とはいえ政治に詳しい現役軍人が陸軍より少ないのが現状だし、現役の海軍軍人は政治を嫌う者が多く人選には苦労が伴われた。そこで海軍が選んだのが、堀悌吉(当時は少将)だった。エリート中のエリートで、理をもって林銑十郎を操れるのではないかとという思惑が海軍の中にあった。また堀は軍縮賛成論者で、海軍内部に極めて強い影響力を持つ皇族元帥を中心とする当時の海軍の中心から嫌われており、当時も海軍主流から外されて護衛艦隊に追いやられていた。堀を兵部省に送り込む事は、この頃の海軍組織としては、体のよい厄介払いでもあったと言える。
 他にも、陸海軍から現役将校のまま何名かが兵部省に送り込まれ、逆に組織としてのバランスを取るためとして兵部省から陸海軍へ出向する者が表向きは増やされた。こうした動きにより軍の政治、官僚への支配力は一気に強まり、以後兵部省の影響力が大きく衰え、陸軍、海軍の力が増したことは間違いなく、軍部が政治を専横する流れは止めようがなかった。
 「二・二六事件」以前だったが、1935年12月からの第二次ロンドン海軍軍縮会議には参加せず、アメリカ、イギリスとの関係がさらに悪化していた。
 そうした中で俄に登場した道が、ナチスドイツとの連携という危険を伴った道だった。

 当時ドイツは、1933年に急進的なナチス(=国家社会主義労働者党)を率いるアドルフ・ヒトラーが首相に就任すると、国内経済の建て直しを計る一方で急速な軍備増強を実施していた。このため日本とドイツが手を結んでいく流れを、歴史的には国際的に孤立した国同士、同じ軍国主義国家同士の連携、もしくは共産主義の脅威に対向するためなどと言われることがある。
 しかし日本の思惑は、ドイツが中華民国にどんどん武器を輸出しているため、これを何とかするのが合理面での一番の目的だった。ドイツが中華民国に武器を輸出して軍事顧問団を派遣することで、中華民国の首班である蒋介石は軍事的に自信を付けて、何かと満州に対して干渉する口実を探し、日本にも強気の姿勢を強めていた。
 それは当時の満州が非常に豊かなため、歴史的に中華の大地だと言う口実を使って、中華民国というより国民党が奪い取るのが目的だったからだ。台湾や海南島を有する日本に対する行動も、要は相手の金目のモノを奪いたいだけだった。
 彼らの頭には近代政治や外交というものはなく、あくまで中世や近世の価値観で動いていた。
 また日本が抗議しても、中華民国側は国内の共産党対策と適正な国防力の整備だとして、自らの軍備拡張を正当化していた。
 そして満州の不安定化と混乱を嫌う日本は、まだ満州帝国軍がアテにならないので万里の長城を日本軍を派遣して固め、とにかく付け入る好きを与えないように腐心するしかなかった。しかも満州里(=ザバイカル)方面でもソ連の圧力が強まりつつあり、ソ連への対処も拡大の一途をたどった。このため日本の軍事費は、経済の拡大もあったが年々大幅な増額を余儀なくされた。
 そうしたところに、ドイツでリッベントロープが外交の中心に立つようになると、俄に日本へ接近してくる。当時の日本にとって渡りに船な状況の到来だった。日独両国の関係は急速に進み、世界を驚愕させる「日独防共協定」を1936年11月に締結する。
 同協定は、日本が日英同盟解消後に初めて結んだ二国間条約であり、日本が日露戦争以後の保守路線から、革新、挑戦へと路線を変更したものと世界からは受け取られた。

●フェイズ18「軍拡と緊張増大」