■フェイズ18「軍拡と緊張増大」

 1937年1月1日をもって「ワシントン海軍軍縮条約」は失効し、世界は再び軍拡の時代へと入ったとされる。
 しかし、日本での実質的な軍拡は、もっと早くに始まっていたと言われることが多い。

 大正時代に行われた宇垣軍縮以後、日本軍は陸軍22万、海軍5万が定数となっていた。これに傭兵組織である海援隊の約1万人、護衛艦隊付属の沿岸警備隊(元海援隊基幹)に属する1万2000人が含まれる場合もあるが、平時の国家予算を考えるとこの程度の数が常識的な数字でもあった。
 しかし日本経済は順調な発展を続けており、1930年代にはいると軍事予算も国家予算の増額に比例して右肩上がりで増額されるようになった。その上、近隣諸国との対立や軍事行動、高橋是清の積極財政での傾斜生産の形で軍事費が増額したため、軍事費はさらに増えた。
 さらに満州帝国への軍事干渉、駐留軍の増加、海軍での一定レベルでの増強と続いたため、国家予算に占める軍事費の割合も増加していった。
 もっとも、規模の面でも拡大した日本経済に対して、以前までほど軍需が重要でなくなったため、特に海軍関連では条約離脱後の1937年1月までは艦艇整備は比較的低調なままだった。国家予算に占める軍事費の割合も、所得拡大に伴う人件費を差し引いても、軍拡とは言い難い状況が続いていた。これは軍備の拡大よりも、経済の拡大が上回っていたからだ。
 また、戦艦や空母は、よほど多数を建造しない限り民間に発注されることが少ないため、規模が急拡大したグレート・ウォー後の一部造船所は経営難に陥るほどだった。このため兵部省と海軍では、自らの予算枠の中から費用を出し、助成金を出しての商船整備を熱心に実施したりもした。この中には、戦時には徴用どころか軍艦に改装することを前提とした多数の高速油槽船、高速貨物船、高速貨客船、さらには大型客船が含まれていた。
 しかし日本の造船業全般は、日本経済全体の発展に後押しされる形で伸びており、その上石油運搬用船舶いわゆるタンカーの需要が急増したり、日本政府が造船業、海運業の育成に力を入れたこともあって、世界的に見て急速に成長していた。
 国内の造船用船台の数も増え、中には先進的な建造船渠を作る会社もあった。そうして建造された建造施設の中には、一度に2隻の1万トン級船舶の建造を行う大型船渠もあった。この船渠は、受注さえあればヨーロッパで建造されているような超大型客船の建造も可能な大きさで、戦時には、戦艦や大型空母も建造可能だった。海軍も有事のことを考えて、新たな大型施設には高性能な船を発注して工員に技術と経験の蓄積を行わせた。
 また海軍自身も、1934年に軍縮条約からの離脱を決めたため、次の軍拡に備えた工廠整備の準備を1934年計画から開始。横須賀工廠に建造と改造、整備と多岐に渡って使える大型の第六船渠を、呉工廠では敷地の一部を埋め立て上で、新型造船船渠(第五船渠)の建設を開始した。
 もっとも、建造した艦艇はワシントン条約が尊守されていた。1931年度の三カ年計画の第一次補充計画で戦艦2隻、甲巡4隻、空母1隻、1934年度の第二次補充計画で戦艦2隻、甲巡4隻、空母2隻と、日本の経済規模に対してそれほど大きなものではなかった。このうち1931年度計画の戦艦新造は1934年に繰り延べされているが、それでも基本的には徐々に拡大しつつあった。

 一方では満州での出費が増え、1936年春以後は軍事予算を統括する兵部省の勢力図が陸軍優位になると、陸軍への予算傾注も強まった。基本的に7対3と海軍が多くの予算を得ていたものが、満州で陸軍が積極的に動いた年は五分五分にまで近づいたという背景もあった。
 この結果、満州帝国防衛のため宇垣軍縮で廃止した4個師団復活が、国会で予算通過。徴兵も若干強化され、1935年には21個師団、30万人体制に拡大する。ソ連に対しては、基本的に満州里方面に軍を集中していればいいので効率的だが、中華民国の脅威が高まっているため、かなりの長さの国境線を守らなければならなかったからだ。そしてまだ増強途上の満州帝国軍では、二つの脅威に単独で立ち向かうことは不可能だった。
 そして以後の関東軍は、満州帝国の要請を受ける形で従来の2個師団体制から6個師団体制へと増強され、戦車、砲兵、さらには航空隊など支援部隊も多数配備されるようになる。この戦力は当時の満州帝国軍を越えるもので、諸外国からも満州が本格的に日本単独のものとなった事を実感させた。
 満州の駐留軍は、ソ連とのチキンゲームもあってその後も増強され、1939年までには9個師団に増強される。急拡大する満州帝国軍も、平時12個師団にまで拡大されていた。
 さらに陸軍自身の装備増強と近代化も合わせて進められ、海軍が大規模な艦艇建造計画を通した1937年計画では、戦車師団、空挺旅団の整備を決定している。同時に、費用のかかる機械化重砲兵旅団、機械化工兵、各師団の自動車化も一気に推進された。有事に備えて、師団の即応体制も一部を強化された。当然だが陸海軍共に航空隊の整備にも力を入れたため、軍事予算は肥大化の一途を辿った。
 ただし1930年代後半には満州帝国の軍備増強も一定の軌道に乗り、その後関東軍が極端に増強されることはなくなっていった。

 日本の軍備増強は、当然ながら諸外国から警戒感を強められたが、基本的にはソ連に対する備えと説明され、事実陸軍はその通りのためこの頃はまだ強い反発もあまりなかった。革新的な政治形態を持つ共産主義とは、世界の脅威だったからだ。
 しかし仮想敵の筆頭とされたソ連も黙っているわけにもいかず、ソ連軍も満州帝国と戦いやすい国境線であるザバイカル方面軍を大幅に増強して対向。これに対して日本陸軍は、1937年度の予算で4個師団の増強を進言するも、予算の関係もあり2個に止められ不満を持つ。もっともこの2個師団は、戦車師団と自動車化された師団と支援部隊を用いた日本陸軍初の機械化軍団であり、増強が貧弱だったわけではない。それに陸軍自体の兵員数もさらに増強され、兵員数は35万人に増強、即応予備体制も強化された。そして日本軍の代わりに、前線配備される満州帝国軍が6個師団に増強されてもいる。
 一方中華民国に対しては、外交問題もあるので基本的に満州帝国軍の国境警備隊に任され、日本軍は2個師団がやや後方に配備され、有事に備えて現地での武器弾薬の備蓄を進めるに止まった。当然ながら中華民国への備えであり、必要以上に刺激しないための措置だった。しかし中華民国は、満州に配備される日本軍そのものに警戒感を増し、国民党、日本と敵対的な国に援助や支援の依頼を強めるようになる。
 この時点でアメリカ以外の国々は、日本の防共行動には一定の理解を示し、中華民国の態度を過剰反応だと考えた。一方でアメリカは、中華民国の中枢である国民党とのつながりを深め、援助や支援を増やすと同時に貿易額も増やしていった。日本の軍備増強も、ことあるごとに非難した。日本で対米外交を担当した者は、ルーズベルト政権が日本を憎んでいるのではないかという意見を持つ者が多かった。
 これに対して日本は、アメリカの行動に反発を強めた。当然と言えば当然な状況の連続ではあったが、負の連鎖が続いていることは間違いなかった。
 そして1937年1月1日をもって、日本、アメリカ、イギリス揃って艦艇建造開始。海軍の無条約時代が到来する。

 日本は、1936年一杯でワシントン海軍軍縮条約の効力が失うのを見越して、予算編成を実施。1934年度の「第二次補充計画」にも、一部予算を滑り込ませていた。これは、イギリスがドイツの脅威に備えて、早めに海軍拡張の準備を進めていたのと少し似ている。日本の場合は、万が一の場合アメリカに戦争を躊躇させる軍備だった。故に少しでも早い方が良いのは道理と言えるだろう。
 1934年の時点で軍工廠の拡充を開始し、設計や事前の資源確保、資材収拾など新型艦建造準備などが開始された。
 そして1937年1月から日本海軍は拡張を開始。これは諸外国にも通達され、戦艦4隻、空母4隻、軽巡洋艦6隻などの建造を実施する事になる。海軍の兵員数そのものも、数年ぶりに大幅な増員が開始された。
 イギリスも同様に海軍拡張を開始したが、この年の計画では大型艦の数は日本の半分であり、日本の軍備拡張がドイツと並んで過剰な事を印象づけてしまう。
 一方のアメリカは、緊縮財政を積極的に推すルーズベルトのブレイン(=ニューディーラー)に対して、日本の軍備増強を強い脅威とする海軍とその後ろにいる政治家達が反発。ルーズベルトも、日本との均衡を保つための海軍拡張を支持しようとした。だが、縮小財政を推す動きがまだ政権内で強かったため、1937年度計画では戦艦2隻、空母2隻を計画したに止まった。
 しかし翌年にもさらなる拡張計画を発表し、1937年、38年、さらに40年と三度行われた「ヴィンソン・プラン」、加えて1940年夏に成立した「両用艦隊法」の規模の大きさに、日本は大きな脅威を感じることになる。
 当時のアメリカでは、ニューディール政策そのものが失敗しそうな不景気(=ルーズベルト恐慌)に入ったため、大規模な公共投資の一環として海軍の大幅な拡張を実施されたものだった。日本の軍拡に対向したのだというのは後世からの評価で、表面的事象をすくい上げただけに過ぎない。この頃アメリカは、一部の人間を除けば日本との本当の戦争など考えてもいなかった。世界一の経済大国にとっては、日本海軍よりも国内の不景気の方が余程脅威だったのだ。
 それでもダントツで世界一の経済大国であるアメリカの軍拡計画は雄大であり、三度の「ヴィンソン・プラン」により、ほぼ全ての既存艦艇を新型に置き換える事を目的として、戦艦14隻、空母7隻の建造が予算通過した。しかも第三次ヴィンソン計画のすぐ後の1940年7月には「スターク案」とも呼ばれる「両用艦隊法」を成立させ、戦艦8隻と空母8隻を含める、総量155万トンの艦艇建造が予算通過した。全ての艦艇が完成し、さらに旧式艦艇に延命措置を行ったと仮定すれば、世界中の全ての海軍を相手取れる程の規模となる。
 対する日本側も、1939年、1940年に相次いで海軍拡張計画を実施。そして日本側は、1944年内までなら海軍比率は日本が比較的優位となると予測するが、アメリカの「両用艦隊」が完成すると完全に不利なるとも予測。日本海軍内の焦りが、俄に強くなっていく事になる。
 しかし海軍拡張は現在進行形であり、本格的に問題となるのはどちらかと言えば少し未来の話しだった。
 日本を中心とする諸外国は、海軍拡張による未来より前に取り組むべき課題が山積していた。
 そして日本にとって当面の問題だったのが、やはり中華情勢だった。

 1930年代の中華情勢だが、満州革命以後は比較的平穏となった。中華民国の中核である国民党と蒋介石としては、満州を再び漢族のものとする事よりも、取りあえず足場を固めることを重視しなければならなかったからだ。
 そして取りあえず共産党を叩いた中華民国が進めたのが、国内経済の安定だった。金が無ければ、何もできないからだ。
 1934年、アメリカはニューディール政策の一環として、「銀買上法」を制定した。このため銀の国際価格が高騰して、依然として伝統の銀経済(銀本位制)だった中華地域から大量の銀が流出する。このため中華地域では、日本、ソ連の影響圏以外で銀恐慌となって経済が大きく混乱した。共産党への追撃が徹底せず、また北部奥地に逃れた共産党の首がつながった背景の一つに、この銀恐慌による国民党の戦費不足があった。
 この時日本は、満州の安定と経済面双方の要求を満たすべく、北支(華北)の経済支配拡大を画策する。しかし、当時積極財政下による資源輸入拡大のための円滑な資源獲得のため、アメリカ、イギリスとの協調を余儀なくされた。内需拡大中の日本としては、市場より資源だったのだ。
 1935年11月3日、中華民国政府は銀貨流通を禁止し、中央・中国・交通の三行の銀行券を銀と交換させるという法幣改革を実施する。これは国際協調として行われ、満州帝国の安定という目的もあったため日本も参加する事になる。中華経済を介して英米通貨との連動性を持たせることでの国際貿易での生き残りという道筋を付けようという、一部の人々の行動が実を結んだ結果だった。
 しかし、軍部を中心に次の対華共同借款などには参加せず、日本の行動は中途半端なものとなってしまう。
 しかも日本の民間参加は、大財閥では坂本財閥系の坂本財閥と日産財閥だけが、アメリカ資本との関係から参加したにとどまる。この時日産財閥と坂本財閥は、サッスーン財閥(英)、オットー・ウルフ財閥(仏)、ユダヤ系各財閥(米)などと共に、銀の兌換で大もうけしたのだが、日本の外交得点にはあまりつながらなかった。しかも坂本財閥は国粋主義者の矢面に立たされ、国賊として国粋主義者から叩かれてしまい、国内的にもマイナスとなった。
 当時の日本で、危険な市場獲得と安定した資源獲得を安易に天秤に掛ける視野狭窄な人が多かった事の現れだった。

 なお中華民国内の通貨はある程度安定し、経済も落ち着き、国民党は一定の支持を国内から取り付けることに成功する。一方日本は、国際協調を重視して北支進出を取り下げ、万里の長城を越えることはなかった。
 これを受けて国民党は、先年逃した共産党の殲滅を計画する。これに対して共産党は、1935年8月の「八・一宣言」後、対日攻撃という目的を掲げ国民党との再度の連携を提案していた。ソ連を中心とするコミンテルンでの命令を、少しでも自分の立場を優位にするべく画策したものだった。
 なぜなら、この頃の共産党は、「長征」の後遺症を強く引きずって極めて弱体化していた。このため元気な国民党軍に攻撃されては、今度こそ息の根を止められかねなかったからだ。
 そして共産党の弱体を知る国民党は、1936年10月にドイツ顧問が指導する精鋭部隊を派遣して、「第二次北伐」とも言われる「第六次討伐作戦」を決定。
 1936年11月に作戦を開始し、南京、上海近辺にいた国民党精鋭部隊を華北(北支)奥地へと続々と派兵した。その数は30万とも50万ともいわれ、一時数千名にまで激減していた当時の共産党に太刀打ちできるものではなかった。
 しかもこの時の国民党は、一度獲物(共産党)を逃しているだけに慎重で、日本との間にも一定の話し合いも持った。
 日本との会談では、北支(華北)でのある程度の妥協を成立させ、日本は万里の長城以北での活動を自粛し、中華共産党殲滅のために国民党への援助と支援を約束。既に抑えている内蒙古の道も封鎖し、ソ連からの共産党への援助を行わせない行動も取ることになる。これに対して中華民国(国民党)は、中華領内での日本人邦人に安全を提供し、貿易面でも排日政策を沈静化させる事を、文書によって約束した。

 1936年11月から、国民党軍は重砲、航空機、装甲車も投入し、大規模な共産党への攻撃を実施。攻撃には、軍事顧問として日本の航空隊、軍事顧問も参加した。
 しかし、何もない荒れ果てた山岳地帯の延安は一種の陣地要塞で、大軍を擁した国民党軍も容易に攻めることが出来なかった。戦力差は、女子供を合わせても10万に満たない共産党軍に対して、国民党軍は直属部隊だけで約50万。最大80万人を数えていた。しかも国民党軍は、延安を包囲した上で殲滅戦を目的とした戦闘を仕掛けたため、共産党軍は広く散らばる陣地を活用したゲリラ戦、コマンド戦で相手を消耗させ、攻めても得ではないと思わせるしかなかった。
 だが国民党軍の主力は、長い間ドイツ軍事顧問から訓練を受け、ドイツ軍とほぼ同じ装備を持った精鋭部隊が中心だったため、戦闘を優位に運んだ。戦闘には、ドイツ軍と同じように各種機関銃や火炎放射器も使われ、多数の携帯爆薬、手榴弾も使い、相手陣地を一つずつ潰していった。やっていることは、相手に野砲や機関銃がないだけで、塹壕突破戦や陣地破壊と似ていた。そして、相手を閉じこめた上でジリジリと包囲の輪を縮め、共産党にゲリラ戦を許すこともなかった。
 このため半年もすると共産党軍は壊滅的打撃を受け、未だ国民党に知られていない緊急脱出路を通って、延安から脱出するしかなかった。
 しかしまたも足場のない地域、しかも奥地への撤退は困難を極め、また国民党軍の執拗な追撃も続いたため、共産党の勢力はさらに大きく減退した。前回は逃げのびた共産党幹部のかなりも戦死か死亡し、組織の中枢も大打撃を受けた。
 その後共産党は、シルクロードの玄関口でもある蘭州郊外にまで逃げ落ちて、そこでソ連からの援助を細々と受けつつ辛うじて命脈を保つ事になる。
 そして1937年7月、延安の完全制圧を受けて、蒋介石は共産党の撃滅を宣言。華北での各軍閥への影響力強化を合わせて、一定の内憂を取り除くことに成功する。

 しかし中華民国の安定化は、日本にとってはむしろマイナスとなった。中華民国では、国民党が国内をほぼ完全に掌握すると、日本が予測した国内安定へとその力を向けずに、すぐにも国外に力を向けるようになる。今度は排外主義が、政治の大きなウェイトを占めるようになったのだ。蒋介石政権の軍国主義的傾向の発露と言えるだろう。
 そして中華の伝統的戦略は、他国を用いて敵を排除することにある。この場合敵とは満州を牛耳る日本であり、利用すべきは満州から押し出されてしまったアメリカだった。しかも日本とアメリカは急速に関係を悪化させており、中華民国にとっては好都合な状況だった。
 一方中華内での共産党が駆逐された事は、共産党の盟主であるソ連に少なくない焦りを抱かせた。と言っても対象は中華民国もしくは国民党ではなく、日本に対してだった。共産主義の脅威が遠のいた日本が、満州=ソ連国境の軍備を増強して圧力をかけてくると警戒しての事だった。
 そして中華民国(国民党)とソ連の思惑が一致し、取りあえず日本を叩くという方向のみでの合意に至る。

 国民党と国民党軍は、共産党を取りあえず無力なまでに叩きを終えると、1937年内は地方軍閥の討伐を継続した。そして年内にはほぼ国内の平定を実現。
 しかも国民党にとっての朗報が、本来は敵だと考えていた陣営からやってくる。ソ連が国民党への接触、接近を実施し、しかもその時ソ連は、ソ連国内に亡命した中華共産党の幹部の多くを、ソ連の国内法に触れた事を理由に処罰し、射殺するか強制収容所送りにしたことを告げる。最も危険と考えられていた毛沢東、林彪の行方は分からなかったが、これに国民党と蒋介石は大いなる安堵を浮かべたといわれる。周恩来も、厳重な警戒の元で軟禁状態だった。
 しかもソ連は、国民党への大幅支援と援助を行う用意があると言い、その対価として日本への圧力強化を求めた。これは中華民国にとっては外圧の排除、ソ連にとっては日本の圧力減少が目的だった。
 そして両者の契約は成立し、ソ連は約2億5000万ドル分の武器、弾薬、物資を国民党に供与。経路として中央アジアルートを使うしかないため輸送には多大な苦労もあったが、中華民国側は得意の人海戦術で自国領側の中央アジアの道路を整備した。

 年が変わる頃、俄に中華民国が、日本及び満州帝国への姿勢を強めるようになる。ドイツが日本との関係から国民党を半ば見限っているのに、中華民国の軍備が大幅に増強され、しかもその武器が明らかにソ連製、ロシア製であることから、中華民国とその後ろついた勢力も見えてきた。
 しかし1937年2月に成立したのは、林銑十郎内閣、軍国主義的な内閣だった。林銑十郎は軍部が御しやすい元軍人と目されており、事実、軍部に非常に都合の良い昭和12年度予算を通過させると、さっさと首相の座を退いた。この時の解散を「食い逃げ解散」と呼び、まだ元気だった日本の報道関係者と国民から強い非難を浴びることになる。
 もっとも軍備拡張そのものを否定するほどの論調ではなく、軍需を中心とはいえ積極財政の一環でもあるため、財界も概ね軍拡を喜んだ。しかも林内閣は、妙にドイツ、イタリアへの商売に熱心で、満州原油の輸出を進めると共に、特にドイツへの武器輸出を熱心に行い、軍艦すら売る事に成功していた。ドイツに油を運ぶため、欧州航路用のタンカーも急ぎ建造されたりもした。
 一方で財界を中心に、アメリカから工作機械、精密機器などの輸入規制が厳しくなったため、国内での工作機械の生産と開発が一層盛んになっていた。そしてこの時期には、世界水準に並ぶか越えるほどの高精度で扱いも簡単な旋盤機などが登場していたため、そうした工作機械の一部も戦争が迫っていたドイツ、イタリアに積極的に輸出され、主に資源とのバーターで取引が行われた。
 ドイツとの取引でバーターが多かったのは、ドイツは先の世界大戦の賠償で国内の金を一度全て失っている上に一度経済破綻をしているので、経済発展著しい日本側がライヒスマルクに信用を置いていなかったからだった。しかしドイツ側も、製品や資源で決済できることは、ポンドやドル決済でないだけありがたがり、日独の関係強化には多少役だってもいる。

 そしてドイツも、政府トップだけでなく全体を挙げて日本を重視して中華市場を切り捨て、日本への傾倒を強めていった。ドイツ軍とドイツ企業の一部には反対もあったが、当時のドイツで文句を言うことは難しかった。
 一方で、ドイツからソ連へとスポンサーを変更した中華民国は、ソ連がザバイカル方面の軍備を増強して日本とのチキンレースを強めるのと連動して、軍の主力を首都南京、そして上海近辺に集めていった。
 日本側も中華民国の動きをある程度掴んでいたが、陸軍はまずソ連軍と満州で向き合わねばならないため、とにかく半ばオフレコでの緊急動員計画や、上海で戦闘が起きた場合の対処療法の策定を進めた。
 しかしそれでも不安なため、兵部省が中心となって海援隊の1個旅団を「雇い入れ」、表向きはソ連との不測の事態に対する待機として輸送船団共々日本国内に準備された。また一部の海援隊と、海外での邦人警護を行う海兵隊が上海、天津の日本租界に中隊レベルで増強された。また、日本の委任統治領である海南島は、軍縮条約の効力が切れたことを契機として、諸外国からも了解を受けた警備用部隊としての陸軍の1個旅団が進出。
 だがこうした動きは、中華民国に対する日本のメッセージとしては真逆の反応が示されることになる。中華民国を率いる蒋介石は、ソ連との対応のため日本軍に余裕がないものと見たのだ。

●フェイズ19「支那事変」